第5節 道徳を活用するにあたって

 大変残念なことだが、実は前章において語られた方策をもってしても、破壊的な結果をもたらす思考に対しての最終的な解決方法とはなっていない。むしろ“道徳的ジレンマ”とはこの一点に集約されるといっても過言ではない。つまり、総ての“生”を生かそうとするモノは、総ての“生”を失わせようとする“生”に対して、どのような対策を採るべきであるかについてである。しかし、さらに考察を加えるならば、このような論議も、私たちは生きて考えているという前提条件が成立しなければ成り立たない以上、すでに答えは出ていると言える。他人の存在を否定するモノも、自己の存在を否定することはできないのだから。そして相手が生命をもたない場合、つまり“尊厳死”や“目的としての消費”のような“認識”である場合は、これまで述べて来たように矛盾点を指摘し、自ら崩壊させるか、遠慮なく叩き潰せばいいだけのことである。このようにして“道徳的ジレンマ”は解決可能であるといえるだろう。


 最後に残るのは実行の問題である(実際はこのことこそが“道徳的ジレンマ”として人々の念頭に浮かぶことの方が多いのだが)。本論文の“尊厳死”部分は、1995年の12月1日にゼミ活動の一環として参加したディベート大会へむけて作成した見解、及びその後の共同研究を元にしている。私たちは“尊厳死”問題において「命と人間の自我」という大変デリケートな問題を扱っていたのだが、相手側はまったくそのことを理解していなかった。彼らは自分たちが敗北した理由さえ分かっていなかったのだ。彼らにとっては、「政治について語るのも清潔について語るのも」まったく同レベルの話題に過ぎなかったのだ。そのような本質を見失わせる抽象化の思考こそが現実問題の解決をより困難にし、私たちの行動をその思考に対して誠実であろうとすることを阻害している原因であるにも拘わらずである。つまり、そのような思考に従う人間は、道徳の成立に必要な「その知識に従って行動する習慣」という特徴を欠いており、既にこれまで語ってきた通り、まさに道徳的に誤った行動をとっているのである。知識をもっていながら行わないことは、むしろその知識に反する立場をとることである。もちろんここにはさらに別の問題として“心情倫理”と“責任倫理”の問題もかかわってくるのだが、現在の状況は、人々がそのことについて考えたこともなかったことに起因することが明白である以上、それは行動しないことの言い訳にはならない。むしろ今行動しないことの方が責任倫理に反する結果を生み出すことになるのは想像に難くない。

 本稿においては、出来る限り抽象的で曖昧な表現を避け、人を死に向かわせる傾向、思考に対し、徹底的に攻撃を加え、矛盾を暴き出した。それは、間違った“うわさ”に対し、「否定するだけでは十分ではない」という例を持ち出せばその意図が分かっていただけると思う。

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