真実~理・啓・雪

「いったぁ~い」

 その子はわがままだった。

 自分の容姿に自信を持ち、それを扱う術を既に知りつくしていた。

「見せて」

 擦りむいた膝を無防備に見せるのは、自分に興味があるのかを試しているからだ。

「ほら、もう痛くないだろ」

 だけど大人達には、微塵もそんな事は感じさせない。

 傷口に貼り付けた絆創膏を一瞥すると、

「ありがとう。理」

 天使の笑顔を浮かべるんだ。


 雪が実の妹だと知った時には、もう恋をしていた。

 理として生きていたのに槙として雪を見つめていた。

 許されない思いでも何も知らずにいた頃は、好きだと思う位は自由ではないかと思っていた。

 だが育ててくれた祖父は、いまわの際に本当の父親は椿忠だと教えてくれた。

 器だけでなく、この体に流れる血すらも繋がっている。笑うしかなかった。

 雪が統に恋をしていた事は、幼い時から気付いてた。彼女の瞳は常に彼だけを追っていたから。

 でも統は病弱な創に代わり、樹の側にいてくれた。

 樹は知らない。何も知らない。それでいい。あの雨の夜は忘れていい。

 もし少しでも思い出しそうになったら、例えどんな手段を使ったとしても全力で阻止する。

 それが樹、今のお前にしてやれる唯一の兄らしい事だから。


 艶めく黒髪、涼しげな目元。

 兄妹だというのに、雪とは余り似ていなかった。それはかえって好都合だった。

 雪にだけは知られたくない。決して交わる事のない運命だとしても、ただ側で見守れればいい。

 真意を隠す為にかけた眼鏡は、視力が落ちたせいだけではない。

 その強い眼差しに全てを打ち明け、赦しを乞う自分を抑える為だ。思いの丈を伝えてしまいたくなる衝動を戒めるかせだった。


「理、医学部行くの?」

 長い髪を風になびかせ、愛らしく首を傾げる。淡い香りに視線を逸らす事しか出来ない。

「将来的には、かな。今は先立つものがないから、働いて貯金をしてからだね」

「あら、でも御館様があなたが成人するまでの面倒をみて下さるって、私の両親から聞いてるわよ」

 それは違うよ、雪。

 表向きは皇家が支援を申し出てくれている形を取っているけれど、金銭的な面だけでも力になりたいと言ってくれているのは君の両親……正確には椿忠なんだ。

 かつて母は君のお父さんと結ばれた。そして同時に親友である君のお母さんへの罪悪感から身を引いた。しかし、その時には俺を身籠っていたんだ。

 君のお父さんが、気紛れで母を抱いたのではないと信じたい。だって俺は見ていた。落ちていきそうな意識の底、何度も何度も名を呼び、涙していた姿を。

 後に真実を知り、あの時の事を思い出したんだ。

「やっぱり……本当の父さんなんだな」

 泣き笑いの表情で小さく呟く。

「だって、あの時……母さん……幸せそうに笑ってたんだ」


「よっ! 御二人さん」

 声の主を見て、一瞬の嫌悪を抱く自分を恥じた。

 榊啓。理の幼なじみ。

 彼もまた雪に恋をしていると気付けたのは、同じように見つめ続けていたからだ。そして、その時から少しずつ距離を取ってしまった。

 男の目から見ても容姿に優れ、憧れていた女生徒達も多かった啓。

 けれども、その前には常に雪がいた。時折だが、樹も傍らにいた。

 この村で圧倒的な美しさと存在感を放つ雪と、儚げで神秘的な何かを感じさせる樹に、太刀打ちしようなどと考える少女はいなかった。

「姫、今日もお美しい」

「言葉、薄い」

 啓が囁くと、雪は軽く睨んだ。

「女の子はね、最初は啓みたいに格好いい……あ、私はそう思ってないけどね。とにかく、そういう人に惹かれちゃうんだけど、最終的には真面目で誠実な人を選ぶの。わかる?」

 攻撃的な発言にも笑みを絶やさない。それで関わりを保とうとしていた。

 本当はそんな性分ではないのに、軽薄さを装う事で構ってもらえると信じていた。不器用な愛の形だと見ていて切なかった。

「つまりは統ちゃん、みたいな?」

 口調は砕けていたが、目は笑っていなかった。啓も雪が統の事を好きだと知っていた。

「違うわよ」

 きっぱりと雪は即答する。

「真面目で誠実といったら断然、理。知らないの? 理のファンは多いのよ」

 表情が歪み、こちらに一瞥を投げかける。あくまで雪には気付かれぬように。

 嫉妬だ。統には敵わない。でも他の男の名を口にするのは、決して許さない。それが……友達でも。

 恋は人を狂わせる。親友だと思っていた二人の間に溝を作る。そんな脆くて不安定な関係を繋いでいてくれたのは、統だった。

 皇統。無意識のカリスマ性。清らかで公平。

 妹が愛した男……よりにもよって二人共、だ。

「どうしたら……一番良かったんだろう?」

 統に尋ねたくても、尋ねられなかった。何度も何度も呑み込んだ。

 だから、しんしんと胸に降り積もってしまった。


 どうしてこうなってしまったのだろう? 啓が樹を犯そうとした。

 理由は至極単純で明快で残酷だ。

 雪が望んだ。その願いを叶える為だけに啓は行動を起こした。

 何て事だろうか……やめろ……やめてくれっ! 樹を守る。雪も守る。そして啓、お前の事も。

 そう決めたのに……胸には深々と凶器が突き刺さっていた。


「ああ……ああ……」

 普段の啓からは、想像出来ない情けない声だった。震えながら土間に崩れ落ちる。

「理……」

「……悪くない……お前は……悪くな……」

 最後まで言い切れぬまま、呼吸すら苦しくて顔をしかめる。左手で胸元のナイフを握ると、自らの指紋を擦り付けた。

「逃……げろ……」

 これは事故だ。飛びかかり、揉み合った際に刺さっただけ。

 啓に殺意はなかった。だが、俺にはあった。自業自得だと思った。

 それでも啓は涙を浮かべたまま、首を左右に何度も振り続ける。激しい動揺に自分を見失っているのは、明らかだった。

「あ……き、ら……はや……く……」

 その時、内側から何かが鎌首をもたげる。


 そして、 支 配 さ れ て い く。


 はっきりと自覚した。

『嫌だ。死にたくない』

 早ク……逃ゲテ……

『新しい器が欲しい』

 デナイト……魂ガ……啓、オ前ヲ……

『あった』

 喰ってし……マウ……カラ……!


 一瞬の出来事にも、永遠の時間にも感じた。次に目を開けた時、理は理を見下ろしていた。

 もう冷たくなった亡骸。12年前に救われたのに、再び失われてしまった器。 

「……ああ……ああっ……!」

 慟哭する。打ちひしがれ、頭を掻きむしりながらよろめく。

 柔らかな質感……いつもの硬い髪とは違う。

 少しクセのある感触……この感じを知っている……これは……この体は……!

 啓の頬に涙が幾筋も伝い落ちる。ぼやけた視界には、髪から下ろした両手が映り込む。その手は赤く染まっていたものの、時間の経過と共に少しずつ乾き出していた。

 ふらふらと這うように水道に近付き、蛇口をひねると流れ落ちる水音に嗚咽が混じった。

 それでも……消えない。消せやしない。啓の罪を。理の……いや、槙の罰を。

 だから……せめて……!


 槙は啓の体を奪っていた。

 一度儀式を執り行っているからなのか、死に対する恐怖からなのか真実はわからない。

 今は啓と共存しているが、次第に侵食し、完全に取り込んでしまうだろう。

「だから俺は……俺を消す……俺が存在していたという痕跡、全て……!

 手にしたなたを振り下ろし、血飛沫にまみれながら、槙は理を抱きしめる。

 体の奥で啓が泣いていた。そして槙は啓の姿で理の頭部を抱え、消えた。


 暗闇を走り抜ける。ともすれば飲み込まれてしまいそうな漆黒に自分の存在意義を見失う。

 何処に行けばいい? 何を頼ればいい?

 気付けば、あの場所に辿り着いていた。緊張の糸が途切れ、激しい疲労に意識が底に沈む。

 それでも夢を見た。理の? 啓の? それとも……槙の?


 浅い眠りから跳ね起きると、汗にまみれた額を拭いながら乱れた息を整えた。

「寒い……」

 冷えた土の感触が、これは現実だと叩き付けた。洞穴の手前、大木の根元に理を丁重に埋葬する。その頬に涙が幾筋も流れていた。幼い時の思い出が胸を締め付け、喉を圧迫する。

 手元に残した眼鏡のレンズには亀裂が走り、あの悪夢のような出来事を刻んでいた。 小さな墓標の前に立ち尽くす。

「これから……どうしたら……」

 握りしめた形見は小刻みに震え、動揺の激しさを物語る。

 何もわからない。答えなど見付からない。

 啓として生きる? それは出来ない。ではどうしたら?

 彼に会えば導いてくれるだろうか? 会って話を聞いてもらえたら、この苦しみが和らぐだろうか?

 彼なら信じられる。彼しか頼れない……!

 そう思いながらも心を埋め尽くしていく何かに取り込まれていくのを止める事が出来ない。

 もう何もかも投げ出したい。いっそこの身を滅したい。だが出来るのだろうか?

 樹には言えない。父には尚更。皇家に行けば真実を教えてくれるのだろうか?

 気付けば声を上げて泣いていた。自分にこんな感情が残っていたと安堵して、ただ泣いた。

 雪に会いたかった。


 だからその姿を認めた時、まだ夢から醒めていなかったのかと思った。

「……ゆ……き……?」

 あの忌まわしい夜も、固い土を掘った痛みも、心が砕かれ、枯れる事なく溢れた涙も……全てが夢だったのだと思いたかった。

「馬鹿……馬鹿っ! 心配したんだからっ!」

 胸に飛び込んできた雪は、泣きじゃくりながら責め立てる。その髪の香りが、温もりが現実として迫る。

 愛しさが募り、両手で頬を包むと唇を重ねた。

 初めて触れた。雪に触れた。壊してしまいそうな程、強く強く抱きしめていた。

 抑えていた感情が解き放たれた音がした。

「雪……」

 自分ではない声が告げる。

「愛してる」

 二つの影が重なる。

 雪を抱いた。自分ではなく啓だから全てを許し、受け入れたのだと知りながら。それでも愛しく思う気持ちに逆らえなかった。例え実の妹でも、この恋心を消せなかった。

 まだ何も知らない無垢な体に自分の証を刻みたい。黒い欲望を心の底から軽蔑した。


 互いの肌だけが寒さを和らげてくれる。しかし微かな震えと共に雪が小さなくしゃみをする。視線を向ければランタンの火が消え、僅かな暖すら無くなりかけていた。

 腕の中にいる雪の髪を優しく撫で、なけなしの毛布で美しい体をくるむと、そっと離れる。そして脱ぎ捨てた服を身に付けながら、ランタンへと向かった。明るさが戻る事を察し、雪は急いで身支度を整える。

「いっ……いいわよ」

 照れかくしにぶっきらぼうに呟く声が、愛しさを増させる。啓の瞳で槙は雪を見つめると火を点した。何処か遠くで三人で生きていこう。そう考えた矢先だった。

「啓、点けられるんだね」

 一時の幸福を覆す事実に息を呑んだ。

「理だけしか点けれなかったのにね」

 傍らに寄り添い、雪が儚い表情を浮かべる。仄かな灯りに照らされた横顔は、理の死を悼んでいる。自分を責め、憂いを含んでいる。

 早鐘を打つ心臓の音が聞こえてしまうのではないかと、槙は恐る恐る顔を上げる。そして穢れなき瞳に射抜かれ、言葉を失った。

 雪は啓を見ていた。啓だけを見ていた。

 当たり前だろう? 雪は何も知らないのだから……!

 槙は絶望した。

「……じゃない」

「え……?」

「……俺は……俺はっ……!」

 真実をさらけ出してしまいそうになる寸前、雪の小さな問いが重なる。

「どうして……?」

 驚きで見開かれた瞳は槙の背後に向けられている。

「どうして貴方が……ここにいるの?」

 冷ややかな視線。見下ろす瞳の奥は何も見えない。

「雪ちゃん」

 名を呼ばれ、雪が身を竦めたのがわかる。背中越しに恐怖が指先から伝わって来る。

 彼女にとって予想もしない衝撃的な存在でも、槙には待ちわびた訪問者だった。しかし全てを見透かす眼差しは、明らかに自分を責めている。

「消すべきじゃない?」

 残酷な指示を平然と放つ。

「守りたいんでしょう?」

 槙の中で再び芽生える何か。その感覚は、あの夜と同じだった。

「……啓?」

 振り向いた愛しい人の表情の変化に、雪は後退りする。踵に当たったランタンが転がり、小さな炎を揺らした。瞬間、洞穴の壁に奇妙に大きく影が踊る。

「……や……めて……」

 止まらない……止められない……!

 槙は雪の細い首を絞めていた。その両手は再び罪の色に染まろうとしていた。

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