親友

 苦しいな。早く楽になりたいよ。

 いつからかそう願うようになったけれど……それはいけない事なの?

「創さんっ!」

 お母さんの哀しい声。お父さんの力強い手。

 ごめんよ、統。

 本当に……ごめん。


 瞼を上げるのも辛かった。

 頭は重く、体は怠かった。

 しかし安心させなくてはという強い思いが、創をまたここに繋ぎ止めた。

「創さんっ!」

 静の歓喜の声を何度も耳にしてきた。

 司の安堵の表情も沢山見てきた。

 だから創は、再び眠りに堕ちていく。

 見たいと思った。

 あの頃の夢を。あの遠い夏の始まりを。


 厳しい暑さが近付こうとしていた。

「行っておいで」

「でも……」

 統はいつも遠慮していた。

「大丈夫だから」

 本当は付いていってやりたかった。でも迷惑をかけてしまう事を既に知っていたから、諦められた。

 だから弟が遊びに誘われていたら、その背中をそっと押してあげた。

 何度も何度も心配そうに振り返る、その姿を見送った。


 統が出かけてしまうと、孤独が沁みる。

 少し眠ろうかと布団に入ると、静がやって来る気配を感じた。

 自分を気遣い、音も立てずに廊下を歩く。

 だから、そんな自慢にもならない感覚が身に付いてしまった。

「創さん」

「起きています」

 障子越しに優しく声をかけられ、そっと返す。

「御館様の代理で知様を病院にお連れする事になりました。暫く留守にしますので、何かありましたら統さんにお願いして下さい」

 そう告げられ、心臓が跳ね上がった。統がいない事を悟られてはいけない。

「わかりました」

「いってまいります」

 明るく答えると、また音も立てずに静は去って行く。

「お婆様、大丈夫かな?」

 杠知は自分に付きっきりになってしまう母に代わり、弟の世話をしてくれている。しかし心臓に持病を抱えている事と高齢である事から月に一度、町の病院に通っていた。

 そんな知は村一番の物知りで、彼女の話を聞く事はこの部屋から離れられない創にとって数少ない楽しみだった。

 心だけでも自由に飛び回れる貴重な時間だった。

 二人の帰宅を心待ちにしながらも、ふとある事に気付く。

 今なら誰もいない。司も静も……統も。

 そう思ったら、体は布団から起き上がっていた。

 寝間着の上に羽織をかけると、恐る恐る障子を開ける。

 視界に映る見慣れた中庭ですら、創を誘惑した。

 いっそ飛び出してしまおうか。

 統の後を追い、山を駆け回り、川で魚釣りをしようか。

 そう考えて、創は自嘲気味に笑みを浮かべる。

 既に目眩がしていた。胸を押さえながら、膝を折る。

「いつもの事じゃないか……軽い方だし、直に治まる……」

 心に暗い影が落ちる。どうしてもそれを止められない。

「だっ……大丈夫?」

 突然声がして、創は顔を上げた。

 見知らぬ少年が心配そうに立っていた。


 眠りながら涙を流す創の姿に、静は胸を詰まらせる。

 あの日、僕は出会ったんだ……生涯の友に。


「君は?」

「俺? あ……えっと……」

 同い年位に見えたので警戒した訳ではなかったが、少年からは村の子供達とは明らかに違う匂いがした。

杠槙ゆずりは しん。ばぁちゃんの後を付いて来たんだ。でも、見失っちゃって」

 その名に驚いた。

「杠? 知様の?」

 すると槙は、こくこくと何度も頷く。

「知様なら病院に行かれたよ」

 幾分だが落ち着いた創は羽織を直しながら、ゆっくりと立ち上がる。

「病院? ばぁちゃん、どっか具合でも悪いのか?」

 弾けたように駆け寄る姿。

 自分が知について話してもいいのかと、創は逡巡する。

「二時間もすれば戻ると思う」

 槙の目には創が大人びて映り、年齢を不明にさせた。

「でも……」

 沈んだ声で槙は呟く。

「俺、帰らないと。それに後を付いて来た事……ばぁちゃんは知らないから」

 槙の様子に創は優しく告げる。

「わかった。じゃあ君がここに来た事は黙っておくよ」

「本当?」

 ぱっと明るくなった表情に頷きで返した。


 それから槙は、時々だが離れに顔を出してくれるようになった。

 通学もままならない創にとって、初めて出来た友達だった。

 統にも会ってほしいと思ったが、槙が来るのは大抵統が学校に行っている時だったので紹介しそびれていた。

「学校は? 行かなくていいの?」

「手続きの関係で、夏休み明けからになると思う」

 来てくれるのは嬉しいが心配になり尋ねると、槙は笑って答えてくれた。しかし、その笑顔に隠された影に創は気付いていた。

「そう」

 だけど、それ以上は聞かずに黙って佇む。

「創君」

 縁側に座り、庭に咲こうとしている向日葵を並んで見ていた。もうすぐ暑い夏がやって来て、夏休みに入る。

「創でいいよ」

 遊びに来てくれる友の為にと用意しておいたジュースをグラスに注ぐと、澄んだ音で氷が鳴いた。

「じゃ……じゃあ、創」

 名を呼んだ瞬間、真っ赤になった槙は、一気にグラスを空ける。そして大きく息を吐くと、告げた。

「今度、妹も連れて来ていい?」

「妹? 槙には妹さんがいるんだね」

「うん。大切な妹」

 少年は大きく頷き、満面の笑みを浮かべた。

 槙の発した響きから、彼が妹を本当に愛しく思っている事を感じる。

 だから創も素直に伝えた。

「僕にもいるよ。大切な弟」

 槙も創から、弟に対する愛情を受け取る。

「これからはずっと母さんと妹と三人で、この村に住む事になると思うんだ。だから、創には妹とも仲良くしてもらいたいんだ」

 槙の願いに創は目を細め、微笑む。

「じゃあ、これからも遊びに来てくれるんだね」

 嬉しかった。やっと出来た友達。

 そして初めて、親友と呼べるかもしれない存在。

 しかし、槙の浮かない顔に創は我に返る。

「ごめん。僕、調子に乗って図々しい事を……」

「ちっ、違うよ! 毎日でも遊びに来たいし」

 慌てながら告げると、槙はいつもの笑顔になる。

「ちょっと気になる事があるだけなんだ。でも、たいした事じゃないから」

 気になる事。きっと本当は……たいした事。

 槙の持つ影に触れてしまった気がしたが、その時は詳しい事情を知らなかった。

 話してくれるまで、聞くつもりもなかった。


 しかし、後に創は知る。

 槙の本当の父親は不明であり、妹とは異父兄妹だという事。

 そして槙の義父は妹が生まれて間もなく急な病で亡くなり、それからは二人の母が女手一つで育てて来たという事。

 だが最近になり、突然、彼らは村に戻って来たという事。

 多くを語れなかったのは、身を隠さねばならない切羽詰まった事情があったという事。


「俺が大人だったら……」

 不意に槙が呟く。

 かける言葉が見付からなかった。

 まだ幼かったから、何が正解で何が不正解かなんてわからなかった。

「創」

 真っ直ぐな瞳が、ぐんと迫る。

 その瞬間、全てが色を失い、二人は世界から遮断された。

 絶対に聞き逃してはいけない言葉を、槙が発するのだとわかった。

「もし俺に何かあったら妹を……樹を守ってくれ」

 樹。初めて耳にした、その名。

 まだ会った事すらないのに、創は頷いていた。

 何を言っているんだと言えない何かが、そこには確かにあった。

 抗えない流れのようなものを感じた。

「約束するよ」

 しっかりと返すと、槙は鮮やかに笑う。

 世界は元に戻る。

「そろそろ休むよね? 俺も帰らないと」

 槙は縁側から庭へと降り立つ。

「もうそんな時間?」

 暫くすれば、薬と水差しを乗せた盆を手に静がやって来る。

「今度、創のお母さんにも、ちゃんと挨拶するから」

 それは影に向き合う決意だったのではないかと、今なら思えた。

「槙っ!」

 創が声を張り上げる。

 初めての行動に、庭に紛れかけた槙から驚きが伝わって来る。

 だが振り向くと創が何かを言う前に、

「次は妹と来るからっ!」

 大きく手を振りながら、軽やかに去って行った。


「何かいい事でも?」

 苦い薬を水で無理矢理に飲み込んだ時、優しく問われた。

「え?」

「創さん。何だか嬉しそうだから」

 思わず聞き返すと、静まで嬉しそうに微笑んだ。

 初めての親友。こんな弱い自分に、大切な者を託してくれた絶対的な存在。

 初夏の午後、薬の副作用で微睡む瞼の裏で、向日葵の花みたいに笑う槙の姿が浮かぶ。

 幸福な気持ちで満たされ、深い眠りに落ちていく。


 それが彼の姿を見た最後になるなんて、夢にも思わずに。

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