ゴールデンウィーク 合宿 初日 夜 ビーチにて 絶望

 頭蓋骨の裏側から、強烈な光を浴びせられるような感覚。前後不覚になり、世界が反転する。

 胃から異物がせり上がってくる感覚。俺の食道を通り、口からまだ消化しきっていない半固形状の夕食と胃液が放出される。食道が気管支を圧迫し、一瞬息ができなくなった。

 せり上がってきた液体と固形の中間物は、俺の左右の鼻の穴からも漏れ出す。鼻を、つんとした痛みが駆け抜けた。胃酸が鼻を通ったため痛酸っぱい。

 俺の味覚は正常に機能しているようで、舌から胃液の酸っぱさが残り続ける。どれだけ唾を吐こうが、その不快感から逃れることはできなかった。

 心因性嘔吐、あるいは神経性嘔吐と呼ばれている疾患がある。専門的には機能性胃腸症の一種らしいが、この嘔吐をとめることができないのなら、何の役にも立たない知識だ。

 だが、少しでもこの嘔吐感から逃れるためには、別の事に意識を向けるのが一番いい。例え使えない知識であっても、意識をそらすことはできるだろう。

 心因性嘔吐の症状は、ひどい嘔吐に見舞われる。吐き気だけで嘔吐をしない人や、嘔吐を繰り返し続けて、点滴をしながら一日中寝込まないといけない重症なものなど、人によって症状はさまざまだ。

 嘔吐の原因は心理的なストレスということはわかっており、そのストレスが契機となり吐き気や嘔吐が発生する。だが、学校や職場、家庭など人によってストレス、嫌な現実を感じる場所がバラバラで、中には周囲どころか本人すら自覚していない場合も少なくなく、発見が難しい。さらには他の精神疾患を併発することもある。

 ……ここまで言えばわかるだろう? 俺は心因性嘔吐症を患っている。

 ストレスを感じる契機もわかっている。

『告白』だ。

 俺は高校一年生の時に、好きだった、大好きだった人に告白した。

 そして、フラれた。

 そこから俺の人生は、バグった。

 情けない話だが、俺はたった一度の失恋で『告白』という行為自体にストレスを感じ、嘔吐するようになってしまったのだ。

 この疾患を患ったとわかった時、頭の悪いことに俺はこの症状をかなり楽観的に捕らえていた。

 きっと、いつか治るだろう。誰かをまた愛せるように、そして今回は叶わなかったが、愛してもらえる時がくるのだろうと。

 それから俺は、『告白』を連想するものを見る度に、嘔吐を繰り返した。

 登校時に、知らない誰かが告白しているのを見かけた。その瞬間、俺は吐瀉物を廊下にぶちまけていた。

 その日はもう学校に行けないと家に帰る途中、カップルがイチャつきながら道を歩いているのを見かけて嘔吐した。

 口をぬぐう為に水が欲しくなり、途中のコンビニによった。雑誌の棚にある新聞に、アイドルの熱愛報道の記事が載っているのが見えた瞬間に吐いた。

 これは歩いて帰ることができないと思い、バスに乗った。隣の席に座ったサラリーマンの左手の薬指に光るものが見えて、嘔吐した。結婚指輪だった。

 それから家への帰り道。告白を連想させるものを見る度に、嘔吐を繰り返した。

 具体的な回数は、覚えていない。

 息を吸って吐くように、嘔吐した。

 気が付いたら、病院のベッドの上にいた。

『恋愛』を、『告白』を連想させない人間なんて、いやしない。

 人として生きている以上、誰かと何かしらのつながりを持つものだ。その中には当然『恋愛』が存在する。

 だったら、もう俺は誰ともつながれない。自分が誰かと一緒に居るところを、想像できない。

 想像してはいけない。想像したら吐く。命を吐く。寿命を削る。

 そして俺は死ぬ! 死んでしまうっ!

 両親は泣いて俺に謝った。母さんは、もっと丈夫に生んで上げられなくてごめんなさいと。父さんは、俺の状態に気づかずすまないと。

 そんな二人を、俺は責めることはできなかった。責めるなんてとんでもない。この二人の所為ではないのだ。

 じゃあ、誰を責める?

 俺だろ。

 弱いのは、弱い心を持ってしまった俺が悪いのだっ!

 もう俺は、誰も愛せないのだと思って絶望した。

 愛する=愛を伝える=告白と連想してしまい、また吐いた。

 もう俺は、恋が出来ないのだと思って絶望した。

 恋をする=恋を実らせる=告白と連想してしまい、また吐いた。

 まともな高校生活なんて、送れるはずがない。

 高校と言えば青春真っ只中。カップルが確実に存在している学校は、俺には地獄でしかない。そもそも、高校にまでたどり着くことができない。

 俺にとって、目に映るものすべてが危険だった。

 テレビや雑誌、小説にあふれている現実の、三次元の恋愛事情は俺にとって拷問でしかなかった。

 この世界は『恋愛』に、『告白』に満ち満ちている。

 世界が、敵になった。

 世界が、俺に死ねと言っているとしか思えないっ!

 俺は誰かと、両親と話すのも、当然外に出ることも、やめた。引きこもりである。

 だが、三次元での恋愛が一瞬でも垣間見られると吐き気を催すため、テレビもネットも触れることすらなかった。

 カーテンを閉め切った部屋で、ベッドの毛布に包まって、ただひたすら時間が過ぎるのを、待った。

 それ以外のことができない。

 したら、吐く。

 ……俺は、飯食って、呼吸して、排泄するだけの、ゴミになった。

 生きる意味を見出せない。

 恋愛をするどころか、人と話すことも困難な状況だ。

 コミュニケーション障害でも、コミュニケーションロスでもない。渡部さんなんか目じゃない。

 コミュニケーションデスだ。

 俺と『その他』のつながりは、死んでいた。

 だがそんな時、俺に救いの手が差し伸べられた。

 二次元だ。

 心因性嘔吐症を患う前、正直に言うと、俺は二次元を軽視していた。

 たかが仮想現実だろうと。本物じゃないんだろうと。

 それが、よかったのかもしれない。

 この時、俺はこのままでは死ぬだけだと理解していた。こんなくだらない人生、もう死んだようなもんだったが。

 そんな時、高校の友達からゲームを、恋愛シミュレーションを借りていたのを思い出した。

 だから、軽い気持ちでやってみたのだ。

 もうこれで死のうと。

 ゲームの恋愛シミュレーションをプレイして死ぬなんて、世界で一番最低な死に方だ!

 最低で屑な俺には似合いすぎている!

 嘔吐して、吐き出して、呼吸困難になって、とっとと死のうっ!

 今まで育ててくれて、看病してくれた父さんと母さんには悪いが、もう俺が限界だった。

 これ以上ゴミに追加投資はさせられない。俺はテレビとゲームのハードの電源を、久々に入れた。自殺するために。

 コミカルなオープニングムービーが流れ、タイトルが表示される。くだらない。だから続けよう。くだらない死を迎えるために。

 さっさとゲームをスタートする。何人かの女の子のキャラクターが表示される。全員アニメ絵で、制服がダサい。画面にテキスト表示が出される。キャラクターが何かしゃべっているのだ。

 しかし、スピーカーから流れるのはゲームのBGMのみ。最近のRPCでもキャラクターボイスぐらいあるというのに、このゲームは低予算で作成されたため声優の予算を削ったのだ。笑えてくる。

 だが、三次元の要素をとことん排除したそのゲームを、俺は結構な時間プレイしてることに気が付いた。

 嘔吐どころか、吐き気もしない。

 体の芯が、熱くなっていた。

 ……いやいや待て待て。まだ気が早い。たまたまだろう。これからだ。最後はどうせ、主人公は『アレ』をするんだろ?

 そしたら吐く。絶対吐く。吐くに決まっている!

 余計な希望は持つな! 期待したら裏切られる! また絶望するっ!

 やめろ、やめてくれ! 死ぬときぐらい、せめて絶望しないで逝きたいんだ!

 それから俺は、友達から貸してもらったゲームを順調にプレイしていき、そして。

 そして、最後に。

 ゲームのキャラクターに『告白』した。

「……」

 その事実に、吐き気を催さない事実に、俺の脳は思考をすることを破棄した。

 完全停止。

 何も考えることができない。

 でも、コントローラーを握った指は自然とボタンを押した。

 画面に表示されたテキストには、キャラクターが『告白』を受け入れる文字が表示された。

 

『告白』が『成功』した。

 

 俺が、この俺がプレイしているにもかかわらず、嘔吐することも、吐き気を催すこともなく、ゲームを締めくくるエンディングを迎えたのだ。

 エンディングが流れる。初めの映像はキャラクターと出会った場所が表示された。それから二人でデートした場所やすれ違いが起きた場面の、『告白』までのハイライト映像が流れる。

 エンディングを見終えた俺は、涙を流していた。感動したのだ。

 ただただ、心が動かされたのだ。

 もう、出来ないと思っていた。自分の想いを別の誰かに伝えることなんて。

 もう、不可能だと思っていた。誰かが自分の想いに答えてくれるなんて。

 ……出来たのだ。

 出来たのだ! 俺は!

 もう自分が出来ないと思っていた恋愛が、告白が、擬似的とはいえ成功したのだ。

 擬似的とはいえ、誰かに恋をし、それを成就することが出来たのだ。

 ……笑いたければ笑うがいい。指を刺して腹を抱えて大笑いしろっ!

 俺だって、この気持ちをわかれだなんて無茶は言わない。むしろわかる必要なんてない!

 わかる過程で死にたくなる。あんな絶望、知らないほうがいいに決まっているっ!

 だが、俺は知ってしまった!

 自分以外の誰ともつながれないという、壮絶無比な絶望を知ってしまった!

 しかし、今の俺は違う!

 出来たのだ!

 つながったのだ!

 それは本物ではないと理解してる!

 理解してるが、理解してるからこそだ!

 諦めていたことが、出来るようになったんだ!

 不可能が、可能になったのだ!

 歩けない人間が歩けるようになったどころの話ではない。死人が生き返ったようなものだ。

 そう、俺は二次元で生き返ったのだっ!

 たとえ擬似的だとしても、二次元だとしても、誰かに恋し、愛することが出来るようになった! たとえそれがただの絵だったとしてもっ!

 二次元があれば、俺は生きていけると確信できた。

 まずはこのゲームを完全攻略した。まったく問題なくプレイできた。そこからは必死だった。

 ゲームを貸してくれた友達に連絡を取り、別のゲームを片っ端から貪り食うように借りて、プレイした。寝る間も惜しんでプレイした。両親は、俺を止めようとはしなかった。それどころか、心因性嘔吐症になってから、俺が初めて自発的に行動したことに喜んでくれた。

 ゲームをあらかたプレイすると、今度はマンガを熟読した。その頃から普通の雑誌が読めるようになっていることに気がついた。

 三次元のグラビアが載っている週刊誌も読める。二次元はリハビリ効果があったのだ。

 マンガの次はアニメだ。深夜アニメは欠かさず見た。はじめは辛かったが、CMを見ても、テレビドラマを見ても平気になった。

 そして俺は、ついに、ついに家から出ることに、成功した。俺が高校二年生のときだった。

 だから俺には、二次元にどっぷりつかったのだ。傾倒していったのだ。

 俺はもう二次元なしには生きていけなかった。

 現実で、三次元で恋愛?

 あの地獄を、絶望を、嘔吐し続ける日々をまた繰り返せと?

 アホか! できるかそんなもんっ!

 もう二次元でしか、俺は恋愛が出来ない。だったらもう、二次元に行くしかない。

 何が何でも行かなければならない。この俺の絶望を埋めれるのは、もう二次元だけだ。それができないなら、どうにかして二次元から三次元にゲームのキャラクターを、美少女をつれてくるしかない。

 もうそれ以外に、他人とどう繋がればいいのか分からない。わかり合える気がしない。愛する人を、俺が愛せる人を見つけることができない。俺が愛してもいい人に出会えないっ!

 恋愛なんてしなくたって、生きていけるという人もいるだろう。確かにその通りだ。誰かを愛さなくたって、生きていくことは出来る。

 恋愛なんてしなければ、そもそも、恋愛の存在自体知らなければそれを危惧する必要はない。

 だが、俺はもう、もう愛してしまったのだ。

 知ってしまったのだ。誰かを愛するということを!

 そしてフラれて、想いが潰えて、失恋した。

 恋を、失った。

 でも手に入れれたのだ! 例えそれが現実でなくても、三次元でなくても、二次元であったとしても、仮想現実だったとしても、手に入れれたのだ。

 恋して、しまったのだ。得て、しまったのだ。また、恋を。

 つながれたと、思えたのだ。

 誰かに焦がれたのだ。

 想いを焦がすことが、できたのだ。

 焦げた想いはこびりついて、俺の心からもう剥がれ落ちることはない。

 その事実は、なくならない。

 だったら、もう止められないじゃないか!

 我慢できるわけないじゃないか!

 この感情を知ってしまったんだから!

 また誰かに想いを馳せれると、知ってしまったのだから!

 だからこそ、俺は高校で微分積分に全力で取り組んだ。

 絶対に行くんだと。二次元でしか、俺は恋愛をすることが出来ないんだ。

 それしかもう、望みはない。

 そこでしか、もう自分の想いは告げられない。

 人を愛することができない。想いを遂げられない。愛してもらうことが、できない。

 だが結果は知っての通り、二次元に行くことは出来なかった。望みはそこになかった。

 もし俺が誰かに恋をしても、告白できないのなら、この恋は絶対に叶わない。

 焦げ付いた想いは、俺の心にこびりついて離れないのに……。

 そんな俺に気が付いたのか、父さんがスマホを買ってくれた。後で理由を聞いたら、『あの時と同じ顔をしてたからなぁ』と言われた。この人が俺の父さんで本当に良かったと思った。

 父さんがスマホを買ってくれたことで、アプリ開発をすることでどうにか二次元にいけない絶望から目をそらすことができた。

 いや、そらせるために全力で取り組んだ。それが現実逃避だと分かっていても、俺は何かしていなければ、あの絶望を次の瞬間には思い出してしまいそうで、怖かった。

 そして高校三年生になって、もう逃げれないのだと覚悟した。

 俺は想いを伝えることができない。

 俺は決して告白することが出来ない。

 それでも三次元で、現実で生きていくしかないと。

 でも、俺は諦め切れなかった。

 誰かと恋愛することを。

 誰かとつながりあえることを、諦め切れなかった。

 未練たらたらだった。

 一度諦めていたものを、手に入れれたから。偽者だったとしても、二次元で触れれたから。

 死人から生き返ったから。

 俺は生きている! 生きているのだっ!

 だったら、恋愛したい。

 恋いしたい!

 愛したい!

 そして誓ったんだ!

 三次元でも、現実でも恋愛して見せるとっ!

 だが、問題が一つ。

 俺に告白なんて、できっこない。

 できるわけがない。

 そこで考えたのが、女の子の方から告白してもらう、だ。

 告白できないのなら、告白してもらえばいい。

 我ながらどうしようもなくアホな結論だが、もうそれに賭けるしかない。

 俺の人生、この先恋愛できるかどうかは、誰かがクソみたいな俺に惚れてくれるという可能性に賭けるしかない。自分がどれだけ誰かに恋しても、意味がないのだ。

 想いを吐き出せないのだ。きっとまた、吐いてしまうから。

 だから俺はまず体を鍛えた。だらしない男に、いい女はやってこない。どうせ告白してもらうなら、可愛い子がいい。綺麗な子がいい。

 俺が告白できない以上、誰かに告白してもらう以外に、俺は恋愛できる方法がない。

 コイン投げだ。

 表が出れば、告白してもらえる。裏が出たなら、告白してもらえない。告白してもらえないなら残念でしたで、はい、終了。

 でも、誰がこのコインを投げるかは、俺にはわからない。

 どんなに容姿がアレでも、年齢がどんなに高くても、俺が恋愛をしたい以上告白されれば受けるしか、選択肢はない。

 そんなに極端な考えになるなと言う人もいるだろう。そこまで極端にならなくてもいいと。それどころか、引きこもりから復帰したようにいつか告白できるようになるんじゃないか? と。いやいや、それよりもちゃんと好きになった相手に自分のことをきちんと話すべきだ! こんな体の俺を受け入れてくれる人もいるのだろう。すべてを話した後で、受け入れてくれる人もいるだろう、と。

 ……本気で、そんなこと思ってるのか?

 俺も、時間が経てば解決してくれると思っていた。

 大学生にもなったし、何かが変わったんじゃないかと期待していた。

 また楽観的に考えていた。

 だが、現実はどうだ? こうしてまた俺は、ゲロをみっともなく垂れ流しているじゃないか!

 俺が吐き気に悩み、嘔吐を繰り返している間に、他の同年代の奴らは飄々と好きでもない奴と、プライドやそういう雰囲気だったからといった理由で付き合っている。

 それを恋愛ごっこと言って、真の恋愛じゃないとかのたまう人もいるだろう。

 逆に聞きたいが、ごっこで何が悪い? 恋愛したつもりで十分だろ?

 遊びで恋愛できる奴らがうらやましい。

 簡単に別れれる奴らがうらやましい。

 ファッションで恋愛できるやつがうらやましい。

 断られるかもしれないから告白できないやつがうらやましい。

 相手に恋人がいるから告白できないやつがうらやましい。

 自分が家庭を持っているから告白できないやつがうらやましい。

 そんなやつらを見る度、俺の中で恋愛への欲求がどうしようもなく膨れ上がっていく。

 だからFPSで渡部さんに八つ当たりのようなことをしてしまった。素直になれるのに、自分の思いをたださらけ出すだけなのに、何でそれができないんだ! 俺なんて、まずそのスタートラインにすら立てないんだぞっ!

 何でなんだ? たった一度告白を断られたというのが、そんなに罪なのか?

 恋愛したいと思うのが、悪いことなのか? たった一言、好きだと、ただそれだけ口にすることすら許されないのか?

 自分の想いを伝えようとした瞬間に、嘔吐する。

 想いを伝えようとした瞬間から吐き気がするので、まず告白しようとしていることを相手に伝えることも出来ない。汚物で口がふさがれる。

 だから俺は、緑の前から逃げ出したんだ。こんな姿は見せたくなかったから。見せれるわけがなかったから。俺が好きじゃない俺の姿を、相手が好きになってくれるはずない。

 これは仮定の話で、実現しなかった話だが、あのまま俺が緑に告白したとしよう。

 まず間違いなく、今以上にひどいことになる。

 嘔吐している最中、当然俺はしゃべることは出来ない。それでも俺は無理やりしゃべる。しゃべり続ける。しゃべる度に吐瀉物がつぶれる音と、胃酸特有の酸っぱい臭いが発せられる。発生源は俺だ。そんなところに近づきたい人なんて、いないだろう。

 だが、嘔吐しながらでは、俺は大きな声を出すことができない。俺の話を聞くためには俺に近づかなければならない。俺も告白を伝えるためには相手に近づかなければならない。嫌がる相手に、這ってでも。

 這って、近づいて、ゲロと異臭にまみれながらの愛の告白だ。俺も相手もゲロまみれ。それでも、俺の口からはゲロと異臭しか発せられない。何故なら、告白しようとすると吐くからだ。

 この場面を想像してくれ。

 何だこれは? 誰が感動する? この行為に何の意味があるんだ? 愛をささやくたびにゲロを吐く相手なんて、そんな奴誰が愛してくれるっていうんだ?

 ……だからまず、相手から愛してもらうしかない。告白してもらうしか、ないだろうがっ!

 また胃がせり上がってくる感覚。もう何度胃液を吐き出したか分からないが、この感覚は一生なれることはないだろう。

 口から胃液をぶちまける。溝に落ちたそれは跳ね返って俺の頬をぬらす。きっと俺の顔はゲロで黄色まみれに違いない。

 鼻からは粘着性の液体が流れ出ている。鼻水だ。

 俺の両頬に、一筋ずつ皮膚が裂けたような熱が走った。涙だ。泣いているのだ、俺は。

 泣いている原因はわかっている。

 後悔だ。後悔、してしまっているのだ。

 大島緑。

 つい先ほど、名前で呼び合えるようになった、彼女への想いを伝えようとしたことを、後悔しているのだ。

 ああ、何で告白なんてしようと思ってしまったのか。こうなることは予想できていたのに。

 だからこそ、女の子から告白してもらおうだなんて馬鹿なことを考え付いたのに。

 そのために努力もしてきたのに。それでも。

 それでも、緑に想いを伝えたかった。

 好きになった。

 隣にいて欲しかった。

 自分のことをもっと見て欲しかった。

 俺の想いは心因性嘔吐症なんて軽々越えられるのだと信じていた。

 例え嘔吐することになったとしても、この想いを伝えたかった。

 

 そして、失敗した。

 

 できなかった。

 俺は、できもしない告白をしようとした罰を受けるように嘔吐を続けた。嗚咽と共に、伝えようとしていた恋心を吐き出していく。

 ……諦めなければならない。

 この恋は、諦めないと、諦めきらないと、俺は緑に会う度に吐いてしまうだろう。

 告白をしようとした事実を、強烈に思い出すだろう。

 想いを、告白に結びつけるだろう。

 だから、諦めるしかないのだ。

 それでも。

 それでも、諦めたくなかった。

 出したくなかった。

 心から切り離したくなかった。

 きちんと伝えたかった。

 言いたかった。

 好きだと。

 たった一言。

 でも、言えなかった。

 言えないのだ。

 もう言えないのだ!

 この想いを抱えることはできないのだっ!

 嫌だ嫌だ! やめてくれ! やめろ! やめてください! 出したくない! お願いだ! 何でもするからやめてやめてやめてくれ! お願いします! 何でもするから! 頼むからやめて! やめてくださいお願いお願いします! 俺の想いをこれ以上漏れ出させないでくれ! 消さないでくれ! 消したくないんだ! この想いは! 俺が誰かを好きになるなんて奇跡を諦めたくない! 嫌だよ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌なんだ! もうないと思ってたんだ! 無理なんだって思ってたんだ! 誰かを好きになれるなんて! 諦めてたんだ! 想っていても伝えることなんてできないって! 伝えようとすら思わないって! でも違ったんだ! 好きになれたんだ! 想いを伝えよう思ったんだ! そう思えるほど想えたんだ! もうあんな人には出会えない! 絶対出会えない! 吐き出させないでくれ! お願いだから、嫌だ、嫌だよ、もうやめて! もうやめてよぉやめてくれぇええええええええ!

 それでも、嘔吐は止まらない。

 拒絶すればするほど強まってくる嘔吐感。胃が丸ごとせり上がってくると錯覚し、俺はまた、嘔吐した。

 既に胃の中のものはすべて吐き出しており、出てきたのは少量の胃液と、嗚咽と、敗北感。

 息が苦しい。心臓はこれでもかというほどに、圧迫縮小を繰り返す。

 目の前が、今は夜なのにもかかわらず純白に染まる。白すぎて何も見えない。何も感じない。感じなくなってしまう。

 死ぬ。心だけじゃなく、体も死ぬ。

 俺が緑を好きだという気持ちを伝えようとする心に反して、俺の体がそれを全力で拒絶する。

 そんなものはお前にはいらないと。必要ないと。全部吐き出してしまえと。

「ちく……しょう」

 それでも、嘔吐は止まらない。

 もう二度と、緑に恋心を抱かないよう徹底的に吐き出させるつもりなのだ。

 心因性嘔吐症のことや俺の過去のことを考えていたのは、余計なことを考えることで、俺の中にまだある緑への想いを俺自身からごまかそうとしていたのだが、それも見抜かれた。

 当然だ。俺自身が敵なのだから。

 世界だけじゃなく俺そのものも敵だった。

 俺の抵抗が続く限り、この嘔吐は止まることはないだろう。

 最後には負けると、敗北感を感じた時点で理解しているが、それでもこの想いは貫きたかった。

 そこまで考えて、俺が既に緑への想いを諦めていることに気が付き、絶望した。

 最後まであがいているのは、俺自身が緑への想いを諦めきるために必要だからだ。出し切るために必要だからだ。

 自分は最後まで頑張ったんだからしょうがないよね、という免罪符が欲しいだけなんだ! 諦めるための理由付けをするために足掻いているだけなんだっ!

 なんてことだ! もう俺の心は既に負けている! 緑への想いを諦めることを、既に認めきっているっ!

 はは、はははははははははっ! もうダメだ。おかしくなって、おかしくて、もうおかしくなっているっ!

 もうダメだ。俺はダメだ。ダメなんだ! 終わっているんだ。終わってしまったんだ!

 救いなんてない。救われるわけがない。自分の心を諦めてるやつが、救われるわけなんてないっ!

 

 俺の嗚咽は、その後しばらく続いた。

 そのすべてが夜の海に飲み込まれて、消えていった。

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