雷雨
「二人共、もう寝なさい」
生まれ故郷に帰ってからの芽は穏やかだった。
初めて会った祖父母はとても優しく、槙と樹は二人をすぐに大好きになった。
「槙、ほら樹も。ちゃんと隠さないと雷様におへそ取られちゃうわよ」
芽に急かされ、今は三人で眠る事が可能なくらいに広い寝室へと向かう。
「お兄ちゃん……」
「うん?」
眠たそうに目を擦りながら、樹が立ち止まる。
小さな手をしっかりと握ると、廊下にある小窓が視界に入る。
厚い雲に覆われた空は、鈍く光をちらつかせていた。
既に敷かれていた布団に入ると、
「おやすみ」
芽はそう告げ、電気を消した。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
眠りに就く二人の言葉に、芽の笑顔が重なる。
そっと襖を閉め、去って行く足音を確認した槙は声を潜めながら、妹に囁いた。「樹。明日、俺の友達の所に一緒に行かないか?」
「お友達?」
思いの外に大きな声。槙は慌てながらも続ける。
「誰にも内緒で……約束出来る?」
「うん! 約束する!」
久しぶりに聞く弾んだ声。芽も樹も安心出来る場所。槙は心の底から嬉しかった。指切りげんまんをした二人は、やがて眠りに落ちていった。
「何をするんですかっ! やめて下さいっ!」
どれ位の時間が経ったのか、引き裂くような叫び声に驚いて跳ね起きた。
「……樹?」
気付くと傍らで、樹が尋常ではない程に震えている。
その時は怖くてだと思った。
すると、二人がいる部屋へと通じる廊下が騒がしくなる。とっさに樹を背中に庇うと、襖が大きな音を立てながら開け放たれた。
予想していなかったといえば嘘になる。
この村に来てからも息を潜め、目立たぬように暮らしていた。それでも、いつかこの日が来るのではないかと常に心の何処かで怯えていた。
そこにいたのは、あの男だった。
男の住む街から三人を探し、ここまで辿り着いたのかと思うと背筋が寒くなった。どうしてこれ程までに執着するのか、まだ幼い槙には理解しがたかった。
それは芽への歪んだ愛の形だったのだろうか? それとも、狂った己の人生に対する憤りをぶつける為だけの理不尽な行動だったのだろうか?
「よぉ~」
酒臭い息を撒き散らし、男は悠々と近付いて来る。そして、いやらしい笑みを浮かべながら交互に槙と樹を見た。
「子供達に近付かないでっ!」
素早く間に滑り込むと、芽は男の前に立ちはだかる。
高々と振り上げられる手。廊下から零れた灯りが、そのシルエットを槙の目に焼き付ける。
痛々しい音が響き、叩き飛ばされた芽はぐったりと畳の上に倒れた。
「ママッ!」
槙の背から反射的に飛び出した樹は、気を失ってしまった芽にすがり付く。
「樹ちゃんは……」
不意に男が呟いた。
「いつ見ても可愛いねぇ~」
ぞっとした。明らかに異様な目だった。
その視線に絡めとられ、樹は固まってしまう。
「止めろっ! 樹に近付くなっ!」
槙は体当たりする。だが、相手は大人の男。敵う筈もなかった。
「ったくよぉ~」
うんざりとした声音で、男は槙を見下ろす。
「お兄ちゃんの方は、本っ当に……なつきゃしねぇなぁ!」
言い放ち様に殴り、蹴り飛ばす。
「お兄ちゃんっ!」
樹の悲痛な声。体中に衝撃と痛みが駆け抜け、槙の意識は朦朧とした。
「さてと、樹ちゃん」
びくりと身を竦め、樹は首を左右に振る。
「この間の続きをしようか? 今なら、お母さんもお兄ちゃんも邪魔をしないだろうし」
この間の……続き? 男は樹に何かをしようとしている。いや、きっと以前にも嫌がる事をしようとしたのだ。でなければ、あんなにも樹が怯える筈がない……!
安らぎの場所に現れた侵略者。噛み締めた唇に滲んだ鉄の味が、記憶を呼び戻す。
泣きじゃくる樹を抱えながら、芽が帰宅した事があった。
驚き、訳を尋ねたかったが二人が見た目にも疲弊していて聞けなかった。
やっと落ち着いた樹を寝かし付けた後、槙は芽に呼ばれた。
『お母さん……ちょっと疲れちゃった』
そう呟いた母は、今にも崩れてしまいそうで。
そして、それから直ぐに芽は仕事を辞め、槙と樹は会った事のない祖父母の元へ帰ると告げたのだ。
「……決めたんだ」
『あのおじさんには気を付けて』
「俺が守るんだ……母さんと樹を……」
自分を抱きしめながら、泣いていた芽を思い出す。
「走れっ! 樹っ!」
兄の叫びで、呪縛から解かれたように樹は駆け出す。
ゆるりと振り返り、男は槙に一瞥を投げかける。
「鬼ごっこか……捕まえたら、もう俺のもんだな」
にいっと上がる口角。下卑た笑み。
「俺の……もの……?」
明確な感情が鎌首をもたげながら、槙の心の奥から噴き出す。
それは殺意。やらなければ……やられる……!
「樹ちゃんは何処かなぁ?」
軽やかにステップでも踏みそうな足取り。獲物を追い詰める肉食獣のような声の響き。心の底から嫌悪し、激しい怒りに震えた。
痛む体を奮い立たせ、起き上がると後を追う。
樹を守る。その強い思いだけが、今の槙を突き動かした。
心臓が早鐘を打つ。台所の片隅に隠れた樹は、息を殺しながら苦しみに耐えた。
暗闇の中、無意識にいつも芽がいる場所を探して辿り着いてしまったのかもしれない。
入口にかかる数珠繋ぎの暖簾が音を立て、びくりと身を竦める。
「おじさんは……」
最初は優しかった。父親の記憶のない樹にとって、初めて知った大きな大きな温もりだった。
だが、あの日。母に頼まれ、迎えに来たという男に警戒する事なく幼稚園を後にした。しかし連れて来られた部屋に、その姿はなかった。
「ママは?」
繋いだ手の先、見上げた男の瞳に映る自分が狂気に染まる。恐怖が走った次の瞬間、軽々とソファに放り投げられた。
声を上げようとしたが、口を塞がれてしまう。その間も男は幼い樹を値踏みするように眺めていた。
樹は知った。男の異常さと自分の無力を。溢れる涙で視界が滲み、助けを求めた心は空を彷徨う。
その時、けたたましい音が鳴り響いた。男は舌打ちをすると離れる。その一本の電話が救いとなり、すぐに芽が見知らぬ男と共に現れた。
安堵から泣きじゃくり、芽が何かを男に言っていたが既に記憶にはなかった。
子供心に忘れるべきだと、防衛本能が働いた。
未遂に終わったとはいえ、樹は心に深い傷を負った。大人の男性が怖くなり、幼稚園も休みがちになった。
芽が会社を辞め、故郷に戻ると言ってくれた時は本当に嬉しかった。
だから樹は尚更、あの日を封印する事にした。もう芽を悲しませたくなかったし、自分も忘れたかった。
それなのに……村で祖父母に見守られながら、母と兄と新しい暮らしを始め、やっと恐怖から立ち直れそうだったのに……男は追いかけて来た。
床板を軋ませながら足音が近付いてくる。怖くて叫んでしまいそうな口を両手で押さえると、ぎゅっと目を閉じ、体を縮こませた。
そうすれば、この状況から救われるのではないかと思った。しかし……!
「見ぃつけたぁ~」
あの時と同じ狂気に染まった瞳。迫り来る大きな手。
声にならない悲鳴が上がる。そして……後は闇。
槙が追い付いた時、男は既に倒れていた。
その傍らで小さな影が揺れている。
目をこらすと、呆然と座り込む姿を浮かべた。
「樹っ!」
側に駆け寄る。幸い目立った外傷は見当たらなかったが、羽織っていたカーディガンが引き裂かれかけている事に気付いた。
やはりこの男は樹に対して、許しがたい行為を行おうとしていたのだ。腸が煮え繰り返り、気が狂いそうになる。
だが、男は倒れたまま全く動かない。
樹を廊下に避難させると、槙は恐る恐る覗き込む。瞬間、一際大きな雷がその場を照らし出した。
短い声を上げ、後ずさる。背に触れた樹の手から、何かが落ちた。
金属特有の甲高い音が、床を転がっていく。
男は……死んでいた。
意識を取り戻した芽は、ゆるりと体を起こす。
「……槙……樹……?」
ふらつく足で、どうにか寝室を出る。
激しく動揺したままの頭で、どちらに進むべきか逡巡し、玄関へと急いだ。すると廊下の片隅で、互いを支え合う二つの影を見付ける。
「槙っ! 樹っ!」
名を呼びながら駆け寄ると、恐怖で押し潰れそうだった二人は母の胸に飛び込んだ。
「母さんっ!」
「ママッ!」
「痛い所ない? どこも怪我してない?」
体を擦りながら、順に無事を確かめる。触れられた手に安堵したのか、火が点いたように樹が泣き出した。
「ごめんね。怖かったね」
しがみつく娘の髪を優しく撫でながら、傍らの槙を見る。暗がりでも、その表情に感じるものがあった。
芽は槙の視線を辿る。そして、ある一点で停止した。
「ここにいなさい」
まだ泣き止まない樹を槙に託し、台所へと向かう。じゃらりと音を立てる暖簾を潜り抜け、注意深く辺りを見渡した。
入ってすぐ左側、壁に沿って食器棚とレンジ台が連なり、中央には四人がけのキッチンテーブル。その奥に冷蔵庫、流し台とあり、更にその上には風通しの窓。そして一番右には裏庭から車庫、玄関前へ通じる勝手口がある。
そこから男が逃げたのかと一瞬思ったが、扉が開いた形跡はない。
そのまま視線を落としていけば、流し台とテーブルとの間、床の上に太い棒のような物が投げ出されているのがわかった。
いや、棒だと思いたかった。普段何気なく使っている場所なだけに、異質を覚えるのを認めたくなかった。
しかし、そろりと回り込んだ芽の目に映ったのは、変わり果てた男の姿だった。
上げそうになった悲鳴を両手で押さえ込む。これ以上、子供達を不安にさせてらならない……悲しませる訳にはいかない……!
芽は再び廊下に戻ると待ちわびていた二人を連れ、玄関にある電話へと向かう。
震える手で受話器を掴むとプッシュボタンに指を伸ばしたが、違和感に耳をあてたまま何度も押しまくる。
「母さん……」
心配そうな槙の声に、不安そうに見上げる樹の瞳に、芽は思わず吐露する。
「電話線が……」
男がしたのか、この豪雨で切れたのかわからない。だが、助けを呼べない事実だけはそこにあった。
項垂れたまま受話器を元に戻す。膝を折り、二人を抱きしめると、必死に思考を巡らせた。
混乱していたが、考えなければならなかった。
勝手口と台所の床との段差に、渡し板を斜めに置く。そして大きめのビニールシートで男を包むと、それごと芽は引きずった。
こうすれば、女一人の力でも何とか運ぶ事が出来る。
なかった事にする。それが出した答え。
先の事よりも今迄の恐怖から解放される事を選んだ。
やっとの思いで車庫まで運ぶと、居間で待たせている二人の元に一旦戻ろうと振り返る。
しかし大きな黒い傘が、次いでその下に寄り添いながら立つ槙と樹を認め、芽は立ち止まった。
言い付けを破り、車庫に来てしまった槙は振り向いた母を見た時、言葉を失った。
幼かったせいだけじゃない。何も言えない鬼気迫るものがあった。
頭からすっぽりと被った透明のレインコートからは、雨粒が滴り落ちて大地に吸い込まれていく。
「二人は家にいなさい」
しかし、思いの外しっかりと芽は告げる。
この悲劇の痕跡は激しく降りつける雨が消してくれるだろう。芽は一人で全てを背負おうと決めた。その為には、二人を残して行くべきだと思った。
「やだっ!」
普段は聞き分けのいい槙が、反抗した事に芽は驚く。
「俺も行くっ! 決めたんだっ! 俺が母さんと樹を守るって……だから、行くっ!」
雨音が叩き付ける車庫で、芽は槙を見つめた。すると、レインコートの裾を掴まれる。
「樹も一緒」
涙が溢れた。自分の曖昧な態度が招いた結果が、愛する我が子達に業を背負わせようとしている。母親として情けなくて仕方がなかった。
「わかったわ。槙と樹とお母さんは……ずっと一緒よ」
そう伝え、抱きしめる。
「母さんっ!」
「ママッ!」
芽は男を助手席に座らせ、固定する。そして二人は後部座席に座らせると、同様にシートベルトを装着させた。
運転席に乗り込むと、激しい雨音から無音の闇に放り込まれる。
エンジンをかけようと伸ばした指先が震えたが、何とかキーを捻る。
落ち着きを取り戻そうと息を整えると、両手で掴んだバンドルに顔を埋めた。
男の右脇腹には血が滲んでいた。
樹が刺したのだろうか? でも、こんな小さな女の子の力で致命傷を与えたとは思いにくかった。
まさか槙が? しかし、我が子にそんな事が出来ただろうか? でも、樹を守る為なら。
問い質す時間はない。今は一刻の猶予も許されない。
顔を上げ、シートベルトを締めるとアクセルを踏んだ。
隣で震える樹を落ち着かせようと、槙は手を繋ぐ。
「大丈夫だよ。俺が必ず守ってあげる」
すると、樹は奇妙な事を呟く。
「あのね、おじさん。自分で転んじゃったの」
その意味を理解するのに、数秒かかった。
体が強張り、一気に汗が噴き出したのを感じる。
「母さんっ!」
叫びながら前方を見た瞬間、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。
「きゃあっ!」
死んだとばかり思っていた男が、今まさに芽に襲いかかろうとしていたのだ!
「お兄ちゃんっ!」
しがみつこうとする樹を受け止めようと、シートベルトを外しながら手を伸ばす。蛇行する車は大きく左右に揺れ、槙は樹に覆い被さった。
「いてぇじゃねぇかぁ……ふざけんなぁっっっ!」
逆上し、見境を無くした男は容赦なく芽に迫る。
「止めてっ! 車を停めさせてっ!」
必死に懇願する叫びも、興奮状態の男には届かなかった。
「槙っ! 樹ぃーーーっ!」
自分達を呼ぶ芽の声。全ては一瞬だった。
ふわっと浮く。重力に逆らえる筈もない槙の体が、助手席に叩きつけられる。その目に泣きながら、手を伸ばす樹が遠退いていく姿が映る。
しかし樹が離れたのではなく、自分が外に放り出されてしまったからだと気付くのに、さほど時間はかからなかった。
残酷な未来は、すぐに突き付けられる。
激しい衝撃。耳をつんざく音。粉々に砕け散るガラス片。
そして、今度こそ本当に死んだであろう男の……何も宿していない目。
体中を貫く激しい痛みに耐え兼ねて、槙は意識を手離した。
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