急転

 中々帰らない知が発作を起こしたと知ったのは、その直後の事だった。

 動揺する樹を連れ、統は自宅へと急ぐ。二人で現れると司は眉をひそめたが、やっと落ち着いた知を思ったのだろう。何も言わなかった。

「お婆様」

 傍らに膝を折ると、樹は皺だらけの手をそっと握る。薬のせいか焦点が定まっていない瞳は、ぐるりと一周した。

「……芽」

 空気が凍った気がした。司の表情が微かに動く。

 どう返すのが一番よいのか樹は迷ったが、ふわりと微笑むと優しく告げる。

「ただいま……お母さん」

 知は安堵の表情を浮かべると、安らいだ寝息を立てた。

「二人共、来なさい」

 客間から出ると司に言われた。廊下の曲がり角からは、琺瑯ほうろうの洗面器を手にした静が現れる。三人に気付くと一瞬立ち止まったが、直ぐに近付いて来た。

「知様を頼む」

 短い言葉に受諾の意を込めた礼で返す。静を残し歩き出した司の後に、統と樹は続いた。


 出先から戻ったばかりの司は珍しくスーツ姿だった。窓辺近くにあるコート掛けに上着を預け、スタンドカラーのシャツの第一ボタンを外す。次いで袖口のカフスボタンも外すと、樫の木で出来た重厚な作りの書斎机に置いた。

 その姿勢のまま、何かを考え込んでいる。ソファに並んで座る樹の不安そうな横顔を安心させたくて、統は手を重ねた。

 互いを見つめ、信頼し合っている。そんな二人を窓ガラス越しに見た司は、まるで眩しいものを見てしまったかのように目を細めた。

「樹」

 呼ばれ、緊張した面持ちで樹は司に返事をした。

「記憶が戻ったんだね?」

 その問いに繋いだ指先から動揺が伝わり、統は樹を見つめた。

「……はい。御館様」

 絞り出すような呟きは、確認しようもない己の罪を再び思い出させている。統がそれを仕方のなかった事だと説いても、樹は責め続けるだろう。母と兄の死は自分のせいだと、苦しむだろう。

「やはりそうか……」

 背を向けたまま小さく呟いた声は、哀しみを帯びている。

「芽は……樹のお母さんは私の幼なじみだった」

 記憶が曖昧すぎて、知にすら母と兄の事を聞けなかった少女は息を呑む。統も初めて聞く父の昔話に、耳を傾けるしかなかった。

「私は一人っ子でね。兄のように慕ってくれた芽を血の繋がりはなくとも、本当の妹みたいに大切に思っていた」

 こちらを振り向く事なく話を続ける姿に、微かな異変を感じる。注意して集中して見ていなければ気付けない変化は、司も自分を責めているのではないかと感じさせた。

「あの日、事故が起こった」

 司は窓越しの闇を見る。遠くで空が鳴いている。

「芽と槙……お前の母と兄は私が駆け付けた時には、既に手の施しようがなかった」

 強く目を閉じると、樹は震える。何かを思い出している。

 こんなに側にいても何も出来ない、その事実に統は歯痒さを抱いた。

「お前だけは奇跡的に助かり、知様に引き取られ育てられた」

 何が言いたいのかと、統は司を見る。だが、ガラスに映る表情からは読み取れない。

「樹」

 司は微かに振り向くと、少女を見つめる。

 その姿に芽が重なる。約束を果たす日が来たのだ。

「真実は誰にもわからない」

 その言葉に樹は小さく項垂れると、両手で口元を覆った。泣きださぬよう、必死で堪えている。

 辛くて辛くて……でも、目を逸らさない。もう……逸らしてはいけない。

 全てを受け入れると誓った統は、そんな樹を見守っていた。時は静かに流れた。


「統」

 書斎を後にしようと立ち上がりかけた時、制された。

「話がある」

 不安そうな表情の樹に向かい、司は告げる。

「すまないが、二人きりにしてほしい」

 樹は瞳を伏せると、退出した。

 今、樹を一人にするのは心配だったが、残るべきだと思った。

 司が自分に話がある。それは今の統にとって、決して避けては通れぬ道だと思えた。

 向かい合った時に感じた真摯な眼差しは、皇の血を引く者の宿命。

 樹が逃げなかったように……俺も逃げない! 統は腹を括った。


 二人きりにしてほしい。司の言葉に、樹は書斎を後にした。

 沈黙に包まれた廊下に一人で立つと、この世界がまるで嘘で自分は何だかわからなくなる。軽視していた混乱は、樹を少しずつ侵食していく。

「そうだ……お婆様の所に戻らなくちゃ……」

 一人言のように呟くと知の眠る部屋に向かう為、体を反転させる。長い長い廊下は、いつまでも終わる事のない荊の道のようだった。

 知の休む客間は離れへと続く廊下の手前にあった。小さくノックをする。

「はい」

「樹です。只今、戻りました」

 気配が近付き、扉が開く。現れた静は樹が一人だと気付くと心配そうに瞳を曇らせたが、優しく微笑んだ。

「お帰りなさい。すぐに樹さんの休む部屋を用意するわね」

「いえ、私はお婆様の側にいますので……」

 急いで告げると遠慮していると受け止められたのか、穏やかに、しかし決して譲らぬ力強さで静に見つめられる。

「駄目よ。少しは休まなくては……ね?」

 今も記憶が錯綜し、曖昧にしか思い出せない母を重ねてしまう。胸が熱くなり、その厚意に素直に甘えるべきなのだと反省した。

「ありがとうございます。お願いします」

 安堵の表情を浮かべ、静は部屋を後にする。二人きりになると知の規則正しい呼吸が耳に届いた。ベッドの傍らにある椅子に座ると年月を刻んだ手を包みながら、じっとその寝顔を見つめた。

『芽……』

 朦朧とした意識の底で母を求めていた。記憶を失っていた間、樹は知と辛さを分かち合えなかった。

 どれだけの哀しみを、この小さな体に詰め込ませてしまったのだろう? それとも、まだ母や兄の事を聞きたがらなかっただけ負担は減らせていたのだろうか?

「そんな訳……ない……」

 握りしめた手に力を込めてしまう。まだ誰かに話せたら、辛さも軽減されたのではないかと思った。しかし新たな記憶の中の知は、いつも穏やかな笑顔だった。

 時に厳しくもあった。だけど沢山の愛を注ぎ、ここまで育ててくれた。

「今まで……ごめんなさい」

 樹の頬を涙が伝う。

「でも、これからは……一緒に乗り越えさせて……」

 眠る知から応えはない。それでも樹は決意していた。

 その時、ふと何かが引っかかる。それは小さな刺だ。亀裂が入ったばかりのひびだ。

 握り合わせていた手を凝視する。瞬間、様々な記憶が樹の脳内で弾けた。


 知の手。それとは違う手。

 雨の音。霞む視界に映る人。

 焦げた匂い。燃え盛る塊。

 抱えられながら見た……あの男の最期の姿。


「あ……ああ……」

 激しい雨音が耳の奥で走る。

『樹っ……樹っ!』

 自分を車内から救い出し、何度も何度も呼びかけてくれたのは。

「……どう……して?」

 虚ろな瞳に世界が回る。仏壇に置かれた遺影が過る。

『樹ちゃん、うちの理と仲良くしてくれてありがとう』

 そう優しく微笑んだのは……!

「理さんの……柾のおじいちゃん……?」

 隠れていたパズル。新たなワンピース。

 祖父は若い時に病気で亡くなったと、知は言っていた。

「違う……私、知ってる」

 兄と自分の頭を優しく撫でてくれた大きな手。

「大好きな……おじいちゃん」

 理の祖父と自分の祖父が、何故同一人物なのか? 次々と沸き上がる疑問の嵐の中で、カメラのフラッシュのように眩い光が脳内で瞬いていく。


 横たわる二人。三人の背中。

 抱きしめてくれていた、震える細い腕。

 閉じた心で、それでも見ていた。


「ぎ……しき……?」

 魅入られたように、ふらふらと立ち上がる。行かなければならない。そう、あの場所へ。

 全てを受け入れ、何もかも思い出す為に……!

 だが、それよりも強く樹を突き動かした衝動は兄に会いたい。ただ、それだけだった。


 二人だけになった書斎を深い沈黙が支配していた。

 不思議と嫌ではなかった。統は司を待てた。

 いつもは逃げていた。父の威厳や母の懇願からも。兄の未来や自分の立場からも。

 しかし今は、今だから統は受け入れられる気がした。そうして初めて、自分が大人に近付けた気がした。

 やがて、司が意を決したように唇を開きかける。その事を敏感に察知すると、自然に統は姿勢を正した。

 真っ直ぐに見つめ合う。そこに畏れや照れはない。それ程までに真剣な瞳だった。

「統……」

 けれども、その呼びかけは忙しない足音に掻き消される。扉は前触れもなく、突然開かれた。反射的に顔を向けると、青ざめた静が息を切らせている。

「母さん?」

 驚きで近寄ると、静は統の腕にすがる。

「何があった?」

 司の問いに、静は訴えた。

「みっ……樹さんが……」

「樹? 樹がどうしたんだ?」

 思わず静の両肩を掴むと、傍らの司に制される。

「統、落ち着くんだ」

「ごっ……ごめん……母さん」

 力任せに掴んだ肩から手を離すと、

「何処にも……何処にもいないんです……姿が見えないんですっ!」

 半ば叫ぶように静は告げた。

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