惨劇
弾む息。体中に響き渡る鼓動。
遥か前方に、うっすらと見える小さな家。
その姿がはっきりとわかる程に近付くと、統は手前で樹を下ろした。
村の集落から離れ、ひっそりと建つ家屋には明かりが灯っている。
それが玄関である引戸の隙間から零れているものだと気付くと、強烈な違和感を覚えた。
「統ちゃん?」
動こうとしない少年に、心配そうな声が届く。
「ここで待っていてくれ」
ただならぬ様子に少女は頷く。その表情は不安で歪んでいた。
樹を安心させる為、目を見て統も頷き返す。そして一歩、踏み出した。
進むごとに感じる、まとわりつくような胸のざわめき。
だが統は、その感覚を捩じ伏せた。そうしなければ立ち止まってしまいそうだった。
やっと落ち着いて来た筈の心臓がさわさわと波打ち出し、胃が締め付けられていく。
全力疾走したせいもあるが、それ以外の何かを感じ、汗が滴り落ちた。
しかし足は、確実に目的の場所に向かっている。
玄関前に立つと戸に手をかけ、躊躇いをなぎ払うように一気に引き開けた。
息を呑む。声にならない叫び。
そこに……惨劇を見た。
天井からぶら下がる、小さな電球だけの心許ない明るさ。
争いにより、荒れてしまったであろう室内。
囲炉裏の灰は、床や土間にまで飛んで真っ白。
しかし、それらよりも統の意識を根こそぎに奪ったのは、むせかえるような血の匂いだった。
四方の壁に飛び散っている赤い飛沫が、知の思い出が詰まったこの家を別の物にすり替える。
樹の儚さや淡さで満ちていた、この家の温もり全てを奪い去る。
そして、統の目は一点に集中した。
部屋の片隅、まるで人形のように無防備に投げ出された足。
通い慣れた高校の制服は、この村で着ているのは自分以外に二人だけだと認識させた。
瞬間、一気に吐き気が込み上げる。
口元を押さえながら、無意識に後ろによろめいていた。
ぐらぐらと視界が揺れる。
「統ちゃんっ!」
いつの間にか背後に樹がいた。支えようと手を伸ばしてくる。
「樹……? 見るなっ!」
叫びながらも視界を遮ろうとしたが、間に合わなかった。
その綺麗な瞳に、この恐ろしい光景を映したくなかったのに……!
短い悲鳴を上げ、気を失った樹を抱き止める。
そして勇気を出してもう一度、統は振り返った。
学校指定のシューズから視線を上に辿る。
白いシャツは原型を留めない程に真っ赤に染まっていた。それだけの出血量、素人目にも致命傷だと思った。
そして更に上へいくと、当然あるべきもの……頭部がなかった。
首の途中から無惨に失われ、血溜まりに沈んでいる様は、まるで赤い海に漂っているかのようで……遠退きそうな意識を保つのが精一杯だった。
それからの事は断片的にしか憶えていない。
脱力しそうな自分をどうにか奮い立たせ、統は樹と共に一番近い民家に助けを求めた。
夜も更け始めた頃の突然の訪問者に村人は驚いたが、状況を把握すると、
「御館様に知らせろっ!」
「駐在さんを呼んで来るっ!」
近所に住む人々同士、手分けして奔走してくれた。
「統様」
項垂れた顔を上げる。
「奥に部屋を御用意しましたので」
疲れきっていた統は促されるまま、案内された場所に向かう。
質素な和室に入ると住人は何も聞かず、そっと襖を閉め、去って行った。
まだ意識の底でもがいている樹を横たえさせると、布団をかける。
途端に現実が、統に襲いかかった。
脳裏には、まざまざと先程の光景が甦る。
悪寒が走り、無意識に左手で自分の右肩を抱いていた。
膝の上で握りしめた右の拳は、震えていた。
「あの死体は……」
考えたくない事実に直面したくなくて、強く目を閉じてしまう。
しかし思考はぐるぐると巡り、一点で止まる。
そして統の心に、暗い影を落とした。
どれ位の時間が経ったのだろう? 住人の声が届いた。
「統様」
「はい」
「私だ。入るぞ」
力なく返事をすると、今までとは別の低く落ち着いた声がする。次に襖が開く。
「父さん……」
そこには、この村の全てを統べ、御館様と呼ばれる皇司が立っていた。
視線を落としてしまったのは、父の前では萎縮してしまうからだ。
「詳しい話は後で聞く。今は樹を診るのが先だ。席を外せ」
本当は離れたくなかった。
しかし司は村を束ねているだけでなく、唯一の村医でもある。
逆らえる筈がなかった。
無言で立ち上がると、傍らを通る。その際、短く告げられた。
「橘が待っている」
部屋を後にし、玄関へと向かう途中で知に会った。
「統坊ちゃまっ!」
顔面蒼白の老婆は、よろめきながらも統に駆け寄る。
慌てて支えると、案内の為に側に付いていた村人も心配そうに見つめた。
「樹は……樹は大丈夫ですか?」
「落ち着いて。今、御館様が診てくれているから」
震える知に統は説明する。
聞き終え、少しでも安心してくれたのか、知は胸を押さえる。
心臓の持病を持つ身を案じながらも、何も出来ない自分を統は歯痒く思った。
小さな背にそっと触れると、後を付き添いに任せ、世話になった民家を出る。
『橘が待っている』
再び、あそこへ。もう一度、確かめる為に……!
大地を蹴る。
いつもなら静まり返っている筈の村のあちこちで、松明が焚かれている。
その灯りは、不謹慎にも美しさを撒き散らしていた。
もう深夜に差しかかろうとしていた。
暗い道を照らす月明かりですら、今の自分の気持ちに沿って頼りなく感じる。
目的地に近付くにつれ、走る速度を徐々に緩めると、名を呼ばれた。
「統」
「橘先輩」
「大変だったな」
心配そうに気遣ってくれるが、明らかに仁の顔色の方が悪い。
無理もない。こんな小さな村では、事件らしい事件も滅多に起こらない。
まして、これは殺人なのだ。その動揺の波は計り知れない。
平和が当たり前の世界に突如沸いた衝撃は、やがて村中に知れ渡るだろう。
そして、大切な人々を傷付けるだろう。
「詳しくは県警が来てからになると思うが、遺体の確認は済んでいる」
苦痛に顔を歪める仁の言葉の先を、聞きたくない自分がいた。
「何か気付くかもしれません。もう一度、見てもいいですか?」
それでも逃げてはならないと勇気を示すと、仁は驚きながらも念を押すように聞いてくる。
「保存の為に現場や遺体に触れなければ……でも、いいのか?」
「はい」
「そうか……わかった」
踵を返した仁の後に続きながら、感情の行き場を失いそうになる。
叫び出しそうになる自分を、必死で抑え込む。
開け放たれた引戸をくぐり、土間に立つと、まだ血の匂いが立ち込めていた。
遺体と呼ばれてしまうだけになった存在にはブルーのシートが被されていたが、目を背けずにはいられない。
握りしめた拳に爪が食い込み、小刻みに震える。
仁の眼差しを受け、一度だけ強く目を閉じると、意を決したように確かめた。
「手を合わせても……いいですか?」
無意識に噛み締めていた唇から、辛うじて絞り出した声も震えていた。
「ああ」
目深に被った帽子のつばを下げながら、仁は視線を落とした。
体が重い。嗅覚が麻痺し、現実味が乏しい。
よろめきそうな足をどうにか動かしながら近付き、手前で跪く。
恐怖よりも嫌悪よりも何よりも、今の統を突き動かしたもの。
「検死をする事になると思う。だが……」
それは間違いであってほしいという祈りにも似た願い。
「所持品及び身体的特徴から、亡くなったのは理の可能性が高いと判断した」
二人は無関係だと信じたかった切なる思い。
「さ……とる……?」
現場を保存すると約束していたのに、シートに手を伸ばそうとしていた。
その行為を無言で制し、仁が静かに首を左右に振る。
だらりと下がった両腕は膝の上で拳となり、強く強く握りしめられた。
制服にしわが走り、その上に雫が落ちていく。
理の姿が、声が、過っては去っていく。堰を切ったように、統は泣き叫んだ。
「理……理ーーーーーっ!」
暑い夏だった。この日、大切な親友を失った。
音を消したパトカーのランプだけが、視界を赤く染める。
普段は静かな村の夜を、ぐるぐると照らしながら。
それらを遠くに感じながら、統は杠家の隣に聳える大木の根元に座り込んでしまっていた。
自分を遠巻きに見ている、複数の村人達の視線は感じている。
だが、それすらも今はどうでもよく思えた。
「統っ!」
その奥から聞き覚えのある声が届き、やがて直ぐ傍らで気配を感じる。
「……雪」
「何があったの?」
問いに統は答える事が出来ない。
その時、現場から担架に乗せられた遺体が運び出された。瞬時に異様な空気が、その場を支配する。
少女は大きく目を見開くと口元を両手で押さえながら、一歩後ろによろめく。
運ばれる振動でもう動く筈のない右腕が、被されたシートからだらりと落ちた。
「ひっ……」
誰かが短い悲鳴を上げた。その様子すら、ぼんやりと見送る事しか出来ない。
杠家には立入禁止と表示された黄色いテープが張り巡らされていき、ここで何かが起こったのだという事をより一層強調していた。
「皇……統君?」
「……はい」
若い男が一人、近付いて来る。力なく返す。
「県警の
そう言われ手を付き、立ち上がった。
「では、こちらへ」
綾部の後に続き、一歩踏み出す。
「待ってっ!」
すると雪が腕にすがりながら、体ごと引き留めてきた。
目を逸らせない。
葛藤する。自分の口から、この夜の事を伝えなければいけないのかと。
樹から聞いた話。啓と理の取った行動。それらから推測すれば、この事件の発端に雪が関わっている事は明白だった。
それは先程、川の畔で会った雪の様子からも見てとれた。
雪は正直だった。痛い位に。だから統は、少女を邪険に出来ずにいた。
いっそ突き放せば。そこまで考えて、何度止めた事だろう。
雪の手に自らの手を重ねると、そっと解く。
「まだわからない」
一瞬、雪は安堵の表情を浮かべる。
「啓と理、二人に何かがあった事だけは確かだ」
しかし続いた言葉を耳にすると、その場に崩れ落ちた。
「……う、そ……そんな……」
呟きながら、激しく取り乱す。号泣する雪に気付き、仁が駆け寄った。
「雪ちゃんっ!」
「いやぁぁぁああーっ!」
悲痛な叫び。なのに何もしてやれない。
「行けますか?」
「はい」
綾部の問いかけに顔を上げた統は頷き、歩き出した。
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