芽
芽は気付いた。自分の中に新しい命が宿っている、と。
だが、それは同時に父親である相手に迷惑がかかる事を意味していた。
自分をここまで育ててくれた両親を残していなくなるのは辛い。
しかし、愛する人の幸せを壊す事はもっともっと。
芽は決意した。そして数日後、村から消えた。
遠く離れた場所。 家出同然で宛もなく辿り着い町で、芽は生活を始めた。
未成年だけれど、どうしても働きたいと頼み込んで夜の仕事もした。
幸い少しの貯金と、その仕事で貯めた僅かばかりの金で、アパートも借りられた。保証人には働いていた店のママが、事情を知った上でなってくれた。
昼間の事務の仕事も紹介され、身重の体でも芽は一生懸命に働いた。
その勤め先にいたのが、後に結ばれる男性だった。
彼は言った。
『お腹の子の父親になりたいんだ。俺じゃ駄目かな?』
芽は甘えてしまった。疲れ切った心に、その優しさは毒だった。
やがて槙が産まれると、誓ってくれた通り我が子のように愛してくれた。
しかし、それから四年後。
新たに授かった命を見る事なく、愛する人は突然の病で亡くなってしまった。
今度こそ芽は独りだった。
「違う」
悲しみの淵で呟いた。傍らには寝息を立てる槙と樹がいる。
「今の私には、この子達がいる。二人の為なら何だって出来る。どんな事だって耐えてみせる」
あの日、鞄一つで村を出た時。不安で押し潰されそうになりながらも、自分の中に宿ってくれた槙に救われた事を思い出す。
そして、こんな自分を愛し、樹というかけがえのない存在を与えてくれた彼にも心から感謝した。
もう共にいられなくても、見守ってくれている。
芽は再び決意し、慣れ親しんだ地を後にした。
新たに居を構えた町で仕事に就いた。
槙は小学校に、樹は幼稚園にと通い出した。
贅沢は出来なくても慎ましく暮らす。三人なら、それだけで幸せだった。
だが、芽は出会う。
あの男に。
名を呼ばれ、上司の元へ向かうと、初めて見る男がそこに立っていた。
「今度、自分の代わりに配属になる……」
人事異動に伴い、新しく来たという男は真面目そうで好感が持てたが、それだけだった。
「杠です。よろしくお願いします」
挨拶をすると仕事に戻った。
「え? 杠さん、お子さんがいるんですか?」
共に働くようになれば、プライベートな事も男の耳に入ったらしい。
あまり話したくはなかったが、芽は平静を装い、答えた。
「二人です。上が男の子で、下が女の子」
その時、芽は26歳。槙7歳、樹3歳だった。
就業時刻はとっくに過ぎている。時間が気になる。
「すみません。迎えがあるので、お先に失礼します」
まだ話し足りなそうな男に、やんわり告げると帰り支度を始める。
「あ、すみません。引き留めたりして。待ってますよね」
男は芽が夫と死別している事も知っていた。
「いえ、では」
去りかけた背中を声が追って来る。
「今度」
振り返ると、男は穏やかに微笑んでいた。
「食事に誘ってもいいですか? お子さん達も一緒に」
「お母さん、ごっきげん」
夕食の支度をしていると、手伝ってくれている槙が言った。
「え? なっ……何?」
思わず動揺すると、
「ごっきげぇ~ん」
樹までもが、大好きな兄の真似をする。
「だって、歌ってたでしょ? お母さんはいい事があると御飯作りながら歌うって、お父さんが」
胸を張って答える槙。彼の言う父とは、亡くなった彼の事だ。
本当の父親ではない。でも、それが何だと言うのだろう。
コンロの火を止めると、息子と同じ目線になるべく屈む。
そして愛おしみながら、頭を撫でた。
槙の父親を忘れた事はない。多分、今でも一番に愛しているのは彼だけだ。
でも、芽は思う。
そういう愛の形もあるのだと教えてくれたのは、今は亡き彼だった。
全てを話した。それでも受け入れてくれた。感謝してもしきれなかった。
「槙はいい子ね」
親の欲目だけではない。家の手伝いも嫌な顔など一つせず、妹の面倒も見る。
槙は優しい子だった。
「樹も~っ」
舌足らずな声で、樹が抱き付いて来る。
甘いぬくもり。幼い子供の柔らかな香り。
彼の遺してくれた樹も愛しくて、その髪に触れる。
もう片方の腕を広げると槙は恥ずかしそうに、でも笑顔で飛び込んで来た。
芽は反省した。もう誰かを失いたくなかった。槙と樹がいればよかった。
そう思いながらも、心に男の言葉は残っていた。
それからも男は熱心に芽にアプローチをしてきた。
その様子については親しい同僚にも言われたし、他の部署や以前の上司からもそれとなく薦められたりした。
男は周囲に受けが良く、将来も期待されていた。
後は支えてくれる家庭を持つだけだと周りの誰もが思っていた矢先、芽に好意を寄せているのが端から見てもわかった為、何かと世話を焼かれ始めたのだった。
複雑な心境だった。
もう恋愛は出来ないと思っていた。しかし、そんな自分に思い寄せてくれていると認識すれば、意識してしまわない方が無理な話だった。
優しくされればされる程、近付かれれば近付く程、目で追ってしまっている事に気付いた。それが男のやり方だとは夢にも思わずに。
だから子供達を連れ、共に食事をしてしまった。
滅多に外食などしない為、樹は喜んでいたが、槙は固い表情のまま黙々と食事をしていた。
健気な姿に胸が痛む。それでも男は芽に、子供達と仲良くなりたいと言った。
その瞳の奥の狂気に気付けない笑顔で優しく。
「お母さん」
帰り道、手を繋いで歩いていると槙が呟いた。
眠ってしまった樹は、腕の中で寝息を立てている。
「なぁに?」
なるべく明るい声で尋ねる。
「あの人……新しいお父さんになるの?」
驚いて立ち止まり、槙を見ると真っ直ぐな瞳で芽を見ていた。
中途半端に答えては傷付けてしまう、そんな一途な眼差しだった。
「あのね」
芽は槙を優しく見つめる。
「お母さんは槙と樹がいたら、それでいいの。でも槙は……お父さん欲しい?」
槙は首を大きく左右に振る。
「お母さん、怒るかもしれないけど……あの人は嫌だ」
噛み締めた唇は、泣き出すのを必死で堪えていた。
その時は、槙がやきもちを妬いたのだと思い込んでしまった。
しかし、これからも親子三人で静かに暮らしていくべきだと決意もした。
その為には、男に正式に交際を断ろうと思った。
昼下がりの喫茶店。
芽は男に誠意を持って接した。
その行為が男の内に隠れていたものを、目覚めさせてしまうなどと思わずに。
「ショックだな」
男は苦笑すると、冷めきったコーヒーを口に運んだ。
その後、芽は男からストーカー被害に遭う。
自宅への無言電話。携帯電話への執拗な着信。
待ち伏せをされたり、後をつけられたりする事もあった。
だが、まだ耐えられた。男の立場を考え、なるべく穏便に解決したかった。
その日、男は会社にいなかった。
芽は安堵し、心労から遅れていた仕事を進めた。
だが、予想もしていなかった事態が起こる。
男は樹の通う幼稚園に現れた。
そして言葉巧みに保母を信頼させると、樹を連れて帰ったという。
なまじ面識があった為、樹も男を警戒しなかった事も災いした。
だからこそ疑われなかったのだ。
いつものように迎えに来た芽は男が急に休んだ理由を知り、愕然とする。
動揺しながらもその場を後にすると、今までの経緯を男の更に上にあたる上司に報告した。すると共に向かうと、タクシーで来てくれた。
急いで訪ねると男はあっさりと認め、芽に非礼を詫びた。
「ママッ!」
母の姿を認めると、樹は泣きじゃくりながら駆けて来た。安堵と同時に激しい怒りが沸き上がる。
「どういうつもりですかっ!」
声を荒げ、睨み付けたが男は悪びれもせず、訳のわからぬ事を言い出した。
「芽さん。残業だったでしょう? だから代わりに迎えに行っただけですよ」
それは男のせいだと言いかけ、芽は息を呑んだ。
恐怖だった。男は最初から、こうなる事を見越していたのだ。
計画的な犯行。初めて身の危険を感じた。
自分だけならばまだいい。だが、子供達へも危害を加えられたらと震えた。
実際に男は樹を連れ去っているのだ……!
「タクシー、まだ待たせてあるよね?」
上司の言葉に頷く。その目は先に帰るようにと、告げていた。
本当は言い足りなかったが、これ以上は関わりたくなかった。
樹を抱き上げ、逃げるように外へと飛び出した。
「杠さん」
足早に去ろうとした芽を追って来た上司は、信じられない事を告げた。
「今回の件、くれぐれも警察には……」
絶望した。一緒に行くと言ってくれたのは心配してくれたからではなく、己の保身の為だったのだ。今まで耐えてきた事には、何の意味もなかったのだと知った。
男は会社を解雇された。表向きは依願退職として。
しかし、芽もまた会社を辞める決意をした。
それは男が芽を逆恨みし、更にしつこく付きまとい始めたからでもあった。
このままでは、また子供達に危害が及ぶかもしれない。
既に一度、樹を連れ出された芽はその考えが頭から離れなくなり、仕事にも集中出来なくなっていた。
そして、助けを求めた会社に失望したのも理由の一つだった。
辞表を出した時、上司は厄介払いが出来たと思ったのだろう。
残念がりながらも、最後は笑顔だった。
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