存在理由

「何……言ってるんだ?」

 声が震えた。止めて欲しかった。もう傷付くのは沢山だった。

「何度も言わせないでくれ」

冷たい視線。凍てつく響き。そんな風に見られた事も、そんな声を聞いた事もなかった。だから、統は動揺した。

「あの人達……お父さんとお母さんが僕を生き永らえさせる本当の理由はね、息子を大切に思う親心ってやつさ」

 創の言葉に、統は思わず叫ぶ。

「そんなの知ってるよっ! 父さんと母さんは兄貴を何よりも大事にしてたっ! 親なら当たり前じゃないかっ!」

 辛く孤独な日々でも、そう思えば耐えられた。兄は体が弱い。だから、我慢しなくちゃいけない。

『統さんはいい子ね』

 母さんに誉めてもらえるなら……幾らでも頑張れたんだ……!

 くすっと、本当に可笑しそうに創が笑う。狂気を含んだ瞳で。静かに漲る怒りで。

「僕はね、統。お父さんの……皇司の血を引いていないんだ」

 闇に染み入るような残酷な真実。

「えっ……?」

 思わず口を突いていた。それしか出なかった。その反応が想定内だったのか、創は今度は声を上げて笑う。

「僕はね、望まれない子供だったんだよ」

 忌まわしい一夜の過ち。実の妹を愛し、自分の命が尽きる前に抱いた。

「そんな……最低な男が……」

 その声は、やがて怒りを含んで震え出す。

「僕の……僕の本当の父親なんだっ!」

 異父兄弟。呆然とする統は更に耳を疑う。

「お母さんはね、血の繋がった実の兄に薬を飲まされたんだ。そして……」

 それ以上は続けられなかった。悔しさと憤りで噛み締めた唇から、一筋血が滲む。その赤も憎むべき対象からもたらされたものだった。

「兄貴……」

 頭が真っ白だった。

 では、母は……実の兄との子を生んだ事になる。それが創で、司の血を引いていなくて。

「だから……」

『統、お前が皇を継ぐんだ』

 今になって、あの春の午後の意味が理解出来た。

「皮肉だよね」

 一転して落ち着いた声で創は呟き、自嘲気味に続ける。

「あの男から与えられたのは、この弱い体だけ。それが濃すぎた血のせいなのか、遺伝なのかはわからないけれど……」

 その時、何故か統は幼い時の事を思い出していた。ずっと忘れていた位だったから本当に些細な、でも振り返れば大切な気付きだった。


 その日は父と創がいなかった。一年に数回ある定期検診の日で、街の病院に出掛けていた。

 いつも創ばかりを気にかける司を、その頃には既に遠く感じていた。それは静に対しても同様だったが、それでも怖い存在の父より、優しい母に甘えたい盛りだった。

 今日だけはそれが許される。そう思うと幼なじみ達の誘いも断り、学校から急いで帰宅する。ランドセルを背負ったまま、屋敷の中を母を求めて駆け回った。

「そんなに慌てては転んでしまわれますよ、統坊ちゃま」

 長年勤めてくれている給士頭は心配しながらも、それでも微笑ましいという表情を浮かべる。こんなにも、はしゃいでいる少年を見るのは久し振りだった。

「母様を知らない?」

「奥様でございますか? 確か御部屋に」

 にっこりと教えられ、胸が高鳴った。今は、今だけは誰にも気兼ねせず甘えられる。

 困らせてしまうだろうか? でも、きっと笑顔で迎え入れてくれると信じて疑わなかった。

「ありがとう、楠」

 ランドセルを預けると、弾む息のまま母のいる部屋へと急ぐ。すると、扉が僅かに開いている事に気付いた。

 途端に芽生える悪戯な考え。統は笑いを噛み殺しつつ、忍び足で近付くと覗き込んだ。

 窓際にある揺り椅子に座る華奢な背中。その向こうに広がる青葉の緑。爽やかな風が吹き、統の中にあった母を驚かせてやろうという気持ちは、一瞬で払拭されてしまった。

 耳に聞こえるのは心地よく軋む音。母はまだ気付かない。羽織っているレースのストールの裾が揺れる度に、不思議な感情に支配された。

 そして急に怖くなって、泣き出しそうになる。

「統……どうしたの?」

 名を呼ばれ、はっと顔を上げる。そこには、いつもの母の笑顔があった。

 どう伝えればよいのだろう? 垣間見た憂いだ表情。特別で犯しがたい空間。

 そこにいるのは母なのに、まるで違う誰かみたいで不安だった。置いていかれ、一人ぼっちにされてしまう、そんな気がして。

 だけど今は微塵もそんな事は感じさせず、包み込むような慈愛に満ちている。戸惑いながらも、まだ子供だった統は母の温もりを求めた。駆け寄り、その膝に甘える。

「学校は? 楽しかった?」

「うんっ! あのね!」

 統の話に耳を傾けながら、静は心から嬉しそうに笑ってくれる。優しく髪を撫でられ、穏やかな空気に包まれれば、安心したのか眠気に襲われる。

 段々と言葉数が少なくなった息子に気付いた静は、統が枕にしつつある物を退かそうとした。

「母様」

 うつらうつらとしながらも尋ねる。

「なぁに?」

「何を……読んでたの?」

 すると静は淡く微笑んだ。

「アルバムを見てたの」

「アルバム……?」

 今にも落ちてしまいそうな瞼を辛うじて開きながら、統はそれを見る。

「だぁれ?」

 いつの間に抱き上げられたのか、その腕の中にいた。

「私の御兄様よ」

 そう聞こえた時には、もう夢の入り口に立っていた。とくんとくんと規則正しい音に導かれ、統は安心しきっていた。

 それでも記憶の片隅に残った映像。表現しがたい表情で、傍らのサイドテーブルにアルバムを置く母の横顔。

 先程感じた感情と同じ。こんなに側にいるのに……遠い。

 僕を置いて行かないで。

 眠っては駄目だ。そう思っているのに、夢の扉は容赦なく開く。

 せっかく二人きりなのに。その時だけは、統と呼んでもらえるのに。もっと話して、沢山甘えたいのに……!

 けれども、すうっと意識は遠退く。

「心配しなくていいの。ずっと一緒よ」

 若かりし頃の母と自分が生まれる前に他界している伯父が、二人で映る写真を朧気に残して。


「頭の悪いお前でもわかった?」

 くすくすと笑う声に、統は唇を噛み締める。

 悔しいからではない。兄が本意で自分を馬鹿にした言い方をしているのではないと、わかるからだ。

 創は知らない。そんな言葉を使っても、その気高さを、美しさを翳らせる事など出来ないと。それが母の一族からもたらされたのだとしたら……哀しすぎて目頭が熱くなった。

「お父さん……皇司は怖れていたんだ」

 いつか生まれるであろう我が子に、使いの刻印が押されてしまうかもしれない。

「そんな時、お母さんは実の兄の子を宿してしまった」

 お父さんは考えたんだ。お母さんの一族によってもたらされた呪縛なら、その血によって購うべきだと。だから赦したんだ。お母さんに僕を産む事を。

「僕を使いにするつもりだったんだ」

 どうしようもない衝撃だった。吐き気がする。嫌悪感が全身を駆け巡る。

「全ては統、お前の為に」

 使いを別の器に引き継がせ、村を存続させる為の儀式を執り行える純血種を守る。

「だから僕は生まれ、生かされ続けたんだ」

「そんな……」

 薄暗い世界が、ぐるぐると渦を巻く。思考が停止して追い付けない。息が苦しくて震えが止まらなくて、でも熱い何かが頬を伝う。

 これは……涙? 自分が泣いているのだと気付けない程、統は混乱していた。

 わからない。どうしてそこまでして、この小さな村を守るのか?

 わからない。創の話した事は全てが真実なのか?

 わからない。父は本当にその為だけに、母の忌まわしき過去を赦したのだろうか?

 そして母は……それを受け入れた上でお腹を痛めたのだろうか?

 わからない。わからない……わからないっ!

「お父さんを責めてはいけないよ」

 一転して、穏やかな声音になる。

「お父さんは、そう育てられた。それが皇の教えなんだ」

 皇家とは何か? 今更ながらに沸き上がる疑問。何も知らずに育って来た日々が、苛立ちを増幅させる。ごちゃ混ぜになった感情は著しく統を消耗させ、冷静な判断すら欠かせていた。

「そして……」

 そんな統に最後の杭が打たれる。

「それが、お父さんの正義、なんだ」

「正義? はっ、はは……」

 奇妙な笑いを含んだ声に、自分が狂ったのかと思った。

「正義って何だよっ!」

 叫びは空洞を震わせ、奥へと吸い込まれていく。それでも創の表情は変わらない。統は一気に間合いを詰めると、両肩を掴んだ。

「何だよ……何なんだよっ! 教えてくれよっ! 兄貴っ!」

 最後は最早、懇願に近かった。

「頼むよ……兄貴……」

 永遠とも思える沈黙。しかし一瞬の間の後、創は呟いた。

「僕だって知りたいよ」

 統の目に映るのは、悲しみに彩られた瞳。

「でも、そう思わなければ僕は生きられなかった。そう信じなければ……とっくに死んでた」

 貫かれるような激しい痛み。幼い時から伏せがちで、発作の度に生死を彷徨う。その度に父に治療を施され、母の看護を受ける。それを羨ましいだなんて思っていた自分は何て幼稚で、何て愚かだったんだろう。

 だから、我慢した。何よりも創に、たった一人の兄に元気になってもらいたかったから。だけど……だけど……! 今の自分は……!

「僕が元気になれば、樹と村を出て行ける」

 不意に耳に届いた言葉に、心臓を鷲掴みにされる。

「僕に皇家を継がせ、お前は愛する樹と二人だけで幸せになる。そればかりを考えて周りを見ていなかった」

 どんどん鼓動が速まり、掴んでいた両腕が震える。

「そうだろう? お前が全て悪い。統、お前のせいだ」

 今は残酷な色を讃えた瞳で、創は統を冷たく見ていた。

「全ての元凶は、お前なんだ」

 がらがらと音を立てて、何かが崩れた。自覚していたのに、見て見ぬ振りをしていた真実を、言い当てられた。他の誰でもない……創に……!

 気付けば地に手をついていた。

「俺が……悪い?」

 否定された。いつも側で肯定してくれていた創に、初めて否定された。

「だから……消えて」

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