本文 第1章 尊厳死について

 まず始めに、尊厳死には様々な定義が存在するが、一般的には「近い将来、みずからの死が避けがたいとき、人工栄養や酸素吸入などによって延命を人為的に続けることを拒否し、自然の摂理にしたがって人間らしく死を迎え入れること」と、従来「消極的安楽死(後述)」と呼ばれていたモノに、「本人の意志を尊重して」という付帯条項を付け加えたものを呼ぶ場合が多いのだが、これは本来「過剰医療の拒否」と呼ぶべきモノであり、その定義は正しくない。また「安楽死と異なり尊厳死は、現在と残された短い未来を大切にするという意味合いが含まれ、そのためには医師を始め、外部の人の手助けが重要である」などと記述されたりするが、「意味合い」を含まれても実行する手段には変わりがないので「尊厳死賛成派」が感情的に主張するほど学術的に区別する意味はない。とは言え「尊厳をもって死ぬ」と「安楽に死ぬ」では言葉の表現上主体の能動性に違いがあり、前者の方が一般的に好まれるが、実態に違いはないことは繰り返しになるが、記しておく。また一般的には、本人の意志をことさら重要視することで、周りの意志で実行する場合もありうる安楽死と区別する場合もあるが、本人の意志で選ぶ死は「自殺」と呼ばれ、一般的には禁止されている。死ではないなら既に述べたように「過剰医療の拒否」である。そして「尊厳死を伝統的な“安楽死”と比較してみると、重篤な疾患をもって生命の終焉を迎える点は共通であるが、安楽死の場合、患者が耐え難いほどの肉体的苦痛を感じていること、死期が切迫していること、本人が苦痛緩和・除去を真摯に望んでいることが不可欠の要因であり、これに対して、尊厳死の場合には、総じて患者に意識もしくは判断能力がなく(例外あり)本人の真意や肉体的苦痛の在否を確認することが困難な点、死期が切迫しているとは限らない点で、安楽死と決定的に異なる」と論じたかと思えば「不治の病人、瀕死の重症者がその内心的苦痛を免れたいために死の嘱託をなし、又は嘱託あるを推定しうる場合に行為者が専ら本人の肉体的苦痛を軽減、もしくは終わらせる目的で本人が経験するであろうと思われる苦痛よりも苦痛の少ない方法をもって、これを死に至らしめること」を尊厳死の定義と断じる場合もあり支離滅裂である。故に前掲の議論を踏まえ、ここではより本質的に「本人の意志に基づいた医療行為(もしくはその中止)により、生命が終結すること」と暫定的に定義する。そこで論点は具体的な「生命終結の方法」に移動する。

 尊厳死は通常実施の方法により積極的尊厳死、間接的尊厳死、消極的尊厳死の三つに分類される。この分類に基づき賛成側(以下A)が採る立場を考え得る限り列挙し、それぞれを個別に検討し、考察を加えたものをチャート化し、以下に掲載する。内容的には積極的安楽死、間接的安楽死、消極的安楽死の場合と全く同様である。尊厳死を狭義のモノとしてとらえ、安楽死と区別する立場をとる場合は消極的尊厳死の項を参照されたい。

 なお、本稿では尊厳死を本人の意志の有無に拘わらず人為的な殺人と考え反対するとともに、死を目的としない通常の医療行為の延長としての沈痛措置や、過剰医療の中止はこれを区別して認める立場をとる。さらに加えて、尊厳死法制化を進めようとする団体の中には、その実施方法を明示せず、また根拠なども曖昧で、考察に値しないものも多々あり、それらの浅薄な論議に乗せられることは、実際に尊厳死を行うとは死を行うことであることさえ理解せず議論を重ねるという、無意味である以上に尊厳死の実態を見失う危険な行為であること警告しておく。


             チャート

《積極的(薬物や物理的行為による直接的な)尊厳死肯定の立場の問題点》

・Aが人間の尊厳性をもって死を正当化しようとする時

「人間の尊厳とは何によって決まるのですか?」

易々と死を選ぶ人間より、苦しみに耐える人間の方が尊厳がある

・個人の自由として死を選ぶ権利を主張した場合

自殺する権利はない。また殺人する権利もない

・東海大の判決を持って根拠とするとき

「どのような判決が下されたかご存じですか?」立論の基本的誤りを指摘する違法性阻却は合法ではない。東海大の判決は実質的には安楽死を否定している(できないようにしている)例外(正当防衛、緊急避難)の存在を否定することはできないが、それをもって原則だとか合法であるとは言えない

「違法性阻却の自由が認められても、有罪であることに変わりありません」

・尊厳死協会の意見を持ち出したとき

「尊厳死協会の成り立ちをご存じですか?」

太田典礼、優生保護法、拡大解釈で社会的弱者を価値のない生命として抹殺する意図−「このような非道な意図をもってなされる安楽死を、認めるワケにはいきません」

・オランダの法制化をもって根拠とするとき

「オランダの安楽死の現状をご存じですか?」

立法者の意図に反して明らかに違法なケースが横行

「このような状態を招く安楽死を法制化することは非常に危険なことです」

・患者が耐え難い苦痛を訴え、他に方法がない

「他にどのような治療方法がありますか?」

麻酔、鍼、ホスピス、コールドトミー、神経ブロック療法、ヨガ

「患者が望むのは死ではなくて苦痛の除去ですね?」

「患者に必要なのは苦痛の緩和(ペインクリニック)であるのに、それを死にすり替えた、誤った論点の元に立てられた見解だと言えます」

周囲の人間の優しさなどによって苦痛が軽減される余地もあるが、安易な死の選択が苦痛を倍増させるケースもある


《間接的(苦痛緩和などを目的とした副次的な)尊厳死肯定の立場の問題点》

・人間の尊厳性をもって死を正当化しようとする時

「人間の尊厳とは何によって決まるのですか?」

易々と死を選ぶ人間より、苦しみに耐える人間の方が尊厳がある

・個人の自由として死を選ぶ権利を主張した場合

自殺する権利はない。また殺人する権利もない

・治療行為に関する自己決定権(モルヒネなどの鎮痛効果のある薬品の過剰な摂取)−「治療行為に関する自己決定権はあっても、自殺する権利はない」

・患者が耐え難い苦痛を訴え、他に方法がない

「他にどのような治療方法がありますか?」

鍼、ホスピス、コールドトミー、神経ブロック療法、ヨガ

「患者が望むのは死ではなくて苦痛の除去ですね?」

「患者に必要なのは苦痛の緩和(ペインクリニック)であるのに、それを死にすり替えた誤った論点の元に立てられた見解だと言えます」

周囲の人間の優しさなどによっても苦痛は軽減される余地がある

・死ぬことの問題でなく、生きることの間題である

死の危険がないなら治療行為である。敢えて危険な尊厳死という概念を用いる必要はない。−「死なないなら単に治療行為の指定でいいですね?」

「Aはどうやら尊厳死と治療行為の指定の区別もつかなかったようです」

・死を目的として行うのではないが、死の危険をはらむが故に尊厳死である

「それは死を決定することですか?」と問い詰める

YES−死に様を決定することは死因を決定することである=「積極的尊厳死」 NO−「それは治療行為の指定である」


《消極的(過剰医療の中止による結果論的な)尊厳死肯定の立場の問題点》

・人間の尊厳性をもって死を正当化しようとする時

「人間の尊厳とは何によって決まるのですか?」

易々と死を選ぶ人間より、苦しみに耐える人間の方が尊厳がある


・リビングウィルに基づいた見解を持ち出したとき

「本人の意志が実行する時点で確認できないときはどうするのですか?」

その時のためのリビングウィルと言うなら、その時点の本人の意志を確認できないときは実行してはいけない。でないと矛盾する

・治療行為に関する自己決定権(生命維持装置を外す)

「治療行為に関する自己決定権はあっても、自殺する権利はない」

・死ぬことの問題でなく、生きることの間題である

不作為治療(過剰医療)の停止の範昭である。敢えて危険な尊厳死という概念を用いる必要はない。−「死なないなら単に治療行為の指定、過剰医療の拒否ですね?Aはどうやら尊厳死と過剰医療の拒否の区別もつかなかったようです」・死を目的として行うのではないが、死の危険をはらむが故に尊厳死である

「それは死を決定することですか?」と問い詰める

YES−死に様を決定することは死因を決定することである=「積極的尊厳死」 NO−「それは過剰医療の拒否である」


           それ以外の理由の問題点

・医療コストの問題

前提条件に本人の意志がある場合は当然なりたたない

・医療施設の問題

前提条件に本人の意志がある場合は当然なりたたない

 さらに明らかにするべきなのは、賛成側は現状を理解しているのか?である。その上で、これ以上尊厳死を増やしたいのか、減らしたいのかを問いたい。 この現代の日本においても、患者本人に安楽死を要請された看護婦のうち25%がその要求を受け入れたという恐るべきアンケート結果がある。法制化にともなう論議の活性化によって、正しい尊厳死の定義が確立し、現在横行している安楽死マガイの尊厳死モドキ事件が撲滅することを期待するのなら、尊厳死法制化の根拠として医療コストや医療施設の問題をあげるのは無意味である。つまりそれらはこれまで以上に安楽死マガイの尊厳死モドキ事件が横行することを前提条件としているからである。また、より多くの人々を殺害すること以外のこれまで挙げられてきた尊厳死を認める場合のメリットは、全て尊厳死を行わなくても実現可能なモノばかりであり、ここにも賛成側の論点のすり替えが見て取れる。

 また、個人の自由権として死の権利を主張する場合の問題点だが、これまで人類が渇望し、時には命を賭けて戦いぬくことで勝ち取って来た自由権とは、全てより良く生きることを目的とするモノであり、死ぬこと自体を目的とする尊厳死を「人間の権利である」などと主張することは、それらの歴史に対する侮辱であり、冒涜であり、まさに人類の尊厳、社会性、医の倫理を破壊する思想である言えよう。つまり、先達が勝ち取って来た“生きる権利”の上に惰眠をむさぼり、その重要性さえ認識しない現代人の奢り、高ぶり、傲慢さが生み出した、もっとも恥ずべき思考の発露だと言えよう。


            第1章の結論

 以上のように考察を加えることで、尊厳死が矛盾に満ちた実施するべきではない危険なモノであることは理解していただけたであろう。が、それではなぜ、このようにあまりにも危険に満ちた問題が、社会的には重要な要件として認知されかねない状況にわたしたちは置かれているのだろうか?後半は更に考察を加えることで、わたしたちが置かれている状況を確認し、尊厳死のみならず、道徳的ジレンマ全般の解決方法を模索していこう。

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