第36話 お腹減った事件 05

 お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん!


 心の中で兄を呼ぶ。

 何でそうしたのか、兄を呼んだのか分からない。

 だけど何かを叫ばずにはいられず、咄嗟に出てきたがそれだった。

 実際に口にしたのは「あ」と「う」の繰り返しだが、それも結局は「オニイチヤン」という単語だった。

 こんな時まできちんと言葉に出来るなんて流石私だ――なんて考えている余裕は無かった。

 落ちる。

 回る。

 私の身体は確実に高度を下げていく。

 どこか痛めてしまうのか。

 勢い付きすぎて飛び出さないだろうか。

 下に落とした布類から外れたらどうしよう。

そんな複数の怖い気持ちが、混とんと不安となって襲いかかってきた。


 ――最初だけは。



 ズズズズ……ドサッ。



「……」

 事実は小説より奇なり。

 いや、この場合は事実は想像よりもしょぼい、と言った方が正しい。

 勢いよく転がり落ちると思った。スピードが出すぎて制御できないとまで覚悟していた。

 しかし実際はどうだ。


 転がる要素すらなかった。

 転がる前に滑り落ちただけだ。


 ここまで摩擦力が強いとは思わなかった。


 結局、どこも怖い要素が無かった。

 ちょっとがっかりだ。

 事前に怖いよ怖いよと言われ続けて、実際はそんなでもなかった、アトラクションの後の気分だ。

 でも臆病は勇気だ。

 恥じることは無い。

 蛮勇とは違う。

 そうだ。

 だからさっきまでのことは忘れてほしい。

 忘れていいと思う。

 特に内部で叫んだ関係は忘れてほしい。

 何故、兄の名なのだ。

 私の中で兄の存在が大きくなっているのか?

 ……なんか恥ずかしい。

 いやいや。

 ただ言い易かっただけだ。

 そう。

 兄に助けを求めたわけではない。

 母でもよかったのだ。

 別に兄を求めたわけではないんだからね。

 本当に。

 本当に勘違いしないでほしい。

 人間、極限になったら一番言い易いこととか言っていることを口にしてしまうのだ。

 兄のことなんか、便利な助手くらいしか思っていないのだ。

ただの、会話が出来る存在で、無邪気な行動や笑顔に癒される、そんな兄でしかないのだ。

 特別な感情などないのだ。

 だから顔が赤くなどない。

 赤ちゃんだから顔が赤いのだ。

 むしろ兄より先に言葉が出てこない母の方が問題だ。

 母め。

 もう少し私に声を上げさせるくらいになろう。

 兄を超えなさい。いいね。



 ――そんな母に対する理不尽な怒りをぶつけた所で。

 もうこの話はおしまいだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る