春の午後

 暖かな陽気だった。

 廊下の突き当りにある丸窓の向こうに見える桜の木は花弁を散らし始めていて、書斎へと向かっていた統は暫し立ち止まった。

 瞳に惜しみ行く春が映る。

 その光景を華やかで美しいと捉えるか、切なくて哀しいと捉えるか。

 それは心持ち次第で、今の統は明らかに後者だった。

 もっと正確に言えば、気が重く憂鬱だった。

 その日の朝、珍しく朝食の席に司がいた。

 多忙で不在がちな父。創の世話でいない母。

 幼少の頃から、統は一人で食事をするのが常だった。

 それゆえ、不慣れな二人きりは緊張をもたらすだけで苦痛だった。


「統」

 呼ばれ、顔を上げる。

「今日の午後、何か予定はあるか?」

「いいえ。特には」

「では、13時に書斎に」

「わかりました」

 一方的に告げ、司は席を立つ。会話らしい会話もない。

 再び一人きりになった時には食欲はまるで失せ、そっと溜め息をついた。


 指定された時間まで、あと五分。

 しかし既に約束の場所の前に立っていた。

 あの桃色の花に見とれていなければ、もっと早く着いてしまっていただろう。

 時が近付くにつれ、居ても立ってもいられなくなってしまった。

 司に呼ばれた事には何か意味がある気がした。

 それに今後についても話さなければならない。いい機会だと思えた。

 重厚な扉をノックする。

「入りなさい」

「失礼します」

 開くと真っ先に目に飛び込んで来たのは母の姿。次いで窓辺に佇む父を認めたが、息子に一瞥すらせずに妻の隣に座る。

 居心地の悪さに喉の渇きを覚えたが、どうにか平静を装うと扉を閉める。そして統は、二人の向かいに座った。程なくして、ティーセットを乗せたワゴンが運ばれて来る。

「後は私が」

 静に託し、使用人は恭しく頭を垂れると退出した。

 ポットを傾け、カップに紅茶を注ぐ指先をじっと見ていた統は不意に思い出す。しなやかで美しい、その綺麗な白い手を独り占めしたいと何度思った事だろう、と。

「どうぞ」

 緊張に満ちた場を少しでも和らげたいという気遣いが、アールグレイの香りと共に伝わってくる。手を伸ばそうとして、司の視線に気付くと無意識に背筋が伸びる。

 紅茶は冷めていく。時間だけが過ぎていく。

「統」

「はい」

 素直に返事をする。

「この村の仕来たり、お前は心得ているか?」

 何故、今更そんな質問をと思ったが黙って頷く。

「時代錯誤だと反感を抱いている若い者も少なくないだろう。だが、古来より代々受け継がれてきた由緒正しい決まり事なんだ」

 因習の間違いだろうと反論したかったが、出来る訳もなく視線だけを落とした。

 その仕来たりに従い、両親は結ばれたのだ。

 そんな事を言ってしまったら、静を悲しませてしまうだけだった。

「その家の長子が跡を継ぐ、それはわかるな?」

 更に確認を求める問いに、例えようのない違和感を感じる。

「わかっています。でもそれが、どうしたというんですか?」

 反抗的な言い方をしてしまったのは、拭えない不安を誤魔化したかったからだ。

 だが、その後に続いた言葉に統は絶句する。

「創には時間がない」

 体が動かなかった。静を見れば沈痛な面持ちで俯いている。

 視線を戻す。部屋に入った時と変わらぬ表情のまま、司は真っ直ぐに自分を見ている。

「恐らく……もう永くない」

 頭の中が真っ白になる。目の前が真っ暗になる。

「仕来たりには続きがある」

 言われなくても知っている。しかし発しないまま、口を真一文字に結ぶ。

「例外として、その長子が跡を継げない場合、次の子……つまり、弟もしくは妹に権利を委ねる事が出来る」

 その決定権は長子……!

「次の当主は統、お前に任せたいと思っている」

 座っているのに、世界がぐるぐると回る感覚に陥る。

 創が決めた? 司に告げられて? それを静は納得したのか?

 自分が全く知らない所で、逃れられない運命が定まろうとしている。

 どうしようもない絶望感に襲われ、膝の上で握り締めた拳にはぎりぎりと爪が食い込んでいた。

「そんな……今更……」

 情けない声は震える。創がいなくなるなんて、耐えられないと思った。

 そして、それにより司の目が自分に向けられたという事実がたまらなく嫌だった。

「統。お前なら創の思い、理解出来る筈だ」

 初めて聞いた父親らしい言葉を狡いと思った。

 選択権はないのか? 逃げ場はないのか? そう叫びたかった。


 その時の事を思い出すと辛い。

 だが統は、再び司の前に座っていた。

 こうして向き合うのは、あの春の日の午後以来になる。

「少しは休めているか?」

 司なりに心配をしてくれているのだろう。

 それに対し、素直に感謝出来ない自分がいる。

 飢えた愛情を求める幼稚さに嫌気がさす。

 自宅での司は好んで和装でいる為、更に威厳を増して見えた。

 呑まれてしまう前に、心の内をぶつけなければと思った。

「杠の二人を……いえ、俺から樹を遠ざけようとしていますね?」

 その問いに、司は眉根一つ動かさない。

「本当はお父さんだってわかっている筈です。俺に皇家を継ぐなんて無理だと。それに……」

 あの日、言いそびれた決意。

「いずれは村を出て、樹と一緒になりたいと思ってます」

 その時、初めて司の表情が僅かに動いた。

 だが直ぐに元に戻ると、淡々と告げる。

「それは無理だ」

「どうしてですかっ!」

 かっとなり、思わず叫ぶ。

「今まで放っておいたのに今更……」

 孤独に耐えた日々が重くのしかかり、心を掻き乱す。

 そんな統を全く読め取れぬ目で見ていた司が口を開く。

 それは余りにも予想外な未来だった。

「樹は創の妻として迎える」

「……え?」

 頭の中が、一瞬で真っ白になる。

「何を言って……」

「創の望みだ。お婆様には、既に伝えてある」

 更なる衝撃だった。

「兄貴が? そんな……」

 少なくとも創だけは、自分の気持ちをわかってくれていると信じていた。だから、樹を諦めさせる為の司の嘘だと思いたかった。

「お前には雪という婚約者がいるだろう」

 何もわかっていない。樹の立場も、雪の状況も、啓の思いも……何一つ理解しようとしてくれていない。

 打ちひしがれ、絶望的な気持ちになった。

 その時、背後にある扉が激しい音を立てる。

「御館様っ!」

 静の悲痛な叫び。

「創さんが発作をっ!」

 医療具の入った鞄を手にすると、司は書斎を飛び出す。開け放たれた扉の先で動揺していた静は統に気付き、驚きで目を見開いた。

「統さん……」

「行って下さい」

 泣き出してしまいそうに顔を歪め、母は去って行く。

 創を思うと胸が軋む。

 離れに行くべきだろうか? だが自分に何が出来るというのだろうか?

 その場から動く事が出来なかった。余りにも多くの事が起こり、心が追い付かない。深い深い悲しみに襲われ、どうしようもなく混乱していた。


 古くから村を支えてきた皇家。その現当主たる司は、医者としての顔も持ち合わせている。

 過疎化の進みつつある小さな集落で、その存在は圧倒的で絶対だった。

 皆に慕われ、村を守る為ならば家族すら省みない。その姿を見続けてきた統は思う。

 まるで王だ。小さな小さな、一つの国の。

 そんな司でも、例外として優先する存在があった。

 それは創だ。司だけでなく、静も創に付きっきりだった。

 それを仕方のない事なのだと理解するには、当時の統はまだ幼かった。

 本当は分け隔てなく育てたい。しかし、それは難しい。

 思い余った静は、ある人物に相談をした。

 皇家に出入りしてくれていた知だった。

 もしあの頃、知がいてくれなかったら、統は母に愛されていると思う事が出来ないまま、成長していたかもしれない。

「静様は常に坊っちゃんを思っていますよ」

 知に言われるとそうだと思えて、子供なりに気持ちを昇華出来た。

 しかし司からは、どうしても愛情を感じられなかった。

 自分に父の目が向く事などないと、ずっと思っていた。

 その考えは年齢を重ねていけばいく程に増していき、だから未だにどう接すればいいのかわからない。

 父と子の間には深い溝が出来すぎていた。


 それでも、統には幼なじみ達がいてくれた。

 辛い時、寂しい時、共にいてくれた大切な存在だった。

 啓と山を駆け回った。理と川で釣りをした。雪と野原で花冠を作った。

 いつでも四人は一緒で、統は通じ合える幸福感を得る事が出来た。

 そして樹と出会い、愛する喜びを知った。

 やっと満たされた。それなのに今は誰もいなかった。

「啓」

 ぽつりと呟く。

「理……雪……」

 視界が滲む。

「……樹」

 項垂れたまま、小刻みに体が震える。

 こんなにも悲しくて涙しても、何も変わらない。

 それでも進まなくてはいけなかった。


 目的の場所に着いた時、空は夜の色を濃くしていた。

 今は立入禁止と化した家に比べると、格段に立派なその建物の前に降り立つ。

「当面の生活に必要そうな物は全て揃えておきましたので」

「ありがとうございます。御館様、静様によろしくお伝え下さい」

 送り届けてくれた運転手と知のやり取りを背後に、樹は動けずにいた。

 初めて訪れた筈のここを知っている気がした。言い知れぬ既視感に襲われ、記憶の糸を辿ろうと試みる。

 だが頭の奥で鈍い痛みが走るとそれは次第に増していき、ぼんやりとした靄をかけてしまった。

「樹」

 呼ばれて我に返ると、運転手が帰ろうとしていた。

 礼を改めて告げ、走り去る車を見送る。

 テールランプが赤く滲み、やがて闇に吸い込まれていった。

 門を抜け、家の前に立てば、玄関と廊下の明かりは点いていた。

「さて、お茶でも淹れようかね」

 そう残すと、知は向かって右側に姿を消す。

「やっぱり……知ってる」

 唇を噛み締め、樹は表情を曇らせる。

「だけど……思い出せない」

 諦めにも似た溜め息を吐くと、靴を脱ぐ。

 そして台所の暖簾を払い上げると、小さな背中に声をかけた。

「お婆様、私が……」

「大丈夫だよ。お前は座っておいで」

 優しく微笑まれる。こうなっては引き下がるしかないのを知っていた。

「ありがとうございます」

 素直に甘え、樹は向かいにある部屋の扉を開く。

 それ程大きくはない外観の建物だったが、広々としたリビングには庭へと続く大きな窓があった。

 壁にあるスイッチを押すとぱっと明るくなったが、その分だけ外の闇を感じた。

 窓辺に近付き、カーテンを閉めると背後に気配を感じる。

 振り返ると、ティーセットを乗せたトレイを手にした知が入って来た。

「美味しそうな紅茶を用意して下さっていたよ。いただこう」

 中央にあるテーブルにそれらを置くと、慣れた手付きで用意していく。

 その様子を眺めながら、樹は考えていた。

 やはり勘違いなどではなく、ここを知っている。

 その時もこうして、お茶が淹れられていくのを見ていた。

 その人は知ではない。では、誰だったのか?

 腰を下ろした二人がけのソファの右側を見る。そして……隣にいたのは?

 そんな思考を遮るように、目の前に温かな湯気の立つカップが差し出される。

 香り高い紅玉色に和まされ、ホットミルクを垂らす。

 一口飲むと、優しい甘さと柔らかな渋みに包まれた。

 知も向かいに座ると、紅茶を口に運ぶ。

 場所は違えども毎日目にしてきた光景に、気持ちが安らいでいくのを感じた。

 十二年前から紡いできた二人きりの時間が、沢山の愛情を注がれ育てられてきた事を物語っていた。

「樹」

 視線を上げた先に複雑な面持ちを認めて、一気に不安な気持ちになる。しかし無言のまま、待った。

「大事な話だから、よくお聞き」

 真剣な眼差しに頷きで返す。

「お前を創坊ちゃんのお側にと……皇家から正式な御申し出をいただいた」

 予想もしていなかった話に、樹の指はテーブルの上のティーカップを震わせる。

 真っ白なソーサーに、紅玉色が広がった。

「私を創お兄ちゃんの……?」

 それは逃れられない現実であり、統を諦めろという通達だった。

 知は樹の気持ちを痛い位に知っていたが、同時に自分が生まれ育ったこの村の仕来たりにも縛られていた。

 申し出と言えば聞こえはいいが、断る権利は無いに等しい。

 今の村の長は司であり、その命令は絶対なのだ。

 後継ぎとなる統の為、樹を遠ざけたい。

 だが、せめて創の願いを聞いてやりたい。

 それもまた親心なのだろう。

 けれども樹の気持ちは? 存在意義はどうなる?

 歯痒い思いに苛まれながらも、知は沈み切った表情の孫娘を見つめた。

「お婆様、ごめんなさい」

 樹は呟く。

「私、統ちゃんが好きです。でも、いつかこんな日がきてしまうのだろうと覚悟は出来ていました」

 気丈に振る舞う姿は痛々しく胸を貫く。

「だからといって、創お兄ちゃんに嫁ぐ事は出来ません。私が心に決めた方は、ただ一人なんですっ!」

 昂る感情を抑え込みながら、はぁと大きく息を吐く。

「もし従わないのが罪なら……私は村を出ます」

 真っ直ぐな思いを全身で受け止めた知は目を閉じ、そして再びゆっくりと開ける。

「わかっていたよ、樹。お前の気持ちは」

「お婆様……」

「御館様には私から、お断りしよう。心配しなくていい。二人で村を出ればいいだけの話さ」

 皺だらけの手が、樹の震える手を包む。

「家も無くなってしまった。何処に行くのも自由。だからもう泣くのはお止め」

 それでも涙は溢れる。

「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」

 首を左右に振り、知は優しい笑みを讃える。そして咽び泣く樹の背中を、擦り続けた。


 その頃、洞穴の捜索を終えた綾部は仲間と共に山を下りていた。予想通り、そこに榊啓はいなかった。

 あったのは襲われ、意識を失っていた椿雪だけ。

 しかし綾部には、気になる事があった。

「もし自分の考えが正しければ……」

 まだ刑事としての経験は浅くても、胸の内にざわめく何かを感じていた。

 綾部は思う。これが刑事の勘というものなのかもしれない、と。


 そして来栖は、椿雪の残した言葉を頭の中で巡らせていた。

 長年の経験が総動員して、ある一ヶ所を指し示している。

 刑事の勘、そんなものを信じている訳ではなかった。

 ここまで培った全てが今の自分を作ったのだと思っていた。

 しかし時折起こる閃きを、無視してはいけない事も知っていた。

「もう一度、捜査を立て直すべきかもしれない」

 来栖は呟いていた。

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