仮の家

 静を送り届け、自室へと向かう途中だった。

「樹……」

「お帰りなさい」

 心配そうな顔をしている。

 懸命に言葉を探すが、見付けられずにいるのが伝わって来る。

「部屋で話すよ」

 その言葉に他意はなかったが、人目を避けたい気持ちがあった。

 情けない姿を晒してしまう気がして、二人きりになりたかった。

 樹は頷き、後から付いてくる。階段を昇り、自室へと入った。


「紅茶でいい?」

 気持ちを落ち着けようと、備えられているティーセットに手を伸ばす。

「あ、私が……」

 樹がその行動を制した。しかし、統の手に触れると俯いてしまう。

 重ねられた手は次第に、小刻みに震え出した。

「樹?」

 驚いて見つめると、はらはらと花が散るように、涙が溢れ出している。

 泣き出すまいと必死で堪えていたのだと気付き、切なくなる。

「雪さん……まで……」

 絞り出すように、そう言うのが精一杯だった。

 重ね合った右手をそのままに、左手をそっと細い肩に添えると窓辺にある椅子に座らせる。

「きっと怖かったと思う……辛くて苦しくて……そう思ったら……雪さんの痛みを思ったら……私……私っ……!」

 思いの丈を一気に吐き出した少女を見つめながら、統は思う。

 雪の事を本当に一番理解出来るのは、樹なのかもしれないと。

「明日、俺も山に入ろうと思う」

 ずっと考えていた事を真っ先に伝えたいと思っていた。

「真実を見定めたいんだ」

 理の死の真相を知る覚悟があるなら、雪に再び笑顔を取り戻す決意があるなら、啓を必ず救うという揺るぎない意志があるなら、自分が出来る全ての事に全力を注ぐ。

 統はそう決意していた。

「私も行く」

 そんな統を真っ直ぐに見つめると、重ねた手の上にもう一方の手を樹は重ねる。

 その気持ちは嬉しい。でも、それは許せない。

「樹……」

 統は左手を更に重ねる。

「俺達の代わりに雪の側にいてあげてくれないか?」

 断れないと知りつつ、頼んだ。これ以上、危険な目に遇わせたくなかった。

 ゆっくりと樹は悲しそうな表情を浮かべる。

「雪、いつ意識が回復するかわからないんだ。だけど目覚めた時、誰かが側にいてやらないと……あいつ、寂しがるから……」

 意地っ張りな雪。その容姿や立ち振舞いから周りにもてはやされていたけれど、

『本当の私は、そんなのじゃない!』

 呟いた横顔。

 今思えば、雪からの言葉は全て自分に向けられていたのだとわかるのに。

 私を見て。私だけを見て、と。

「わかったわ」

 するりと左手が離れる。

「それに私が行っても、きっと足手まといになるよね……皆の分まで雪さんの側にいるわ」

 伏せた瞳の涙を拭うと、健気に告げた。

「樹、そんな意味で俺は頼んだんじゃない」

 誤解を招きたくなくて、思わず反論しかける。

「わかってるっ!」

 ぴしゃりと声を上げられ、今まで与えられた事のない気迫に統は押し黙る。

「わかってる……わかってるの……」

 ふるふるとかぶりを振りながら、樹は言葉を紡ぐ。

「統ちゃんが私を心配して言ってくれてるって……でもっ!」

 ぎゅっと手を強く握り返される。

「愛する人の側にいたいと……統ちゃんを救いたいと思っては駄目なの?」

 その思いに目頭が熱くなっていくのを止められなかった。その言葉だけで救われた気がした。

 無意識に伸ばしてしまった手は細い体を引き寄せ、壊してしまいそうな程に強く抱きしめていた。そして、慟哭する。

 正解の確率に蓋をして、見ない振りをしていた。

 純粋に認めたくなかった。

 沢山の罪を犯し、啓は逃亡したのかもしれない。

 このまま雪は、一生目覚めないかもしれない。

 どんなに理に会いたくても永遠に叶わない。

 四人で過ごした日々は……もう二度と帰って来ない……!

「そんなの……本当は嫌で……嫌でたまらないんだっ!」

 激しく感情を爆発させても、腕の中には樹がいてくれる。互いの痛みを受け止め、自身も辛い筈なのに何も言わずひっそりと。野に咲く可憐な花のように。

「もう嫌だ……誰も傷付けられたくない……失いたくないっ! その為だったら俺は……何だってする」

 暫くの後、落ち着きを取り戻した二人は互いに見つめ合った。

「統ちゃん」

 不謹慎にも樹の桜色の唇に目を奪われ、潤んだ瞳に囚われる。邪念を振り払うように視線を落とした時、ノックの音がした。

「はい」

 反射的に離れた統は動揺を隠しつつ、返事をする。

「失礼致します」

 その声に驚き、扉を開ける。

「お婆様っ! 休んでいなくて大丈夫なんですか?」

「はい」

 穏やかに佇む知に尋ねると、皺だらけの顔を優しく崩す。

「お婆様」

 だが弾かれたように近付いて来た孫娘を見つめると、一転して表情が曇る。

「まだ御挨拶をしていなかったのかい?」

「挨拶?」

 意味がわからず、反芻すると樹は俯く。代わりに知が答えた。

「実は御館様の御厚意で別邸をお貸しいただける事になりました。今日からは、そちらに参ります」

 寝耳に水だった。しかし、その裏にある意図を感じた。

 父は統の側に樹を置く事を嫌がっている。自分を跡継ぎにする為に……!

 決して樹を疎ましく扱っている訳ではない。しかし皇家次期当主の嫁として、迎える訳にはいかないと思っている。

 理由は単純だ。樹が村の人間ではないから。そんなものは創が家督を継ぐなら、問題ないと思っていた。だが、ある日突然、自分に目が向けられた。

「今まで……見向きもしなかったくせに……」

 二人の耳には届かぬようにと抑えた呟きは、こんこんと統の心に積もる。

「別邸って、あの山沿いの?」

 燻る思いを捩じ伏せたくて再び問いかけると、樹は頷く。

 皇家は村の中に幾つか別邸を所有している。今回二人にあてがわれたのは、今は使われていない小さな家だった。

「当面の生活に必要な物も揃えていただき、本当に感謝しております」

 そう言いながらも知の表情は浮かない。

 無理もない。住み慣れ、長年親しんだ家は今、黄色いテープが張り巡らされている。

 戻る事も出来ない。何一つ持ち出せない。

 あそこには知と樹が寄り添い、育んできた思い出が沢山詰まっている。

 だから、本当は辛いに違いなかった。

「その方がいいかもしれない」

 心が黒く染まる。

「ここでは気も休まらないだろうから」

 無意識の皮肉。内に秘めた暗い部分を見せるつもりなどなかった。

 はっと気付いた時には、二人は悲しそうな顔をしていた。

「毎日顔を出すよ」

 慌てて告げると、樹と知は小さく頷いた。

「お婆様」

「何だい?」

「私、明日から椿家のお手伝いをしたいと思ってます」

「雪さんの付き添いを、という意味だね?」

 知は一瞬、驚きの表情を見せるも、孫娘の意思を確認する。

「椿家の御二人方も、さぞ心を痛めておられるだろう。そうしてさしあげなさい。でも無理をして、御迷惑をかけてはいけないよ」

「はい」

 樹は力強く答える。

 自分の願いを聞き届けてくれた少女に深い感謝を抱きつつ、同時に些細な事で毒を吐いた自分を統は恥じる。

 もっと強くなりたい。そう心の底から思った。


 小さなバッグと両手に余る包み。それが今の二人の全てだった。

「車を御用意しておりますので」

 静の気遣いに深々と礼を述べ、二人は乗り込む。

「また明日」

 そう告げると、樹は小さく頷く。

 扉を閉めると、緩やかに発進する。

 テールランプが完全に見えなくなるまで、統と静は見送った。

「統さん?」

 樹を遠ざけたという事実に、最早憤りを抑えられずにいた。

 村の長として、司は正しいのだろう。しかし、納得は出来ない。

 決めたのだ。もう逃げないと。

「統さんっ!」

 静の追い縋る声を振り切り、統は歩を進める。

 父のいる書斎へと。

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