ひとしきり心の中を吐き出すと眠る樹を残し、そっと統は部屋を出る。

 目の前に広がる空は、直に朝を迎えようとしていた。


 静や知が言ってくれたように、少しでも休んだ方がいいのだろう。

 だが、眠れる自信はない。

 そう思いながらも合わせた障子に額をつけ、瞳を閉じると不意に意識が遠退く。

 夏の明け方の涼やかな空気に辛うじて引き戻され、自室に戻ろうと振り返る。

 その先にある縁側、裸足に雪駄を突っかけた青年が庭全体を眺めるように座っていた。


「……兄貴」

 色素の薄い髪。柔らかな淡い茶色の瞳。

 白すぎる肌は寝間着の上からでも痩せ細っているのがわかる。

 創のお気に入りの小さな庭の草木は朝露に濡れ、間もなく顔を見せる太陽を待ち焦がれているように見えた。光を沢山浴び、輝きを放つ為に。

「統」

 微笑みたかったのだろう。

 しかし上手く笑う事が出来ず、困った表情を浮かべている。

 この優しすぎる兄が誤魔化せないのを、統は昔から知っていた。

「駄目じゃないか! また熱が出たらどうするんだ?」

 朝冷えを心配し、兄の部屋に急いで入る。

 母手製の羽織りを手にすると、そっと後ろからかける。

 以前よりも、その背中が一回り小さくなったと痛感する。

「ふふ。怒られてしまった」

 創は小さく笑い、肩に置かれた弟の手に自らの手を重ねた。

「何か……あったんだね」

 ひんやりと冷えた手から温かな労りが伝わって来て、統は胸を詰まらせた。

 創の背後で立て膝のまま、動けないでいた。

「詳しい事はわからない。でも、お前の悲しむ姿を夢に見た。辛かっただろう」

 その言葉に涙が溢れた。重ねられた手の甲に、涙が雫となって落ちていく。

 創には幼い頃から、人の痛みを汲み取る力があった。

 だからこそ、かつて心を失いかけた樹が元に戻る事も出来た。

 生まれながらに人を癒す不思議な力を備えていた。

 その優しさに、どれだけの人が救われて来たのか。

 勿論、統も何度も救われて来たのだ。

 静かに泣きじゃくる背をそっと押し、創は統を隣に座らせる。

 二人で並んで庭に向かっていると、どうしても昔を思い出してしまった。

 創は今よりは少しだけ元気で、樹がいた。

 統を訪ね、啓、理、雪の三人が、この庭に通じる裏門から入って来る。

 六人でよく遊んだあの頃が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 まるで遠い日々に置き忘れた、ガラス玉みたいにきらきらと。

 その輝いた思い出に心と体のバランスが保てず、統は泣き震えた。

 何も言わず何も聞かず、隣にいてくれる。そんな創の横で涙を流し続けた。

 好きなだけ泣いていい。それだけで何もかもが許され、苦しみが浄化される。

 それで全てが拭えた訳ではないけれども、この涙で揺らぐ世界にまた新しい光が降り注ぐ。

 その小さな気付きは、統の中に確固たる決意を芽生えさせた。

 真実と向き合う。そう決めるには十分だった。


 案の定、体調を崩してしまった創を布団に寝かせていると、駆け付けた母に叱られてしまった。

「統さんが付いていながら何事ですか!」

「すみません」

 慣れた手付きで手拭いを絞り、額の上にそっと置く。

 その流れるような動きを何度目にしてきただろうと思いながら、素直に謝る。

「お母さん。統は私に付き合ってくれただけですよ」

 熱を帯び、潤んだ瞳で説明をする創には独特の美しさがある。

 そんな息子を心配そうに見つめる静の横顔もまた美しい。

 親子だから当たり前なのかもしれないが、二人には共通する何かが確かにあった。

 それは強いて例えるなら、舞い散る桜の花弁や夜空に吸い込まれる流星みたいな儚さ。

 守らねばと思わせる。自分がしっかりしなくてはと思い知らされる。

 そんな控え目な静が、司に逆らう姿を統は見た事がない。

 いつでも三歩下がってという感じで、正に良妻賢母というのを絵に描いたような存在だった。

 多忙な司を常に支え、家の中を取り仕切り、村の事もこなす。

 そして創の世話をする為、無理を重ねる事も多々あった。

 まだ幼い頃、母の気を引きたくて我儘を言ってしまおうかと考えた事がある。

 でも結局は困らせたくなくて、我慢してしまった。

 そんな自分に静が胸を痛めていた事を、統は大きくなってから知った。

 だから、頑張りすぎる姿に時々心配になる。

 自分自身の為だけに生きたいと思った事はなかったのかと、聞いてみたくなる。

「そんな事は……そんな事はわかってますっ!」

 考えに耽っていた統は、怒りを滲ませた静の声に引き戻される。

「創さんも統さんも……心配ばかりかけて……」

 消え入りそうな言葉と共に、着物に施された藤の花に小さな染みが出来る。

 兄弟で同時に母を見てしまうと、頬に伝う涙を隠すかのように氷水の入った桶へと向きを変えてしまう。細い肩は震えていた。

「本当に……本当にあなた達に何かあったらと思うと……」

 いくつになっても母にとって、自分達は子供なのだ。

 その愛の深さを感じながらも、統の心は未だ惑う。

 これからの事を考えると、気持ちは沈むばかりだった。

 ふと視線を感じ顔を上げると、創と目が合った。

 床に伏せた兄は優しく笑みを讃えながら、見つめてくれている。

 その眼差しに、また救われた気がした。

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