第2節 行動に影響を与える情報について
が、これは情報が正当に与えられている場合においての行動指針に過ぎない。現実的にはむしろそれ以前の、情報が与えられる段階ですり替えが行われ、正常な思考を阻害する場合が多いことが、これまで見て来たように「尊厳死」を例にとることで分かってもらえるだろう。「賛成側は“生”を前向きに考えるからこそ“死”を選ぶことができるのであり、反対側は“生”に対して真剣に考えていないからこそ、ただ生かされることをも是認してしまうのだ」と言うような。実際には、“生”を考え、より良く生きるために改善を計る場合、死を考えることは有効であると言えるが、実行することはまったく必要なことではない。“死”とはむしろ“生”を阻害する結果でしかない。しかし、実際に生活するうえで我々はさまざまな情報に囲まれ、またその提供され方によっても正当に情報を受け取ることが阻害されている。それでは、このような情報によるすり替えは果たしてどのように行われるのだろうか?その伝達過程を見ることで、少しでも我々が正当な情報を受け取ることができる方法を模索してみよう。
はたして情報とはどのような目的で存在するのだろうか?現代社会においてその流通の目的が最終的には利益を生み出すことであることに異論の余地はない。だが、特定の立場の者に利益を与えることを目的に、情報や社会の在り方が規定されることは絶対に避けなければならない。その点で私たちが現在危機的な状況にあることについてウィルソン・ブライアン・キイは警告する。「注目すべきことに、先進諸国のほとんどすべての人々は自分が教化に対して免疫をもっていると無理やり思い込もうとしている。彼らは自分の頭でものを考えていると思い、真実と虚偽、空想と現実、迷信と科学、事実と虚構をなんなく区別できると考えている。しかし、技術的に高度の進歩をとげた文化に住む人々が、石器時代だったら即座に拒否されたに違いない信念体系や行動様式や価値観を持っているのだ。原始人なら現代社会が大事に抱え込んでいる信念の多くに内在する生存と適応への脅威、あるいは無意味さをただちに嗅ぎとっただろう。…世界から「自由で、教養があり、知的で文明的だ」とみなされている諸国民が、いまや世界の存続に深刻な影響をもたらしている。総じて彼らはおのれの政治的、社会的、経済的体制の利権に奉仕するメディアや政治や指導者や制度に自分たちがどれほど操作され、管理され、条件づけされているかに気づいていない。私たちの知るかぎり、利権保有者と指導者的立場にあるエリートは、人間社会発展のあらゆる段階に存在するもののように思われる。おそらくこれこそ社会制度の中の唯一不変のものなのだろう。「人間は自分たちが考えることについてどのように考えているか」—これが文明の存続にとって核心をなす問いであることに、私たちはようやく気づき始めた。残念なことに、この問題は常に憤激、怒り、苛立ち、弁解を引き起こす。でなければ人々をうんざりさせる。こうしたことにいちばん無防備で人間教化のシステムにいいようにあしらわれている人々が、個々の教化についていちばん弁解がましい態度をとるものである。…マスコミの多くは、人間の弱さにつけこみ、それを操作することで成り立っている。事実上すべての広告にみられる一貫したテーマとは、消費者の劣等性である。消費者は無意識のうちに自分と広告を比較する。その結果、自分を不完全で見劣りのする敗者と認めざるをえない。…自分自身を劣った人間と思い込むよう操作された人間は、満足感や完全さを約束してくれる商品やブランドであれば何でも買いあさるように仕向けられてしまう。消費は永遠に手の届かない充足をもたらす。広告主の約束はもちろん果たされることがなく、人々はついには消費という幻想の中に埋没していく。広告に依存した消費者はだんだんと不満が嵩じてゆく。広告の提起する理想を手に入れられないことで、自尊心が打ち砕かれるのだ。だが、そのメカニズムは際限なく機能しうる。消費中心主義に冒された単調な日々がつづくかぎり、消費者は新製品から新製品へと駆り立てられる。我消費す、ゆえに我有り、というわけだ。…自己閉塞的な前提、現実の侵入や仮説の検証に対して、己れを封印した永遠に閉ざされた精神は、広告メディアに支配された文化がもたらした恐るべき帰結である。…自らを封印する精神構造は、人生から多くの喜びを引き出すこともできない。なぜなら彼らは創造的な遊びと革新を生み出す機会をほとんどもっていないからである。」
消費において重視されるのは、目新しさと回転率の早さ、そしてあらかじめ決定された見せかけの自由意志による選択である。その点においてキイの指摘は尊厳死問題賛成派の根本思想を暴き出す意見として重要であり、現在の道徳問題をゆがめる力点の存在を示すものである。そして彼はさらに、この社会の構造を成り立たせる情報システム自体を規定している言語・文化システムを作り上げるうえで利用された、ギリシャの哲学者アリストテレスが提出した言語の機能の三つの基本法則について批判を加えている。
同一律「在るものは在る」
「この概念が直接の原因となって、人間は果てしない混乱と苦境に陥ってきた。言葉はそれが表しているものと同じではない…アリストテレスは言葉やシンボルを人々や事物と同一視することができると思い込んだ…同一視は次の前提に基づいている。言葉とシンボルと対象は直接に比較することができる。あらゆる実在には、特定の適切な言葉、ないしイメージがある。他人が考えている言葉の定義は、私が考えている言葉の定義と同一である。ところがこの三つはすべて誤りなのだ。日常生活でも科学の世界でも、ぜんぜん妥当しないのである」
排中律「あらゆるものは在るか無いかのいずれかでなければならない」
「人間の知覚した現実が、ただ二つの側面しか持たないような単純なものであったためしはなかった。この二つの側面とは、知覚的に構成され、想像され、捏造されたものなのである。実際にはどんな現実もそこに関わる人々の数と同じだけの—あるいはそれ以上の—側面を持つはずである。…言語的分割—言葉の上で現実の世界ではなしえない区分をすること—は、排中律をさらに強化する。精神と肉体、思考と感情、情動と知性、意識と無意識がその例として挙げられる。…しかるに人々が二値論理的な価値システムの受容へと導かれてしまうと、彼らは黒白のはっきりしたステレオタイプ的評価という馬鹿気た代物を受け入れる態勢はすっかり整ったも同然である。彼らはすでに知覚における自律性と知覚に対するコントロールを喪失しているのだ」
矛盾律「何ものも在りかつ在らぬことはできない」
「矛盾を放逐することによって、彼は言葉と絵図と数学による言語システムに内在する厄介な問題を拒否し、無視し、隠蔽したのである。…アリストテレス以降、人間は自分の住む世界全体について言葉による目録を作成し、すべてを説明しきることができるようになった。それは彼らが思考した世界だ。思考と知覚の対象としての世界、カテゴリー化され、定義され、そしてそれだけで孤立したものとされた世界である。人間は自分の知覚したものを信じ込み、その知覚に対する確信によって、多くの神秘や不確実なことや矛盾を消滅させる論理の構築が可能になった。知識の錯覚を作り出したければ、いつでも言葉や語句を発明したり、構築したり、定義ないし再定義すればよかった。人間の自我は天空にまで拡大された。神でさえ言葉によって定義された。何ダースもの宗教、そして何百もの宗派が、それぞれ自分に都合のいいように、そうした言語的定義を発明してきたのである。…アリストテレスの法則とは反対に、知覚された現実の世界は相互に結び付いている。その世界の中のすべてが他のすべてのものによって影響されるのだ。孤立して存在するものなどひとつもありはしない。孤立ないし排他性は知覚的な錯覚にすぎない—それもしばしば悲惨な結果をもたらす錯覚である。…にもかかわらず、ある種の人々はこの錯覚から利益を引き出しており、そういう連中にとってそれは政治的、イデオロギー的、商業的に充分利用できるものなのだ(アリストテレスは現実問題を処理するうえでの効率的な思考法の一例を提出したのであって、現在の状況のすべての責任を彼の命題に置くことはできない。むしろ責めるべきなのはそれが真実のすべてであるように主張し、利用する意図にある。それこそがキイの文章の主題であることを補足しておく)」(尊厳死問題においても、人の死を個人の死として孤立してとらえる思考に利用されている。もちろん利用されているのは、その動議付けを行った尊厳死という概念自体を作り出した者によって、個人の自由意志や欲望、及びその生死がである)
また、その利用される方法についての簡潔な分析としてロバート・B・チャルディーニの研究が挙げられる。彼は情報が処理され行動に与える影響力、及び危険な反応についていくつかの法則を見つけだした。
自動性の法則
利用できるデータのほんの一部の特徴に頼って愚かな決定を下してしまう。傾向がもともとあるにもかかわらず、現代生活の速いペースによってこの種の簡便法を一層多く使うことを余儀なくされている。正確さより速さを優先するため起こる
返報性の法則
利益を与えられることによってお返しをする責任を感じる。始めに与えられた利益が本人の望まないものであっても、お返しは相手の望むもので提供する必要があるため不公平な交換を引き起こす
一貫性の法則
自分の行為や決定と一貫した思考や信念を持ち続けようとして自分自身をだますこと。他人によって強制された行為や決定によっても思考や信念は方向づけられる点にも注意が必要
社会的証明の法則
他者の行動を自身の行動指針としてしまうことにより、考えないで誤った判断を下してしまう。多数決は正誤の指針とはならない
好意の法則
優位性や類似性を利用して好意を引き出し利益を得る。不適当な好意と不本意な結果の関係に注目
権威の法則
権威に対する盲目的な服従が利用される。その権威者が専門家であるか、誠実であるかに注意が必要。権威の構成要素をとり除いたうえで判断するべきである
希少性の法則
手に入りにくいことが価値を生み出す場合。正当な価値を冷静に判断することが重要
これらの要件を理解したうえで、正当な情報に基づく正常な判断で不当な搾取から身を守らなければならない。(「みんなが良いというから良い」という人間は と の法則に支配されているし、「専門家にまかせろ」という意見は と の法則に基づく。尊厳死について言えば、それが社会的に認知されたとき 〜 の法則に基づきすみやかに実行する判断が下されるのは想像に難くない。見かけが平和な社会で殺人が認知される機会など他に無いのだから)
また情報は“うわさ”の形態をとることもある。うわさが通常の情報と異なるのは、その性質において信頼性より話題性の方が優先されることである。現代のマスメディアに日々取り沙汰される情報は、まさにこの点でうわさの方に近いことは既にご承知であろう。うわさの特徴は、それが正しいときよりむしろ間違っていた時ハッキリする。うわさは「否定するだけでは十分ではない。否定は、情報の供給需要の市場では、その価値にかなりのハンディキャップを負うている。」というのは、否定はすでに扇情的な見出しをもって、意外なそれでいて人々の創造力を刺激する情報が十分流布された後でそれに付け加えられる、既に知っている事柄に関する情報でしかないからである。そして報道されたあと否定の記事が掲載されるとしても、初めの記事よりもかなり小さな、囲いつきの記事としてしか扱ってもらえない。初めの間違った情報より、否定の情報がより大きく扱われることはありえないのである。この事実から、私たちは情報の真偽、重要さを、その扱いの大きさ、報道回数から判断してはいけないことがわかるだろう。うわさは常に進化し続けるが、その否定は聞き飽きた情報としてすぐに忘れ去られてしまうのだ。この性質を悪用して、はじめから間違った情報であり後に訂正することを理解したうえで、うわさの対象のイメージダウンを目的として報道が行われ得ることの危険性についても、ここで言及しておく。情報を取り入れる場合、内容以上にその出典、情報伝達の経緯、伝達した側の意図を読み取ることで、自分の中で内容を修正することも重要なのだ。一般に、情報とは客観的なモノであり、事実について述べていれば事実そのものであると理解されるが、それは正しくない。事実とは存在そのものであり、情報とはそれを分解し、解釈されたうえで言語に再構成されたモノでしかなく、そこに等号は成立しない。正しいとしても、それは事実の一面に過ぎないのである。映像情報などの場合でも、そこには必ず“視点”が介在しているのだから。数字化されたデータをもって信憑性をかたる場合でも、そこには、必ずその計測する数値をどこから採取するかを決定した意図が存在するのだ。情報の中にその成り立ちを見ない限り事実の正しい姿を見ることはできないことは、既にキイが指摘した通りであり、尊厳死問題においても日本医師会や尊厳死協会などの賛成派の見解におけるゆがみに見ることができる。正当な情報を受け取ることは大変困難なことだが、決して自分の思考を放棄してはいけない。情報の成り立ちを知り属性を知ること、自分の立つ場所を知り視点を知ること、それこそが正当な情報を受け取るうえでもっとも重要な事柄であることが、これで理解していただけたであろう。
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