告白
浅い眠りから目覚めた統は寝返りを打った。冷たくなった傍らに心臓が驚く。
先程まで確実にあった温もり。その不在に不安が過る。
脱ぎ捨てた筈のシャツが、きちんと椅子に掛けられている事に気付くと、ベッドから体を起こし手に取る。見上げた壁時計が示している時間に、自分が暫く寝入っていた事実を知った。急いで袖を通すと、ボタンをしめながら階段を降りる。
一階に降り立つと廊下を辿り、台所へと向かう。水滴を纏ったコップがダイニングテーブルに置かれているのを認めると、居間へと歩を進める。
入った途端、開け放たれたガラス戸が視界に飛び込んでくる。近付くと、庭の片隅に立つ樹を認めた。
安堵の吐息を洩らすと、裸足のまま土の上を駆ける。しかし側に来たのに、樹は反応を示さない。そっと手を握ると驚くよりも先に、まるで夢から醒めたみたいな眼差しで、ゆっくりと樹は統を見つめる。
「統ちゃん……」
そう呟いた途端、樹は統の胸に飛び込んでいた。
小さく震える体を、そっと包む。その時、統の鼻先にぽつりと雨粒が落ちて来た。見上げた空は、いつの間にか灰色の雲に覆われている。所々で光を放つ雷に、嵐の予感を覚えた。
「戻ろう」
樹を促す間にも、雨足は次第に強まる。手を繋いだまま歩き出すと、一際大きな轟音が鼓膜を揺らした。
「きゃっ!」
反射的に悲鳴を上げ、樹は両耳を塞ぐ。驚きで音の方角を振り返ると、雷が直撃したのか煙を上げる大木が見えた。本格的な雷雨になると、統は確信した。
その時、二人の間に距離が出来た。こんなにも近く、こんなにも側にいるのに、絶対的に遠く感じてしまったのは気のせいだろうか?
二つに割れてしまった大木から、互いに振りほどいてしまった手へと統は視線を落とす。そして樹を見つめた。
明らかに変わり果てた大木に、その目は釘付けになっている。激しさを増した雨は否応なしに二人を叩いた。
様子がおかしい。雨の滴が滑らかな頬を伝わる。
まるで泣いているみたいだった。しかし双の瞳は大きく見開かれ、唇は小刻みに震えている。
「樹?」
伸ばした手が届く前に、膝から崩れ落ちる。
「樹っ!」
受け止めたが、樹は放心状態に陥っていた。抱き上げると、ぬかるむ庭を統は駆け抜けた。
光ッテタ。大キナ音。
嫌イ。怖イ。
見下ロシタ手ニモ、光ルモノ。
アレハ……刺サルト痛イ、モノ。
居間に倒れ込む形で飛び込む。ぐったりと反応のない樹をソファに座らせると、統は洗面所からありったけのバスタオルを運んだ。
髪、肩、膝、足元にと掛けると自身の事などには目もくれず、冷えきった体を柔らかさで拭う。そして湯を張った洗面器を床に置くと、泥で汚れてしまった足を浸させた。そうしてからやっと、自分も濡れた体を拭き出す。
髪から滴り落ちる雨が静寂に滲みていく中、頭からタオルを被ったまま統は再び樹の足元に屈む。白いバスタオルは清潔な香りを放ち、爪先を拭いてくれている行為は神聖な儀式のように思えて、樹は顔を歪めた。
自分には統に優しくされる資格など、まして愛され、側にいる資格などない。
はらはらと散るように涙が伝う。蒼白い閃光。上がる細い煙。次第に形を整えたパズルのピースは、かちりと音を立てて記憶の底から完成を告げる。
もう逃げられなかった。
「思い出したの……」
降り注いだ声に固まった。何処かで、この瞬間を予期していた。
庭で倒れてしまう寸前に見た樹は、まるで別人の表情をしていた。今まで欠けていた部分が戻った気がした。
辛い過去を思い出し、壊れてしまわないかと不安になる。だが、その瞳は意外な程しっかりと、顔を上げた統を映していた。
視界に差し出された手には、見覚えのある眼鏡。理の笑顔が淡く浮かび、胸を貫いた。
「樹……」
「私が……」
呼びかけると、唇が言葉を紡ぐ。
「……あの人を……殺した」
雷が鳴っていた。息を潜めれば、姿を隠せると思った。
「ママ……お兄ちゃん……」
助けを求めた脳裏に、男に殴られた母と兄の姿が過る。
『俺が母さんと樹を守るから』
そう言って真っ直ぐに自分を見てくれた槙を思い出し、また涙が溢れた。
強くなりたい。そう願った。
激しい雨音が屋根を叩いた。暗闇から伸びてくる大きな手が、樹の小さな体を容易く捕える。
「見ぃ~つけたぁ」
恐怖で言葉にすらならない叫びが吸い込まれ、消えていく。雷光に照らされた男の顔は口角が上がり、まるで絵本で見た道化師のようだった。
抵抗しようにも歴然とした力の差。樹は泣きながらも逃れる為に、必死に身を捩る。
肩に五本の指が食い込み、寝間着の上から羽織っていたカーディガンのボタンが、ぶちりと音を立てて弾け飛んだ。
バランスを失い、冷たい床の感触を衝撃と共に体感する。仰ぎ見た先にいる男から、這いつくばったままで逃げる。
ダイニングテーブルの下に潜り込むと、男は奇声を上げながらテーブルクロスを引き剥がした。大きな音を立て、落下した様々な物が床に散乱する。
耳を塞ぎ、竦み上がる樹の目にきらりと光る物が映ったのは、ほんの一瞬だった。
獲物を追い詰めた喜びに陶酔している男は気付いていない。その隙を突いて、樹は思い切り手を伸ばした。
何かが指先に触れる。それを入手したと同時に足を掴まれ、ぐいと引きずり出された。
小さな体は勢いよく床を転がり、男との間に僅かながらも距離を作り上げた。痛みを堪えながら、樹は無我夢中で構える。
互いに認識した物。男の嘲笑が、アイスピックの銀の針に響く。
「それで俺を刺す気?」
威嚇にすらならない。樹は絶望した。
もう逃げられない……! 諦めの気持ちが、ひたひたと心に忍び込む。
男はあっさりと針先を片手で掴むと、奪おうする。樹が抵抗したその時、予想もしない事が起こった。
突然、大きな体が覆い被さるように傾く。次いで男の手から自由になったアイスピックが、左脇腹に吸い込まれていく。
驚きで見開かれた男の瞳には、泣き震える幼女の姿が映っていた。そのまま数歩後ずさると、糸の切れた操り人形の如く仰け反る。後頭部を強打した鈍い音が響き渡ると、動かなくなった。
「一緒に来てほしいの」
頷き、樹の後に付いて行くと台所に着いた。入口で統を待たせ、少女は壁際にある食器棚の前に進む。そして、ゆっくりと膝を折りながら屈んだ。
さらりと揺れる髪に、今は顔を覗かせた月の青白い光が注がれる。明かりを灯さなくとも、その一連の動作はしっかりと統の目に焼き付いた。
立ち上がった樹は、静かに振り返る。再び差し出された手に、ある物を乗せて。
居間に鎮座する、アンティークの置時計。秒針の音が、やけに大きく響いて聞こえた。
「ありがとう」
温かなココアが入ったカップを受け取ると、大事そうに両手で包む。その姿がいじらしくて、統は自らのカップに口を付けた。
二人の間にあるテーブルの上に置かれた物。それは12年前、樹が着ていたカーディガンに付いていたものだった。
ドーム状に丸みを帯びた裏足のウッドボタン。これを踏み付け、男は足を滑らせた。
普段なら有り得ないと思う。しかし豪雨の中、土足で侵入した靴は濡れて湿っていただろう。
凶行に駆り立てられる程に欲した者が、やっと手に入るという優越感が油断させていただろう。
幼い少女には何も出来ないと、見くびっていただろう。
考えれば幾らでも推測出来た。だが結局、真相はわからないのだ。その場にいた樹でさえも。
「あの時、私が余計な事をしなかったら……」
ぽつりと樹が呟いた。
「ママとお兄ちゃんは……死なずにすんだのに……」
心の底から吐き出した思いは、堰を切って溢れ出す。
「私が抵抗しなければ……我慢すればっ! 二人はあんな目に遭わなくてもすんだのに……!」
慟哭だった。かたかたと震えたカップは、スローモーションで手から滑り落ち、カーペットに悲しみの渦を描く。
そんな事はない! そう否定したかった。しかし、今の樹に慰めの言葉は意味を持たない。無力を伴った喪失感に襲われながら、それでも統は傍らに寄り添った。
尚も激しく震える肩に、そっと触れる。祈るように組んでいた両手に顔を埋めたまま、樹は号泣していた。自分を責めていた。
「違う……違うの……」
樹が
「本当は私、後悔しているの……」
その先を告げれば、この思いは終わりを迎える。
「どうして、あの時に……」
きっと統は幻滅する。それでも芽生えてしまった闇を隠して、一緒に歩いて行く事など出来ない……!
「あの人を……ちゃんと殺さなかったのかって……!」
長い長い沈黙だった。やがて呆れたような溜め息。
「俺って……そんなに頼りないか?」
恐る恐る顔を上げた樹の目は、驚きで見開かれている。
「樹がどんな気持ちで今の思いを言ってくれたか、俺は俺なりに理解してる。だから心配しなくていい」
真っ直ぐな瞳で見つめられ、樹は消えてしまいたくなる。
「何があってもどんな事が起こっても俺は変わらない。ずっと側にいる。全部受け止める」
「でも……」
言いかけたが遮られる。
「相応しくないとか仕来たりがとか言わないでくれ」
一転して哀しげな眼差しに、樹は胸を突かれる。
「ずっと前から決めていたんだ。だから……」
後は言葉にならない。抱きしめられた腕の温もりに、樹は微睡むような幸せを与えられる。
「こんな小さな物で揺らいだりなんかしない」
統は、ボタンを睨み付ける。
決めていたんだ。初めて笑ってくれた時から。
『お願いがあるんだ』
遠い日に約束した。
『僕の代わりに守ってあげて』
幼い時の記憶が、樹を大切に思う気持ちが、統を強くしていた。
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