皇邸

 光と影の点滅。

 写真のネガとポジの世界。

 光速で次々と変わる場面。

 

 あれは誰? アレハ……ダレ?

 ここは何処? ココハ……ドコ……?

 ワタシハ………ナニ?


「では駆け付けた時には既にあの状況だった、という事ですね」

 案内された覆面パトカーの後部座席に身を沈めると、急激に疲れが押し寄せ、意識が途切れそうになる。

「はい。そうです」

 異常な静けさの中で耳にする自分の声は、とりわけ大きく響いて聞こえ、何故か遠く感じた。

 今、統は両脇を挟まれる形で座っている。

 向かって右側には質問をしながら、必死に手帳にペンを走らせている綾部刑事。そして左側には……受け取った名刺を手の中でめくった。

来栖政隆くるす まさたか

綾部紀次あやべ のりつぐ

 二人は共に県警の強行犯係に所属しているという。

「綾部」

 来栖に呼ばれ、綾部は頷く。

「では今夜は一旦、御自宅にお戻り下さい」

 解放される安堵感に、そっと息を吐く間もなく綾部は続ける。

「改めて、杠樹さんにもお話を伺いたいので……」

 その後の言葉が耳に届かない程の暗い影が、統の心を満たす。

 樹にも事情聴取をするという事は、真実を知るという意味なのだ。

 この衝撃に彼女は耐えられないかもしれない。

 その時、自分に支える事が出来るだろうか?

 理を失った。啓の行方もわからない。

 雪の泣き叫んでいた姿を思い出すと、胸が痛んで仕方がなかった。

 言葉すらかけてやれなかった。打ちのめされていた。

「お疲れでしょう。お送りしますよ」

 来栖の言葉には優しさの中にも有無を言わせない響きがあり、従わざるを得なかった。

 綾部が運転席に移ると、車は静かに発進する。

 闇にぼんやりと浮かぶ景色は、きっといつもと変わらない筈なのに統の瞳には違う色を伴って映る。

 車は村の奥へと入っていく。

 事件のあった場所とは全く逆にある統の家、皇の館に。


 大きな門に車が近付こうとすると、まるで予め予測していたかのように扉が左右に開かれた。運転席に座る綾部が驚きの声を上げる。

「夜間だけセキュリティを兼ねて、自動制御になるんです」

 統は説明しながら、塀の向こうに見える監視カメラを指さした。

 過疎化の進みつつある田舎の村には、不釣り合いに思われただろう。

 だが館には価値のある物も多数ある為、取り付けられているのだ。

 やがて車は速度を緩めながら、玄関の前で停車した。

「凄い……」

 綾部が思わず感嘆してしまうのも無理はないと、来栖は思った。

 車窓から見上げた皇邸は日本家屋の趣を醸し出しながら、荘厳に佇んでいる。

 小規模ながら庭園も構えられており、全体的に手入れが行き届いているのを感じた。

 想像でしかないが離れ等も合わせると、かなりの広さだと思えた。

「綾部」

 声をかけると、慌てて車を降りた綾部は後部座席の扉を開く。

「ありがとうございます」

 礼を告げ、少年は外へ降り立つ。

 来栖は自ら扉を開くと、複数の出迎えに気付いた。

「統さんっ!」

 和服姿の女性が、統に駆け寄る。

 その後ろには、一目でこの館の主と認識出来る男性と心配そうに様子を見ている老婆、そして屋敷に仕えていると思われる人々がいた。

「県警の来栖です」

「同じく綾部です」

 そう告げるとくだんの男性は、恭しく頭を下げた。

「皇司にございます。息子が御世話になりました」

 ゆっくりと上げられた顔は、厳しいものだった。

「大変申し訳ありませんが、よろしければ、これまでの経緯をお聞かせ下さい」

 余りにも深い時間帯の為、来栖は躊躇したが、司の発する何かに圧される。

「では手短に御説明申し上げます」

「ありがとうございます。静」

 司に呼ばれ、先程の女性が振り返る。その美しさに目を奪われた。

 それは来栖だけではない。綾部も固まっている。

「御客様を」

 そう残すと、司は踵を返す。

「大丈夫だから」

 母に心配をかけたくなくて、統は小さな嘘をついた。

「顔色が悪いわ。無理かもしれないけれど、少しでも休んで……ね?」

 後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように静は統から離れる。

 そして来栖と綾部に向き直ると、丁重に頭を下げた。

「お待たせして申し訳ありません。皇静にございます。どうぞこちらへ」

 静の後に続く二人を見送った統は、使用人達にも休むように伝えた。

 次に知に近付くと、労わるように尋ねる。

「お婆様、大丈夫ですか?」

「ありがとうございます。樹は離れで休ませていただいております」

 知は何度も頷き、今の統が一番知りたいであろう事を口にした。

「離れって、あの部屋?」

「はい。以前、私共が使わせていただいていた御部屋です」

 ほんのひとときの間だけだが、知と樹は皇家の離れに住んでいた。

 十二年前、知の娘であり、樹の母が運転する車が事故に遇った。

 奇跡的に樹は軽傷で済んだが、母と兄は亡くなってしまった。

 家族を二人も失い、そして事故のショックで精神喪失状態に陥っていた樹を抱えては知の負担が大きいだろうと、心配した司が声をかけ、身を寄せていたのだ。

「あの時も……夏だったな」

 消え入りそうな呟きは、年老いた耳にまでは届かない。

「お婆様は?」

「今夜は本館に部屋を用意していただきましたので、そちらで休ませていただきます」

 本当は孫娘の側にいたいだろう。しかし知の体を思い、司がそう取り計らったのだろう。

 いつでも最善の策を出す。それが村の長に与えられた使命なのだ。だが、それを思うと別の影が統の心に染みを落とす。


 統の兄、創は生まれつき体が弱く、幼い時から離れで静養している。学校にも通えず、外で一緒に遊んだ記憶も数える程しかない。

 今でも覚えている。両親の目を盗み、屋敷を抜け出すと、二人きりで山へと登った。しかし途中で創は体調を崩し、倒れてしまった。

 苦しむ兄の姿に、幼い弟は何も出来ない。

 泣きながら必死に走った。そして、父に助けを求めた。

 幸い駆け付けた司が迅速な処置を施し、そのお陰で大事には到らなかったが、激しく動揺した統は離れの庭の片隅で泣きじゃくっていた。

 いつも創が優しく迎えてくれる部屋で、真っ白な顔で眠る兄の姿に己の無力さを知ってしまった。

 やがて、俯いた視線の先に影が落ちる。顔を上げかけた次の瞬間、右頬に鋭い痛みが走り、反動で飛ばされた小さな体は垣根に激突した。

「御館様っ!」

 静が驚きで叫ぶが、何が起きたのかわからない。

 見上げると、怒りに満ちた瞳があった。

 そんな目で見られたのは、生まれて初めてだった。

「どうしてか……わかるな?」

 司の言葉に頷く事しか出来なくて、でももう涙は見せたくなくて、統は唇を噛み締める。

 口中に広がる鉄の味。それは殴られたせいなのか、自ら切ってしまったせいなのかわからない。けれども、決して忘れてはいけないものだった。

「もう許してあげて下さい」

 静が駆け寄り、起き上がらせてくれる。その声は震えていた。

「二度と創を連れて山へ入るな」

 それだけを残し、司は去って行く。滲む世界に広い背中が淋しく焼き付く。

「統さん、こっちを向いて」

 口元をハンカチで押さえられ、甦った痛みに顔をしかめる。

 だが、今にも泣き出してしまいそうな母を認めたら、聞けなかった。

「……ごめん……なさ……」

 後は涙で続かない。

 お父さんは……僕が嫌いなの?


 遠い記憶を彼方に追いやると、統は知を本館へと送り届けた。

 扉が閉まる直前に忍び見た老婆の顔は疲労に満ちていて、少年の胸を更に痛める。しかし別れ際、知は優しい言葉をかけてくれた。

「御館様に鎮静剤を打っていただきました。樹が目覚めるのは昼頃になるかと思われます。ですから、統坊っちゃんも少しお休みになって下さいませ」

 皆が皆、きっと眠れぬ時を過ごすのだろう。

 それでも樹だけは夢の中、休めていると思うと救われた。

 統の足は自然に離れに向かう。渡り廊下を抜けると、床板が軋む音が耳に馴染んで響く。そして、一番奥にある部屋の前で立ち止まった。

 開けるのを躊躇うのは、自分がどうなるかわからないからだ。

 沈痛な面持ちのまま、障子を静かにずらす。

 眠る樹の横顔。安らかな寝息。

 それらを認識した時、今まで堪えていたものが一気に統に襲いかかった。

「ふっ……~~~っ!」

 顔を覆いながら口を塞ぎ、声を押し殺す。

 そうしなければ、泣き叫んでしまいそうだった。

 どうして? どうして? どうして?

 そればかりが頭を巡る。何もかもが謎でわからない。でも知る事が怖い。

 もし、その先にあるのが耐え難い真実なら尚更……!

 ふらふらと傍らに近付くと、膝を折り頬に触れる。

 確かな温もりが、無事でいてくれた喜びに直結する。

 しかし触れる事すら出来なかった冷たい体を思い出すと、涙がまた溢れてくる。

 統は許した。そうしなければ壊れてしまいそうだった。

 だから、抑えていた苦しみが体中から吐き出されていく事を今は許した。

『統』

 木陰の下で微笑む理。じゃれあった時の風の匂いすら、まだ憶えているのに。

 先刻まで、ほんの数時間前まで一緒にいたのに……今はこんなにも遠い。

 突然、大切な存在を失った喪失感は、容赦なく統を叩きのめす。

 そして絶望的な悲しみの渦だけが、いつまでも取り巻いていた。

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