過ち
「それじゃあ行って来るよ。戸締まりをして先に休んでいてくれて構わないからね」
皺だらけの顔を優しく崩し、知はそう告げた。
「はい。お婆様」
樹は同意の笑みを浮かべる。祖母は頷き、家を後にした。
週に一度開かれる会合の日、村に住む一部の選ばれた者達が皇家へと集まる夜だった。
鍵を閉めていいと言われたが、この小さな村では誰もが過度な用心をしていない。村全体が大きな家であり、住人達は皆、樹を除いて家族みたいなものだった。
沈む気持ちを抱えたまま、それでも知の言い付けは守ろうと玄関へと向かう。
しかし、そこだけは開けておく事にし、それ以外の戸締まりに取りかかった。
それらを終えると、視線は部屋の奥にひっそりとあるものに無意識に向かう。
そこには小さな仏壇があった。
近付くと、二つ並んで置かれている遺影の左側を手にする。
写っているのは母と兄。父がいないのは樹が生まれる前に亡くなっており、写真すらないからだそうだ。
12年前の夏の夜、二人を一度に亡くした。事故だったと聞いている。曖昧な説明しか出来ないのは、樹にはその時の記憶が無いからだ。
手にしていた写真立てを元に戻すと、今度は右側にある遺影を見る。そこには優しく微笑む若い男性の白黒写真が収められていた。知の亡くなった夫であり、樹の祖父だ。
しかし祖父もまた病に倒れ、樹が生まれるずっと前に亡くなったと聞いている。失った記憶以前に、祖父との思い出も樹には無かった。
思い出そうと何度も試みた。だが、そうすればする程、激しい頭痛や目眩に襲われてしまう。酷い時には体調を大きく崩してしまう。
PTSD(心的外傷ストレス障害)。樹はそう診断を下された。
不安で押し潰されそうで、でも誰にも言えなくて。
しかし医師を志す理と話す機会があり、相談した事があった。
『無理をして大きな負担をかける必要はないと思う。いつか樹ちゃんが本当に過去と向き合う時が来た時、頑張ればいいんじゃないかな?』
そう悟され、どんなにか心救われただろう。
だから樹は流れに身を委ね、時間が解決してくれるのを待つ事にした。
それでも寂しくて寂しくて、そんな時は尚更、統達四人の関係を羨ましく思った。
樹は家族の死により知に引き取られた為、村の子供として認めてもらえなかった。その上、体が弱かった事もあり、中々馴染む事が出来なかった。
統のお陰で啓、理、雪には受け入れてもらう事が出来たが、今でも友と呼べる程に親しくしている存在はいない。
樹には統が全てだった。統しかいなかった。
愛する人を思う時、樹は同時に統の兄である
生まれつき病弱な創は樹の身体的な辛さを一番に理解してくれる、いわば近い存在だった。
その優しさに亡き兄を重ね、慕っていた。
しかし創は年を重ねる毎に体調を崩し、屋敷の離れで一人静養している。
『弱った姿を見せて、余計な心配をさせたくないんだ』
そう告げると樹にも、そして弟にも滅多に会わなくなってしまっていた。
辛そうに話す統の姿を思い出すと心が痛い。
だが、今の樹の立場では軽々しく皇の敷居を跨げない。
二人に会いに行く事もままならない。
創には母である
父の司は多忙の身ゆえ、統が寂しい思いを随分として来た事を樹は知っていた。
それでも普段の統は、そんな素振りは一切見せない。
村の皆から慕われ、きっと誰もが彼が村を継ぐ事を望んでいる。
雪と結ばれる事を願っている。
樹は統が自分だけに言ってくれた言葉を思い出す。
同時に悲しい気持ちにも包まれてしまう。
いつからだろう? 優しかった雪の態度が変わっていったのは。
自分を見たあの冷たい瞳。貫かれたように動けなかった。
「きっと雪さんも……」
すると玄関の引戸が開く音が、次いで閉まる音が耳に届く。
「お婆様?」
奥の部屋から土間へと向かう。
そこには予想もしていなかった人物が立っていた。
「啓さん?」
珍しい来客に樹は一瞬驚いたが、彼がよく知を迎えに椿家から遣わされていた事を思い出す。
「ごめんなさい。お婆様は、もう御館様の所に向かったんですよ」
詫びながら、サンダルに足を突っかける。
「お茶、淹れますね。良かったら……」
土間に降り立とうとしたが、おもむろに肩を掴まれ、体ごと反転させられる。
危うく転びそうになるも、力強い腕に支えられ、辛うじて体勢を保った。
「……啓、さん?」
自分を見る瞳に恐怖を覚えた。いつも与えられる、おどけながらも人を和ます温かさは微塵も感じられない。
なまじ整った顔立ちが、能面のように冷たい。
「今日は樹ちゃん、君に用があるんだ」
まるで言い聞かせているみたいな一語一句が、樹の体に沁みていく。
「ごめんね」
鮮やかな微笑み。次いで樹は床に押し倒された。
押さえ込まれた体は身動きすらままならず、大きな右手で塞がれた口からは言葉を発する事も出来ない。
真っ白になってしまった頭を必死に回転させながら、目だけで見上げた啓は限りなく哀しそうだった。
「……望みだから」
始まりが聞き取れぬ程の囁きと共に左手が胸元にかかると、一気に引き下ろされる。布の破れる音が狭い家中に響き渡った。
「~~~~~っ!」
涙を浮かべながら、樹は声にならない声で叫んだ。受け入れがたい現実から逃れようと、きつくきつく目を
首筋にかかる吐息が、否応なしに現実を叩き付ける。
だが次の瞬間、聞き慣れた音と同時に不意に拘束が解かれた。
はっと見開いた瞳に遠ざかっていく啓の姿。
次いで開け放たれた引戸が映り、板張りの壁がびりりと揺れる程の衝撃音に我に返る。
はだけた胸元を隠しながら体を起こすと、理が啓を見下ろしていた。
「……何で……こんな事……」
答えない啓をそのままに、理は樹に近付く。
そして震える少女に着ていたカーディガンを羽織らせると、立ち上がらせた。
複雑な感情が入り乱れた瞳が、そっと逸らされる。
「ここは俺に任せて、樹ちゃんは統の所へ行くんだ」
「でっ……でも……」
理の言葉に、どうしたらいいのかわからなくなっている樹は混乱する。
「いいから……行くんだ」
普段の少年からは想像も出来ない低い声には、怒気が滲み出ている。
観念したのか啓は苦笑したまま壁に寄りかかると、切れてしまったらしい唇を舐めていた。
「聞こえないのか? 樹っ!」
見た事もない剣幕に辛うじて頷くと、よろめきながらも後ずさる。
そして踵を返すと、走り出した。
その姿が完全に闇に紛れるまで、理は見送り続ける。
握りしめた拳は怒りで震えていた。
「お前が現れるなんて予想外」
ゆらり、啓は立ち上がる。
引戸を閉め、振り向いた理は睨み付けたまま微動だにしない。
「雪か?」
その問いに啓は肩を竦める。その癖は肯定を意味していると知っていた。
「理、お前だって樹ちゃんが気になるんだろう? だったら遠慮なんてしないで奪えばいいんだ」
どうにか抑えていた最後の枷が外れる。震える声が叫びに変わる。
「本気で言っているのか? ふざけるなっ!」
何かが落ちる音。争い合う音。だが、やがて収まり……完全に沈黙した。
昼は樹が佇んでいた川の
草を踏みしめる音が、待ち人の来訪を告げる。平静を装っても胸が高鳴った。
「話って?」
尋ねられたが言葉が出ない。だから振り返ると同時に、その胸に飛び込んだ。
少年が自分を回避する事も、そんな真似を絶対にしない事も知っていた。
顔を埋めた先から感じる強い戸惑い。認めたくなくて、その頬に手を伸ばす。
引き寄せると唇を重ねようとしたが、顔を背けられた。
こうなるとわかっていたのに瞳が潤み、例えられない感情の波に襲われる。
「ごめん」
何に対しての謝罪なのだろう? 雪は全身で、その短い言葉を拒絶した。
「どうして私じゃ駄目なの?」
望めば何でも叶った。誰だって従ってくれた。
なのに、一番欲しいものだけが手に入らない。
あの娘のせいだ……あの娘さえいなければ……!
雪の中に芽生えた絶望は嫉妬に形を変える。
そして、幼い時は共に遊んでいた樹に全て向けられた。
「そんなに、あの娘がいいの?」
悲痛な問いに統は押し黙る。
半ば叫びに近い声は、ヒステリックな音色を奏でた。
「私だってずっと見てきたのに……ある日、突然現れて……あんな娘、嫌い……大っ嫌いっ!」
抑えていた思いが迸り、歯止めが利かなくなる。
感情を剥き出しにする雪を目の当たりにし、それだけ傷付けてしまったのだと統は自分を責めた。
「それに本当は統だって疑問に思っているんでしょう?」
悪意を持って放たれた言葉に息を呑む。
「12年前に何があったのか……」
「やめろっ!」
鋭く遮られ、はっと我に返ると雪は瞳を伏せた。
「その事について触れない。それが村の掟だろう?」
重い沈黙の中、雪が落ち着きを取り戻すのを待つ。
その時、統の中で何かが弾けた。何故だか樹に呼ばれた気がした。
村の方を向くと、どうしようもなく胸がざわめき、居ても立ってもいられなくなる。その気配を敏感に察知したのか、雪が腕にすがった。
「行かないでっ!」
「雪?」
「嫌よ! 私を見て! あんな娘を見ないでっ!」
再び感情的になった少女の両肩を掴むと、瞳を覗き込む。
「何か知っているのか?」
動揺の色が現れ、細い体が大きく揺れる。
それだけで十分だった。手を離すと踵を返し、駆け出す。
「統っ!」
叫びも今は届かない。そして、これからも。
「認めなくちゃ……駄目なの?」
呟いた雪の瞳からは、次々と大粒の涙が零れた。
雪の事が気にならなかったと言えば嘘になる。
でも心の何処かで、彼女なら大丈夫だと思う自分がいた。
雪には啓がいる。理もいる。しかし、樹には。
だから、統は走った。
すると暗闇の中で白い何かが、ゆらゆらと揺れているのが見える。
「樹っ!」
叫ぶと影は形を成し、輪郭を示した。
統を見て安心したのか、樹はその場に崩れそうになる。
素早く受け止めると、荒い息遣いが届く。
しっとりと濡れた肌は全力で走って来たのだろう。腕の中で必死に呼吸を整えている。
やがて雲間から完全に顔を出した月が、泥にまみれた素足を照らす。
白いワンピースの胸元は無惨に破け、透き通る首筋が露になる。
少女に不釣り合いな男物のカーディガンがなければ、直視出来なかったかもしれない。
何があったのかと問い質したい衝動を抑えながら、震え続ける体を優しく包んだ。
「統ちゃん……私、どうしたら……」
「深呼吸して」
激しい動揺で途切れ途切れになる声。促すと深い呼吸を繰り返す。
「啓さんが……訪ねて来たの」
意外な人物の名に統は驚く。
樹は涙ぐみ、それでも懸命に言葉を紡いでゆく。
「ごめんなさい……混乱していて、どう説明すればいいのかわからない……」
「啓が来て、理が来て……後は任せろと言われたんだな?」
考えたくなかった。でも啓はきっと……!
「二人に会って来る」
「私も……私も一緒に行くわっ!」
本当は連れて行きたくない。しかし、ここに一人残す事は出来ない。
何より不安で壊れてしまいそうな少女の側を離れたくない。
それに今の状態の樹が皇家に行けば、騒ぎが大きくなるかもしれない。
「わかった。一緒に行こう」
出来れば三人で解決したかったが、そっと手を取ると立ち上がらせる。
次いで統は屈み込んだ。
「乗って」
「えっ……?」
「その足じゃ怪我をするかもしれない。それに……」
一刻も早く二人の元に駆け付けたい。
「でっ……でも……」
こんな時でも周りを気にして躊躇う樹が、不憫になる。
だが今は、一分一秒でも惜しい。
「じゃあ、抱き上げるけどいい?」
意地悪で言ったのではない。安心させたかった。少しでも和ませたかった。
そっと背中に触れた手を認めると背負い、駆け出す。
羽根のように軽い樹の体温だけが、そこに彼女がいてくれる事を伝えてくれる。
顔を埋め、泣いている。どのような恐怖に遇い、その事に啓と理がどう関わっているのか。
今はわからない。憶測で判断したくない。
だから、統は急ぐ。
あの古くても温かい杠家へ。大切な親友達がいる場所へ。
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