第2章 道徳的ジレンマについて 第1節 行動について

 通常、道徳的ジレンマと呼ばれるモノは、本質と本質の対立であるにも関わらず、それにメリットを付け加えることで本質をボカし、更に言うなら、絶対に相いれない本質を持ちながらもそれをメリットによって隠し、メリットとメリットの比較の問題にすり替えている場合がほとんどである。つまり、メリットを優先するがために本質を見失い、やがてその問題が持つ本質により相いれない結果を導き出す事につながることが、これまで見て来たように「尊厳死」を例にとることで分かってもらえただろう。本質的には生死の問題であるにも関わらず、賛成側は「死」という言葉の替わりに「尊厳ある生の終わり」と言い換えることで抵抗感をなくし、メリットを列挙することであたかもそれがメリットとメリットの比較の問題であるかのようにすり替えているのだ、実際は「人為的な殺人」を認めるか、認めないかの問題であるにもかかわらず。しかし、本質的には相いれないものであっても、実現されるメリットにおいては明らかに引き付けるモノが多い場合、どちらを選べばいいのかを見失ってしまうことは多い。果たして人間は自分が望む結果を手に入れたいと誠実に思考し、行動するなら、いったいどのような方法を選ぶべきなのだろうか?ドイツの哲学者マックス・ウェーバーは政治を例にとり、次のように語っている。

「 (P97)人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実、これが政治に関する総ての倫理問題をまさに特殊なものにたらしめた条件なのである。(P98)暴力によってこの地上に絶対的正義を打ち立てようとする者は部下という人間「装置」を必要とする。…指導者が成功するかどうかは、ひとえに…この装置の動機に…かかっている。指導者がこのような活動の条件下で実際に何を達成できるかは彼の一存でいかず、その部下の倫理的に全く卑俗な行為動機によって最初から決まってしまっている。(P99)それが主観的に誠実であっても、たいていは復讐・権力・戦利品・俸禄などに対する欲望の倫理的な「正当化」に過ぎない。−この点で丸めこまれるようなことがあってはならない。「規律」のために人間を空虚にし、非情化し、精神的にプロレタリア化することが、革命成功の条件の一つとなるからで…信仰の闘争に参加した追随者はひとたび勝利を収めるや、いとも簡単に平凡きわまるサラリーマンに堕落してしまう。およそ政治を行おうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時も忘れてはならない。繰り返して言うが、彼はすべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。(P100)自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は、これを政治という方法によって求めはしない。政治には、それとはまったく別の課題、つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。(P101)しかしこの「魂の救済」が純粋な心情倫理によって信仰闘争の中で追及される場合、結果に対する責任が欠けているから、この目的そのものが数世代にわたって傷つけられ、信用を失うことになるかもしれない。(P102)修練によって生の現実を直視する目をもつこと、生を現実に耐え、これに内面的に打ち勝つ能力をもつこと、これだけは何としても欠かせない条件である。たしかに政治は頭脳でおこなわれるが、頭脳だけでおこなわれるものでは断じてない。その点では心情倫理家の言うところはまったく正しい。しかし心情倫理家として行為すべきか、それとも責任倫理家として行為すべきか、またどんな場合にどちらを選ぶべきかについては、誰に対しても指図がましいことは言えない。ただ次のことだけははっきり言える。もし今この興奮の時代に−諸君はこの興奮を「不毛」な興奮ではないと信じておられるようだが、いずれにしても興奮は真の情熱ではない、少なくとも真の情熱とは限らない−突然、心情倫理家が輩出して、「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。こうなった責任は私にではなく他人にある。私は彼らのために働き、彼らの愚かさ、卑俗さを根絶するであろう」という合い言葉をわがもの顔に振り回す場合、私ははっきり申し上げる。−まずもって私はこの心情倫理の背後にあるものの内容的な重みを問題にするね。そしてこれに対する私の印象はといえば、まず相手の十中八、九までは、自分の負っている責任を本当に感ぜずロマンチックな感動に酔いしれた法螺吹きというところだ、と。…これに反して結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間−老若を問わない−がある地点まで来て、「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止どまる」(ルッターの言葉)と言うなら、測り知れない感動をうける。これは人間的に純粋で魂をゆり動かす情景である。なぜなら精神的に死んでいないかぎり、われわれ誰しも、いつかはこういう状態に立ちいたることがありうるからである。そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両々相俟って「政治への天職」をもちうる真の人間をつくり出すのである。(P105)政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり抜いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。…自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が−自分の立場からみて−どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」

 同様のことは政治のみならず、私たちの社会生活における道徳の在り方についてもいえる。心情倫理的に、自身の正当性を証明することを目的とするのではなく、責任倫理家として自身の行動が何に基づいたものであるか理解し、その結果をも考慮に入れたうえで正当な行動ができる人間。それこそが真に道徳的な人間と呼ぶにふさわしい条件と言えるだろう。また、いたずらに心情倫理家として行動し、不正な結果を巻き起こすよりは、あえて責任倫理家として行動を控える立場を取ることの方が重要であることは、かのプラトンの「不正を働くよりはそれを蒙るほうがより価値がある」という言葉でも理解していただけるだろう。もっとも「真理を明らかにすること」が、それに優先することは言うまでもない。

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