疾走

 皇邸の裏口、壁に掛けられていた作業用の黒いレインコートを頭からすっぽりと被ると、樹は躊躇う事なく雨の中へ飛び出した。

 知が目を覚ますまで側についているべきだったのではないかと、胸の奥が痛まなかったと言えば嘘になる。

 それでも視界を遮る激しい雨粒が、足元を掠め取るぬかるみが背中を押すのだ。あの場所へ行けと。そうすれば全ての謎が明らかになるかもしれないと。

 きっと統は心配するだろう。そう思うと今、傍らにいない愛しい存在に無性に会いたくなる。

 大好きな声で名を呼ばれ、優しい笑顔で包まれたら……それだけで幸福に満ちる事が出来た。

 余所者で記憶を失っていた自分を、何の見返りも求めずに守ってくれた。

 幼い日、他の子供達から邪険にされ泣いていると、いつの間にか黙って横に座ってくれていた。

「それだけで私は沢山救われたんだよ、統ちゃん」

 いついかなる時も対等で、自分の持っているものをひけらかしたりは絶対にしない。村の長の息子。それだけでも一目置かれていたのに、それ以上に備わった何か……言葉では表現しがたいものが、いつか村を背負うのだと感じさせた。

 本人がどんなに否定しても望まなくとも、年を重ねれば重ねる程、周りの期待は高まった。

「だけどね、統ちゃん。私は心配なの……」

 その優しさの影に潜む苦悩を。でも、それを告げれば統は壊れてしまうかもしれない。

 そして、我が身を振り返る。自分の境遇を嘆いてはいけない。まして恨んだり妬んだり等、絶対に。記憶がないとはいえ、母の温もりを兄の優しさを体は憶えていた筈。でも、今は……

「……本当は怖いの」

 失われていた記憶が完全に自分に吸収された時、どうなってしまうのだろう? それでも取り戻したいと貪欲に求める矛盾。見てみぬ振りをしていた本当の自分を渇望している……!

 本能の赴くままに。痛々しい位に必死に。

「今度は私が守る」

 その呟きは確固たる決意……!

 統の脆さを、硝子のように繊細な心を知っているのは自分だけなのだ。だから強くなる為に、樹は向き合わなければならなかった。

 空白の12年間と、あの夏の夜に置き去りにしてしまった自分自身に。


 降りしきる雨は冷たい。胸は苦しく、既に息も上がっていた。

 それでも一歩一歩、踏みしめるように山道を進む。手元にある小さな懐中電灯の明かりは心許無く、揺れる淡い光は自分そのものを投影しているのではないかと思えた。

 ともすれば迷いそうな闇。それなのに……

「憶えてる」

 確実に目的の場所へと近付いている。恐怖よりも使命感が、今の樹を山へと誘わせた。

『誰にも内緒だよ』

 そう囁くと、唇に人指し指をあて真剣な眼差しを注いだ。

『もし何かあったら、母さんと樹はここに隠れるんだ』

 連れて来られたのは小さな洞穴。祖父母と母が話し合いをしている隙に、二人だけで山に登った。その時は、まさか儀式が執り行われる祠に通じているとは思いもしなかった。

「お兄ちゃんは?」

 余程泣き出しそうな顔だったのだろう。困ったように目を細めると、兄は優しく頭を撫でてくれた。

 しかし、あの日。秘密を守る為、樹は知に連れられ、先にここを離れたのだ。

 白々と明るくなる空の元、ぼんやりと視覚に映り込んだ景色。そして、槙に手を引かれながら目にした景色。二つが共鳴し、導く。

『俺は大丈夫だから』

 いつも安心させる笑みで包んでくれた。

「お兄ちゃん……私、来たよ」

 目の前に広がる更なる闇。樹は吸い込まれるように、その身を滑り込ませた。


 静からの切羽詰まった報せに、統と司は固まった。それは共に抱いた悪い予感のせいだった。無意識に瞳は窓の外を見る。

「……山だ」

 そう呟き様、統は部屋を飛び出す。背後から二人の声が追いかけて来たが、止まろうとはしなかった。

 玄関の扉を勢いのまま開け放ち、転がるように外に出る。降る雨が瞬時に体を包んでも、そのまま駆け抜けた。

 走りながら樹を思った。

 出会った夏の夜の閉じた心。人形のように無表情だった秋の夕暮れ。初めて感情を見せてくれた冬の午後。やっと笑ってくれた春の日。

 そこには啓がいて、雪がいて、理がいて、創がいた。

 子供の頃の思い出は温かく優しく、懐かしくて切ない。現実と照らし合わせると、その余りの違いに泣き叫びたくなる。あの時、誰もこんな未来を思い描きなんてしなかっただろうから。

 雨粒なのか涙なのかわからない。衝動的に掻きむしりたくなる胸の痛みが、悲しいからなのか苦しいからなのかわからない。

 それでも、足はぬかるんだ大地を蹴り続ける。嗚咽が込み上げ、慟哭に変わる。立ち止まり、空を仰ぐと声の限り叫んだ。

「何で……何でなんだよぉーーーっ!」

 打ち付ける雨をものともせず、枯れるまで。何度も、何度も。

 自分の弱さ。樹を守ると言いながら、逃げ場にしていた。

 わかっていた。仕来たりを否定しながら、一番縛られていたのは他ならぬ自分だと。

『強欲だな』

 創の放った言葉の意味が、今ならわかる。何もかもを守ろうなんて、そんな力量もないのに出来ると自惚れていた。

「結局……何一つ守れてなんかいないじゃないか……それでも……変えられると思ってたんだ……」

 啓がいて、雪がいて、理がいて、創がいれば、次の世代から変わると思った。だから自分は樹と村を出ても構わないだろうと、浅はかに考えていた。

「違う……本当は……」

 向き合いたくなかった。許されるなら逃げたかった。

 幼い頃から怯えていた、兄の死の宣告から。

 創がいなくなる。この村から出られなくなる。

 今まで築いて来た啓と理との友情を壊すのが目に見えているのに、雪を妻に迎えるなんて出来ない。それがどんなに脆く危ういものだとしても。

 まして統は、樹を心の底から愛していた。しかし余命いくばくもない創が樹を妻にと願い、周りは進めようとしている。

 今まで我儘一つ言わなかった兄の最初で最後の頼みを、司と静は拒めなどしないだろう。樹自身も、それが運命だと受け入れる覚悟をしていたかもしれない。

「嫌だ……」

 我慢の連続だった記憶が脳の奥底から這い出てくる。

 父に構って欲しかった。母に甘えたかった。兄の体調次第で来てくれるかどうかが決まる学校行事。大きくて長いテーブル、一人で椅子に座り食べる食事。家族全員で何処かに出かけるなど一度もなく、思い出を共有した事もない。

「……違う……違うっ! そんな事を言いたいんじゃないっ……!」

 どろどろとした感情を抑える事が出来ない。それでも、いつか自由になれるならと耐えて来られたのに……!

 樹を失いたくなかった。でも、創がいなくなればと思った事は決してなかった。

「……虫がよすぎたんだ」

 皆が幸せになれる方法を、誰もが納得の出来る道筋を示せると思っていた。自分さえしっかりしていれば、必ず状況は変えられると信じていた。

 都合の良い夢の中にいた。叶える為の努力をしているつもりで、何も出来ていなかった。

「いい子でいるのは……疲れたよ」

 自嘲気味に呟きながら、俯く。足元すらあやふやな漆黒。髪に、肩に激しく刺さる雨。何もかも流れてしまえと願う自分と、逃げてはいけないと諭す自分。

 樹の行方を求めるつもりが、己の思考の海で溺れてしまっていた。

「しっかりしろ……考えろっ!」

 樹は山にいる。だけど何処に? そんなに大きくはなくとも広い範囲になる。

 慎重に集中して見極めなければ、全てを見失ってしまう気がした。そう、真実さえも。

 記憶が戻った樹。12年前の夏の夜は、今と同じく雨が降っていた。ふと小さな違和感に気付き、統はゆっくりと顔を上げる。

「来栖さんの言っていた場所は何処なんだ?」

 雪が発見された洞穴。山神様を奉った祠。子供の頃に啓が見付け、秘密基地にしたのは……?

「あ……」

 閃光に貫かれたような感覚に、暫し呼吸すら忘れる。もし啓が再び戻っていたら、そこに身を潜めているかもしれない。

「樹は啓を探しに? でも、どうして? また何かを思い出したのか?」

 そうでなければ、発作を起こした知の側を離れたりなどしない。まして、自分に何も告げずにいなくなるなんて有り得ない。

 例えようのない不安が次々と押し寄せる。こんな所で立ち止まってなどいられないのに……!

「何をしてたんだっ! 俺はっ!」

 そう叫ぶと自らの頬を殴り、再び駆け出す。

「何があっても確かめるんだ!」

 この数日の間に起きた事件。12年前の事故。そして、自分の運命。繋がっているであろう全てを知る為に。

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