幼なじみ

 ××県△△地方〇〇村は、山間やまあいに囲まれた小さな集落だ。

 良く言えば自然豊か、悪く言えば何もない。

 そんな村には古くから伝わる仕来たりがあった。


 その家の長子たる男子は必ず家督を継ぐ事。

 そして男子なき家は村の男と長子の娘を婚姻させる事。


 今では古くさい、馬鹿げていると言われそうな事が、この村では当たり前のように脈々と受け継がれていた。


おさむさん、どちらにいらっしゃるの?」

 品の良い女性の声には、明らかに焦りの色が混ざっていた。

 それに気付いていたが、少年はまるで逃げるように屋敷を飛び出した。

 門扉を潜り抜け、ふと表札を見上げる。

 すめらぎ。その名を睨み付けたが、すぐに前を向くと駆け出す。

 心の中で母に詫びながら。


 山にある滝から続く川が流れている。

 村と町とを繋ぐ石造りの橋のたもとに、一人の少女が佇んでいた。

「統ちゃん」

 少年の姿を認めると、嬉しそうに微笑む。

 彼女の名は杠樹ゆずりは みき

 統の幼なじみであり、大切な存在だった。

「体調は?」

 会うなり聞いてしまったのは、樹の体が余り丈夫ではなかったからだ。

 だから悪い癖だと自覚しているのに、心配でつい尋ねてしまう。

「今日は大丈夫。それよりも……何かあった?」

 何度も交わしてきたやり取りに嫌な顔一つせず、樹はポケットからそっとハンカチを取り出す。

 流れ落ちる汗を押さえてくれたその手は、真夏だというのにひんやりと冷たかった。

「何も……ないよ」

 添えられたハンカチは目に痛い位に白く、微かに花の香りがした。

 思わず視線を逸らしたのは眩しさのせいなのか、小さな嘘をついたせいなのか、無意識の行動すぎてわからない。

 しかし樹は、真っ直ぐな瞳で続ける。

「統ちゃん。私には本当の事を言って」

 心が通じる前も通じた後も、樹には何もかもお見通しだった。

 隠せない。嘘をつけない。その必要がない。

「いつもの事だよ」

 それだけで多くを語らなくても、十分に伝わる。

「……そう」

 そして樹はそう言ったきり、何も言わない。聞かない。

「行こう」

 沈黙に耐えかね、統は促す。樹は躊躇いがちに後に続いた。

 川沿いを並んで歩く。

 でも気付くと、樹は少しずつ遅れ出すのだ。人目を気にして、統を気遣って。

 やがて道は山へと続く。昔から遊んだ場所へと、共に入って行った。


 完全な二人きりになれれば、統は樹の手を引く事が出来た。

 それだけで幸福な気持ちになれた。

 古い因習の残る小さな村では、人々の目は厳しい。だが、行き場のない苛立ちと樹に対する抑えがたい恋心に統は抗えなかった。

 繋いだ手を強引に寄せる。

「統ちゃ……」

 後は……続かない。

 力任せに抱きしめ、唇を重ねると細い身体が震えた。それでも統は止めない。

 世界が静寂に包まれる。風のざわめきも木々の間から差す木洩れ日も、今の二人には届かない。

「だっ……駄目っ!」

 突然、樹は腕の中から消える。そして囁きにも似た声で呟いた。

「私では駄目。統ちゃんに……ふさわしくない」

 統は言葉を失う。少女は俯いたまま、瞳を閉じていた。

 わかっている。彼女が皇家を継ぐかもしれない自分を思い、言ってくれているのだと。

 でも……兄貴がいる。兄貴が皇家を……村を継ぐべきなんだ……!

 統は心の中で叫んでいた。


「ここを出ないか?」

 以前から、ずっと考えていた事を統は口にした。瞬間、樹の表情が固まる。

「無理よ。私は体が弱いし、お婆様を残してなんていけない。それに……これ以上、統ちゃんに迷惑をかけたくない」

 震える声でかぶりを振る少女に近付き、そっと手を取る。

「悲しませてごめん。でも俺が大切なのは樹だけだから」

 それだけは伝えておきたかった。

「統ちゃん……」

 一瞬だけ、樹は表現しがたい表情を浮かべる。次いで淡く微笑んだ。

「ありがとう。私なんかを大切だと言ってくれて」

 そんないじらしい姿に、心の中で語りかける。

 私なんかじゃない。樹じゃなきゃ意味がないんだ。


「あれ? お二人さん、仲良く散歩?」

 山を降り林道に辿り着くと、背後から声がした。驚き、統は振り向く。

「啓。理、雪も」

 そこには幼なじみの榊啓さかき あきら柾理まさき さとる椿雪つばき ゆきが立っていた。

「全員揃って、どうしたんだよ?」

 統は三人に近付く。しかし樹は、動かなかった。

「別に。まぁ何となく気付けば集まってたって感じ?」

 笑いながら説明する啓の傍らを雪がすり抜ける。

「今から町に行こうかと話してたの。統も来るでしょう?」

 自然な動きで統の腕に自らの腕を絡める。それが当たり前のように。

 胸の奥に芽生えた痛みから逃れたくて、そっと視線を外すと、いつの間にか側に来てくれていた理が優しく声をかけてくれた。

「樹ちゃん、大丈夫?」

「理さん……はい。大丈夫です」

 樹は小さく微笑む。

「理! 行くわよ!」

 雪の言葉は強く、最初から樹の存在など無視して統を無理矢理にでも連れて行く勢いがあった。

「みんな、ごめん」

 しかし統は、雪の腕を解く。

「今日は止めとく。樹を送りたいんだ」

 何かを言いかけた樹を視線だけで制し、統は三人に別れを告げる。

「おう。またな」

「気を付けて」

 啓と理は快く見送る。だが去って行く二人の後ろ姿を見る雪の顔は、徐々に険しくなっていった。

「私、帰るわっ!」

 怒りを露にしながらも、その瞳は傷付いていた。踵を返す少女の後を肩を竦めた啓が続く。理はその場に佇み、二組の行方を見守っていた。


「統ちゃん、雪さん達と……」

「いいんだ」

 勇気を出して伝えた思いは、たった一言で空に消えていく。そのまま何も言えず、樹は俯く。

 統の優しさは嬉しい。しかし自分のせいで仲睦まじかった彼等が、すれ違ってしまっているのが辛かった。

 そんな樹の思いを感じながらも、統は三人について考えていた。


 榊啓は自分を容姿端麗だと自覚し、ナルシストだと公言している。故に軽薄な印象を与えがちで誤解されやすいが、根は優しい。

 また運動神経が良く、彼を欲する部活関係者は後を絶たないのだが、帰宅部を貫いている。幼い時に両親を亡くしており、椿家に身を寄せている。


 柾理は頭脳明晰で真面目一筋。友達思いで大人達からの信頼も厚い。いわゆる優等生タイプだが、内には秘めた情熱を持っている。

 唯一の肉親だった祖父を昨年亡くしており、今は村外れに一人で住んでいる。


 椿雪は村に代々続く名家の生まれで、村一番の美人と称されている。お嬢様育ちでわがままだが、それすら許される華があった。

 彼女に憧れを抱く少女、将来を切望する若者は多い。だが雪は皇家の次期当主の許婚である為、更に高嶺の花とされた。


「大人は勝手だ」

 三人とも幼い頃からの大切な幼なじみなのに、少しずつ少しずつ何かがずれていった。

 続けて、別れ際に教えてもらった彼等が揃っていた本当の理由が頭を過る。

『もうすぐ夏祭りだろう? その準備の手伝いをする為に集まったんだよ』

 眼鏡の奥にある切れ長の目を細め、微笑む理。同意するように頷く啓。

 だから統は気付いていなかった。樹を見る雪の瞳に。

 射抜かれ、その場で固まざるを得なかった樹の状況に。

 そして、それを更に見ていた一対の目に。


「相変わらず古いなぁ」

 村外れにある木造の平屋は、玄関が引戸になっていた。入るとすぐに土間になっており、奥に二間、向かって右側に風呂などの水回りがあった。

「そろそろ建て直せばいいのに」

 小さな村とはいえ、ここまで古典的な佇まいを残す家は最早少ない。趣があると言えば聞こえはいいが、不便も多そうで心配になった。

「慣れれば、これでも快適なのよ」

 それに、と少女は続ける。

「思い出が沢山詰まってるから、このままがいいみたい」

 樹は幼い時に、家族を事故で亡くしている。その為、母方の祖母であるさとに引き取られていた。

「私もこの方が落ち着く」

 柔らかな笑顔。気付けば癒されている。

 樹には、いつまでも笑っていてほしいと思う。

「樹」

 名を呼ばれ、少女は可愛らしく首を傾げる。

「さっきの……俺、本気だから」

 少年の真摯な眼差し。一瞬だけ樹は顔を歪めるも、すぐに小さく頷いた。

 統をずっと見て来た。痛い位に嬉しかった。でも応えられない。

「わかってる、統ちゃん」

 肯定してもらえる度、喜びが増していく。

 彼女には、どれだけ救われて来ただろう。

 出会ってから今に到るまで、何度も何度も。

「また近い内に必ず」

 愛しさが募り、抱きしめたい衝動が沸く。

 それを抑えながら告げると、統は杠家を後にした。

 その姿を樹は、いつまでもいつまでも見送っていた。


 やがて統は村の中央にある広場へと辿り着く。

 黙々と作業をしている背中に近付き、声をかけた。

「理」

 幼なじみの少年は顔を上げてくれる。

「啓と雪は?」

 見当たらない二人の姿に問いかける。

「さぁ。多分薪でも拾いに行ってるんじゃないかな」

「そっか。じゃあ手伝うよ」

「いや、もうほとんど今日の作業は終わったから。それより少し涼まないか?」

 張り切って腕まくりをした統に理は提案すると、ある一点に視線を向ける。

 その先には樹齢豊かな大木があり、根元には今なお現役の古井戸。

 そして、その前に置かれた大きな木桶には西瓜やラムネが冷やされているのが見えた。

御館様おやかたさまからの差し入れ」

 統の顔が曇っても、理は気付かない振りをしてくれた。


 先に歩き出した理が、履いていた靴を無造作に放り投げる。

 靴下も脱ぎ捨て、裸足を投げ出すと大木に寄りかかった。

 後に続いていた統もそれに倣う。

 並んだ爪先にだけ、夏の陽射しが痛く照り付ける。

 だが木の葉の影や井戸から立ち込める水の気配から涼が伝わって来て、熱気は気持ち和らいでいた。

 しかし、ずっと作業をしていた理は暑かっただろう。

 ちらりと左隣を見ると、何事もなかったみたいにラムネを飲んでいる。

 色白の肌は少しだけ焼けて赤みを帯びていたが、それ以外は何も変化なかった。 躊躇いがちに手を伸ばすと、ラムネを口にする。不意に理が呟いた。

「これからみんなどうなっていくんだろうな」

 遠い眼差し。その目は何処を見ていたのだろう? 今となってはわからない。

「そうだな……」

 そして統は気の利いた言葉も自分の行く末も見つけられず、残りのラムネを飲み干した。

 瓶の中で丸いビー玉が転がり、音を立てた。

「俺、医者になりたいんだ。今の状況では難しいけど」

 小さな頃から理が抱いていた夢。

 亡き両親に代わり、育ててくれた祖父が病に倒れたのは昨年の春。

 理は献身的に尽くしたが、その年の冬に亡くなっている。

「働いて、そして、いつか進学したいと思ってる」

 理は偉い。ちゃんと自分の将来について、具体的に考えている。

 そう思うと自分の幼さが恥ずかしくなる。

「父さんが……御館様が援助をしたいと言ってもか?」

 統の父である皇司すめらぎ まもるは、理を目にかけていた。

 理の祖父が病に倒れた時も亡くなった時も手を差し伸べ、高校を卒業するまで皇家に住まないかと言った程だった。

 勿論、その後の面倒も見るつもりだったのだと思う。

 しかし理はそれを丁重に断り、今の住まいに一人で住んでいる。

「とても有り難い話だけど、自分の力でやれる所までやってみたいんだ。それに俺って逆境になればなる程、燃えちゃうタイプ……だろ?」

「確かにそれは否定出来ない」

 屈託なく告げられ、統は何度も頷く。

 そして互いに顔を見合わせると、どちらからともなく笑い合った。

 今ならわかるのに。あの夏の午後を思い出すと辛くなる。

 真面目で優しく、友達思い。そんな理が村をとても大事に思っていた事を。

「統」

 ひとしきり笑い終えた後、呟きに笑顔を向ける。

 しかしすぐに引き締めたのは、理が今度は遠くではなく、真っ直ぐに自分を見ていたからだ。

 暫しの沈黙。そして、ゆっくりと理は相好を崩した。

「いや……何でもない」

「何だよー。気になるじゃないかー」

 背後に回り込み、首を軽く左腕で締め上げると右の拳を左右に振りながら頭頂部を押す。

「くっ……苦しい! ごめん、ごめんってば!」

 再び笑い声を上げながら、理は統の腕を小気味よく叩く。

 統も笑いながら、力を緩める。

「その時が来たら……」

 一陣の風が強く吹く。だから、統の耳には届かなかった言葉。

「……必ず話すから」


「……ふ」

 息が止まりそうな程、角度を変えては何度も口付けられ、思わず吐息を洩らしてしまった。

 しかし大木に押し付けられた体に触れようとしている気配に気付くと、短く冷たく言い放った。。

「やめて」

 そんな少女から離れると、苦笑しながら啓は呟いた。

「はいはい。相変わらず雪姫は我儘だなぁ……自分から誘ったくせに」

 雪は何も言わず、視線だけを逸らす。

 その姿に一瞥を投げると、少年はその場にしゃがみこんだ。

「全く。この村の娘さん達は揃いも揃って統ちゃん一筋で、俺と理には見向きもしない。困ったもんだ」

「わっ……私は別にっ……!」

 声に動揺が現れ、後は続けられない。繊細な一面に啓は再び苦笑した。


 ひとつ いうこときかぬこは

 ふたつ おやまにさらわれる

 みっつ つかいにかみつかれ

 よっつ じょうげにわけられて

 いつつ いつまでなげいても

 もう  もとにはもどれない


「……だっけ?」

 突然、村に伝わる手毬歌を口ずさんだ啓は記憶を手繰り寄せる。

「あれ? でも、何か違うか?」

「知らないわよ」

 雪はそっぽを向いた。

 その歌は好きじゃない。その歌を歌いながら共に遊んだ少女を思い出すと、胸の奥で嫉妬が渦巻くから。

 だから、尚更嫌いだった。

「今更誤魔化さなくてもいいんじゃない? 見てればわかるし」

 ゆっくりと啓は笑みを浮かべる。

「男の俺から見ても統はいい奴だし、雪や樹ちゃんの気持ちなんてこんな頃から知ってたよ」

 手を水平にかざしながら、目を細める。その高さは丁度、子供の背丈位だった。

「啓は統が羨ましいの?」

 それは純粋な疑問。

「どうかな」

 するりと手を下ろすと、そのまま視線を落とす。

「確かに統は将来、皇を継ぐかもしれない」

 でも、それはまだ決定事項ではない。

「そうすれば望んだものは大底何でも手に入るだろう。でも、それを本人が自覚してないから話にならない」

 言い終わると勢いよく立ち上がり、雪が寄りかかっていた大木に、ばんと両手を突く。

 その衝撃で幹が揺れ、葉がざわめき、鳥が飛び立った。

 予想外の行動に驚きで身を竦めたが、少女は毅然と啓を見上げる。

「雪、お前だって望まれたいと思っているんだろう? だったら、俺を惑わすな」

 その奥にある複雑な感情。行き場を失い、怒りすら秘めた瞳に射抜かれそうになる。

 それなのに、自分でも信じられない言葉を投げかけていた。

「取っちゃえばいいのに」

 啓の表情が凍る。その中で片眉だけが、器用に上がる。

「統は何もかも持ってるんだから、一つ位いいんじゃない?」

 それは悪魔の囁き。くっと喉を鳴らし、

「それがお前の望み?」

 尋ねたが、雪は答えない。

「お前って、サイテー」

 啓は笑った。笑うしかなかった。

「でも……愛してるよ」

 そう囁くと、今度は優しく口付けた。

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