創と仁

「男の子だ。創はお兄ちゃんになったんだよ」

 父に教えてもらえた時、嬉しくて仕方がなかった。

 弟が出来た。お兄ちゃんになるんだ。一緒に遊びたい。

 僕を好きになってくれるかな? 早く元気にならなくちゃ。

 静寂な離れの部屋から元気に泣く声を聞く度に会いたかった。

 小さな体を抱きしめたかった。


 肌を刺すような冷え込みに咳が止まらなくなった冬のある日。処方してくれた薬を飲むと、大分楽になった。

「温かくして沢山眠れば大丈夫だ」

 額に置かれた大きな手。産後の母に無理をさせたくない父は、代わりに側にいてくれた。独占出来る優越感に、熱に浮かされながらも浸っていた。

 数日後、赤子を抱いた母が、わざわざ訪ねて来てくれた。その頃には微熱は続いていたものの、咳は治まっていた。

「創さん。体調は大丈夫?」

「はい。お母さん」

 返事も上の空、微かに見える寝顔に興味を奪われていた。静は母性に溢れた笑顔を二人の息子に注ぐ。

「統よ。仲良くしてあげてね」

 小さな手。すこやかな寝息。吸い寄せられるように腕を伸ばした。

 瞬間、奪うように司が統を抱き上げた。呆然とする創に気付くと息を呑む。

「風邪がうつるといけないからな」

 ぎこちない笑顔で誤魔化してもわかる。目を見ればわかってしまう。

 父は自分が弟に触れる事を嫌がったのだ。

 静の顔は見れなかった。母にも拒まれたらと思うと怖かった。


「お父さんは統の方が大事なんだよ」

 また寝込んでしまった気怠い体をおして、庭を眺めていた。

 書机に広げた参考書をしまう手が止まる。言葉を見付けられず、仁は俯いた。

「そんな事はないさ」 

 辛うじて紡いでみせても何の意味も持たない。慰めにもならない。創の心には響かない。

「仁さんは優しいね」

 男でも見とれてしまう美しい微笑みに目を奪われる。余りにも儚くて夕焼けの橙に溶けてしまいそうだった。

 そんな事をいつの間にか考えていた自分に驚く。そして何故だか急に恥ずかしさが込み上げ、仁は視線を逸らした。

 守りたいものがあった。だから創の側にいた。それでも時折感じる感情を、仁は認めたくなかった。

 帰り支度を終えた背に向け、囁きに似た呟きが降り注ぐ。

「仁さんが……」

「え?」

 聞き返したが、その顔は既に己の世界に陶酔していた。

 仁は小さく笑むと、音も立てずに去って行った。

 遠退く気配に届かぬよう再び呟く。

「仁さんが僕の本当の兄さんだったら……よかったのになぁ……」

 傾いた西陽に照らされた表情は影になり、見えない。

「ふふ……」

 不意に笑い出したが、その声は震えていた。

 誰もいない。誰も知らない。その頬に流れるものを。

 創の抱えた……圧倒的な孤独を。


 その日は小学生になった統の初めての授業参観日だった。

 誰もいない。布団から起き上がると、創は離れの部屋を後にした。

 熱に浮かされた頭で、ふらふらと廊下を歩く。使用人達は昼食の時間で食堂に集まっている為、容易に一階奥にある母の部屋に辿り着けた。

 そっと扉を開くと、華奢な体を滑り込ませる。窓辺に飾られた水仙の香りが心を慰めたけれど、その意志は固かった。

 入って直ぐの壁際に設えられた、両開きの書棚の前に立つ。すると、自分を心配しながらも出かけていった静の顔が過った。

 胸の奥が、ずきりと痛む。けれども手を伸ばし、戸を左右に開く。そして、一冊の厚いアルバムを取り出した。ずっしりとした重みは、それだけ母の今までの人生を凝縮して詰め込んでいるような気がした。

 幼かった少女が美しく成長していく姿が、丁寧に残されている。思わず口元が綻ぶも頁をめくろうとした指先が、ぴたりと止まる。視界には一枚の写真があった。

「あなたが……」

 震える呟きは、主のいない部屋に消えていく。

「僕の……本当のお父さん?」

 小さな手の甲に、ぽとりと滴が落ちた。


 知ってしまった。仁に聞いて、全てを。

 その時、創は8歳だったが理解出来てしまった。

 いつも勉強を教えてくれた仁。真実を教えてくれた仁。

 何でも言う事を聞くと約束してくれた仁。

「ふっ……ふふ……」

 堪えきれず、笑い声を上げる。可笑しくて可笑しくて、このまま狂ってしまえたらと思った。

 そうしたらどんなに楽だろう? 脆く壊れてしまいそうな体も、闇に囚われてしまいそうな心もいらない。何も考えずにすむのなら、どんなにか……!

 それでも思考は止まれはしないのだ。考える時間だけは無限にあった。それに本当の事を知りたいと欲してしまったのは、他ならぬ自分自身だった。

「もう……いいのに……」

 何度も死の淵を彷徨い、その度に涙していた母が不憫で仕方がなかった。実の子でもないのに受け入れてくれた父が不思議だった。

 そして、統を思った。自分にないものを全て持ち、これからも手に入れられ続けるであろう弟が羨ましかった。

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