死というもの
こんな事になるなんて夢にも思わなかった。
薄れゆく意識の底。
嘆いているのか自嘲しているのか、既に理解不能な自分がいる。
もう痛みもない。苦しみもない。
ここまでなんだ。そう思った魂の光は、急速に失われていく。
ただ一つだけの心残り。それは伝えられなかった真実。
後は静寂の闇。
「お疲れ様でした」
五時間前。綾部は皆にそう伝えると、役場に臨時に設けられた捜査本部を後にしようとした。
村には宿がない為、宿泊場所としても利用させてもらっていたので、労いの言葉をかけたとはいえ、別室で仮眠を取るだけなのだ。
「綾部」
「はい」
赤井に呼ばれたので、すぐに返事をし、近付く。
「お前、風呂に入ってないだろう?」
確かに村に来てから、入浴らしい入浴は出来ていない。だがそれは、この場にいる全ての者に当てはまる現実だった。
「それはいつもの事ですが……あっ! 俺、もしかして匂いますか?」
慌てふためきながらも綾部は自分の腕に鼻を押し付け、犬さながらに嗅ぐ。
その姿に殺伐としていた部屋の空気が少しだけ軽くなる。
笑いが辺りに響き、灯りが一段明るくなったようだと来栖は思った。
この若く素直な刑事は、場を和ませる力を持っている。
赤井も笑いを隠そうともせず、穏やかに続けた。
「実は皇の御当主から申し出があったんだ。屋敷の浴場を是非使って欲しいと。折角だから行って来い」
綾部は驚き、一瞬だけ目を見開く。
「いえ、自分よりも……」
言いながら、ちらりと来栖を忍び見る。
「俺達に遠慮する必要なんてない。気にせず行って来い」
来栖の言葉に周囲にも視線を送れば、皆も無言で同意を示してくれる。綾部も、これ以上は逆らわずにおこうと受け止める。
「わかりました。お先にいただきます」
深々と頭を下げると、捜査本部を後にした。
「そうとなれば急がないと」
仮眠室で着替えを用意すると、村役場を出る。
駐車場に停めてあった車に素早く乗り込むと、シートベルトをし、エンジンをかけ、アクセルを踏んだ。
しかし走りながら、洗面道具を忘れた事に気付く。戻るよりも買ってしまおうと、道中にある小さなコンビニへと寄った。
コンビニといっても名ばかりで、夜の10時には閉まってしまうそこは、御世辞にも品数が豊富とは言えなかった。
目当ての物がないかもしれないと心配したが、無事にハンドタオルとトラベルセットを購入する。
「ありがとうございました~」
妙に愛想のいい店員の声が、背中を這うように投げかけられる。
車に戻ると再びエンジンをかけた。
緩やかに走り出した車内で、綾部は以前から気になっていた事を考える。
それは心の片隅でずっと引っかかっていたが、不慣れな林道や先に控える細い道が徐々に浮かび上がると運転に集中しようと思い直す。
この言い知れぬ感覚を解決するには本人に確認を取ればいいだけの話なのだと、思考を切り替える。
ただでなくとも薄暗い林の間を抜けていると、闇を深く感じた。
「怖いだなんて言ったら来栖さんに笑われるな」
苦笑しながら洩らした呟きは、誰に届くはずもなかった。
皇邸に着くと、使用人らしき女性に迎えられた。
「綾部と申します。御当主様にお目通り願いたいのですが」
先に今回の礼を伝えたいと思い尋ねたのだが、その女性は顔を曇らせる。すると誰かが階段を降りてくる気配を感じ、綾部は顔を上げた。
「統君」
そこには事件に残酷な形で関わりを持ってしまった少年がいた。
「すみません。父は診察中で席を外してるんです」
神妙な面持ちに何かあったのだと感じる。統は声をかけ、女性を下がらせる。
「お母様は?」
「今は離れに」
診察中。離れ。
二つのキーワードだけで綾部は統の兄、皇創に何かあったのだと直感的に思った。同時に統の中に影を見た気がした。
だが、それも無理のない事だと考える。
仲の良かった幼なじみの内、一人を失い、一人は行方を追われ、そして一人は意識不明のまま病院で眠り続けている。
それら全てが、この二日間余りで起こったのだ。むしろ毅然としている姿が痛々しい位だった。
目が合えば、例えがたい表情で統に見つめられる
「御案内します」
「お願いします」
綾部は靴を脱ぎ揃え、用意されていたスリッパに履き変える。
気遣いながら進む背中。その後に無言で続く事しか出来なかった。
浴場の前で統と別れると広すぎる脱衣場を抜け、木の枠組みをされたガラス扉を横に開く。
「すご……桧風呂」
感激しながら、洗い場で髪と体をさっと洗う。待望の湯船に身を沈めると、溜まっていた疲れが一気に流れて行く気がした。
だが一人暮らしの部屋に備え付けられた小さな風呂に慣れてしまっていたせいか、暫くすると落ち着かずに辺りを見回す。
湯気で霞む皇邸の浴場は板張りの壁になっており、シャワーは勿論、サウナも完備されている。
「ちょっとした隠れ家的高級旅館って感じだな」
呟いた言葉は湿り気を帯びた空気に包まれ、反響しながら自分自身に降り注ぐ。
何故か心許ない気持ちになり、誤魔化すように熱い湯を両手で掬うと、勢いよく顔に浴びせた。
やがて思考は先程、中断した元へと戻る。
「あの時……どうして、あそこで?」
もっと事前に報告する機会は幾らでもあった筈だ。
「確か忘れていたみたいだけれど……」
綾部は悩んだ。自分のこの考えを尊敬する来栖に伝えるべきかと。
しかし確固たる何かが、全く掴めていない。
やはり一度、本人に会って話を聞いてからにすべきだと判断した。その為にも近々、その人物を訪ねてみようと思った。
ガラス越しに、ぼんやりと見える壁かけ時計が目に入る。
「そろそろ行くか」
幾分疲労は和らいだものの休息を求めたがっている体に対し、鞭打つように声に出す。
湯船から上がり、全身を拭き終えると新しいシャツに着替えた。
捜査本部に戻り、同様に疲れている仲間達と交替し、少しでも休んでもらおう。
そして自分の考えが正しかったのかどうかを確かめる事が出来たなら、その時に全てを来栖に伝えよう。
綾部は決意した。その表情は晴れやかだった。
その日は、昨夜遅くから降り出した雨が続いていた。
人の波を掻き分ける。
突然押し退けられた者は嫌悪感を露に振り返ったが、相手を認識すると一様に顔を歪め、視線を逸らした。
「来栖」
黒い傘の下、赤井の口元だけしか見えない。
その足元を辿れば、現実を認めたくない拒絶反応で視線が泳ぎそうになる。
「こんな……所で……」
あいつは……終わっていい筈がないんだっ!
叫んでしまいそうな己を必死で抑える。
それでも長年染み付いた刑事としての一連の流れが、否応なしに来栖を動かす。
躊躇いがちに伸びた指先は雨粒に打たれ、霞んで揺れる。いや、実際に震えていたのかもしれない。
やや硬質なビニールで出来た青いシートは隠し、包む為の物。
脳内に明確に示されても否定したい、強い葛藤に苛まれながら静かに捲る。
そこには自分が警察に勤めている限り、見守ってやりたいと思っていた……綾部の亡骸があった。
無言のまま冷たくなった頬を両手で包む。寄り添うように、傘が傾けられる。
周りを取り囲む仲間達は、誰もが言葉を失っていた。
「鑑識から報告があった」
既に半身が濡れてしまっている赤井の声を遠くに感じる。
「死因は……」
耳を塞ぎたくなる衝動を捩じ伏せ、懸命に耐える。
自分だけではない。赤井もここにいる全ての者も……辛いのだから。
出血多量と外傷性ショック、そして雨による体温の低下。
だが綾部の体には、まるで獣に襲われたかのような不可解な傷が多数あった。その中にはかなり深手のものも認められ、また体中の骨も折れていた。
「あの岩場から転落した可能性が高い」
赤井の言葉に顔を上げれば、目に刺さった雨粒が視界を滲ませる。
泣いているのかとさえ思った。それ程に狼狽えていた。
「残念だが、この雨で下足痕は流れてしまったらしい」
唇を噛み締めながら、赤井は締め括る。項垂れたまま、来栖はそっとシートを戻す。考えただけで息が止まった。
落下による衝撃と傷による出血で身動きが出来なくなり、降り出した雨に体力を奪われ、痛みと苦しみの中で助けを求めながら、最期は眠るように亡くなったのではないかと推察された。
県警の霊安室に嗚咽が呼応する。
報せを受け、駆け付けた綾部の母の悲痛な叫びだった。
父は息子が警察官である以上、覚悟はしていたのだろう。
気丈に妻を支えていた。
ああ、この方が……部屋の片隅で来栖は思う。
出来れば、こんな形では会いたくはなかった。
どうしてこの仕事を選んだのかと、綾部に尋ねた事がある。
『いや……あの……』
照れたように後頭部を擦りながら、それでも凛と。
『父が警察官なんです。だからでしょうか、自然に将来は自分もと思いました』
懐かしむように、はにかんだ笑顔。
『小さい頃からの夢だったんです』
「素晴らしい息子さんでした」
そう伝えると、深々と頭を下げる。
永遠の眠りに就いた息子に縋り付き、泣き叫ぶ妻から来栖を見る。
綾部が尊敬して止まなかった父は虚ろな眼差しのまま、静かに一礼した。
廊下の長椅子に座り、膝の上で組み合わせた手に顔を埋めている姿は声をかける事を躊躇わせた。
それでも……赤井はその男の名を呼ばなければならない。
「来栖」
「本部長」
そう返したが、二人は同期だった。赤井はキャリア、来栖はノンキャリア。
しかし、それを越えた友情が二人にはあった。
言葉に出さなくても、思いは一緒だった。
「警察は許さない。必ず捕まえる……そうだろう?」
来栖の言葉に赤井は力強く頷く。
「刑事殺しを」
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