白い部屋

 白い壁。

 白いカーテン。

 白いシーツ。

 童話の姫のように眠る無垢な寝顔。


 連絡を受けた統は逸る気持ちを辛うじて抑えながら、町にある病院に駆け付けた。薄暗く長い廊下、病室の前に二つの影を認める。

 早歩きで近付くと雪の父、椿忠つばき あつしは表情を歪め、母のたまきは堪え切れず泣き出した。

 何も言えないまま、統は立ち尽くす。

「どうして? どうして雪が……!」

 狂ったようにかぶりを振る環を支えながら、忠は廊下の片隅にある長椅子へと座らせる。

 精神的に混乱し、追い詰められた姿は痛々しく胸を抉る。

 そんな妻に対し、どうしてやる事も出来ない忠の苦悩も伝わり、統は唇を噛み締めた。

 それでも確認しなくてはならない。

「雪に会えますか?」

 環を支えながら、忠が頷く。

 二人に一礼すると、統は病室の前に立った。


【椿雪様】

 名札を認識した途端、右手が震える。

 どうにか伸ばすと、引戸に触れる。

 左にスライドした扉が、スローモーションで動く。

 一歩、中に入る。病院特有の匂いが鼻腔を突いても、現実に逆らいたくなる。

 しかし衝立の奥にあるベッドの上には、首に包帯を巻かれた雪が酸素マスクを付け、横たわっていた。

 白、白、白……! 一瞬気が遠退き、よろめくと背後の壁にもたれる。

「大丈夫か?」

「……橘先輩」

 不意に聞こえた声に、はっと顔を上げる。

 視線の先には心配そうに見ている仁がいた。

「大丈夫です」

 すると仁はベッドの傍らにあった椅子を出し、座るようにと促す。

 目線が下がれば、それだけ雪に近くなり、統は激しく動揺した。

「聞きました」

 統は仁を見上げる。

「橘先輩が雪を発見し、病院まで付き添ってくれたと。本当にありがとうございます」

 しかし、仁の瞳は複雑な色に染まる。

「雪ちゃんは、お前達が秘密基地と呼んでいた洞穴の中で倒れていたんだ」

 後頭部を殴られたような衝撃に、統は項垂れる。

 どうして忘れていたのだろう? 小学生の時、啓が見付けた洞穴。四人だけの秘密にした場所。落ち着いて考えれば、容易に想像出来た筈なのに……!

 その苦悶の表情から統の気持ちを察し、仁はそっと肩に手を置く。

「自分を責めるな。あの状況なら誰だって混乱する。それにある意味、お前だって被害者なんだ」

 それでも統は堅く目を瞑り、拳を握り締める。どうして雪が、どうして理が、どうして啓が……! 問うても応えなどないのに、繰り返してしまう堂々巡りだった。

 耳に響く呼吸器の規則正しい機械音に目を開ける。そこからチューブが伸び、口元にあてがわれたマスクに雪を繋ぎ止める酸素を送っている。

 泣かずにはいられなかった。何故こうなってしまったのか? 心が付いていけない。

「少し外に出よう」

 仁の優しさに無言で何度も頷く。足元から崩れてしまいそうな錯覚と戦いながらも立ち上がり、告げた。

「また来るから」

 無反応のまま、身動き一つせずに眠り続ける。

 届かない。

 あの夜に見た雪の傷付いた瞳が、泣き叫んでいた姿が鮮明に甦る。

 この気持ちを人は絶望と呼ぶのだろうか?

 雪が大切だった。友達だから傷付けたくなかった。そんな考えに縛られ、気持ちに向き合わなかった。曖昧な態度が余計に傷付けてしまっていたのに。

 啓の気持ちを知っていた。関係を崩したくなかった。だから複雑に糸は絡まってしまったのに。

 自分には樹がいる。そうちゃんと伝えていれば何かが変わっていたのか?

 理は死ななくて済んだのか?

 程なくして主治医らしき白衣姿の男性、忠、環が現れる。

「申し訳ありません。御家族の方に説明をしますので、席を外していただけますか?」

 警察官である仁と明らかに部外者である統に、医者は同意を求める。

「わかりました」

 別れの挨拶をしようと、仁と統は視線を向ける。

「構いません」

「先生、二人は私達の家族も同然なんです」

 忠が告げると、環も続く。

「わかりました」

 医者は申し出を受け入れ、カルテを開いた。

「椿雪さんは搬送された時点で、既に今の状態でした。これは長時間、脳に酸素が届いていなかった事が要因と思われます。発見時、一時的に意識を取り戻していたと警察の方から報告を受けていましたが、このまま続くと……」

 一旦言葉を切ると、四人を見つめる。

「意識を回復する可能性が非常に低いという事も覚悟しておいて下さい」

「そんなっ!」

 残酷な告知に環の悲痛な叫びが重なる。

「統、行こう」

 ぐらぐらと視界が揺れる中、統は仁に促される。

「ここから先は……俺達が立ち入ってはいけない領域だ」

 震える声に病室を見渡すと、崩れる環と立ち尽くす忠がいた。

 その先に雪がいる。そこに確かにいるのに……!

 覚束ない足で廊下に出ると、泣き声が背中を刺した。

 医者は二人の後に続くと目礼し、去って行く。

 追いかけてしまいそうな衝動に顔を上げると、仁に押さえ込まれた。

「落ち着けっ!」

 普段の穏やかさからは想像も出来ない力。瞳を覗き込まれ、息を止める。

「今は帰れ。そして休むんだ」

 到底無理な事を承知で、それでも告げてくれているのがわかるから胸に迫る。頷くのがやっとで、ふらふらとその場を後にした。

 病院の敷地内にある駐車場に着くと、待機してくれていた車に乗り込む。長年運転手として勤めてくれている村人は、ただならぬ統の様子に言葉が見付からず、そっと発進させた。

 後部座席に深く沈んだまま、流れる景色を目で追っていく。

 のどかな光景だった。

 だが現実では殺人事件が起こり、死者が出ている。

 襲われた者が意識不明の重体になっている。

 それら全てに自分の大切な人々が関わってしまっている。

 舗装の整っていない道は激しい揺れをもたらす。そんな中でも、統は事件の整理を始めた。


 事件が起こったのは昨夜。

 啓が樹を襲った。

 しかし、それは本意ではなく、あくまで雪の願いを聞き入れたに違いない。

 その時、統の中で小さな棘のように引っかかるものがあった。

 どうして理は樹の元へと駆け付けられたのだろう? 確かに樹と理の家は目と鼻の先だ。偶然、啓の姿を見たのだろうか? もし、そうだとしたら聡明な理の事だ。様子がおかしいと気付いたのかもしれない。

 想像だけだ。断定は出来ない。答えが見付かる訳もなく、両手で顔を覆う。

 そして、今回の事件。雪が襲われた。誰に……啓に? 襲ったのは啓なのか?

 でも啓が? 雪を誰よりも大切に思い、心から愛していたのに?

 浮かんでは消える思考の海で、溺れそうになる。苦しくて仕方がない。

 やがて車は村の中へと入る。屋敷の前に着くと、玄関で静が出迎えてくれた。


「雪さんは?」

 不安げな表情で尋ねられると、悲しませたくないと思う。しかし皇家を代表して行った手前、報告しない訳にはいかない。重い口を開くと、自分が知りうる限りの全てを告げた。

「そんな……」

 聞き終えた静は瞬時に青ざめると、よろめく。

「母さんっ!」

 とっさに支えると、小刻みに震えていた。その姿は、か弱い小動物のようだった。

「大丈夫?」

 そっと声をかけると、青白い顔のまま目を伏せる。

「ごめんなさい……でも、忠さんや環さんの事を考えたら……」

 静は雪の両親とも懇意にしていた。二人の嘆きを実際に見ている統は、知らず知らずの内に唇を噛み締める。

「それに……」

 静は息子を見つめる。

「あなただって……辛いはず」

 核心に触れられた。母は続ける。

「理君を失い、啓君は行方がわからない。その上、雪さんまで……どうして……」

 何も言えなかった。しかし静が自分を心配し、常に気にかけてくれていたのだと痛い程に感じた。その事実は凍てつきそうな心を温めた。

「部屋まで送るよ。俺も休むから」

 仁に言われたのもあるが、静を少しでも安心させたいという思いが強かった。

「私は大丈夫。統さんは、お部屋へ」

「いや、母さんも寝てないんだろう? 俺も休む。約束する。だから……」

 気丈に振る舞う姿に、統は真っ直ぐな思いを伝える。静は母の顔になる。

「では、送って下さる?」

 嬉しかった。優しい子に育ってくれたと。

 そして、心配だった。その優しさが、いつか統を苦しめるのではないかと。

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