創と樹

「もう泣かないで」

 顔を上げたら、心配そうに覗き込む男の子がいた。

「……ママが……お兄ちゃんが……」

 泣きじゃくるだけで、上手く説明が出来ない。

「そう」

 悲しそうな瞳。でも直ぐに優しい眼差しに変わると、こう告げてくれた。

「約束する。これからは僕が君を守る」

 それは……遠い夏の記憶。


 冷たい感触に、ゆっくりと覚醒していくのを感じた。

「静様……お婆様……」

 朧気な視界には、心配そうに自分を見つめる静と知の姿があった。

 安堵の表情を浮かべる二人に、自分がまた倒れたのだと気付かされる。

 弱い体。弱い心。ちっぽけな存在。

「大丈夫かい?」

 額に乗せられた手拭いを落とさぬよう、樹は頷く。

 しかし、そう尋ねた知の顔色も悪かった。

「御約束いただけましたね?」

 静が知に向き直る。

「樹さんが目覚めたら、知様もお休み下さると」

「では御言葉に甘えて、少しだけ休ませていただきます」

 静の労りを込めた気遣いに、知は深々と頭を下げる。

「そんな……お顔を上げて下さい」

 慌てて知の肩に触れた静が、はっと息を呑む。

 その驚きは、床に伏せている樹にも伝わった。

「本当に……無事でよかった……」

 俯いたまま、小さな体を丸める。

「お前にもしもの事があったら、私は芽に……お前のお母さんに会わせる顔がなくなってしまう」

「お婆様……」

 胸が詰まり、樹は言葉を失う。

「さぁ、知様」

 静に支えられ、知は立ち上がる。

「樹さんも休んで下さいね」

 そっと残すと、静は知と共に部屋を去っていった。

 一人になった途端、知に何も言えなかった自分に憤りを覚え、涙が滲む。

 泣いて何かが変わる訳ではない。

 わかっているから、ぎゅっと目を瞑る。

 そんな事、あの時から嫌と言う位に知ってしまった。


「お母さん、樹は?」

 その声に思わず目を開き、視線を向ける。

 閉めきられた障子に三つの影が揺らめく。

 それだけで、こんなにも安心出来るのは、独りではないと感じるからだ。

「お婆様、大丈夫ですか?」

 創の言葉に頷く知の影。労いのこもった声は穏やかで安らいだ。

「創さん」

 同じように優しい声。

「暫くの間、樹さんの側にいてさしあげて」

「わかりました」

 静の言葉に創の影が頷く。

 着物の衣擦れの音を微かに響かせながら、二つの影が去って行く。

「樹、入っても大丈夫かい?」

 こちらを向いた影から届いた声は、遠慮がちだった。

 創らしくて心が温かくなる。

「はい」

 樹は直ぐに返事をしていた。

 そんな創に、ずっと会いたかった。


 樹の声を耳にすると、創は音も立てず障子を開けた。そして滑り込むように部屋に入ると、そっと閉める。

 その優雅な立ち振舞いは、ちっとも変わっていない。

 久し振りに目にする姿。樹の胸は先程とは打って変わって、喜びで熱くなった。

 横たわる樹の枕元一歩手前、膝を折ると創は淡く微笑む。

「久しぶりだね」

「創お兄ちゃん」

 無意識に微笑み返してしまうのは、樹が創を信頼しているからだ。

 その声を聞くだけで、安心出来たからだ。

 起き上がろうとしたが、手だけで制される。

「そのままで」

 樹は小さく頷き、創の言葉に甘える事にした。

「創お兄ちゃんは、お休みしていなくても大丈夫なの?」

 それだけが気がかりだった。

「今日は珍しく朝から体調がいいんだ。樹に会えたからかもしれないね」

 創は微笑むと、必要な嘘をついた。

「統は?」

 この場にいない弟を不思議に思い尋ねると、樹は暗い表情を浮かべた。

 俗世から切り離された生活をしている創の耳にも、既に事件については報されていた。

 啓の事も理の事も幼い頃から知っている。

 そして統が、どれだけ二人を大切に思っているかも。

 統を思うと心が痛み、無意識に目を伏せる。

 左胸を押さえた創に気付いた樹は、心配そうな声を出した。

「創お兄ちゃん……大丈夫?」

 その眼差しを見れば、どれだけ不安を与えてしまったか創にはわかった。

「大丈夫。悪い癖みたいなものだから」

「本当に?」

 穏やかに告げても、樹はまだ不安そうに創を見つめている。

「本当だよ。僕が樹に嘘をついた事があったかい?」

 創は目上の人や両親の前では自分の事を私と言うが、樹の前では僕と言ってしまう。少女の前では飾らない自分でいたいと思っていたからだ。

 掛布団に顔を埋めながら、樹は首を左右に振る。

 創は嘘をつかないと、無言で肯定した。


 その頃、統は離れへと続く渡り廊下を急いでいた。

 すると前方から静と知が、こちらに向かって来る姿を認める。

「統さん」

 自分に気付いてくれた声に、近付く。

 裸足の裏から伝わる熱が、うだるような気温の上昇を予感させた。

「お婆様、大丈夫ですか?」

 顔色の優れない知に尋ねると、弱々しく頷く。

「参りましょうか」

 静の言葉に、統は本当に聞きたかった事を呑み込む。

 しばし立ち尽くしたまま二人を見送ると、樹の元へと足を早めた。

 段々と部屋に近付くと、人の気配を感じる。

 見なくても創がいるのだろうとわかった。

 熱が下がれば、樹の側にいてくれているだろうと思っていた。

「兄貴、樹」

 障子越しに声をかけた。

「統ちゃん」

「お入り」

 樹の明るく振る舞う声と、創の優しい声。

 統は部屋の中へと入った。


 部屋の中央に敷かれた布団の上に横たわる樹は、やはり無理をして明るい声を出していたのだと一目でわかる位に顔色が悪かった。

 その傍らで佇む創は儚くて、そんな二人がいる静止画は美しい。

 共通の匂いを持つ者達の前に統は座った。

「では、僕は失礼するよ」

 突然、創が腰を浮かす。

「創お兄ちゃん?」

「兄貴?」

 同時に驚きの声を上げる。

「そろそろ薬を飲む時間なんだ。それに少し休まないと、また叱られてしまうからね」

 そう言いながら、創は立ち上がる。

「また……お話出来る?」

「勿論だよ。また会いに来るからね」

 寂しげな樹に優しく返す。

「部屋まで送るよ」

 今朝の事が頭を過り、不安に襲われた統は立ち上がりかける。

 しかし創は、ゆっくりと首を左右に振る。

「今度は統、お前が側に。樹はずっと待ってたんだ」

 たちまち樹の頬が染まる。

 優しい眼差しで二人を見つめると、創は部屋を後にした。

「統ちゃん」

 名を呼ばれ、統は少女を見つめる。

「辛かっただろう?」

 まだ赤い頬に触れると、熱を帯びた肌はしっとりと吸いつくように掌に馴染んだ。

「統ちゃんは? 大丈夫?」

 不安と心配とが入り交じる声。

 それでも必要以上の事は言わない。昔からそうだった。

「俺は大丈夫」

 見えすいた嘘でも安心させたかった。

 せめて樹だけは、これ以上傷付かせたくなかった。

 何もわからず、答えも見つからない。

 だから今は啓が姿を現し、真実を教えてくれる事を待つしか出来ない。

「統ちゃん、憶えてる?」

 自分の世界に閉じ籠もりかけた瞬間、その問いが鍵をかけてしまいそうになった心の扉を、小さく叩く。

「私が家族を亡くして、それを初めて自覚して……ここのお庭で泣いていた時の事」

 正直、心当たりがなかった。

 樹と出会った時、彼女はすっかり落ち着きを取り戻し、話も出来る位に回復していたのだ。

 それはきっと……自分ではなく創ではないかと、統は思った。

 言いかけるよりも先に、しっかりとした声が耳を貫く。

「約束する。これからは僕が君を守る」

 そう言って、樹は本当に嬉しそうな表情を浮かべた。

「その時、思ったの。私は独りじゃないんだって」

 統には言えなかった。

「その約束通り、ずっと私を守ってくれた。だから……今度は私が統ちゃんを守りたいの」

 健気な決意に真実を呑み込んだ。脳裏には創の姿が浮かんでいた。

「……ありがとう」

 筋違いを承知の上で伝える。

 だが心の片隅では創と樹の幼き日の約束に、嫉妬している自分がいる事を感じていた。

 認めたくなくて、そっと視線を落とした。

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