真実~綾部
ある人物を疑っていた。彼は余りにも自然に事件に関わりすぎている。その事を感じてしまった時から、違和感が拭えない。
関係者なのだから当たり前だ。そう思っても沸き上がる疑問。では何故、あの時に誘導するような行為をしたのか?
「橘」
綾部は友の名を呟いた。
連日の捜査の疲れを少しでも取り除いて欲しいという司の計らいで、綾部は皇家の浴場を貸してもらう事になった。
「御案内します」
意外な事に、出迎えてくれたのは統だった。司や静についてそれとなく触れると、その表情は曇る。
「兄が発作を」
気丈に振る舞う姿に、それ以上は聞けなかった。
少年の中にある陰。来栖が心配する気持ちが、少しだけわかった気がした。
浴場の手前で統とは別れる。引戸を開けると、広々とした脱衣所に驚いた。一人でいるのは心許なく、急いで掛け湯をすると湯船へと浸かる。心地よい温もりに、思わず吐息が溢れた。
よく見渡せば、大きな窓の向こうには丁寧に手入れをされた小さな庭園があり、目隠しの役割を果たしている。その先には更に囲いがあり、遥か奥には山々が見え、まるで高級旅館の内風呂のようだった。
雄大な自然に癒されながら四肢を伸ばすと、先程の事を再び考える。だが疲れた脳では、どうしても判断が鈍る。まして同期であると思うと、気が沈んだ。
たまたまだった。仁が、この事件に関わるのは必然で偶然ではない。そう思えば、疑う必要などなくなる。
なのに何故なのだろう? この胸の奥でざわめくものは。綾部は瞳を閉じた。
「刑事の……勘?」
その自惚れに苦笑する。まだまだ半人前で、来栖から沢山の事を学んでいる身だと反省した。
気持ちを切りかえるべく、熱い湯で何度も顔をゆすぐ。そして風呂から上がると、身支度を整えた。
冷えた麦茶が用意されていて、気持ちが和む。ありがたくいただいていると、統が現れた。挨拶を交わし、綾部は皇邸を後にする。
早く仮眠を済ませ、交替しないといけなかった。その前に風呂を終えた報告をしようと、止めてあった車に向かおうとする。
歩きかけ、反射的に身を隠した。
影が動く。仁だった。周囲を警戒している。
来客用駐車場にある一台に乗り込むと、静かに走り去った。
何処から来たのだろうと、歩いて来た方角を見る。その先には記憶が確かならば、離れがあると思い出した。
暫しの峻巡。綾部は後を追う事にした。
仁の運転する車が去ってから数分経っていたが、暫くは一本道が続く為、見失う事はないだろうと思った。
「どうして離れに?」
まるで人目を避けるみたいだった。
『兄は学校に行けなかったので、橘先輩が勉強を教えに来てくれていたんです』
かつて統は、そう言っていた。だが同時に、先程の姿も過る。
『兄が発作を』
深く考えるよりも早く、停車している一台を見付けた。自ら運転していた車を手前で止めると、音を立てぬように降りる。近付いてみたが、既に仁の姿はなかった。
何処に行ったのだろう? 答えは直ぐにわかった。
「山……?」
綾部は見上げた。そこにそびえるのは一昨日、榊啓を捜索した場所だった。
来栖に指示を仰ぐべきだろうか? しかし、体はもう動いていた。
確証が何一つない今、まずは自分で確かめるべきだと思った。
まとわりつく何かを感じてしまうのは、この闇のせいだ。
せめて月明かりでもあればと思うが、先程の穏やかさが嘘のように雲が立ち込め出している。
雨が降らなければいいと思ったが、念の為に車中にあったレインコートを身に付けて来た。
湯冷めを避け、体温を維持する目的もあったが、肌寒さは少しずつ綾部に忍び寄る。
ひんやりとした澄んだ空気は癒される筈なのに、単独での行動からの心細さか、緊張で体が強張った。それでも何故か思う。
「橘は……あそこにいる」
記憶を頼りに山道を急ぐ。仁がいると思う場所。それは榊啓がいたと思われ、そして椿雪を保護した洞穴。
あの時の事を思い出すと胸が痛む。村一番と謳われる美しい少女の首に残る残酷な痕。
一命を取り止めたのは奇跡に近く、だが意識は戻っていない。
やがて綾部は自分の考えが間違っていなかった事を知る。僅かに溢れる灯りに、息を殺しながら慎重に近付く。
その時には雨が降り始めていた。
「落ち着け、……」
仁が誰かに話しかけている。しかし離れているせいなのか、声を潜めているせいなのか、最後まで聞き取る事が出来ない。
「……俺が……俺が雪をっ!」
続いて届いたのは、痛々しい程の叫び。聞き覚えのないものだった。
そっと覗き込み、目を見張る。
「……榊……啓?」
写真でしか見た事のない容疑者が、そこにいた。どんなに捜しても見付からなかったのは、仁が手助けをしていたからではないかとの疑いが、一瞬だけ過る。
綾部は更なる情報を得る為、二人の様子をじっと窺った。
「大丈夫だ。雪ちゃんは助かる」
仁の言葉に違和感を抱く。啓を落ち着かせる為とも思えたが、その声には不思議な自信が満ちていた。
「いざとなれば儀式を行えばいい」
儀式。得体の知れない表現。胸の奥が騒ぎ出すのを、綾部は止められない。
「器さえあれば、雪ちゃんは助かるんだ」
「止めて下さいっ!」
綾部が彼らの会話の意味を考えるよりも早く、悲痛な声音が深い闇を裂く。
「もう沢山ですっ! こんな苦しみを雪にも味あわせる位なら、共に死んだ方がましですっ!」
榊啓は椿雪に好意を抱いている。村の一部の若者や噂好きな婦人達は、口を揃えて言っていた。
報われない恋なのに。雪は統の許嫁なのに、と。
一連の事件が何故起こったのかが、綾部の中で段々とまとまりつつあった。
雪は統を好きだった。しかし統が誰を一番大切に思っているか、それは綾部の目から見ても明らかだった。
複雑な恋愛感情の交差。聞き込みをした中、幾つか引っかかっていた事を思い浮かべる。
それは樹を余所者として敬遠する村人達が多かった事。だが啓と理は偏見なく接していたと、何人かの証言を得られている事。昔は雪も樹と仲良くしていたが、最近では一緒にいる所すら見かけなくなったという事。
そんな啓が何故? 恋敵の統に対する見せしめだとすれば辻褄は合う。しかし、全てが椿雪の為だとしたら?
恋は人を狂わせる。そんな事件を今まで何度か見聞きして来た。だからこそ樹の受けたショックは大きい。まして啓同様、親しく接してくれていた理の死により更に苦しんでいる。
それは統も、意識の底を彷徨う雪も同じだろう。
では何故、雪を? 啓は雪を愛していた筈だ。だが先程の言葉から察すると、啓が雪に手をかけた事になる。
姿を見せ、説明を求めるべきだろうか? それとも一旦、署に戻り応援を呼ぶべきだろうか? しかし、その間に啓が逃亡したらどうする?
「こんな時、来栖さんならどうしますか?」
一瞬だけ、目を閉じる。
「きっと……こうしますよね?」
呟くと、綾部は決意した。
「儀式なんてしても、意味がないんですっ!」
突如、狂ったように啓が叫ぶ。
「繰り返される
喰う。状況が理解出来ず、飛び出しかけた綾部の足は固まる。
「あの時、雪の事も俺は喰おうとしたんですっ! 啓の時みたいにっ!」
「理っ! 自分を責めるなっ!」
重なった仁の声に、動けなかった。脳内で様々な情報が単語となり、一気に集約する。
【理】
【儀式】
【器】
【頭部のない遺体】
【四人の幼馴染み】
【杠樹】
【雪の願いを聞いた啓】
【樹を守り死んだ理】
かちりと音を立て、全てがあるべき場所に収まった。
「俺は理じゃないっ!」
再び啓が叫ぶ。
「啓でもない……槙なんだっ!」
槙? 初めて耳にする名に、綾部は混乱する。
「仁さん、俺を殺してくれ……このままでは、この姿すら維持出来なくなる……きっと俺は使いになってしまうっ!」
使い? 何が何だかわからなくなる。だけど一つだけ、はっきりとしているのは榊啓を確保するべきという事。綾部は今度こそ毅然と立ち上がりかける。
清廉な空気を縫うように忍び寄っていた気配に、気付いた時には遅かった。背後を取られていた。
「あのまま帰れば、よかったのに」
その声を聞いた事があるような気がしたし、全く知らないような気もした。
訓練された素早い動きで構えを取ろうとしたが、後頭部に衝撃が走る。
薄れゆく意識。倒れた反動で見上げた先に……
皇創が立っていた。
現れた人物の名を洞穴の中にいた二人は、同時に呟いた。手にしていた石を放り投げると、創は無邪気に微笑む。
「発作を起こしたんだろう? 大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。相変わらず心配性だね。それよりも仁さん。わざと綾部さんに尾行させた……とか?」
綾部と耳にし、仁の表情が変わる。入口に佇む創の脇を抜けると、雨の中へ飛び出した。そんな仁の後を槙も追う。
「その人は?」
「ああ。刑事さんだよ」
悠然と二人の背後に立つ青年の言葉に、槙は息を呑んだ。
「刑事?」
仁は硬い表情のまま、倒れたままの綾部の傍らに屈む。
「手加減したから気を失ってるだけだと思うけど」
創は屈託なく笑い、そして仁にだけ聞こえる位の声で囁く。
「でも、死んじゃってたらごめんね。仁さんのお友達、なんでしょ?」
「向こうで話そう」
促され、創は苦笑した。
「雨、すごいのにな」
不安で押し潰されそうな啓の姿が、残像のように立ちつくしていた。
「綾部の事は誤解だ。俺は本当に気付いていなかった」
「わかってるよ」
仁の必死さに、創は微笑む。
「仁さんは僕に逆らえないもの。僕を困らせたらどうなるか……よく知ってるでしょ?」
幼少から病弱で寝込んでばかりだった。でも、その中で培われた稀有な力で、人の痛みを汲み取っていた。見ていて心配になってしまう程、頑張っていた。己の宿命と戦っていた。
『仁さん、いつもありがとう』
別れ際には儚くも美しい笑顔で見送ってくれた。
しかし、今は違う。自分の知っている創は全て幻で、目の前で雨に打たれながらも冷めた瞳で、口角を上げながら意地悪く笑っている。それが本当の姿だったのではないかと思えて、怖くなる。
だが仁は、創にある事を頼んだ。その願いを聞き届けてくれるなら、何でもすると約束した。
創は知りたい事があると告げた。仁は彼の求めた真実を探り、伝えた。そして、互いの願いは叶えられた。
それから創は確実に変わった。その時になって初めて、自分がどれだけ大きな過ちを犯してしまったのかと仁は気付いたが、全ては遅すぎた。
「綾部をどうする気だ?」
「どうって……僕に言わせるの?」
身震いしそうな程の冷たい響きだった。
「知りすぎた者を始末する。それが橘家の務め、でしょう?」
聞かなくてもわかっていた。それが自分の運命だと。けれども、こんな自分にも友と呼べる者がいたとしたら……それは綾部だけ、だったのだ。
「仁さんが出来ないなら、槙にやらせるよ?」
創の命令は残酷だ。
「槙は……お前の友達だろう?」
絞り出した訴えは鋭く返される。
「創の友であって私の友ではない」
悲しすぎて目を伏せた。そうだ。創の中には別の人格があったのだ。
いや、そもそも人格と呼んでいいのだろうか?
人ならざる者。創を媒介にし、山から自由に人間界に降り立つ。村人達はそれを山神様として、崇めている。
神なのか、それとも創が生み出した産物なのか。何が正しくて、何が間違いなのか、感覚が麻痺してしまった仁には、わかるはずがなかった。
皇、椿と並び、遥か古から続く橘家は村を守護する役目を担っていた。長い年月を経て、やがて村に常任する駐在員となった。
『仁』
大きくて温かな掌が、くしゃりと髪を撫でる。
『お前は私の後を継ぐんだ』
たった一人の息子。しかも長子として生まれた時から、将来は定められていた。警察官として経験を積んでも、村に戻る事が義務付けられていた。
選択肢はなかった。この体に流れる血に逆らえなかった。
それでも夢見た事がある。ここから離れ、自由になった自分を。
何にも縛られず、誰にも咎められず、思うままに生きていく人生を。
だが、全ては決まってしまっていた。進むべき道は一本しかなかった。
あの12年前の夏の夜に。
仁は早くに母を亡くしていたが、父に精一杯の愛情を注がれ、育てられた。
男親で不器用ながら、頑張ってくれていた。その事には今でも感謝している。尊敬もしている。しかし当時はまだ幼く、やはり母が恋しかったのだ。
『仁君』
その人はいつも優しかった。
『環と作ったの。沢山あるから、駐在さんと食べてね』
手にしていた可愛らしい柄の小さな紙袋を受け取ると、いつも我慢出来ずに中を覗いてしまった。甘いクッキーの香りに、腹の虫が素直に反応した。
『ありがとう!』
『どういたしまして』
その人の笑顔が大好きだった。一番身近にいてくれた年上の女性だったから、母親を重ねてしまったのかもしれない。
『仁君』
いつしか名を呼ばれる度、小さなときめを憶えていった。初恋だった。
しかし彼女はある日突然、消えてしまった。
鈍い痛みから覚醒させてくれたのは、頬を叩く雨粒だった。低い呻きを洩らしながら体を起こすと、自分が見慣れない場所にいる事に気付く。
「ここは……?」
視界すら覆う激しさに、何とか目を凝らす。そして闇の中、対で光る赤い目に綾部は囚われてしまった。
許してくれなんて言わない。知りすぎてしまった者を排除する。それが例え、友だとしても。
呪われている。流れる血も、村の仕来たりも。それでも……守りたいんだ……!
「うわぁぁぁあああっっっ!」
純粋な恐怖。防衛本能からの絶叫。刑事だから、男だから、そんなものを遥かに凌駕する圧倒的な絶望。
逃げ惑う間にも数多の傷が体に刻まれていく。そして痛恨の一打ともいうべき衝撃と共に体が宙に浮き、奈落へと落ちていった。
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