遠い記憶
病院に着いた。
手には町の花屋で作ってもらった見舞用の花。
本当は雪が好きな白百合にしたかったけれど、病室にあの強い香りが向かないと知っていた樹は、オレンジや黄色の花を使ったアレンジメントにしてもらった。
病室の前に立ち、扉を静かにノックすると中から環が現れる。
奥には忠の姿もあった。
皇家から来たと伝え、花を渡すと二人は感謝の言葉を述べた。
憔悴しきった表情に胸が痛む。
「私が雪さんに付き添いますので、少し休まれて下さい」
「樹ちゃん、ありがとう」
環は泣き出しそうな顔で小さく頷く。
思えば、こうして環に会うのも随分と久しぶりだった。忠にはもっと。
「昔はよく雪と遊んでくれたわね。きっとこの子も喜んでいると思うわ」
かつて樹は雪を姉のように慕っていた。
幼い頃から美しく、年を重ねるごとに聡明さをも持ち合わせていく雪は、村の少女達の憧れの的だった。
そんな雪の態度が明らかに変わったと感じたのは思春期を迎えた頃、樹は雪も統が好きなのだと気付いてしまった。
だが樹も、ずっと統を慕っていた。樹には統が全てだった。
もし統を失ったら、どうなるのだろう? そう考える度に怖くなった。
自分ではなく他の誰かを……雪を選ぶかもしれない。
切なく眠れぬ夜を過ごした事も、一度や二度ではなかった。
けれども年月が経てば、嫌でも現実を知る。
統は村の当主の息子であり、雪は花嫁候補だと。
諦めなくてはいけないと何度も自分に言い聞かせた。それなのに……!
樹は自分を恥じた。
抱きしめられ、口付けをされた瞬間、幸福を感じてしまった。
理性では拒みながら、本能では別の事を考えていた。
このまま奪い去り、何処かに連れ去って欲しいと。
その時、看護師が訪れた。
「椿さん、先生がお呼びです。出来れば御二人で来てほしいそうなのですが……大丈夫ですか?」
樹は改めて自分が付いていると、二人に告げる。
「少しの間、よろしくお願いします。お話が終わったら、すぐに戻りますから」
疲れ切った表情を繕いながら、環は両手で樹の手を包んだ。
「本当に優しい子に育って……きっと
「母を……御存知なんですか?」
驚きの余り、問い返す。はっと口をつぐみ、環はぎこちなく答えた。
「えっ、ええ……樹ちゃんのお母さんとは学生時代、一緒だったのよ」
「行こうか」
忠に促され、環は頷く。そして樹の視線を避けるように病室を後にした。
同じ村に住んでいたのだから、知っていても当然だとは思った。
でも環が、亡くなった母について触れたのは初めてだった。
扉を閉めながら、考えを巡らせる。
自分の事を深く追求しようとすると、オブラートに包まれたみたいに、ぼんやりと頭が霞んで行く。
記憶障害。
まとわりつく不安を追い払うように目を閉じると、樹は軽く頭を左右に振った。
向き直ると、規則正しい呼吸器の音が耳に届く。
視線を送ると、ベッドの上に雪の姿が見えた。
口元に酸素マスクがなければ、まるで眠っているみたいだと思う。
しかし意識は閉ざされたままで、未だ目を覚ましそうもない。
「眠り姫みたい」
不謹慎だとは思う。しかし何故だか、そう呟いてしまった。
雪の表情は、まるで色がなく人形のようにも見えた。それが皮肉にも、彼女の美しさを益々際立たせていた。
眠りの呪いを解くのは誰なのだろう? 傍らに立つと、窓から射し込む光が自らの影を淡く落とす。
夏の眩しさはカーテン越しに室内を満たすが、その明るさも今の状況には似つかわしくなく、切なさを増すだけだった。
何かがずれる。何かが軋む。
樹は雪を見下ろす。邪な感情が、暗い影が、内側で鎌首をもたげる。
モシモ……モシモ雪サンガ……コノママ……目ヲ覚マサナカッタラ……?
瞬時に息を呑む。
そして思い描いた恐ろしい考えに、震え上がりそうになった。
よろめきながら、一歩後退する。
「……あっ」
小さな叫び。だが、力強い手に支えられる。
「大丈夫?」
「駐在……さん」
反射的に後方を仰ぎ見ると、橘仁が立っていた。
「そうか。手伝いに来てたのか」
薄暗い病院の廊下を、樹は仁と並んで歩いた。
あれから直ぐに、雪の両親は戻って来た。
「顔色が悪いね。無理して来てくれたんじゃないかい?」
「そうね。あんな事があった後だもの……ごめんなさい。気付かなくて……」
忠に心配され、環を悲しませてしまった。だから樹は、いたたまれずに暇を告げる。まるで逃げるように。
「待って、樹ちゃん」
引き止められ、心臓が跳ねる。
「送るよ。忠さん、環さん。すみませんが、また改めて……」
「だっ……大丈夫です!」
仁の気遣いは嬉しかったが、一人になりたかった。自分が怖かった。
「仁君、樹ちゃんをお願いね」
優しさが痛い。でも……逆らえない。
「行こうか」
促されると、樹は病室を後にした。
「先刻、言えなかったんだけど……」
仁が申し訳なさそうに続ける。
「驚かせてしまったみたいでごめん。何回かノックしたんだけど、返事がなかったから」
樹は首を左右に振る。
「気付かなかった私が悪いんです。それに駐在さんは雪さんの御見舞いにいらしたんですよね? 私のせいで……すみません」
自分を心配し、共に村へ帰ろうとしてくれている仁を見上げる。
「御見舞いというか、様子を見に来ただけだから。それよりも樹ちゃんを、このまま一人で帰らせる方が心配。自覚してないかもしれないけど、かなり顔色が悪いよ」
本当に心配そうな声で、気遣いながら教えてくれる。
だから余計に辛くなる。苦しくて、泣き出しそうになる。
「それに今日、駐在さんは休みだから」
言われて初めて、仁が白いシャツにジーンズという私服姿だと気付く。
「あ……ごめんなさい」
思わず謝ると、仁は小さく笑みを浮かべた。
「非番というよりも休みを取ってなさすぎだって、上に怒られちゃってね。今は人もいるから、一日くらいはって言われたんだ」
人がいるという事は、沢山の人が啓を探しているという事だ。
樹には優しかった啓の記憶しかない。
あの夜ですら、自分を見た瞳は哀しみに彩られていた気がしてならなかった。
幼い時、苛められた事がある。
その時だけ、いつも側で守ってくれていた統が何故かいなかった。だから、意地悪な子供達に囲まれても逃げられなかった。
「村から出てけよっ!」
「余所者のくせにっ!」
二つに分けて結っていた髪を、力任せに引っ張られた。痛かったが、それよりも恐怖で声が出なかった。
彼らは不意に現れた存在でありながら、皇家で優遇され、都会から来た樹にあからさまな嫌悪感をぶつけたのだ。
「何とか言えよっ!」
髪を掴んでいた少年は、離すと同時に樹の右肩を力任せに押す。
土が擦れる音を激しく立てながら転んでしまうと、予想外な展開に子供達は動揺を見せた。
しかし樹自身はその事には全く気付かず、項垂れたまま、ぐっと涙を堪える。
「そこまでにしたら?」
耳に届く声。その主を樹は知っていた。
「啓……」
「啓だ」
ざわめきが走る。
「よってたかって格好悪いよ。もう止めとけって」
言いながら、どんどん啓は近付いて来る。子供達は後退りする。
そんな周りの状況など意に介さぬかのように啓の表情は涼しく、その姿は畏怖すら与えた。
地面に座り込む少女の一歩手前で立ち止まると、身を屈める。
俯いていた世界に影が落ち、樹は恐る恐る顔を上げる。
飛び込んできた穏やかな表情に包まれた途端、我慢していた涙が溢れ出た。
泥が付いてしまった両手の甲で、何度も頬を擦る。
そんな樹を啓は待ってくれた。
「統には黙っててあげるからさ」
柔和な物腰のままに仰ぎ見る。その瞳の奥は冷たい。
「消えなよ」
静かな怒りに子供達は散って行く。
「全く。余所者も何も関係ないくせに」
啓は自嘲気味に呟いた。
彼らは弱い者を虐げたいだけなのだ。そうする事でしか、己の存在意義を見出だせないのだ。
「気持ち悪い」
誰に聞かせるでもない、樹にも届かなかった呟き。
やがて啓は樹を支えると、ゆっくりと立ち上がらせる。そして、端正な顔を歪めた。
「膝、擦りむいてる」
白い肌に血が滲んでいる。
「駐在所まで歩ける? そこで手当てしてもらおっか」
緊張から解き放たれた樹は泣きじゃくりながら、何度も何度も頷いた。
「そういえば、樹ちゃん。啓とうちに来た事あったね。怪我したからって」
仁の言葉に、樹は現実に引き戻された。
「はい。駐在さんの……仁さんのお父様に手当てしていただきました」
啓に連れられ、立ち寄った駐在所には仁の父がいた。次いで救急箱を手にした仁が、急いで現れたのを思い出す。
「やはりお父様の影響で、今のお仕事に就かれたんですか?」
「う~ん……まぁ、そういう事になるのかな? 親父が病気で急に亡くなったから、異動願いを出したのは確かだし」
二人の優しさを思い出すと心が温かくなる。
「樹ちゃん」
仁は立ち止まり、真っ直ぐに樹を見つめた。
「啓はさ、優しい……いや、優しすぎるからさ」
同じく立ち止まった樹も深く頷く。
「私なら大丈夫です。ですから啓さんの事、よろしくお願いします」
そう言うと、自然に頭を下げていた。
「大丈夫。必ず啓を救ってみせるから」
仁の力強い言葉に、俯いた樹の頬には涙が伝わっていた。
病院の駐車場に停められていた軽自動車は見るからに年季が入っていた。
助手席に樹を乗せ、仁は一路、村を目指す。
「え? 皇の家に今はいないの?」
ハンドルを巧みに操りながら、仁は確認する。
「はい」
次いで樹は、自分が身を寄せている仮屋を伝える。
「そうか」
短く答えるとそれ以上、仁は何も言わなかった。
事情を知らない訳がない。でも自らの立場を弁え、沈黙を貫く。
そんな仁だから、村の皆から信頼されていた。
「あ、そうだ」
重くなってしまった空気を打破するかのように、仁が告げる。
「ちょっと花屋に寄ってもいいかな?」
「お花屋さんですか?」
自分を送り届けた後、再び病院に行くのだろうかと思い、樹は恐縮してしまう。
「あ、違うからね」
そんな樹の表情から察したのか、仁が弁明する。
「もう知っていると思うけど……」
その声音で、言い辛い内容だとわかる。
「仲間が一人、亡くなったんだ」
心臓が、きゅうと痛む。
きっと本当はこんな所ではなく、現場にいたかったのだと伝わってきて。
「同期、だったんだ」
何も言えない樹の耳に、仁の言葉がいつまでも残った。
「すみません」
町に一軒しかない小さな花屋には先客がいた。
「あら。駐在さん」
「こんにちは。楠さん」
仁の背後で、樹も会釈をする。だが純の態度は、明らかに彼女にだけ余所余所しかった。
「お買い物ですか?」
「ええ。御仏壇用のお花を」
二人の会話にも居辛さを感じ、樹はそっと店を出る。
純だけではない。今でも村の大多数の人々から、腫れ物を扱うかのような接し方をされる。
統や創が特別だったのだ。理や啓が貴重だったのだ。静や仁が稀少だったのだ。
皇の後ろ盾がなければ、知が築き上げた人徳がなければ、自分は無力な存在に過ぎない。
ふらりと目眩に襲われ、壁に手を付く。まして……
「こんな体なんて……」
意味があるのだろうか?
その時、苦悩する樹の心を慰めるような、可愛らしい歌声が聞こえてきた。
ひとつ いうこときかぬこは
ふたつ おやまにさらわれる
みっつ つかいにかみつかれ
よっつ じょうげにわけられて
いつつ いつまでなげいても
もう もとにはもどれない
ふらふらと歩を進めると、外壁が途切れる。建物の向かって右側にある空き地の片隅、小柄な背中が見える。
弾むビニールボールの軽快な音。その愛らしさと相反する歌詞。それらはかえって、樹を惹き付けた。
むっつ むだだとしりつつも
ななつ なおもすすむのは
やっつ やがてはむすばれる
ここのつ このよ いがいでも
とおで とうとう……
「結……ちゃん?」
自信が持てなくて、そっと声をかける。すると突いていたボールを宝物みたいに両手でしっかりと包み、少女はくるりと振り返った。
「こ……こんにちは」
戸惑いと好奇心。結の反応は当然だった。
樹の置かれている立場上、きちんと向き合うのは互いに初めてに近い。しかし、その成長した姿は過ぎた年月を感じさせた。
12年前、樹が村に来た頃に生まれた結。
事故のショックで皇家に身を寄せていた時、見かけた事があった。
にこやかな純の腕に抱かれ、すやすやと眠る無垢な寝顔。
小さくて柔らかくて、見ているだけで心が温かくなった。
その不思議な感覚は、後の樹の回復にも影響を与えた。
「結っ!」
突然、その場を裂くような鋭い叫びが届き、樹はびくりと肩を震わせる。
「あ、ママ」
しかし結は、そんな様子には全く気付かず、駆け出す。傍らを抜け、真っ直ぐに。
その時、例えがたい感覚が樹を縛った。それでも、どうにか振り向くと純と目が合った。それは余りにも冷たく、薔薇の棘みたいに心に突き刺さった。
「帰りましょう」
すっと逸らすと純は結を促し、踵を返す。
「わっ!」
「きゃっ!」
直後、短い驚嘆が重なり合う。
「だっ……大丈夫ですか?」
店から出てきた仁が純の顔を覗き込み、その表情を固める。
「仁もいたんだ!」
無邪気な結の声だけが、ちぐはぐに世界に響いた。
「ごっ……ごめんなさい」
小さく頭を下げると、純は娘の手を強く引く。
「失礼します」
「え~っ、まだ仁と全然話してないのにぃ」
唇を尖らせ、抗議したものの少女は笑顔を見せた。
「仁、またね」
そして楠親子は、去って行った。
「……ちゃん……樹ちゃん」
仁の声に、樹は視線を上げる。
「何かあった?」
しかし、無言のまま首を左右に振る事しか出来ない。
「私が結ちゃんに話しかけたから……」
だから、怒って……悲しくて悲しくて胸が締め付けられる。
たが仁は、それだけが原因ではないと思っていた。
先程の純を思い出す。
花屋で話した時は明るく朗らかだったのに、たった数分後には血の気が一斉に引いてしまったみたいに真っ青だった。まるで、何かに怯えているみたいに。
考え込む仁の腕の中で、白百合が淡い香りを放つ。その清楚な花を朧に見ながら、樹はこれ以上傷付かない為にと心を閉じた。
「ママ、痛い~」
今まで見た事のない母の姿。きつく握りしめられた手に、結が不安の声を上げる。
その訴えに、無我夢中で歩いていた純は我に返った。
「結……」
泣き出してしまいそうな娘を見つめると、力強く抱きしめた。
「ママ?」
「ごめん……ごめんね」
心配な気持ちでいっぱいになりながらも、結は結なりに純を労った。
樹が病院へと向かっていた頃、統は自宅で身仕度を整えていた。
「俺が協力する事でこの事件が終わるなら……啓を救えるなら手伝いたいんですっ!」
未成年を捜査に加える事に赤井は難色を示したが、統の覚悟の深さを感じた来栖が説得してくれた。
捜査協力をする。警察に許可も貰っている。
昨晩そう告げた時、両親は暫し言葉を発しなかった。
静は瞳を伏せると辛そうな表情をする。だが司は真っ直ぐに見てくれた。
「わかった」
反対されるとばかり思っていた統は許しを得る事が出来、内心驚いた。
そして自分自身で決めた道を、誰よりも司に肯定されたかった事に気付いた。
こんなにも父からの信頼を求めていたのだと知った。
「ありがとうございます」
力強く返し、明日に備える為に部屋を後にしようと立ち上がる。
「統」
その時、司の声が届いた。
「はい」
「明日の夕刻、理の亡骸を引き取る事にした。葬儀も私が執り行う」
無意識に息を呑んだ。拳を握り締め、ぎゅっと目を瞑る。
唇を噛み締めていた。真実が知りたいと、心の奥底から叫んだ。
「わかりました」
検死の結果を聞いた時の衝撃は今も消えていない。
震える声で、どうにか絞り出す。
「明日の夕刻には必ず戻ります」
心配そうな表情の静を視界の片隅に認めながらも書斎を出る。
後ろ手に閉めた扉に寄りかかると、
「では引き続き、各班に別れ……」
その日の捜索隊の陣頭を取っていたのは来栖だった。
赤井は皆を代表し、綾部の葬儀に参列している。
本当は誰よりも来栖が最期の別れをしたかった筈だと周りの誰もが思っていた。
しかし、来栖は残った。
綾部の死の謎を解明し、真実を遺族に伝える。それが自分に出来る弔いだと頑なに貫いていた。
その思いは赤井や仲間達は勿論、統ですら暗黙の内に汲み取れてしまった。
説明が終了すると、それぞれが分けられた班事に散って行く。
綾部の死について多くは語られなかった。
しかし、一部の村人達は口々に噂をしている。
若い刑事は山の使いの怒りに触れたのだ、と。
歩きながら、幼い頃に聞いた言い伝えを統は思い出していた。
村の奥に聳え立つ山には守り神様がいて、使いを従えていた。
その聖なる領域を犯してしまった時、警告の為に使いが人々を襲った。
事態を憂いだ皇家の初代当主がこの村を作り、山と共存する事で赦しを得た。
山を守っていて、山を抑えている。
山に守られていて、山に抑えられている。
『だから決して山神様への感謝の気持ちを忘れてはいけないのですよ』
そう告げた静の表情はとても厳しく、母として自分にしっかりと伝えてくれているのだと幼心に感じた。
山で遊べるのも恵みを分けてもらえるのも、村人達が敬い続けているから。
それら全ての基盤を作ったのは自分の祖先だと、言い聞かされて育った。
「……ん……統君」
呼ばれていると気付き、統は我に返った。
いつの間にか周りには誰もいなくなり、来栖だけが心配そうに見ている。
「すっ、すみません」
無理もないと来栖は思った。
見た目には落ち着き、大人びて見えるが、時折見せる影の部分がそうさせているだけで、統はまだ18歳になったばかりなのだ。
だが心優しく友達思いの少年は誰よりも真相を知りたいと、真実を見極めたいと渇望している。
『統君の力になってあげたいんです』
綾部も言っていた。あの真っ直ぐな眼差しで。
『彼は心に大きな傷を負っているのに、無理矢理それを捩じ伏せてしまっています。本当は強い芯の持ち主なのかもしれません。ですが、そのせいで壊れてしまわないか心配なんです』
ほんの僅かの交流。しかもそれは刑事と被害者の関係だったというのに。
綾部の人の良さだったのか、統の持つ魅力のせいなのか、それを今の来栖が判断する事は出来なかった。
「さぁ行こうか」
来栖の言葉に統は頷き、先に進んでいた班員達に目を向ける。ふと、ある事に気付いた。
「橘先輩は?」
仁の姿が見えない事に疑問を感じ、尋ねる。
「ああ。橘には別件で動いてもらっているんだ」
「別件、ですか?」
しかし来栖は無言で進むだけで、それ以上は何も教えてはくれなかった。
沈黙こそが答えなのだと受け止め、統は押し黙る。
意地悪で教えてくれなかった訳ではなく、それ以上は立ち入ってはいけない領域なのだと伝わって来たからだった。
「君達は確か学校の先輩後輩にあたるんだったね」
統の緊張を解そうと来栖は尋ねる。
「橘先輩は既に卒業されていましたが、小・中・高と同じ学校に通っています」
この小さな村には小・中学校を兼ねた学舎だけがあり、高校は雪が入院している病院がある町まで通う。だから仁とも年の差はあったが、同じ学校だった。
「お兄さんの創君は?」
不意の質問に統は一瞬だけ顔を曇らせたが、穏やかに返す。
「いえ、兄は病弱で通えませんでした。だから、先輩が時々勉強を教えに来てくれてたんです」
「橘はとても優秀だったらしいね」
来栖の脳裏に綾部が過る。
『抜群に優秀だったんです! まさに同期の星って感じでした!』
しかし統をこれ以上悲しませたくなくて、綾部から聞いたという事は伏せる。
「はい。橘先輩は生徒会長もされていました」
まるで我が事のように誇らしそうに話す統の口ぶりからも、仁が周りから頼りにされているのだと窺えた。
「村の子供達全員のお兄さんって感じかな?」
「そうです! そんな感じです!」
「じゃあ、あの場所は小さい頃から皆で遊んでいたのかな?」
雪が発見された洞穴。仁が先導し、辿り着いた秘密の隠れ家。
榊啓がいたと思われる痕跡だけが残っていた場所。
「あの場所、ですか?」
「あんな繁みの奥にあるのに近くの岩場からは村が一望出来て、その開けた景色に正直驚いたよ」
来栖の言葉に眉根を寄せながらも、統は記憶の糸を手繰る。
「もしかしたら……守り神様……」
「守り神様?」
初めて耳にした単語に来栖は反応する。
「はい。山神様を祀った祠があるんです。でも今は使われていないと母から聞いた事があります」
来栖の中で何かが引っかかる。だが、まだそれが何かを明確に出来ない。
胸にざわめく感覚を抱えながら、来栖は統と共に先に進む捜索隊に続いた。
もしもあの時、綾部の様子に気付いていたら何かが変わっただろうか? 何度も繰り返し、自問自答する。
しかし、あの時の自分は雪の残した言葉にしか注意が向かなかった。いや……興味がなかった。
「あの言葉の意味は……」
無意識の呟き。それが統に届いていたら、事件は早急な展開を見せていたかもしれない。
けれども来栖の長年に渡り培って来た慎重さと刑事としての勘が、今はまだ自分だけの胸に秘めておくべきだと告げたのだった。
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