願い
棺に収められた理に会える事は、もう叶わない。
頭部が発見されぬままでは無念であろうと、一時は葬儀を見送る事も考えられた。
しかし、季節は夏。長期の保存状態を維持する事は村は勿論、町でも不可能に近いと判断され、通夜と告別式が執り行われる事になった。
既に身内のいなかった理は荼毘にふされた後、柾家の墓へと入る。それら全てを村の当主である司が自ら行うと決め、村に住む者達も賛同した。
鼻を突く線香の匂いに統の視界が滲む。
近い存在をこんなにも早く失う。
悪い夢の中にいると思いたくて、目の前が霞んでいる事を自覚出来ずにいた。
結局、朝からの捜索では何も手掛かりを見付ける事は出来なかった。
来栖が言っていた洞穴にも出向いた。でもそこは当たり前だが既にもぬけの殻で、人がいたという形跡だけが空しく残されていた。
村人達は噂する。
小さな村だ。瞬くよりも早くそれは広がり、容赦ない憶測を生み出していた。
そんな中でも通夜は、しめやかに進んで行く。
一瞬、空気だけが動いた。
統は視線を上げる。その先に認めた光景。体中に動揺が走った。
現れたのは喪服を身に纏った創と付き添う樹だった。
その後ろには知もいるものの、二人の言葉にし難い存在感が、その場にいた者達の視線を全て集めてしまっていた。
床に伏しがちになってからは滅多に人前に姿を見せなくなった創だが、元々備えていた神秘的な美だけは衰えを知らない。
そして、その傍らにいる樹には村の人間では持ち合わせていない洗練された美しさが、何年村にいようと馴染もうと努力しても抜け出さずにいた美しさが漂っていた。
三人が焼香の列に並ぼうとしたので、先に並んでいた村人達の躊躇いが伝わって来る。
樹や知ならまだしも創は喪主代理を努めている司の息子であり、本来ならば統同様に遺族側の席にいるべきではないのかという思いが、ひしひしと周りを支配していた。
「創様」
その空気をいち早く察知した知に言葉をかけられ、創は視線を向ける。冷静な眼差しに統は貫かれたような気がした。
「二人も一緒に」
その揺るぎない態度に樹と知は驚く。
統は混乱したまま司と静を見たが、二人は粛々と見守っていた。
創の放つ静かだが有無を言わさぬ強さに推され、樹と知は皇家の控える席へとおずおずと進む。
複雑な色を讃えた樹の瞳と合ったが、何かを口にする事は憚れた。
創が統の隣に座ると、その背後に身を潜めるように二人は座る。
これでは……統は拳を握り締めた。
事実上、樹と知を皇家に迎えると村人達に示しているのと同じではないか……!
創が本気で樹を妻にと考えているのだと確信した。
抗えぬ運命の奔流に目眩がした。
それでも朝は来る。
浅い眠りを繰り返し、友の姿を夢で探し、目覚めて現実に直面する恐怖に震えたとしても。
理は柾家の墓に入った。統はその目で見届けた。
明日からは再び捜査協力をする。合間を縫って、雪の見舞いにも行く。
だが、その前に統には、やるべき事があった。
正直、混乱していた。まだ落ち着いて冷静に考えられる程には、立ち直れていなかった。しかし伝えておきたい事だけは、はっきりと自覚している。
樹は自分が守る。創ならわかってくれる筈だと思った。
共に過ごして来た日々が、積み重ねた時間が、兄弟の絆を揺るがす訳などないと信じていた。
「誰かいるのかい?」
そんな思考を遮るように声が届き、現実の世界に戻る。
今、統は創の部屋の前に立っていた。
「俺」
「統だね。入りなさい」
見えなくても、いつもの穏やかさで創は自分を迎えてくれるだろうと思った。無言のまま障子を引くと、布団から体を起こした姿が目に映る。
「あまり眠れなかったんだね……無理もないか」
顔を曇らせる創の前に座ると、真っ直ぐに見つめる。それでも躊躇っていると、ふっと創は表情を崩した。
「樹の事、かい?」
心臓が大きく波打ち、感情が堰を切る。
「兄貴なら俺の気持ちをわかっている筈……だから樹を奪わないでくれっ!」
自分でも驚く位、一気に言い放っていた。
鼓動の早まりと緊張が、何も入れていない胃を更に締め付ける。
だが、創の口からは予想もしない答えが返って来た。
「欲張りだな」
短い言葉に息を呑んだ。今まで見た事もない鋭い瞳に射抜かれる。
「お前は何でも持っているし、これからだって望めば全てが手に入る。なのに樹まで?」
「……兄貴?」
辛うじて紡いだが掻き消される。
「樹は私の妻にする。もう決まった事なんだ。諦めてくれ」
統には創が何を言っているのか理解出来なかった。
「もう決まった事? 諦めてくれ? ……嫌だ」
それでも目を逸らさずに言った。
「そんなもの一度だって俺は望んでいないっ! いらないっ! 樹が側にいないのなら意味がないんだっ!」
それは心からの叫び。感情が昂り、思いの丈をぶつける。
「兄貴は樹の事をいつから……いや、本当に愛しているのか?」
直後、その問いを後悔した。
「心外だな」
哀しそうな眼差し。
「統。僕は、お前よりもずっと前から樹を……樹だけを見ていたよ」
知らなかっただけだと、気付こうとすらしてくれなかっただけだと叩きのめされた気がした。
時が止まる。だが、背後に気配を感じた。
創の視線から逃れたくて立ち上がると、影が落ちる障子を開く。
「樹」
「ごっ……ごめんなさい。立ち聞きするつもりじゃ……」
ふるふると首を振る。
その手には頼まれて届けに来たのか、部屋に置く水差しの替えがあった。
動揺で今にも落としそうな盆を統は受け取る。
それがまるで合図だったかのように、少女は踵を返すと中庭に降り立ち、駆け抜けた。
「樹っ!」
水差しをその場に置くと、統は急いで後を追う。
朝露に輝きを放つ庭。開け放たれたままの障子。透明に光る硝子の器。
それらを順に見つめていくと、創は二人がいなくなった部屋で小さく呟く。
「いいんだ」
それは誰にも届かなかった言葉。
「側にさえいてくれたら……それだけで」
『願い事ひとつ』
満点の星空の下、歌うみたいに囁いた。
それは幸せになる事。二度と怖い思いはしたくない。
もう……一人ぼっちは嫌。
そう言葉にしなくてもわかってくれた、一番近くにいてくれた人。それは………
音が響く程の強い力で、左手首を掴まれた。
その反動で半身が反り、足も止まる。
荒い息のまま、振り返る事も出来ずに樹は俯いた。
「……逃げないでくれ」
この状況から逃げないで。自分と向き合って。
統の言葉からは切々と、そう訴えているように樹には聞こえた。
既に仮家の手前まで来ていた。
無意識に人目を避け、裏道を通っていた。
初めて訪れた時は暗かった上、車で送ってもらったので気付かなかったが、皇家からここまでは意外にも近いという事を互いに知る。
強く手を握ったまま統は樹に近付くと、視線を落とす。
その後を追えば自分の足が泥まみれになっていると、樹は認識した。
靴を履き忘れたのか、それとも脱ぎ捨てたのか思い出せない。
何も……わからないっ……!
「いや……いやぁーーーっ!」
「樹っ!」
叫ぶ樹の両肩を掴むと、統は自身の方へと向かせる。
「どうして……どうして?」
統を好きなだけだった。ずっと側にいたいと願っただけだった。
創が自分に好意を寄せていてくれたなんて夢にも思わずに……!
その事にも気付けない程、統しか見ていなかった。
それなのに、創の優しさに甘えてばかりいた。
しかし、樹は思う。
創は統を困らせたくて、だから自分を側にと言ったのではないか?
創の気持ちを疑っている自分に嫌悪が増す。積み重ねてきた思い出が、失った記憶を払拭していたものが、音を立てて崩れていく。
「私が……私がいなくなれば……」
恐ろしい考えに囚われ、泣きじゃくる樹を統は力強く抱き締めた。
同時に決意する。
例え創と袂を別つ事になろうとも、生涯愛し抜くと決めた樹は渡さない。
村を出る事になろうとも、家族を悲しませる事になろうとも。
触れられた側から、一つになれたらいいのに。
微睡みから目覚めた樹は、統の腕の中にいた。
背中に愛する人の温度を感じる。
鈍い痛みを伴う体をそっと起こすと、疲れ果てた統が寝息を立てている事に気付いた。
その寝顔は今にも泣き出してしまいそうに見えて、胸が締め付けられる。
統が自分を愛していると伝えてくれた時から、二人が結ばれるのは時間の問題だと思っていた。
それなのに……幸福を噛み締める前に重くのしかかる闇。
思い出せない。あの時の事も、つい先程の事も。
樹は思わず身震いした。
愛する人が傍らにいるのに、どうしようもない孤独を感じていた。
知は診察の為、町の病院に出掛けていて留守だった。
そのまま雪の見舞いにも向かう事になっている。
共に皇家に赴くと司が付き添ってくれる運びとなり、今日は一日休むように言われた。
そして支度に追われる静に代わり水差しを運び、創と統の話を聞いてしまった。
「大丈夫……思い出せる」
確かめるごとく呟くと、統を起こさぬようベッドを出る。
床に落ちた服に身を包むと、そっと部屋を後にした。
階段を降り、台所へと向かう。
冷蔵庫から冷えた麦茶の入ったポットを出すとグラスに注ぎ、口に含む。
しんと静まり返った家。頭の奥に鈍い痛みが走り、思わず眉をひそめる。
テーブルに空のグラスを置き、指先でこめかみの辺りをなぞると、異様な感覚に包まれていく。
日に日に思っていた。ここを知っている、と。
夕げの支度の音。それはきっと亡くなった母だと思った。
背を向け、何かを作ってくれていた。その姿を兄と一緒に見ていた。
しかし、そこで樹の中に別の疑問が生じる。もし本当にそうだとしたら、知は言ってくれたのではないかと。
やはり勘違いなのかと思いながらも、曖昧な記憶の欠片を掻き集めたいと努めた。
知っている……憶えている? あの廊下、誰かと追いかけっこをした……追いかけられた?
そして、ここに隠れて。樹はぐるりと周りを見渡した。
あの花……憶えてる? 視線をこらすと、そこに誰かがいた気がした。反射的に庭に通じる大きな窓に駆け寄る。それを察したのか、気配は動いた。
勘違いじゃない……確かに誰かが見ていた!
「待ってっ!」
勢いよくガラス戸を開けると、庭に降り立つ。
迫りかけた人影から何かが落ちたが、それには構わず、樹を振り切るように走り去る。
僅かな距離でも追い付けず、激しく呼吸を繰り返す自分の体を恨めしく思う。急に駆け出した心臓は大きく波打ち、肺は新鮮な空気を求めた。
力なくその場に立ち尽くしていたが、やがて謎の人物が落としていった物に近付くと息を呑む。
それが何か、を認識するのが怖かった。
そんな筈がなかった。しかし、樹は知っていた。
「そんな……どうして……」
音を立て、体が震える。
双の瞳に映った物。それは……理が愛用していた黒縁の眼鏡だった。
意識の奥底。雪は啓と共にいた。
微笑む少年の腕に飛び込み、幼い子供のように泣きじゃくった。
「ごめんね……ごめんね……」
あなたをこんな風にしたのは、私なんだね?
沢山の人を傷付けさせて あなたを傷付けて。
なのに今更、あなたを好きだなんて言ったら……私の事、軽蔑するよね?
『いいんだよ、もう』
いつだって許してくれた。こんな私を見守ってくれた。
『ごめん……雪』
どうして謝るの? どうして……そんなにも哀しい目をして私を見るの?
『どうか幸せに』
嫌だよ……行かないで……行かないで……イカナイデ……!
小さな嗚咽。
個室に備えられた椅子に沈み込んでいた椿忠は、吸い寄せられるように目を覚ました。
精神的にも肉体的にも自覚出来ない程に疲れていたのか、いつの間にか眠ってしまっていた。
「環……どうした?」
嫌な予感がして、娘の傍らに座る妻に近付く。
「ごめんなさい。起こしてしまって……」
その表情は悲痛に歪み、忠の心を抉った。
「何かあったのか?」
環は首を左右に振る。
「いいえ、何も……ただ……」
「ただ?」
「この子……今にも泣き出してしまいそうで……」
堪えきれなくなり、両手に顔を埋める。
必死に声を押し殺し、泣く妻を忠はそっと包んだ。
雪は未だ眠り続けていた。
20年前。椿夫妻は待望の第一子を授かった。
しかし早産による未熟児として、この世に生を受けた我が子は、生まれながらにして闘病生活を送らねばならなかった。
病院と自宅を往復する日々が二年近く過ぎた頃、環は自分が新しい命を身籠っている事に気付く。
複雑だった。
不安に苛まれながらも十月十日を送り、そして無事に雪を出産した。
だが喜びも束の間、初めての子は六年間、一度も目覚める事なく静かに息を引き取った。
そのせいもあってなのだろう。忠は雪を大切に大切に育てた。時に過保護すぎる程に。
勿論、環も愛情深く接した。そんな折、彼らは訃報を知る。
「
「ええ。まだお若いのに」
司と忠の同級生、榊裕は三年前に亡くなっている。
「元々体が丈夫じゃないって言っていたな」
そんな妻の為に寝る間も惜しんで働き、倒れてしまった。
まだ小さい子供もいたというのに。そう思うと、やりきれなくなる。
「葬儀は近親者のみで、既に終わったそうです」
「そうか。時機を見て御挨拶に伺おう」
「わかりました」
だが忠は、環がまだ何かを話したそうにしている事に気付く。
「どうした?」
すると環は、意を決したように忠に告げる。
「息子さんを引き取りませんか?」
まだ幼い雪を残し、病院に通うのが難しくなって来た頃だった。
「啓君を?」
「はい。実は……余り良い環境にいるとは思えないんです」
それは連絡をくれた裕の妹から受けた印象だった。
「それに雪にも、お友達が出来ますし」
考え込んでいた忠には、それが決定打になると環は知っていた。
「今でも憶えています」
環は目を閉じる。
初めて会った時の恐い位に冷めた瞳。それは周りに対してではなく、自分を守る為に身に付いてしまった棘だった。
引き取られた叔母と折り合いが悪く、居場所を見失っていた。
父の死を、母の死を受け入れられず、もがいていた。
『啓君』
『はい』
『雪のお友達になってくれる?』
「啓君が……あんなに優しい子が、理君を殺めた上に雪を襲うなんて……絶対に何かの間違いですっ!」
余所者。
それでも啓が樹のように迫害されなかったのは、椿家という後ろ盾があったからだ。
それを誰よりも自覚していた少年は、華やかな見た目とは裏腹に雪の側に影のように寄り添い、守り続けてくれた。
『約束する。俺が姫様を守る』
縁側に座り、指切りをした。
誰もが啓に疑いの目を向けているのではなかった。ここに彼の無実を信じる家族がいた。
「今日は、わざわざありがとうございます。雪もきっと喜んでいると思います」
そう言うと忠は、司に深々と頭を下げた。
月に一度、知は検診の為に町を訪れる。
持病については専門医のいる大きな病院の方がいいと、司の薦めもあっての事だった。
理の葬儀が終わり、雪の様子も見ておきたいと、今回は二人で来ていた。
知が環に言葉をかけると、泣き腫らした瞳が再び潤む。
司は忠から雪の容態を聞いた。
はっきりと言えば予断を許さない状況だった。意識を戻す可能性がない訳ではない。しかし、その確率は医者である司の目から見ても低い。
仮に意識を取り戻したとしても後遺症が残るかもしれない。
発見された時点で雪は、ほぼ死んでいたのだ。
命に携わる者として、適切な表現ではないとわかっている。だが、現実を受け止めなければならなかった。
司と忠は学生時代からの友人だった。
そして環と樹の母である杠芽は二人の幼なじみにあたった。
忠と環が苦しんでいる姿を見るのは辛く、かける言葉すら出て来ない。
そんな時、司は無力な自分を感じた。
芽がある日突然、行方知れずになった時も同じ気持ちを抱いた。
次に再会した時、彼女は亡くなる間際だった。
見知らぬ男と小さな少年と共に。そして側には心が壊れた樹がいた。
「あの娘は幸せだったと思います」
司は驚く。傍らには樹がいて、虚ろな目のまま知と手を繋いでいた。
「幸せ? どうして? こんな酷い目にあったのに」
拳を握り締め、やっと絞り出した声は怒りで震えていた。
どうして連絡をくれなかったのか? もっと早く再会していたら、助けられたかもしれない。
自分を責める司の背に、そっと知はある事実を告げた。
「あの娘は御館様を、ずっとお慕いしていました。最期に一目、会えた。それだけで幸せだったと……思いたいのです」
それは次第に小さくなり、やがて嗚咽を混ぜながらの涙声になっていった。
そんな祖母に、樹は反応すら示さない。
司の心は痛み、そして同時に脳裏には在りし日の芽の姿が浮かぶ。
悲しみに暮れる二人の事も、心を閉じてしまった樹にはわからなかった。
「樹を見ていると、嫌でも昔の事を思い出してしまいます」
帰りの車中、ぽつりと知は呟いた。
司も同じ事を、よく思う。
芽の面影を持ちながら段々と美しく成長していく少女を見ると、あの頃が思い出され、忘れようにも忘れられない苦さが忍び寄るのだ。
知は樹に、どうしても娘を重ねてしまうのだろう。
統に対する思いを不憫に思うのだろう。
叶わなかった恋を……思い出してしまうのだろう。
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