涙
落ち着きを取り戻した静に後を託すと、布団から見送る創に統は別れを告げる。
そのまま部屋に戻りかけたが、泣き腫らした顔や汗で汚れた体を悪夢のような現実と共に洗い流したい衝動に駆られ、本館にある大浴場に足を向けた。
脱衣場で脱いだシャツを見た途端、昨夜の事が思い出され、吐き気が込み上げる。
思わず洗面台に顔を埋めると、麻痺していた感覚が俄に活動を始め出した。
殺人事件。理の死に心を砕いて、啓の事から目を背けていた。
「啓……何処にいるんだよ……理……どうして……」
呻きに近い囁きを洩らし、両手で洗面台を掴んだまま、統の膝は折れていった。
鏡に映る青白い顔から目を背け、ふらふらと浴場に入る。壁際に備えられたシャワーのハンドルを捻ると、勢いよく注がれる湯を頭から浴びた。
何もかも流れてしまえ。一息吐くと、適温に保たれた湯に体を沈めた。
軽く目を閉じると思考が蕩けてしまいそうになり、そうしている間だけは無心になれた。
しばらくして湯から上がると、脱衣場で濡れた髪と体を拭く。
そして改めて自分が脱ぎ捨てた服を見ていたら、例えようのない感情に支配された。
「高校最後の夏休み、夏祭りや海に行く約束もしていたのに……」
行き場のない気持ちを抱えたまま着替えると、浴場を後にした。
まだ朝早い屋敷は全体的に、しんと静まり返っている。
しかし食堂の奥にある台所からだけは、使用人達が忙しそうに朝食の仕度をしている様子が伝わってきた。
受け入れがたい現実と、いつもと変わらない日常。
そのちぐはぐな感覚を持て余しながら、通り過ぎる。
二階にある自室に向かおうと階段を上りかけた時、呼び止められた。
振り返ると、先程別れた静が立っていた。
「兄貴は?」
「創さんなら大丈夫」
「そう。よかった」
統は胸を撫で下ろす。すると静は、手にしていた盆を差し出した。
「これを」
静の作るお握りは三角型ではなく俵型なので、すぐにわかった。
「母さんが作ってくれたんだ」
自分が風呂に入っている間に、急いで用意してくれたのだろう。
何も食べていない、眠ってもいない。
そんな張りつめていた感覚が、優しさに溶かされていく。
「ありがとう」
受け取ると、一人分にしては量が多いと気付く。
「樹さん、目が覚めたの」
「え?」
司から何かしら言われている筈なのに、そう告げた静の表情は頑なだった。
「行ってあげなさい」
統は頷くと、再び離れへと向かった。
樹の休む部屋の前に着くと、そろりと声をかける。
「はい」
意外にもしっかりと返事があったので、統は尋ねた。
「入ってもいいかな?」
「どうぞ」
続いた言葉に障子を開ける。布団を畳もうとしている姿に驚き、盆を置くと横から制した。
「何してるんだ?」
「何って……」
「休んでないと駄目じゃないかっ!」
戸惑いを遮り、声を荒げてしまった自分に統は息を呑んだ。
「……ごめんなさい」
「違う! 樹は悪くない! 俺が……どうかしてるんだ」
俯き、呟く樹から目を逸らす。混乱した頭を抱え、項垂れる。
頬に伝わる感触。ゆっくりと視線を向ければ、心配そうに見つめる瞳があった。
そこにいてくれる。その安心感から、衝動的に統は樹を抱きしめた。
「統ちゃん」
心地よい温度だった。
何も言わなくても、二人で心の痛みを別ち合える。そう思えた。
微かに湿り気の残る髪から、淡い香りがする。
「離れの風呂、久しぶりだったろう? 着替えとか大丈夫だった?」
「本当に懐かしかった。服は静様が借して下さったの。だから、心配しないで」
胸元に繊細な刺繍がレースと共に施された、白いブラウスと黒のフレアースカート。言われてみれば、滅多に洋装をしない静が着ていたのを幼い時に見た気がした。
「母さんがお握りを作ってくれたんだけど、食べられそうかな?」
名残惜しそうにそっと体を離すと、傍らに置いていた盆を引き寄せる。
樹が頷くと統は立ち上がり、布団を部屋の隅に畳む。
続いて、
その間に樹は、部屋に備え付けられていた茶道具を揃える。
そして二人で向かい合い、朝食を食べた。
素朴な味が体中に満ちて、気持ちが落ち着いていくのを感じる。
空になった湯飲みに二杯目を注いでくれている時、統は思い切って尋ねた。
「あの夜、何があったんだ?」
顔色が瞬時に青ざめる。
だが、覚悟していたのだろう。震える手でどうにか急須を置くと、樹は俯く。
やがて顔を上げると、真っ直ぐに統の瞳を見た。
「あの夜……」
紡ごうとした声さえも震える。
「啓さんに……襲われたの」
危うく指先にあった湯飲みを倒してしまいそうになる程の衝撃だった。
『統』
笑顔の啓が脳裏を過る。
『俺さ。雪が好きなんだ』
脈絡もなく、唐突に打ち明けられた。
その時は珍しく二人きりで、皆で遊んだあの山の岩場に並んで座っていた。
『今更? 知ってるよ、そんな事』
しれっと返すと、照れたのか啓はそっぽを向いた。
あの啓が……樹を?
「ごめんなさい……こんな言い方をしたら誤解を招いてしまうって……わかって……いるのに……」
視線を落とし、消え入りそうな声で続ける。
「でも……でもっ! 他に何て説明したらいいのか……わから……わからな……くて……」
一気に吐露し、樹は涙を零した。
暗い夜道で抱き止めた姿を思い出す。
着ていたワンピースの胸元は引き裂かれ、裸足は泥にまみれていた。
それだけで十分じゃないのか?
両手で顔を覆い、泣いている樹に近付くと、そっと肩を抱き寄せた。
「何か……されたのか?」
自分でも残酷な質問をしているとわかっている。
びくんと体を強張らせ、顔を上げた樹は何度も首を左右に振った。
「何も……何もなかった……! 理さんが助けてくれたから……!」
濡れた瞳は信じてほしいと強く訴えていた。
大丈夫だと安心させたくて、再び強く抱きしめる。
「そうか、理が……ごめん。話すのも思い出すのも辛いのに」
腕の中で堰を切ったように号泣する樹の涙が、シャツを濡らしていく。
その髪を優しく撫でながら、統は昨夜の惨劇が何故起こったのかに、一歩近付いた気がしていた。
やがて少しずつ落ち着きを取り戻した樹は、真っ赤な目のまま呟いた。
「私、理さんに会いたい」
一瞬にして、頭が真っ白になる。
まだ、樹は知らないのだ。あの現場を目の当たりにし、気を失っていたのだから無理もない。
樹が目覚めた事を教えてくれ、食事を摂るように勧めてくれたのは、警察が来る前に二人きりになる時間を作らせてくれたのだと改めて気付く。
他の誰でもない統の口から、真実を伝えるべきだという母の配慮だと知る。
また泣かせてしまう。統の胸が痛む。それでも、自分が伝えるべきだと思った。
「樹、倒れた時の事を憶えている?」
その問いに樹は眉をひそめる。
「あの時……」
樹の中で昨夜の事が、少しずつ思い出されているのだと感じた。まるでテープを巻き戻し、再生するみたいに。
その表情は次第に青ざめ、大きく目が見開かれる。
「どうして……」
両手で口元を押さえながら、樹は声を絞り出す。
「あんな……酷い事……」
残像を振り払うように、そっと瞳は閉じられる。
残酷な事実に耐えている少女の手を取った。
「落ち着いて聞いてくれ」
統は告げる。はっと樹が息を呑む。
「あの遺体は……理の可能性が高い。そして、その事に啓が関わっていると警察は見ている」
受け入れがたい現実から逃避しようと、樹は自分を責める。
「私……私を……助けた、から……?」
呆然と呟き、両手を畳に付く。
「違うっ! そうじゃないっ!」
これだけは、はっきりと言える。
「今の時点で啓と理に何があったのか、そもそも本当に二人が関わっているのか、誰にもわからないんだ」
そう、誰にも……しかし、再び泣き崩れた少女に統の言葉は届かない。
「私のせい……私の……」
そんな樹を抱きしめる事しか、今の統には出来なかった。
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