邂逅
音を立てぬように忍び歩く。
それでも雨を滴らせたレインコートの起こす擦れに心臓が跳ねる。
思っているよりは、もしかしたら響いていないのかもしれない。
なのに、過敏になっている神経を逆撫でする。
苛立ちに正直、驚いている。そんな自分もいたのだと知り、複雑になる。
記憶という本来持ち合わせていて当たり前のものが、欠けている負い目があった。そのせいで自信や自己を持てなかった。
しかし、今は何かが違う。あの事故の後、除々に回復する体とは裏腹に、一人きりになると不安に震えるようになった。
いつしか記憶を取り戻す事に怯えていた。思い出さなくてはと思う反面、このままでもいいのではないかとも思っていた。
怖くて怖くて仕方がなかった。その中には知らなかった方がよかった事があるかもしれない。
母や兄の事を覚えていないのは幸せではないけれど、少なくとも傷付かないかもしれない。
その事を嫌という位、樹は知っていた。
好奇と憐れみの大人の目。悪意と妬みの子供の目。村の生まれでないというだけで疎外された。
どうして自分だけがと泣いた日々もあった。心が閉じたままでいればよかったと何度も何度も思った。
それでも……統さえいればいい。それだけが樹を支え、今まで耐えて来れたのだ。
子供の時に止まってしまった、あやふやで曖昧な心を抱えたままでも、体だけは次第に大人になる。周りの見る目が明らかに変わる。
『樹は、お母さん似だね』
知に言われても、ぴんと来なかった。ちぐはぐな感情のまま、鏡を覗き込む度に苦しかった。家族で写る写真に何度も問いかけた。
「私は……私は……ここにいて……いいの?」
揺れる感情に心が沈む。断片的な記憶が脳内で瞬くと、それは決壊したように樹を惑わせる。
『無理に思い出さなくていいんじゃないかな』
不意に理の優しい声を聞いた気がした。しかし、あの惨状が過ると目眩に似た息苦しさに襲われ、思わず胸を押さえた。
「理さん……」
次いで啓、雪が笑顔で現れては消える。まだ何も知らなかった頃の楽しかった思い出に涙が滲んだ。
啓の優しさ。雪の気遣い。だが理のそれは、また違ったものだった。
包まれるような温かさにいつも感謝した。似た境遇に何も言わなくても同調し合っていた。
でも……理はもういない。なのに、庭先で拾った眼鏡が謎を深める。
もしかしたら……啓が統に助けを求めに来たのだろうか?
考えに捕らわれていたが、ふと視線を上げる。少し先で洞穴は左に曲がるように、カーブを描いている。
薄暗さに感覚が乏しかったが、よく見ると自然の強大な力を押し付けられ、心許なくなる。今の樹の心情では、感動よりも無力を思い知らされるだけだった。
ちっぽけな自分。何故だか自嘲めいた笑みが唇を歪ませる。
先程までの勢いは既に急速に萎んでいったが、歩みは止めなかった。
尚も進んで行くと風の流れが変わる。目的の場所は近いと感じ、手元の懐中電灯を下げる。
息をひそめ、身を屈ませながら曲がると目の前に大きな岩を認めた。ほぼ中心に位置するそれの左右には、人が一人、通れるか通れないかの隙間がある。
その先から淡い光が漏れていた。放り出された夜の海で見付けた灯台の明かりみたいだと思った。
懐中電灯を消すと、そろそろと近付く。そして、樹は覗き込んだ。
話し声がする。心臓が大きく跳ねたが、それは誰かと話しているというよりも独白に近かった。
次第に震え、消え入りそうになる声は聞き覚えがあった。背を向けた姿に胸が締め付けられる。
逃亡の果てに薄汚れてしまったシャツ。それでも、さらりと揺れている髪。あの夜に見たままだ。染み透るような嘆きに切なくなる。
「……啓……さん」
だが、その呟きはやっと会えた人に届かない。
闇から伸びた手。気付いた時には口元を何かで覆われた。
「んっ! ……ふっ!」
落としてしまった懐中電灯が音を立てながら、足元を転がっていく。身を捩り、背後にいる存在を見ようと視界を動かすが、真っ暗で何も見えない。
見えないのは、そのせいだけではない。霞がかった世界はぐらりと揺れ、樹の体から意識だけを強制的に引き剥がす。
がくがくと震える足は、突如現れた穴に落ちていく感覚を刻む。支えられているのがわかっていても止められず、瞼が鉛のように重くなると、スイッチが切れたみたいに力が抜けた。
この手を知っていた。大好きで大切な温もりだった。必死で名を呼ぼうとしたが、既に底に沈んでしまっていた。
霧が立ち込めている。この冷え冷えとした透き通る空気は山からの恩恵。
深く深く吸い込むと、まるで自分がリセットされた気になる。
樹は山が好きだった。雄大な自然に囲まれ、四季の移ろいを目にし、孤独でも穏やかに過ごす。
孤独。そう……どうしようもない位に孤独だった。
その細い体をそっと横たえらせると、創は顔を歪めた。
こんな真似はしたくなかった。しかし、樹が今ここにいる事に驚きが隠せない。ぎゅうと目を瞑ると、額に左手をあてながら深い溜め息を吐いた。
跪ずいたまま、眠る樹の傍らにいるいる姿は、まるで祈りを捧げているようにも見えた。これから起こるであろう確実な現実に。
「仁さん……いるんでしょう?」
創の背後で闇が揺れる。
「返事はいらない。そのままで聞いて」
絞り出すような囁き。
「僕は行くから……だから、樹を頼んでいいかな?」
哀しい命令だと思った。ゆっくりと立ち上がった青年は、岩影の先を見つめている。夜目の利く仁には、その泣き出しそうな表情が見えていた。あの幼い日、堪えきれずに自分に縋った姿を思い出す。
『仁さんっ! 何でも言う事を聞いてくれるなら……もう僕を楽にしてっ!』
その弱りきった体を埋めつくした純粋な願い。
「槙と話さなくていいのか?」
踵を返しかけた背に、躊躇いがちな問いが注がれる。視線を送れば、いつの間にか仁が樹を抱え上げていた。自分を心配してくれている眼差し。創は柔らかく微笑む。
「啓、でしょう?」
そして、再び歩き出した。
『今度は啓として生きればいい』
泣き崩れ、狼狽える槙に創は優しく告げた。
ずっと側にいて。だって、だってね。そうすれば永遠に一緒なんだよ。
「それをエゴだと……俺に言えるのか」
腕の中で眠る少女に初恋の面影を認め、仁は自嘲気味にそう呟いていた。
体が重いのは冷えたからだろうか? 心が疲弊しているからだろうか?
それでも記憶の糸を手繰り、懐かしい場所の前に立つ。
ぽっかりと空いた穴は、まるで魔物が大きく開いた口のように思えた。
太陽の元なら抱きもしない考えも、月すら見せてくれない暗がりの下では妄想してしまう。真っ白な紙に垂らしたインクの染みが滲んで広がるみたいにゆっくりと。
雨は凌げるようになるが、闇は尚も続く。
統は足を踏み入れた。だが直ぐに灯りを用意して来なかった事を後悔する。
しかし、もしあの状況にもう一度戻れたとしても、やはり自分は何も手に出来ぬまま飛び出してしまっていただろうと思えた。
ならば岩肌伝いに進んでみようと、そろそろと左手を伸ばしながら数歩横にずれる。
その時、爪先に何かが当たった。金属音を鈍く立て、転がる物体。屈みながら手探りで足元周辺に触れると、丸みを帯びた物を掴む事が出来た。
「これ……」
呟きと共に思い描いたのは昔、理が持って来たランタンだった。はっと息を飲むと、更に辺りを探る。
「もしかしたら……」
遠い記憶の欠片を掻きあつめる。
『今の所、点けられるの俺だけだから』
洞穴の一角にあった出っ張りに、背伸びしていたまだ小さな背中。目一杯伸ばした右手の先にあったのは……瞬間、指先が何かを掠め細かく落下する音が統の泥だらけの靴を叩く。
『湿気ちゃうかな?』
心配そうな瞳で振り向いた。膝を折り、両手の中で大切に大切に包む。そっと広げた先にある物。
「理……」
後から後から溢れてくる。数日の間に起こった出来事に翻弄されていた。それでも、その小さな箱が導きの光のように統の心を灯した。理が側にいる。そんな気がした。
「確か……」
脳内であの夏の日が甦る。当時、既に年季の入っていたランタンを点けられたのは理だけだった。たどたどしくも手順を思い出すと、火種となるマッチを擦ってみる。
長年放置されていた事が形状からも滲み出たそれは、燐の臭いを一瞬届けるだけだった。それでも何本か試してみると、しゅっと音を立て発火する。
「あっ……!」
そちらにばかり気を取られ、ランタンの前準備をしていなかった事に焦りながら視線を向ける。
驚く必要がない位に自然に馴染んでいた。すっと白が現れた。
目を見開くと流れるような動きが、はっきりと映る。ランタンの上部を持ち上げ、短く促す。
「火を」
今にも消え落ちそうなマッチを、マントルと呼ばれるパーツに近付ける。途端に辺りは温かく照らされ、その声の主の横顔を浮かび上がらせた。
本当は見なくてもわかっていた。その綺麗な指先で。慈しんでくれた声で。
『統』
あの離れの部屋で、いつもいつも見送ってくれた。
「……兄貴」
やっと絞り出した声は、遠い世界の呟きに聞こえた。創は淡く微笑むと、統を真っ直ぐに見つめた。
どうしてここにいるのか? 体調は大丈夫なのか? 問うよりも先、ほんの数時間前の事が過り、胸を衝く。
樹を巡り、対立する。そんな事を夢にも思わずにいた。それ位に創は、いつも味方だった。
無言のまま時は流れる。凛とした空気が、二人だけの世界を構築する。薄暗い洞穴の中でなければ、それはいつもの光景に他ならない。
死と隣り合わせの離れの部屋は、時に見知らぬ場所へと誘う異空間だった。創を守る為だけの清らかで無垢な箱だった。そこから自分の意志で出て来た。
手元でランタンの灯りが揺れている。複雑な思いが重なり、言葉が見付からなかった。
小さく咳き込む音。はっと創を見ると、その顔は青白く息も乱れている。
「ふふ……」
聞き漏らしてしまいそうな程の囁き。
「心配しなくていい……いつもの事だろう?」
周りを気遣う微笑み。今の統には体を包み込む毛布も、喉を温める白湯も用意出来ない。頭からすっぽりと被ったレインコートが、少しは体温を保ってくれていればと願うだけだった。
「それよりも行こう」
フードを外しながら左手にランタンを持ち、創が立ち上がる。
「行く? 何処へ?」
心の片隅にあった疑問が首をもたげた。
『二度と創を連れて山へは入るな』
司の言い付けを守り、あれから統は誘う事はなかった。創も行きたいとは言わなかった。
だからだろうか? これは夢か現かわからなくなる。
そんな創が、行こうと言う。これでは、まるで本当に夢の中のようだと統は思った。
目覚めればいつもの日常が始まり、それを繰り返す。それが余りにも幸福だった事を知ってしまった。気付いてしまった。
でも、不思議と付いていくしか選択肢はないのだと思った。
今も咳き込む体をおしてまで、禁じられた山に来た。もしくは家族の誰もが知らなかっただけで、創は山に入っていたのかもしれない。
聞いてみたい衝動を覚えたが、それを上回る思いが統にはあった。
「そこに行けば……樹がいるのか?」
答えよりも明白な眼差しが、淡い光に照らされる。統は覚悟を決めた。
「わかった。行こう」
今の自分にとって、兄に従うのが一番なのだと素直に思えた。
創が無言で歩き出す。湿り気を含んだ闇に吸い込まれそうな背中を見つめながら、統も続く。
ランタンの灯りが、ゆらゆらと揺れている。それは道標のように、更なる深みへと二人を誘った。
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