御伽話

 足元で水音が跳ねる。

 土の匂いを含ませた空気にじっとりと包まれると、乾く気配すらないシャツは統の肌に更に吸い付いた。

 髪に、肩に、腕にと落ちる天然の雫は、気温変化に依るものが大きいのだろう。だが頻繁に感じてしまうのは、今尚降る雨が地層を通り、長年蓄積された雨水を押し出してもいるからなのかもしれない。

 しかし、この記憶がないのは雨の日には山に入るなと言われていたからだ。そして洞穴の最奥に行く勇気は、当時小学生だった四人にはなかった。

 あんなにも足繁く通っていたのに他の遊びを覚え、忘れてしまう。よくある話だった。

 焦る気持ちはあった。確かめたい誘惑もあった。自分の先を行く背を見ていたくもあった。

 それは初めての感覚。創の好きなようにさせてあげたい。そう思った。

 何より創の無言は、樹の無事を肯定していると感じた。樹を大切に思う気持ちが伝わってきて、切なかった。


 少し乱れた始めた息遣いに、不安になる。体力の消耗は普段の生活から比べれば、激しい筈だ。

 創のペースを保つ為、わざと距離を置いて歩いてはいた。それがかえって負担をかけていたのかと思い、差を縮めかける。

「そのままでいい」

 はっと立ち止まる。空気が変わった気がした。

「兄貴……」

「こんな話を知ってるかい?」

 振り返りもせず、唐突に創が語り出す。ゆっくりと遠ざかる灯りに慌てて続きながら、段々と居心地の悪さを覚える。例えようのない感覚に、統の足は知らずに早まった。創の背中に、あと数歩という所まで近付く。それが伝わったのだろう。再び創は口を開いた。

「昔々、ある男がいた。男は一人の娘に恋い焦がれていた。だけど娘には、親が決めた嫁ぎ先があった。初めから叶わない思いだったんだ」

 その声には、あの離れで御伽話を聞かせてくれた優しい響きがあった。布団の中で体を起こし、膝の上で本を開いていた姿が脳裏に浮かぶ。

 母の手製の羽織りが羨ましくて、耳では聞きながらも目はそればかり追っていた。それでもいつしか創の話に夢中になり、時が経つのも忘れて聞き入った。

「やがて娘が嫁入りする日が決まった」

 でも、この話は聞いた事がない。そして、何かが違う気がした。

「男は悲しんだ。報われぬ思いは、最早抱えきれなかった。正気と狂気の狭間で身悶え、苦しんだ」

 話しながら、創は明らかに男を憐れんでいた。

「それにね。男は、もう永くなかった。私と同じように、生まれつき体が弱かったんだ。死が近付きつつある中でも、最期の最期まで娘を思った。娘は……男の気持ちなど、知りもしなかったのに」

 その時、統は創の声が震えている事に気付いた。

「兄貴……?」

 だが、その呟きに被さるように創は尋ねてくる。

「だから男は……男はどうしたと思う?」

 答えに詰まった。想像も出来ないし、余りにも突然の問いだった。

 沈黙がその場を支配する。一瞬にも永遠にも思える長さで、感覚を狂わせる。

「わかるわけ、ないよね?」

 ふっと笑いが溢れたのが、見えなくてもわかった。

「教えてあげるよ」

 揺れる灯火に映し出される横顔は余りにも美しく、母の姿が重なる。

『統はお父さん似だね』

 そう告げ、優しく微笑んでくれたのは。

「自分のものにしたんだ」

 耳に届いたのは、残酷な意味を持つもの。

「男は娘を喰ったんだよ」

「喰った……?」

 ごくりと唾を飲み込んでいた。子供に読み聞かせる話には、時に残酷な結末から教訓として伝わるものもある。しかし今、創がしてくれた話には男女の愛憎劇が垣間見える。

 あの感覚の正体がわかった。それこそ違和感だった。創の口から、創らしからぬ御伽話が語られた事。それが統に襲いかかった不安の原因だった。

 閉鎖的な村。その空間で都会に住む若者のように、自由で奔放な恋愛を楽しめる事は皆無だ。限られた相手の中から仕来たりに従い、時には親に決められて自分の意思など、おざなりのまま婚姻する。

 司や静、忠や環は稀なケースともいえるのだ。まして今の村には、若者が極端に少ない。小さな子供は、もっとだ。それでも存続して来た村。山を敬い、他者を拒み、因習に縛られている。

「密接……すぎる……」

 目眩を覚え、片手で顔を覆った。逃れられない何かを感じた。だが創は、そんな統になど目もくれずに、とつとつと話を続ける。まるで独白のように。

「男が狂ったのは、わかっただろう? 恋をしているお前なら。でも、お前は叶えられる思いだった。しかし男は、伝える事すら許されない気持ちだった。だから願ったんだ。こんなにも苦しいのなら、いっそ楽になりたいと。耐えられなかったんだ……実の妹を欲している自分に……!」

「実の……妹?」

「そして男は一人、神聖なる山に入った。そこで最期を迎えるつもりだったんだ。そこでなら受け入れられ、赦してもらえると思った。そんな男を憐れんだのか、それとも怒りに触れたのかはわからない。気付けば男は獣になっていた。感情を失くし、ただ山を護る使いになったんだ」

 男は幸せだった。与えられた新しい体は逞しく丈夫で、どんなに駆けても、どんなに跳ねても苦しくない。あるのは喜びと安息だけ。もう眠れぬ夜を数える事はない。

「美しく愛しい妹を思い出す事も……なくなると……思っていた」

 完全な心理状態は男が、かつて人であった事を思い出させ、哀しみを増幅させただけだった。人には戻れない。獣にもなりきれない。その時になって、やはり生きていくのは辛いと嘆いた。でもね、男はもう死ねなかったんだ。使いとして不死の体を手に入れてしまっていたから。

「本当かどうかはわからないよ? だって、これは……御伽噺だから」

 ある日、行方知れずになった兄を心配した妹は、許婚と共に山に入った。兄の事が大好きだったんだ。本当に慕っていた。許婚もそうだった。彼もいずれ自分の兄となる男を大切に思っていたんだ。幸せだった彼らは知らない。その互いを思いやる純粋さが、どれだけ男を傷付けていたのかなんて。

 獣と化していた男は勿論、二人の前に姿を現すつもりはなかった。ただそっと見守るだけで、よかったんだ。でも自分の身を案じ、危険な場所へ来てくれた娘が……妹が愛しくて愛しくて仕方なかった。人として一緒に過ごした日々が思い出されて、苦しくて切なくて、甘くて懐かしくて。許婚さえいなければ……そう思ったんだ。

 一気に語った創は一転し、哀しみを帯びた響きで、ぽつりと呟く。

「そんな訳ないのにね」

 今なら何でも出来る。そう確信した男は威嚇の唸りを上げた。

 突然現れた何かの気配。恐怖を感じながらも許婚は娘を先に逃げさせ、周囲に神経を張り巡らした。

「何よりも愛する人の身を優先したんだね」

 彼は心から娘を愛していた。だから必ずそうするだろうと、男は睨んだんだ。辺りから立ち込める気は、明らかに危険なものだった。許婚は娘を逃がした方向とは違う方へと、脱兎の如く駆け出した。それしか出来なかった。戦う術を知らなかったのもあるし、それに何より到底敵うわけがないと本能的に思ったんだ。

 走り去る姿に男の気分は高揚した。とんと軽やかに大地を蹴る。ぬかるんだ山道さえも男の強靭になった四肢を抑える事は不可能だった。

 迫り来る何か。見えない恐怖。許婚は振り返る事すら出来ぬまま、娘の無事を祈りながら、ひたすら走った。腕や足が低木の小枝に傷を付けられ、繁る葉が視界を妨げる。その時、彼はこう思った。

「自然にまで迫害されている」

 激しく波打つ心臓が、荒く繰り返す呼吸が、許婚から冷静な判断力を奪っていった。眼下でふらふらになりながら、逃げ惑う青年を男は見下ろす。

 優越感。負い目しかなかった男に、生まれて初めて芽生えた感情。可笑しくて可笑しくて、笑いが込み上げる。それは獣の咆哮となって、更に許婚を竦み上がらせた。

「逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!」

 中途半端に分割された人としての自我と獣としての欲望が、ただでなくともあやふやだった男を誤った道へと導く。残酷で痛ましい未来へと。

 激しい葉音を立てながら木立から飛び出すと、突然世界が開けた。思わず立ち止まってしまったのは、その先に何もなかったせいだ。前方に視線を送れば送る程、狭まっていく。それは最早、道などとは呼べない場所。行き止まりだった。

 正確にいえば進めるが、その先にあるのは可能性の高い死だった。彼は崖に出てしまったんだ。

 元来た道に引き返そうと踵を返しかけ、言い知れぬ気配に固まる。

 背後を取られてしまった。体中から血の気が引き、汗が滴り落ちる。それでも意を決し、振り返る。

「うわぁああぁぁぁぁぁっ!」

 飛びかかって来た白い何かに、反射的に後退する。気付いた時には遅かった。右足を残したまま、左足から落ちた。次の瞬間、体ごと宙に沈んでいった。

 遠ざかる空。思いきり両手を伸ばしても届かない青。直後に訪れる激しい衝撃と貫く痛み。遥か上空から覗き見る白だけが、残像のように瞳に残る。

 こんな時なのに許婚は思った。美しい、と。自分が最期に目にしたのは、きっと神からの使いだったのではないかと。

 何故、命が消えようとしているかはわからないけれど、娘が無事ならばそれでいい。霞んでいく視界は急速に光を失い、激痛に苛まれた体も今は軽い。口から溢れる鮮血に咳き込む事も出来ないまま……そっと息を引き取った。

「その後、村では今回の事件は、山神様の怒りを買った為だと騒がれた」

 愛する者を失った娘は抜け殻のようになり、村人達は恐怖に震えた。二人が襲われたのは、踏み込んではいけない聖域に入ってしまったからだと思われたんだ。だから娘に全てを押し付け、責任を取らせようとした。集団の狂気が、彼女を山に捧げさせたんだ。

「昔ながらの悲劇といえるね」

 もうね。男は何が正しくて何が悪いかなんて、どうでもよかったんだ。欲したものを手に入れる、それが新しい生きる意味になったんだ。

 娘は山に入った。そして、愛する許婚が亡くなった場所に佇んでいた。兄を心配する気持ちはまだ残っていたものの、それを遥かに凌駕する喪失感。それでも後を追えなかったのは、生まれ育った村を大切に思っていたんだ。

 それに逆らえば、残された家族の立場が危うくなるのも怖れた。そして何よりも、その命に代えてまで自分を守ってくれた許婚の思いに応えたかったんだ。

「辛い決断だったと思うよ」

 だから、彼女は決意した。獣と化した兄が目の前に現れた時、全てを受け入れたんだ。

「こうして二人は、末長く幸せに暮らしましたとさ」

 にっこりと笑みを浮かべながら、創は統を見る。だがその表情とは裏腹に、そこにあるのは張り詰めた糸。蜘蛛の巣のように四肢を絡め取り、身動き出来なくなる。

「男は娘を、実の妹の魂を、そして身体をも手に入れたんだ」

 創の口角が、ぐにゃりと歪む。

「喰われたという表現が適切だと……思わないかい?」

 男は娘を大切にした。許されぬ事だと知りながら二人は結ばれ、やがて子を宿した。

 娘は知らなかった。そう死ぬまで。誠心誠意仕えた山神様の使いが、実の兄だと。

「狂った血。狂った一族。それが……僕達のお母さん……旧姓・かつら静の祖先なんだよ」

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