電話
「……お母さん?」
知が手にした受話器の向こうからは、愛しい娘の声がした。
「芽? 芽なのかい?」
思わず声が震える。その様子に気付いた夫、
「……ごめんなさい」
涙声だった。言いたい事や聞きたい事が沢山あった。
しかし何よりも無事に生きていてくれた事に、二人は安堵した。
「……私……帰ってもいい?」
八年近く音信不通だった娘の帰宅を喜ばない親がいるだろうか?
「何を言ってるの! 当たり前でしょう? 帰っていらっしゃい」
知は絶対に、この電話を逃してはいけないと強く思った。それは崇も同じだった。だが同時に、伝わって来る不安も感じた。
「何も気にしなくていいの。大丈夫。私とお父さんで守るから」
それが到底無理だとしても、芽に帰って来て欲しかった。再び会えるなら、また親子三人で暮らせるなら、村を出ても構わないとさえ思った。
「……違う……違うの……そうじゃ……ないの……」
更に震え、途切れ途切れになる声。繋がった時から抱いていた違和感を、知は口にした。
「何かあったのね?」
その問いに堪え切れなくなったのか、芽は無理に抑え込んだ嗚咽を洩らす。
悲し気な声を耳にした崇は電話の向こうにいる娘を思い、瞳を曇らせた。
そして心配の余り、今にも崩れそうな妻の肩に手を置くと無言で支える。
夫を見つめ、知は小さく頷くと受話器を握る手に力を込めた。
「芽、お父さんとお母さんに全て話してちょうだい」
あのね、お母さん。お父さんも聞いて下さい。
私……子供を身籠りました。だから、家を出ました。
そして、産みました。男の子で槙と名付けました。
その時に支えてくれた男性と結婚しました。
彼の子供ではなかったけれど、本当の息子のように可愛がってくれました。
愛してくれました。
でも彼との間に新しい命を授かった時、急な病に倒れ、亡くなりました。
辛かった。苦しかった。絶望し、泣いてばかりいました。
けれども生まれてきた子を見た時、喜びの涙が止まりませんでした。
女の子です。樹っていいます。
それからは、親子三人だけで暮らしています。
お父さんとお母さんの事を忘れた日はありません。
でも親不孝だと罵られても、決して連絡をするつもりはありませんでした。
だけど……私のせいで子供達を危険な目に合わせてしまっているの。
お願い……助けてっ!
ストーカー被害。
警察にも相談した。職場にも直訴した。
しかし、それは男の狂気に拍車をかけただけだった。
その矛先は樹に向かい、いつか槙にも。
そんな男に一瞬でも惹かれかけた自分を芽は憎んだ。だから全てを捨て、逃げる道を選んだ。
それしか方法がないと思う位、子供達は怯えていた。そして何より、芽自身が限界だった。
通話を終えた崇と知は速やかに行動を起こす。
既に身辺整理を終えたという芽に公共の交通機関は足がつきやすいかもしれないからと、迎えの車を走らせる事にした。
万全を期したとしても男が追ってくる可能性もあると考え、管理を任されている空き家を一時的な隠れ場所にする事にした。
「御館様にはお話しておいた方が……」
「落ち着いたら時期を見て私から説明する。まずは三人の無事を確かめてからだ」
崇の言葉に知は頷く。
今、最優先すべきは、一刻も早く芽達を安全な場所に避難させる事だった。
「芽っ!」
再会を果たした芽は、すっかりと大人の女性に成長していた。
空き家で四人を待っていた知は、思わず駆け寄る。
「お母さんっ!」
泣き崩れる芽を支えると、崇の腕で眠る子供達を見上げる。
安らかな寝息を立てている槙と樹の寝顔に涙が溢れる。
「よく頑張って育てたわね」
知の言葉に芽は泣き続けた。
心配と迷惑ばかりをかけ続けた両親に、温かく迎えてもらえた事。非難ではなく認めてもらえた事。やっと安心して眠れる場所に辿り着けた事。その全てが芽の中で混ぜ合わさり、雫となった。
初めこそ緊張していたが、徐々に槙と樹は心を開いていった。
「まだ暫くは外で遊んではいけないよ」
遊び盛りの子供に酷とは思いながらも言い付けると、二人は約束を守り、家で過ごした。
しかし、いい事もあった。
働きづくめだった芽にとって、親子三人でいられる貴重な時間となった。
槙と樹にとっても、母に甘えられる至福の一時となった。
そんな三人を見る度、この平穏が続くと思った。
崇と知もやっと胸を撫で下ろす事が出来た。
「変ね」
柱時計を見上げる妻の姿に手元で広げていた本を閉じると、崇は眼鏡を外す。
「まだないのか?」
「ええ」
そう呟き、知は部屋の片隅のある一点を見つめる。
芽達が村に帰って来てから失った時を埋めるかのように、毎日必ず電話で会話を交わしていた。
必要な物や足りない物はないかを確認し、その日あった他愛もない事を話す。親子にとって、かけがえのない修復作業。
それが今夜は、まだなかった。
「子供達を寝かし付けているのかもしれない。そうだ。たまにはこちらから連絡してみよう」
知を安心させたくて、崇は努めて明るく言った。胸騒ぎを思い過ごしにしたかった。
「そうね。でも、驚かせてしまわないといいけど」
わざと弾んだ声で、知は崇に場を譲る。
電話に極端な恐怖を抱いている芽を心配したが、空き家の番号を知るのは限られた、ごく一部の人間だけだったので、自分達からだと気付き、出てくれる筈だと二人は思った。
古めかしいが、まだまだ現役の黒電話の受話器を耳にあてるとダイヤルを回す。
明らかに崇の顔が歪む。一度切り、再びかけるも静かに受話器を戻した。
「あなた?」
傍らにいる知の表情に不安が広がる。そんな妻の肩にそっと手を置くと、告げた。
「様子を見て来る」
急いで支度をしようとする知に、崇は続ける。
「お前は残るんだ」
微かな動揺が掌から伝わってくる。
「一時間経っても戻らなかった時は……御館様に連絡を」
最悪の場合をも想定している崇に、知は口元を押さえる。だが直ぐに表情を引き締めると、毅然と返した。
「わかりました」
レインコートを素早く身につけ、崇が家を後にする。激しく打ち付ける雨の中に消えて行く。
見送り続ける知は、その姿に三人の無事を託すしかなかった。
「槙、樹」
警戒する子供達の緊張を解そうと、芽は穏やかに告げた。
「おじいちゃんとおばあちゃんよ」
その時、二人の視線が崇に注がれた。次いで隣に座る知に移った。
不安そうな色を讃えた瞳は崇の心を抉り、知の胸を締め付けた。
幼い心に植え付けられた傷みは想像以上に深いと、まざまざと思い知らされた。
芽に聞きたい事は沢山あったが、余りにも疲弊している姿に言葉を失った。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
謝罪の言葉を繰り返すばかりの娘が不憫で、崇と知は時間が解決してくれるのを祈るしかなかった。
八年近く待っていたのだ。まだまだ待てる。本来あるべきだった失われた時間は、五人で新しく刻んでいけばいい。そう思った。
「はっ、初めまして」
先に口を開いたのは槙だった。
「はっ……初め……まして……」
兄の背に隠れ、服の裾をきゅっと握りながら消え入りそうな声で樹が続く。その姿が痛々しくて、知は優しく微笑んだ。
「初めまして。槙君、樹ちゃん」
頑張り屋で妹思い、母の手伝いも率先する槙。
甘えっ子で泣き虫、場を和ます力のある樹。
やっと出会えた孫達は、崇と知にとって新しく与えられた宝物だった。
知は生まれつき心臓が弱く、将来、子を宿すのは難しいかもしれないと言われていた。それでも妻に迎えると崇は決めていた。
最初は仕来たりに従った為だとしても、知の優しさに触れる内に本心から添い遂げたいと思った。
やがて二人は結ばれ、知は身籠り、難産の末に芽がこの世に生を受けた。しかし心臓に負担がかかりすぎてしまい、死の淵をさ迷った知の体は、もう二度と出産には立ち向かえないだろうと医師から宣告された。
だからこそ二人は、芽を大切に大切に育てた。たった一人の娘を慈しんだ。
宝物だった。親子三人、仲睦まじく暮らした。
高校生になった芽も、いずれ仕来たりに従うと思っていた。この村に生まれた以上、逆らえぬ運命と受け入れてくれると思い込んでいた。
だが、芽は消えた。何も言わずに。
崇は失望し、知は自分を責めた。
何か手がかりはないかと探した部屋は、いつ帰って来てもいいようにと当時のままの状態を保っている。
だが、その場に佇むと自分達が空の宝石箱の中にいるみたいに思えて、悲しみを誘うだけだった。
ハンドルを握る手が、しっとりと汗ばむ。
背筋を走るのは、例えようのない悪寒だった。
知には言えなかった事がある。
電話は繋がらなかったのではなく、繋がりようがなかったのだ。
電話線が切れている。その可能性に気付き、詳しくは説明せずに家を後にした。
一番最悪な状況を考えている自分がいた。
芽を説き伏せてでも、側に置くべきだったと後悔していた。
崇の胸に様々な思いが去来する。
やっと戻って来てくれたのだ。もう失いたくない。守ってやりたい。
今まで耐えて来た芽が、もう無理だと助けを求めて来たのに己の不甲斐なさに怒りを覚える。
何もかも捨て、捜すべきだったのだ。
村の仕来たりに縛られていたのは、他ならぬ自分だったのだ。
大切にしていた宝物を自ら手離した愚か者だと、今更ながらに思い知らされた。
うっすらと家が見えて来た時には、既に違和感を感じていた。
念の為、少し手前に車を停めると猟銃を持ち、降りる。
護身用ではない。明確な殺意があった。
もし何かあれば、崇は自分を抑えるつもりはなかった。父として祖父として、敵と対峙するつもりだった。
近付くと、壁沿いに電話線を辿ってみる。幸い抜かれているだけだと気付き、繋げると辺りに目を向ける。
すると車庫にあった古い車がなくなっている事に気付いた。何かあった時の為にと、芽にキーを渡していた。
慎重に裏庭に回ると、勝手口のドアノブに触れる。やはり鍵が、かかっていない。
音を立てぬように身を滑り込ませると、息を潜めながら歩を進める。猟銃を構えたまま、三人を捜した。
真っ先に寝室を覗くと、布団が乱れていた。浴室、洗面所、トイレと回るが気配はない。
再び玄関の側にある台所へと向かうと、手前の廊下で何かを蹴飛ばした。心臓を跳ね上がらせながらも屈むと、恐々と手にする。
「アイス……ピック?」
氷を砕く為の道具。だが尖った先端が黒く染まっているのを認めると、息を呑んだ。
確信してしまった。本当は来た時からわかっていたのに、認めたくなかった。
男は現れた。そして、三人を連れ去ったのだ。誰か怪我をしているかもしれない。
「いや、もしかしたら……」
そこまで考えて、崇は目の前が真っ暗になった。
「もしかしたら……もう……!」
恐ろしい想像に震えた。だが、ぐずぐずしている時間はない。知に電話をかけると指示を出し、急いで車に戻る。
まだ間に合うかもしれない。しかし、どちらに進めばいいかわからない……!
「街に向かったのか、それとも……」
冷静に努めようと、軽く目を閉じる。
「もし、死体を隠すなら……」
考えたくもないが、助手席に転がる小さな凶器を見る。迷っている暇はなかった。エンジンをかけ、アクセルを踏むと山へと向かった。
その判断に間違いがなかった事は、すぐに知れた。
立ち上る黒煙に、一番最悪な事態を思い浮かべる。
車を斜面ぎりぎりに寄せると、下を覗き込んだ。
なだらかな山道の傍らに、無惨に裏返る車体が見えた。
雨で霞んでいたが、その車には見覚えがあった。
回り込めば落下地点に行けるかもしれない。激しく動揺しながらも、崇は再びアクセルを踏んだ。
「頼む……無事でいてくれ……!」
強く強く祈った。
倒れている芽をいち早く発見すると、停止した車から転がり出る。
駆け寄り、その体を起こした。
「芽っ! しっかりしろっ!」
半ば叫びながら頬に触れると、その冷たさに泣きそうになった。
小さく呻いた芽の瞳が、うっすらと開いていく。しかし額から流れ落ちた血が雨粒に流され、視界を奪った。細めた目を一点に向けると、震える手を伸ばす。
「し……ん……み、き……」
崇は芽を急いで自らの車に運ぶと、示された方へと駆け出す。
初めて見た男には目もくれなかった。怒りや憎しみよりも先に、二人の身を案じていた。
最早その機能を失い、鉄屑と化した物体を覗くと後部座席に樹を認める。ぐったりと首を傾けていたが、目立った外傷は見当たらない。
重みでドアは開きそうになかったが、割れた窓から中に身を乗り出すとシートベルトの留め具に辛うじて触れる事が出来た。
それを外すと、破片等で傷付けぬよう慎重に救出する。
奇跡だと思った。そして同時に、いつも樹の側にいる槙の姿がない事に焦りを覚えた。
打ち付ける雨の中、周囲を順に見回すと自分のいる位置よりも離れた場所に茂みがある。その根元に槙がいた。樹を抱えたまま、崇は走っていた。
「……槙」
傍らに膝を折ると、冷え切った頬にそっと触れる。体中の到る所が傷を負い、血を滲ませていた。
ここからは想像でしかないが、芽と槙は落下の衝撃を受け、車外に放り出された。樹だけはシートベルトをしていた為、車の中に留まれた。そして、あの男は……
そこで崇は、考えるのを止めた。雨の中、二人の子供を抱え車内に戻ると、後部座席で意識を混濁させていた芽が突然、腕を広げる。
崇は頷くと槙と樹を預けた。運転席に乗り込み、車を発進させる。
「……うっ……うぅ……」
堪え切れず、嗚咽が溢れた。既に意識を失っているのに、芽は槙と樹をしっかりと抱きしめていた。
母なのだと思った。そんな娘を誇りに思った。
「……必ず……助ける……!」
頬を伝う涙に決意する。車は闇に吸い込まれていった。
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