第4節 情報を活用する、本質としての道徳について

 これまで述べてきたことは情報の本質的価値を阻害するモノを指摘し、正しい情報の価値の在り方を明らかにしたのだが、それによって選ぶ答えを決定する本質に対する配慮、つまり情報はメリットを構成する要素としては重要であっても、方針を決定する本質自体を覆す結果をもたらすことはないという視点が抜けていた。とどのつまり、今までのような論議では、本質的な道徳的対立を解決する結果をもたらさないことが、これまで見て来たように「尊厳死」を例にとることで分かってもらえるだろう。つまり、わたしたちは今まで、「尊厳死賛成派」を人道主義者であり、生命の自由を主張するがために本質を見失っているということを指摘することで思考の変化をうながしてきたのだが、それでは明らさまに本質が対立する場合、健康な人間以外は生きるべきではないというような、更には生命に順位をつけ、価値ある生命とそうでないモノとに分ける差別主義的な考えに対し、ひ弱な一般論では自分自身の道徳的な基盤を持たないがために批判力を持てないと言えるのだ。しかし、私たちは今まで道徳教育を受け、実際に道徳的なルールを社会生活で学びながら生きて来たはずである。なのに何故このような価値観の転倒、自己の存在をも否定するような矛盾に対して、何の対策も持たないのであろうか?次の章ではこれまでの道徳教育の限界を探り、なすべき方策について考察する。


 これまでの道徳教育の目的は、道徳が社会の存続のために作られたモノであるのと同様に、社会のために人間を教育することにあった。が、そこには社会が個人のために貢献するという前提が存在していた。その前提をもたない社会がもっていたのは、道徳ではなく単なる相互規制であり、支配の構造である。つまり、道徳は個人が社会的な圧力によらずにその社会をスムーズに運営し、個人に貢献させるためのルールだったのだ。だが、文明が発達するうちに、いつしか個人のための社会化が、社会を維持するための個人へとその位置づけを逆転させることになった。それは前章で述べた、目的のための“生産”と、目的としての“消費”の逆転に非常に良く似た構造をもつ。そのことは道徳という内発的動機の低下を招き、社会の利益よりも個人の利益を優先させる傾向を生み出した。社会の利益の低下は個人の利益の低下に直結するにも拘わらず、である。山岸俊男は、この社会的ジレンマと呼ばれる問題解決の手段として“利他的利己主義”をあげたのだが、それを行う人間の動機を根本的には“自己利益”においたため問題解決には至らなかった。というのは、社会全体の利益を目指すなら利他的利己主義がもっとも効果を上げることは証明できたのだが、同時に個人が独立してもっとも利益を上げるのは、他の人間が利他的利己主義を発揮する場面において、自分1人だけが単純な目先の利益を追求する利己主義を行う場合であることをも証明してしまったのからである。それは、自分が社会の一員であることを理解しないで独立した存在であるという認識が蔓延し、社会的なルールを無視したために道徳の存続を危うくしている状態を、利益を目的とすることで逆に個人にとってはもっとも都合がいいと肯定する現状に対する説明にしかならなかったのである。実際に必要なのは個人主義の錯覚を打ち破る手段だが、これを相互規制に頼るという失敗を犯してしまった。さらには応報戦略による作戦変更も、最終的には社会を利己主義者の集団にしてしまう危険を解決できなかった。そして教育にその解決の糸口があるかを問うが、利他的利己主義、あるいは利他主義の教育という、利益で人を動かす方法論にとどめたため、利己主義者のただ乗りによる崩壊のジレンマを解決することができず、日本古来の方法である相互規制に頼るという悪循環を繰り返している。相互信頼と“内発的な”相互協力ではない、これまでの日本社会にとって社会的ジレンマ問題の解決に有効だった相互規制システムという方法がうまく機能しなくなり、“強権”により“少数民族問題”を押さえ込もうとする動きが出てくるという、彼が恐れていた危機に、私たちは今まさに直面している。実際にここで必要なのは、利益というアメや、支配というムチではなく、道徳教育であるはずである。人々が自発的にルールを守るように仕向けない限り、そのジレンマの解決はありえない。では、具体的なその内容に入る前に、現代の日本で行われている道徳教育について見てみよう。

 文部省は、1989年3月に告示した新学習指導要領において、道徳教育の目的を「豊かな心をもち、たくましく生きる人間の育成」をとし、指導内容を次に示す四視点からとらえ、それに基づき、子供の道徳的心情の発達、道徳的価値を認識できる能力の程度や社会認識の広がり、生活技術の習熟度及び発達段階などを考慮し、最も指導の適時性のあるものを学年段階毎に精選し、重点的に示し指導するよう改善を計った。

 1の視点「主として自分自身に関すること」

自己の在り方を自分自身とのかかわりにおいてとらえ、望ましい自己の形成を図る

 2の視点「主として他の人とのかかわりに関すること」

自己を他の人とのかかわりの中でとらえ、望ましい人間関係の育成を図る

 3の視点「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」

自己を自然や美しいもの、崇高なものとのかかわりにおいてとらえ、人間としての自覚を深める

 4の視点「主として集団や社会とのかかわりに関すること」

自己をさまざまな社会集団や郷土、国家、国際社会とのかかわりの中でとらえ、国際社会に生きる日本人としての自覚に立ち、平和的で文化的な社会及び国家の一員として必要な道徳性の育成を図る

「道徳教育は、人間としてより良く生きていく上で必要なさまざまなかかわりを主体的にもち、自ら考え、判断し自律的に道徳的実践のできる人間の育成を目指している」この前提には一見矛盾がないように見受けられる。しかし指導する具体的な内容について吟味していくうちに大きな疑問が生じる。つまりここでは「より良く生きること」を語りつつ、どのような状態がより良く生きている状態なのかが示されていないし、“かかわり”を重視することで道徳の基本である自律性を阻害し、結果的に道徳を相互規制のレベルにまで貶めている。ここで明らかになったのは、上でも述べているように確かに現在私たちは危機的な状況に置かれている。しかし、それは道徳が崩壊したからではなかった。なぜなら、これまで日本には、特に教育の段階においては“道徳”など存在しなかったのだから。今でも、いや、今こそ道徳教育は必要とされているのである。いよいよ、道徳のあるべき姿に迫りたい。

 そもそも道徳が目指すものとは何だろう?端的に言えば「自律的に善くあろうとする人間をつくる」ことにあるはずである。ここにもっとも根源的なジレンマ「道徳は教えられるか」という問題が浮上してくる。この点について、古代ギリシャの哲学者ソクラテスの吟味は次のように進められた。「ソクラテスは、人間はすべて善を求めているという考えから出発して、悪の行為は善についての知識の欠如や知識の不十分さから生じると考えてみた。したがって逆に言えば善について十分知識しておれば、善の行為ができるのであり、道徳的に優れた人物にもなれるわけである。そうしてみると道徳的な善と悪とは、結局善悪についての知識の問題に帰着すると考えなければならなくなる。ところが、知識というものは、国語や数学の場合においてそうであるように、教えることのできるものである。したがって、道徳もまたそれが知識であるかぎり「教える」ことのできるものでなければならない。…これがソクラテスの有名な「徳は知識である」という命題なのである。」これに対し「アリストテレスは、ソクラテスが「徳は知識である」という命題を提出した場合、それが、徳は知識なしではありえないことを意味した限りでは極めて正しいのであるが、徳はそのまま知識であるということを意味した限りでは明らかに誤っていると主張した。こうして…徳は一部において知識であり、一部において習慣であるという新しい考え方を提案することになったのである。…ソクラテスの命題よりは、「徳は知識と習慣とによって成り立つ」というアリストテレスの命題の方が、私たちの常識にとってより親しみ易いと思われるであろう。人々は知識していてもそれを実行しないことがある。しかし、知識していながら実行しない人は、徳のある人とはいえない。したがって、単に知識するだけでなく、知識したことが自ずから実行に結び付くように、十分に習慣づけを行っておくことが徳の確立に欠かすことのできない条件と考えられるのである。したがって、有徳の人、つまり道徳的な人間は、知識することと習慣づけることの両方によって生まれる。…こうしてアリストテレスの考え方に従えば、道徳教育に

 善や悪や正義についての知識の教育

 その知識にしたがって行動する習慣の教育

の二つの側面が浮かび上がって」くるのである。これは、道(人の行うべき基準。条理。秩序)を知り、徳(修養によって身に備わった品位。善や正義をつらぬく人格的能力)を行う、という言語としての道徳の成り立ちをも表現しているし、この二つが不可分のものであることをも示している。

 さらに、道徳の機能的特徴に注目したミルは「論理学体系」の中で“裁判官的機能”と“立法家的機能”という機能の組み合わせで、道徳の全構造を説明しようとした。

・裁判官的機能

ちょうど裁判官が実定法を個別の事例にあてはめて判決を下す場合と同じように、安定した社会で慣習的道徳ができあがっている場合には、人々はこの慣習的道徳の基準に照らして自分の行動を律していくことができる。学校での道徳教育の例で考えれば、校則というものが定められている場合、教師も生徒もこの校則を基準として自分たちの個々の行動を吟味するのが普通である。このような適用と解釈だけが道徳指導や道徳訓練の内容となることで、裁判官が実定法そのものを疑わない立場に立つように、人々は校則そのものを疑うことをしない。

・立法家的機能

裁判官のように必ずしも実定法を基礎として個々の事例に判決を下すのではなく、逆に実定法や、社会規則や、慣習的道徳がそのままでは通用しなくなった場合に、新しく実定法そのものを作り代える仕事である。しかし立法家的機能の大前提となるものがそもそもどこから得られるかという問題が残る。

 しかし、ご覧になれば分かるように、この道徳の構造では、価値相対主義から逃れることができない。つまり、社会を作る要となるべき道徳の大前提となるものが、いくらでも改変可能なものとなってしまっているのである。つまり、いくら自己の形成に尽力したところで、その過程で「崇高なもの」の存在など教え込まれるのならば、道徳教育とは単に命令を良く聞くロボットを作り出す方法に過ぎなくなる。この観点から学習指導要領を振り返ると、立法家的機能の大前提にあたるものとして、3の視点「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」における「自己を自然や美しいもの、崇高なものとのかかわりにおいてとらえ、人間としての自覚を深める」を挙げることができることがわかる。さらに内容に踏み込めば、この「崇高なもの」が、戦前の修身教育においては、国家への服従や天皇崇拝そのものであったように、現在の道徳教育において具体的に示されることはない。むしろ、国家や社会への係わりを、自己を基本として考えるよう指導する限り、好ましいことであるように思える。だが、本当にそうだろうか?これはむしろ、これまで指摘してきた、高度に文明化された人々が陥っている魂の空洞状態と同じ状況に学生達を置くことを意味しているのではないのだろうか?現状をみると、崇拝すべきものを示さないことで、逆に多くの人々が従っているものや、特別なもの、いわれのない自身に裏付けられた強圧的な発言に対し、自らの判断力を働かせることなしに従ってしまう傾向が増大していると考えられる。さらに言えば、教育全体の目的そのものを見たとき、学習指導要領改訂に伴い、「正しい愛国心」と「象徴への敬愛」という条件が「期待される人間像(1966年)」に挙げられるようになり、教育基本法の「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」という原則が次第に歪められ、現在では完全に踏みにじられていることが分かる。さらに「日の丸」の掲揚、「君が代」の斉唱の強制まで公然と行われるようになった現在においては、教育全体が天皇崇拝に基づき行われていると判断せざるを得ない、という批判を加えざるを得ない、という困った状態に陥る。私は道徳を動機付ける“真理”探求を行うことを目的として思考を進めて来たのに、こんな下らないことに脇道にそらされては全く迷惑である。よって本来の目的である正しい道徳教育の在り方についての論考にもどる。

 しこうして、道徳教育において最も重要となるのが、その道徳の前提条件となるものであることは証明された。ソクラテスが、これに当たるものとして「人間はすべて善を求めている」という考えを挙げたことは、既に述べた通りである。そこに“利益”を見たものは崩壊のジレンマから逃れられないことも、既に述べた通りである。本稿における多くの参考にさせていただいた村井氏は、「人間は幸福を望んでいる」ことを、この、道徳のすべてを方向づける機能に対し“愛智者的機能”と名付け、掲げた。これらの道程から総合的に判断し、新たなる、そしてもっとも自明となる真理をこの大前提に当てはめるとすれば、これこそまさに「存在すること」に他ならないと主張することができる。つまり、生命に関して言えば「生きること」、さらには「生きることを阻害するものに対する抵抗の論理」こそが、道徳の基本となるものであると言えるのである。「生きとし生ける存在はすべて生きることを望んでいる」いや、死んでしまったものでさえ生きることを望んでいる、あるいはかつては望んでいたことに、異論を挟む余地はない。阻害される条件によって意見が変わっただけである。もし、本当に生命が遺伝子単位で自らの死を望むなら、遠からずその生命が死に絶えるであろうことは想像に難くない。それに対抗する手段であり目的となるもの。このことこそ、本稿全体の主題となりうる、人類が決して譲り渡してはならない真理なのである。守るべき規範としての道徳とは、根本的に「生きること−より良く生きること−そのためのより良い存在としての社会」の実現を目指して設定されたものであるはずだからである。

 こうして、道徳の大前提となるものが「生きること」そのものであることが理解していただけたと思う。しかし、まだ「道徳は教えられるか」というジレンマは依然存在し続けているように思われる記憶力のいい人もいるかも知れない。だが、道徳の大前提が、“私たちが細胞単位ですでに知っている事実”に過ぎないことは既に述べた。あとに必要なのは“思い出させること”だけである。そこには、従来の教育において考えられていた、教えるものと教えられるものなどという上下関係は成立しない。それこそ、ソクラテスが理想像を示した“真理の探究者”として、友愛の中で互いに指摘しあい、思想を深めて行けばいいだけの話である。それは“過程”の理想像を示すものであって、過程像が持つべき“理想”を示している訳ではない。「何を私たちは始めているのか」、「私たちはどこに行こうとしているのか」、それはその人間自身が見極めるべきことがらなのだから。道徳の目的は「自律的に善くあろうとする」という、過程の状態にある「人間をつくる」ことにこそ、あるのである。

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