第3節 情報に価値を与えるモノについて

 これまで正当な情報を受け取る方法について論じて来た訳だが、これらには情報というモノの“価値”に対する配慮はまったく欠けている。が、はたして情報というものは総て等価なものであろうか?むしろ我々は情報にも順位を与えることで、優先するメリットとしないメリット、というふうに価値判断を行っていることが、これまで見て来たように「尊厳死」を例にとることで分かってもらえるだろう。つまり、同じメリットであるにしても、病院や医者側のメリットよりは患者側のメリット。家族のメリットよりは、本人の意志及びメリットを優先するというように。にも拘わらず、情報は総て等価であるという迷信を植え付けられ、同じメリットであるということでいつの間にか本質をボカされ、ある場合はすり替えられ、まったく逆の望まない結果を押し付けられることも、実生活上では多々ある。では、私たちはどのようにして情報は総て等価であるというような、価値相対主義的な思考を植え付けられて来たのだろうか?その過程を、見てみよう。


 私たちの社会を分析し、定義する方法はそれこそ無限に存在する。これまでの歴史という衆知の事実を発達史的に分析した場合でさえ枚挙に暇がない。ロストワの言う「伝統社会−離陸−成熟−高度大衆消費社会(伝統社会とは主として農業生産で成り立っており、資本の原子蓄積を起動力にしてちょうど飛行機が滑走路から飛び立つように工業化に向かって「離陸」してゆく。その工業化への活動がある段階まですすんで、社会は工業を中心としたあらたな編成をとるようになる。それが「成熟」である。ところが工業文明が高度化すると、社会の主力は工業生産から生産物の消費に移行してゆく。おもに耐久消費財の大衆規模での消費がそこでは開始される。それが「高度大衆消費社会」というものだ)」、リースマンの「伝統志向−内部志向−他人志向」(個人の行動の基準ないしモデルが両親、あるいは祖先によって用意されているような社会が「伝統志向」、個人の内発的な価値志向に基づく場合が「内部志向」、同時代の仲間集団に求める傾向をもつのが「他人志向」である)」、「口承−活字−視聴覚媒体(上の三つの段階に対応したコミュニケーション様式の分類である)」、同様な意味合いを持つマクルーハンの「部族的−活字的−触覚的(グーテンベルグ以前の口承段階を「部族的」コミュニケーションと呼び、つづく第二期を「活字的」、そして放送を中心とした電子的コミュニケーションの現代を「触覚的」と呼んだ)」、一般的なクラークの「第一次産業(農業)社会−第二次産業(工業)社会−第三次産業(情報産業)社会(これはその時代、どの要素の活動に力点が置かれていたかを示すものであって単なる転換ではない。生態学者の梅棹忠夫はこの三段階説を人間の感覚器官の延長に当てはめ、農業を消化器官を満足させる「内胚葉産業」、工業を筋肉の延長である「中胚葉産業」、情報産業を神経、感覚器官とかかわる「外胚葉産業」と位置づけた。ここには発生論と文明史との興味深い結合がみてとれる)」、ガルトゥングの「部族−国家−超国家(社会編成の単位概念の拡大を示す)」などなど…。(これは歴史を“進歩”あるいは“発展”するものとしてとらえた場合の段階説である。他にもトゥインビーにみられる「循環説」、マックス・ウェーバーの「類型学的分析」なども存在するが、今回は段階説を利用する。実際はレヴィストロースが指摘した通り、現代人が文明以前とみなす社会においても、固有の文化が存在したことは疑うべくもない事実である。さらに重要なのはそれらの文化でさえ、押し寄せる消費文明の前に姿を変えられている現実である)それらの論について、共通する特徴を整理すると次のような三段階に分けられる。

第一段階

社会的生産の主力は農業であり、社会編成の単位は、小さな部族からせいぜい都市国家的なものにすぎない。コミュニケーションはおおむね口承によるもので、社会全体は停滞している

第二段階

生産の主力は工業に移行する。西欧の近代資本主義がその典型で、社会編成は近代国家のレベルに達する。人間像は近代個人主義によって象徴され、コミュニケーション形式としては活字が登場する

第三段階

工業はもはや経済の主力ではなく、さまざまなサービス業をふくむ、広義の情報産業が主導権をにぎる。放送・映画などの視聴覚的マス・メディアが活字にかわって、少なくとも活字と平行してあらわれる。国家は依然として健在だが、人間の生き方は少なからずコスモポリタン的になり、また行動基準は“同時代人”により多く傾斜する

 それでは、このような段階論を裏付ける社会的背景を分析した加藤秀俊の意見を参考にしながら、現代社会のもつ傾向とそれへの対策を探って行こう。

 一番の問題として指摘されるのは“消費”の行き詰まりである。かつては物資の欠乏の状態にあった社会も、農業の発展で食料が余剰し、その余力が工業生産へと力点を移す原動力となった。そして工業化によって労働、および生産が効率化され、耐久消費財が世間にゆきわたると、物資は余剰し始める。現代のわれわれが住んでいるのは「豊かな社会」ではなく「ありあまる社会(ガルブレイスの言葉)」なのである。もはや“消費”は、需要に基づいて生産が行われ、そして流通、消費というシステムにおいて行われているのではない。生産に基づいて供給が調整され、それに基づいて消費が強制されているのである。必要の問題とは無関係に、消費すること自体が経済の回転にとって基本問題となっているのだ。それは情報においても同様である。肥大した経済は、自らの維持のため新たな需要を必要とする。先進国の紙面に踊る「市場を開拓する」「ビジネスチャンス発見」などというスローガンは、既に需要に対して供給するという消費の正常な形態が崩壊し、生産あるいは流通を行うものを維持するための消費へとなっていることを、何より象徴している。そのためには絶対的なものなどあってはならないのである。常に新しいモノ、それも「What’s a new?(何か新しいものある?)」という言葉に象徴される、消費者にとっての“新製品”を必要とするように仕向ける必要があるわけだ。そのためにも絶対的なものを否定する価値相対主義は欠かせないものと言える。実際は消費や新しいものをより良いものとして絶対化している事実から目を逸らさせるためにも、である。「世の中に既にあるモノで特別なモノが何かなど特定できない、ただ言えるのは新しいものをとりいれないと時代に取り残されることだけだ」というわけである。そこには“物質の情報化”が顕在化する。新聞の記事やファッションは、物質的価値をもつつともに情報的価値をもつのである。それは物資の余剰が選択を可能にしたことに起因する。このことはさらに物質の氾濫が情報の氾濫を生み出し、私たちは当然一つ一ツの情報(物質)に接する時間が短縮され、より短い時間で判断する必要に迫られてくることを意味している。このことは前章で指摘したとおり、正常な判断を阻害する危険がある情報処理の方法を選ばせ、誤った結果を生みだし易くさせる。また忘れてならないのが、加速された社会生活の一方で自由時間(余暇時間)が増えたことだ。ところが、次の段階ではこれこそが“消費”の対象とされた。余暇産業も通常の産業と同じように情報産業が主な位置を占めるようになった。このことによって人々は常に情報処理に追われるようになり、さらに簡便法に頼らざるをえない様になった。私たちはこうして“消費”の悪循環にとらえられ、正常な判断が阻害されているのである。そして、第三段階の特徴である「行動基準は“同時代人”により多く傾斜する」によっても、人々がますます操られ易くなっていることが裏付けられることを見逃してはならない。

 そして他にも注意すべきなのが抽象化の問題。私たちは現実の問題を、数字や言語の表現上に抽象化し、あたかもそれを現実であるかのように感じ、扱うように教育されてきたが、それは危険な傾向である。私たちは現実的には殺人や人を傷つけることを日常的に行うことも目にすることもほとんどない。しかし、抽象化された世界、テレビや新聞、さまざまなメディアにおいて私たちがそれらを目にしない日は無い。それらを現実としてとらえること、報道ならともかく、フィクションについてまでその危険性が及ぼす影響について言及すると、人々は非難の声をあげる「現実とフィクションの区別もつかないのか」と。それは教育で行われて来たこととはまったく矛盾する。つまり実際に両者を区別しているのは、抽象的な思考にならされた、高度に教育された文明的であると自負する人間たちの都合においてにすぎない。それは“本音”と“建前”などという意味のない、あるいは有害な概念のより所となっている。しかし、それは“建前”の成立条件である、世間により受け入れられ易い表現の複雑化、潜在化により、時に道徳的にはまったく不適当な発言を生み出すに至った。彼らは言う「戦争だから人が死んでも仕方がない、戦争とはそういうものだ」。それはあくまで知識としての戦争を知り、抽象化された問題として戦争を扱って来た人間の言葉である。少なくとも殺された人間の言葉ではない。原爆を落としたとき、その操縦士は下で何が起こったかを想像してはならないと教育されていた。現実に近づくための想像力をもたない、事務処理のための抽象化、それによって人はどんな残酷な行為も、非常識な行動も現実と認識する事なく行いうる。現実問題を処理するとき、抽象化が生み出す危険を忘れてはならない。さらに付け加えるなら“階級”というのも抽象化が生み出した概念にすぎない。それが支配を行う側にとって必要だっただけのことで、その目的は支配者に対する不満をそらせるはけ口としての“差別”を成り立たせることにあったのだ。それは“尊厳死”を例に出してもはっきりする。既に見て来たように、実際は賛成派、反対派の意見の内容において対立など存在しなかった。賛成派(と反対派)が本当に求めていたのは過剰医療の停止であり、医療体制の改善であった。ただ賛成派は自分たちが何をしようとしているかを理解していなかっただけだ(本質的な対立については後述)。抽象化の罠にかかり価値観を相対化され、特定の価値観を植え付けられた人間は、自分たちが操られていることを意識せずに、その教化され易い傾向をさらに増大させる。抽象化は相対化を強化し、客観性の錯覚は自らの主観をも見失わせるのだ。それは、自覚のないまま人間に悲劇を演じさせる。

 これまで述べてきたように、情報とはそもそも抽象化された現実である。そして、現実処理を抽象化の助けを借りることなしに行うことに非常な困難が伴うことは事実である。しかし、情報化によって現実の存在を見失ってはならないのだ。そのことはそもそもの目的である現実問題の正しい解決を困難にする。そして情報とは蓄積されるだけでは無益なモノ、それだけでは手段にすぎず、役立つことも有害であることも可能である。さらに重要なのは本質的知識、すなわち目的の知識であることはプラトンの「小ヒッピアス」でも語られている通りである。それこそが“道徳”であり、それは価値相対主義とは全く相反する概念である。現代文明の発達と共に道徳は崩壊したと言われる。が、はたしてそれは事実なのだろうか?次の章では道徳の在り方について考察する。

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