真実~20年前

「じゃあ、また」

 優しい婚約者は門限五分前には、必ず家に送り届けてくれた。

「はい」

 幸せそうに微笑む静は、その時二十歳だった。

 もうすぐ結納を交わし、祝言を挙げる。その時までは、司に大切にされている喜びで満ち溢れていた。

 思えばあの時が、一番幸せだったのかもしれない。今も繰り返す悪夢にうなされる度、そう思った。


「おかえり」

 暗がりから届いた声に、心臓が跳ねる。振り返ると、静は安堵の吐息を洩らした。

「兄様」

「司君は?」

「たった今、お帰りになりました」

 話しながら庭を横切り、共に屋敷へと向かう。

 長身で色白の青年、やまとは静の兄だが、生まれつき体が弱く、元々細身だった体が近年では更に痩せてしまっていた。

「お休みにならないと」

 咳き込み、苦しそうに丸められた背中を労るように擦る。

「静に会いたかったんだ」

 心配そうに自分を見つめる妹に、和は儚く微笑んだ。


「和様は……」

 熱で朦朧としながらも目を覚ました自分に、主治医は気付いていない。襖の隙間から零れる微かな灯りは、まるで導きのように和の感覚を研ぎ澄ませた。

「この夏を越えられないかもしれません」

 覚悟していた。幼い頃から弱すぎた体といたから、いずれ来るとは思っていた。

 しかし、涙はとめどなく溢れる。それでも、また意識は底へと誘われてしまった。


 和には大切な妹がいた。その妹、静はもうすぐ嫁ごうとしている。

 わかっている。実の妹に抱いたこの感情が、許されない思いなのは。

「お前の花嫁姿は、きっと美しいだろうな」

 せめて見届けたい。いや、本当は見たくない。

「私を忘れないでおくれ」

 常に側で世話をしてくれている静は、傍らで眠りに落ちている。倒れた手元に転がる茶碗には、和の常備薬である睡眠剤が溶けて消えていた。

 抱き上げると、己の非力さに苦笑する。同時に腕の中で安らかな寝息を立てる静に、愛しさが募る。

 夕方、目にした光景が脳裏を過る。薄明かりの下、幸せそうな恋人同士の重なり合った影。

「自覚していなかった。でも……」

 和は固く瞳を閉じた。

「私は嫉妬したんだ」

 親同士が決めた婚姻でも、妹を本当に愛してくれている誠実な青年。

「でも……私も負けない位に……いや、きっとそれ以上に愛している」

 既に整えられていた寝間に静を横たえると、その淡い唇を指でなぞる。それでも眠りの淵に沈んだまま、夢を見続けているようだった。

 禁断の扉が開く。誰も知らない夜が深まる。

「愛している。静、お前だけを……」

 純粋に欲した。傲慢に奪った。


 そして和は、若くして世を去った。儀式を受け入れる事を、自らの意志で固辞して。

 嘆き悲しむ両親の姿を見た静は、沈黙を貫く決意をした。何よりも尊敬し、大好きだった兄を思うと口が裂けても言えなかった。

 憎んだり、恨んだりする次元にまでいきたくなかった。そうなってしまった自分を想像し、恐怖した。しかし無理に捩じ伏せた忌まわしい記憶は、少しずつ静を蝕んでいった。


「おめでとうございます」

 祝福され、静は息を呑んだ。

「……えっ?」

 思わず声が上ずる。しかし目の前にいる医者は、その様子には気付かなかったのだろう。穏やかに微笑むと、こう続けた。

「三ヶ月目に入った所ですね」

 遠くで蝉が鳴いていた。


 診察室を後にすると、歩きながら涙が溢れた。遠く離れた町にある小さな産婦人科にわざわざ来たのは、この事を誰にも知られてはいけないからだ。

 授かった命は、愛する司との証ではない。

「どうして……?」

 激しい動揺で目眩がし、全てが暗転する。薄れゆく意識の底で誰かの声が、次いで駆け寄る足音が聞こえるも、静はそのまま瞳を閉じた。


 目覚めた時には、見慣れた天井だった。窓の向こうには、夕暮れが迫っている。まだ状況を把握出来ず、視界を巡らせると母がいた。

「静……」

「御母様……」

 隠せなかった。涙が零れる。

「私……どうしたら……」

 しかし最後まで紡げぬ内に、扉の向こう側で激しい音が響いた。

「婚約しているとはいえ、嫁入り前の娘に何て事をしてくれたんだっ!」

 厳格な父の怒声。驚きで母を見ると、全てを察した静は跳ね起きる。

「静っ! お待ちなさいっ!」

 引き止める声を振り切り、扉を開く。その先に怒りに震える父と、呆然と見上げる司がいた。

「……ああ……ああ……」

 静は慟哭した。

 知られてしまった。一番、知ってほしくなかった存在に……愛する司に……自分が身籠っていると知られてしまった……!

 まだ怒りが収まらないのか、司の胸ぐらを掴むかの勢いで、父が一歩前に出る。反射的に静は、二人の間に割って入っていた。

「御父様っ! 止めてっ! 司さんは悪くないっ!」

 そう、司に非はないのだ。

 あの夜、大好きだった兄が男として自分に触れた。その事実を静は封印した。

 兄は余命いくばくもなく、どうしようもなかった。そして逝ってしまった。

 狡いとか酷いとかではなく、そんな兄が哀れだった。

 そこに愛などなかった。

「申し訳ありませんでした」

 泣き震える静の耳に、司の謝罪の言葉が響く。驚きで振り返ると、床に額を付け、頭を下げている姿があった。

「司さんっ!」

「全て私の責任です」

 時が止まった。父と母の視線が青年に注がれる。

「静さんとお腹の子を必ず幸せにします。どうか結婚をお許し下さい」

 司を見つめていた父の目が、複雑な色を讃えながらも和らいでいく。

「当たり前だ」

 それは許しを意味していた。

「よかったわね、静」

 身重となる娘を労りながら、胸を撫で下ろす母の笑み。

 全てを話そうとしたが、静は司に制された。

 何も言わなくていい。その力強い眼差しに、静は真実を呑み込んだ。

 今後についてよく話し合うようにとだけ残し、両親は席を外す。

 二人きりになり、誰にも明かしていなかった過ちを最も伝えたくはなかった司に、静は告白した。

「そうか」

 司は小さく呟いた。

「私……堕ろします」

 震える声で恐ろしい考えを口にし、また静は泣く。

 本当はそんな事をしたくない。しかし、お腹の子は司の子ではない。許されるわけがない……!

「一緒に育てよう」

 苦悩する静に、司は優しく微笑みかける。

「司さん……」

  苦しくて苦しくて、呼吸すら忘れそうになる。だが命は芽生え、確実に成長しているのだ。

「授かった命を、私や君がどうにかする権利はない。そうだろう?」


 和の喪があけると直ぐに、二人の祝言が行われた。

 そして、静は無事に男児を出産した。

 駆け付けた司は、妻の腕の中で眠る小さな命に笑みを溢した。

「名前、決めたよ」

 そう告げると、静を見つめる。

「創と書いて、はじめ。どうかな?」

 創が誕生した。しかし生まれながらに、その体は弱かった。それが遺伝からなのか、濃密すぎた血ゆえなのかはわからない。

 静は更に自分を責め、創に全てを捧げる決意をした。司は愛する妻と子の為に医学を極めながら、村に尽力した。

 全ては上手くいく。そう信じていた。

 やがて季節が巡り、静はもう一つの命を宿した。

 そして冬の寒い朝、統が誕生した。

 少しずつ少しずつ……何かが軋んでいった。

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