第29話 狸御殿

通称狸御殿たぬきごてんと言われる宗教施設が山の中にあるらしい。木津根村からは車で2時間ほど距離はあるが、木津根村でもその名を知らない人はいないほど根付いている割には、実際にそこに行った事があるというものは聞いたことが無い。だがこの地方の親は子供をしかる時、「狸御殿に置いていくぞ!」「御タヌキ様に差し出すぞ!」などと言う。


当の親も、自分が子供の頃にそう言われて育ったから、子供に対して言っているだけで、狸御殿が何なのか、御タヌキ様とは誰なのか知っているものはいない。


だが、


「狸御殿には踊り狸がいるが、踊るのは狸じゃなく、人間を踊り食いするらしい」

「いや、踊り食いというのは、食べるという意味じゃなくて、あっちの事らしいぞ」

「あの節子せつこって、横着おうちゃくな子いただろ。なんでも狸にはらまされたらしい。それを山で産んで村を恨みながら、狸御殿たぬきごてんで子供を育てているらしい」


こんな噂は、酒の場で偶に話題に上がっては、その場を沸かせたが、どこから話が出たのかなど、誰も知りはしなかった。


選挙に敗れた狸穴まみあなは、狸御殿の真実を知っている木津根村唯一の村民でもあった。選挙に敗れて、ひっそりと村から消えた狸穴まみあなは、狸御殿の宿坊しゅくぼうで孤独に生活をしていた。


地元の人間ほど何も知らない狸御殿であったが、その場所は宗教団体、面田会めんでんかいの中では「四国の大本山」という名で知られていた聖地であった。


面田会めんでんかいでも高位のものにならないと、その聖地の存在は明かされない。なんでも、面田紋次おもたもんじが泉の中から湧きだして生まれた事になっている聖なる山、というのは、この「四国の大本山」と言われている通称狸御殿がある譜栗山ふぐりやまの事だというのだ。


実際、この施設は謎めいており、広大な敷地に、様々な建物が建てられ、そこで生活している人達も大勢いるのだが、その人達が修行者なのか何なのかすら、誰も把握できていない。


自治体としての管轄かんかつは一応、木津根村なのだが、集落とは離れたこの山の生体は役場でもつかめておらず、事実上、狸穴一人の裁量で、全てがとり行われていたのだ。


狸穴は、孤独に一人、每日每日、よくわからない呪文なのかお経なのかを唱えて暮らしていた。まるで何かにおびえるように、あるいはいずれバレる悪事を働いた子供が、バレる前に善い行いをわざとらしくしておいて、叱られる前にポイントを稼ぐように。


狸穴まみあなさん。そんな有体ありていの事やったとしても、何の意味もありませんよ。」週に1度ぐらい、白水博士しろうずはかせが狸穴が引きこもる宿坊しゅくぼうを訪ねては、嫌味いやみなのか、アドバイスなのか、からかいなのか、分かりにくい無感情な言い草でつぶやいては、帰り際に狸穴の好物である日本酒と「どろめ」を差し入れた。「どろめ」というのはイワシの稚魚の珍味で酒に合う。


狸穴は、白水が去ってから、誰も来ない事を確認して、ペロペロ舐めるように旨そうに日本酒を呑んでいるのは、白水博士しろうずはかせは監視カメラでは観察済みだった。白水博士しろうずはかせは意地悪もあって、本当は每日届けてやってもいいのだが、1週間に一度にしておいた。狸穴のような酒飲みは、每日届けられる事がわかれば、有り難みも忘れて每日全部呑んでしまうのは分かっている。最初に届けた時は、実際1日で干してしまった。


だが、1週間に1度とこっちの手の内を理解すると、腐っても元村長、強靭きょうじんな意思を持って、5日は持つぐらいに小分けにして呑む。そして、2日間は苦しみながら我慢して、渇ききった所、また届けられる酒を味わうのがたまらないようなのだ。


白水博士しろうずはかせは、馬鹿な奴だと思うが、これ以上の残酷ざんこくさを出さずに、きちんとまた、1週間後に届けてやる。本当は、届けると約束した訳でもないから、旨い酒を呑むために2日間我慢した狸穴に、酒の代わりに水でも届けたらどんな顔するか見てみたいと思わないでもなかったが、白水という男は、意外とそういう意地悪はしない男だったのだ。








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