第24話 幻惑

 放課後の午後三時半、原田亮は白羊基地へと向かう途中に、巨蟹市の商店街を自転車で走っていた。

 ふと商店街の通りのショーウィンドウの横を通り過ぎた瞬間の事である。亮は車を止め、ガラスケースに飾られた一体のフィギュアに目を奪われていた。紺の学生服を着た時輪ひとみにそっくりだった。その切れ長の目は、かつて何度も原田亮に向けられた。

 複雑な気分のまま、亮は店を後にした。しばらく走ると、書店の店頭に、今度はひとみにそっくりな絵が描かれたアニメのポスターが貼られているのが目に付いた。アニメは「サードメタル」という題名だ。聞いた事はないが深夜にやっているアニメかもしれない。

 ただの気のせいか。しかし、亮はときおり自分が、時輪ひとみのことを気に掛けるから、街のいろいろなところに「発見」するのではないかと思った。今、ひとみはこの世界に居るだろうか――。

 しかし、翌日その商店街を再び通っても、それらを発見することはできなかった。やはり気のせいだったか。だが、そうこうしている内に、決定的な出来事が起こった。亮は最初に時輪ひとみのフィギュアを発見して以来、ひとみの事を考えていることが多くなった。しかし彼女は、やっぱりこの世界には居ないような気がする。そんな事を考えて自転車に乗りながら、歩いて横切る人を見た瞬間だった。人込みの中に、時輪ひとみが歩いていた。黒いショートヘアに丸いおでこ、切れ長の目、スリムな体型にはと胸。間違いない、時輪ひとみだ! ひとみは亮に気づかず、角をまがった。

 亮ははっとして自転車でひとみを追い掛けた。ひとみが消えた角を曲がると、そこに時輪ひとみはいなかった。通りの左右の店内を覗いたが、店の中に駆け込んだ様子もない。亮は通りを見渡した。すぐ近くだったし、そこへいくまでずっとひとみを見ていたはずなのに、彼女を見失った。見間違えだったのだろうか?

 しかし、どこを探しても似たような通行人も歩いていない。亮はしばらくその場に呆然と立ち尽くした。

 巨蟹市を走る多摩川の土手は、一人暮らしの亮が学校帰りによく立ち寄る場所だ。亮は最近ここへ来てよく考え事をする。自分のツインソウルは、誰なのか。それはたぶん、来栖ミカで間違いない。たぶん。自転車をとめ、土手を歩いていると、川に向かって少女が立っている。川の水面に太陽の光がキラキラと輝いて、その輪郭をぼんやりとさせている。亮は立ち止まって、少女を凝視する。少女はノースリーブの水色のワンピースを着ていた。こちらからは顔は見えないが確信はあった。時輪ひとみ。少女がゆっくりと横を向き、顔が見えた。憂いを込めた切れ長の目。鋭角の美貌。今度こそ、間違いない。亮は川原に走って降りていく。川辺には誰も居なかった。亮は目を凝らして何度も何度も辺りを見渡した。

 ひとみを目撃する機会は次第に増えていった。学校で見かけ、基地の近くで見かけた。亮は次第に、彼女が自分に近づいてきているような気がした。

 亮は気づいていた。最初に街角で見た日、亮はツインソウルについて考えていたのだ。その日以来、ツインソウルは来栖ミカで間違いないと考えていると、決まって時輪ひとみを見かけるという事実を……。

 彼女は自分だけに見えるに違いない。他人には見えない。しかし、それはあまり良い現象ではないかもしれない可能性を、亮は何となく予感した。そして、次第にその懐かしい時輪ひとみに惹かれている自分がいる事に衝撃を感じるのだった。

(俺は、一体どうしたというんだ。来栖こそ、自分のかけがえのないツインソウルだって確信しているのに。だけど、その事について考えると、まるで蜃気楼のように時輪ひとみが目の前で揺らぐ……。俺はどうしてしまったんだ)

 亮は、自分に起こっているこの異常現象を否定しようと躍起になった。しかし、ひとみの幻影は現れる。虚しい努力だった。

 街の駐車場で、亮は信じ難い光景を眼にした。車六台程のスペースの駐車場に、プールサイドにあるような長椅子を広げて横たわる、全裸の時輪ひとみ。下半身に薄い半透明のベールを掛けているが、それ以外は完全な裸だ。日光浴をしているように、目を瞑り額に右手を置いて太陽を遮っている。

 ひとみは純白の、プラチナのボディーで身体を添って寝そべっていた。全身が、光を精妙に乱反射させるラメを塗ったようにキラキラと輝いている。官能的な美しさ、それをも超越したこの世のものではない、イデアの世界にのみ存在する美しさが目の前に広がっている。まさに、あり得ない光景。これは幻だ。

(なんで俺はひとみの幻覚を見るんだ。ひとみは一体何の為に俺の前に現れたんだ。彼女の事を、考えている訳でもないのに……)

 街でその衝撃的な光景を見て以来、ひとみの像はどんどん明瞭に、美しく、セクシーに変化した。そしてひとみは、一糸まとわぬ裸で自転車に乗って目の前の街角を通過する。

 自分が望んでいる訳でもないのに、なぜひとみは亮の目の前にあらわれるのか。いや、本当は望んでいるのだろうか? 異東京で、欲望を持ってひとみを見たことなんかなかったはずだ。亮には分からなくなっていた。

「それとも、ひとみ、君なら何か答えを知っているのか?」

 ただただ来栖ミカへの罪悪感が募っていった。だが、それでも尚ひとみの幻影は美しく、亮を魅了するのである。それが、亮の心を惑わせる。なぜならば、懐かしい時輪ひとみは記憶以上に魅力的だった。それがひとみへの羨望を募らせる。ミカへの罪悪感が増してくるのに比例し、ひとみの出現を望み、ひとみへの思いが高まっているのではないかと焦りが募る。

 だから、亮は近頃ミカと会ってもぎくしゃくしてしまうのだ。

 亮は自分の想いに決着を着けなければならないと思った。ツインソウルについての確信に、決着を着けなければならない。

 今も、ひとみは現れるのかもしれないと自宅に帰った亮は考えている。出現の気配を感じるのだった。亮は自室の窓際に置かれた机に座りながら、じっとツインソウルについて考えを巡らしている。

 三十分が経過した。背後に気配らしきものを感じ、ぐるりと体を捻って後ろを見る。

 亮はしばらく声が出ないのだった。背後に置かれたベッドに、時輪ひとみは座っていた。よく見るとひとみの向こうの壁が透けて見える。ひとみは、巨蟹学園の制服を着ていた。ボウッとした表情でベッドに座っている。前を向いているのに、亮の事は見ていなかった。まるで、目の前の自分に気づいていないようだ。声もなく、ひとみを見ていると、ひとみはスゥッと亮の目の前で消えた。一分足らずの現象だった。間違いなく、幻覚だ。街で見たのも、川で見たのも全て幻覚だ。亮はひとみが消えたベッドをいつまでも見つめていた。

 彼女はこの世界に、居るのだろうか? それとも居ないのだろうか? 幻覚の存在を自覚して以来、亮はその意味を掴めずに悩んだ。幻覚のひとみは、いつもどこか悲しげだった。ひとみは、一体何が悲しいのだろう。何を思っているのだろう。それが気になって仕方がない。時輪ひとみの幻覚は、亮のひとみに対する想いを募らせる。

「違う! 俺は来栖の事しか想っていない!」

 ツインソウルは亮が前世で失い、永い時間の中で探し求めてきたものだと思う。亮は思いつめていた。今の時代にきっと会える。何故かそれだけははっきりと確信できる。

 鮎川那月に告白された時に、亮がそれをきっぱり断ったのは、自分にはツインソウルが居るからだという強い確信からだった。亮は、鮎川那月は自分のツインソウルではないという事はすぐに分かった。亮は、ツインソウルでなければヱンゲージできないと分かっていた。来栖ミカこそが、ツインソウルだ!

 ツインソウルは、自分の魂の奥底から求めている根源的な欲求だ。それが来栖ミカと自分を、磁石のように引き寄せた。ツインソウルに対する自分の中の純粋性を追求していくと、来栖ミカへの渇望が高まってゆくのである。異東京でも、スーパーアイドル・来栖ミカにあこがれ続けていた。

 なのに、一体どうして時輪ひとみの幻覚を見るというのか。自分自身がツインソウルを求めている、魂の「声」にもっと耳を傾け、目覚めなければ! おそらく自分はまだ、悟っていない。ツインソウルのアストラル波の肌合いを思い出し、取り戻さなければならない。もっと思い出さなくては、亮は前世の想いを果す事ができない。思いを、蒸留水のように一滴一滴フラスコに溜めて、純粋なツインソウルに対する欲求を---------。

 だが、そのことを考えていると決まって、時輪ひとみが官能的な美しさをまとって亮の前に出現する。理由は分からない。

 ひとみの白くてほっそりしたボディー。白魚のような手。切れ長の流し目。全体的に猫っぽい雰囲気。ひとみがボーッと立っているだけでも、まるで観音像のようで、絵になる。――ひとみと、もう一度会ってみたい。ひとみの存在は魅力的・蠱惑的・幻惑的……。

「俺は嘘つきだ……。ツインソウルへの純粋性だなんて。ツインソウルより、ひとみの方が大事だっていうのか?! ------俺はひとみを忘れられないのか! 俺にとって、来栖との出会いは宿命的だった。だのに、俺はどうしようもない偽善者だ……屑だ!」

 亮は机に座ったまま頭を抱えてた。

 いいや、そうじゃないんだ! 俺は、ツインソウルへの、想いが足りないだけだ! 決してそれは、時輪ひとみじゃない。この時代に生まれて来たのは、魂のパートナーと会う為。それは、それは魂の叫びであり、決して表面意識が求めるような表層的な浮ついたものなんかじゃない。きっと分かる、自分自身を思い出せ、自分のかつての魂の片割れを--------。

 来栖の笑顔や愛らしい仕種。来栖の笑い方、上目遣い。白目の美しさ。しーろーめーのーうーつーくーしーさー。彼女のあの美しい小鳥のような声、意思の篭った瞳、長い栗色のツインテールの髪の毛。来栖が近くに居ると、思わず抱きしめたくなる。ツインソウルは、ツインテールなのだ!

 来栖のアニメ声。あれこそ、自分のツインソウルへの確信だった。声を聞いてるだけで全てがそこにある。側にいるだけで世界は始まりを迎える。

 来栖ミカとのキス。世界が崩壊していったあの瞬間を、はっきりと覚えていた。来栖のくちびるは、やわらかく、ぷっくりして、温かく、スベスベしていた。

 が、そう考えると突如時輪ひとみが現れ、スレンダーな身体をくねらせて踊り出す。クールビューティー! 明かりをつけない部屋の闇の中でひとみだけが真っ白く浮き上がって輝き、ショートヘアがサラサラと宙に舞う。細長い手足の動きはまさに芸術!

「あぁ--------俺は、俺は! 違う、こんなはずじゃない」

 亮は一人部屋で七転八倒する。いわば形而上の存在であるツインソウル・来栖ミカと、形而下の物質的欲望・時輪ひとみが原田亮の中で衝突している。亮の意思と関係なく時輪ひとみへの想いが唐突に噴出し、それが亮の中のミカへの想いと激しく交叉している。ツインソウルを求める気持ちと、眼前に出現する時輪ひとみへの想いの両方が募り、亮の中で激しく衝突し、自縄自縛になって、来栖ミカへと素直に向かう気持ちを押さえ込んでゆく。

「駄目だ……ダメダダメだ! 俺は、こんなんじゃ、ダメだ! 俺は来栖がツインソウルだと言う資格なんかない。やっぱり俺は、来栖に相応しい人間じゃない……だからひとみが。俺はどーしようもない。ダメな男だ!」


 不空怜は時空研でほぼ毎日、ヱルゴールドに二人を接続し、ストレートヱンゲージの準備としての調整を行っていた。しかし日に日に、二人のエネルギーはギクシャクしてきていた。そしてまったく混ざりあわない日もあった。

 特に原田亮のエネルギーがシフトダウンし続けている。ミカはその都度、心配になる。亮にヱンゲージを拒否されてるような気がしたからだ。それと正反対にミカは、当初の彼女からは想像も着かない程、力が伸びている。ミカの守護霊の言う通り、ヱンゲージの調整を、密かに自分の力の増強に利用しているのだった。不思議なことに、時空研で伊東アイは姿を見せなかった。

 二人のヱンゲージの成績は不良だったが、ミカ単体でのヱルゴールドでのエネルギーの増幅では力が上昇する一方だった。怜は、二人の関係に何か問題がある事に気づいていたが、年頃の二人に、どう聞いていいのか分からずにいた。

 ミカは、亮の妙な態度に気づいていた。ミカと亮は、教室でほとんど会話がなくなった。ミカは自分が避けられているのではないかと不安になって、落ち込んだ。放課後には、三日と空けず二人で基地で会っているというのに、二人の仲に進展がない。もはやミカは仕方なく、唄の練習のカラオケにも、一人で行った。

 唄っていると、カラオケの画面にショートカットの少女が現れて、くるくると舞っている。その時亮の事が気になった。ミカは唄う事を辞めて、画面を見ていた。ミカは唇に手をやった。コンパクトを取り出すとアナスイのリップグロスを差す。唐突に亮とのキスシーンが思い出されて仕方ない。

「あーもうこんなんじゃだめぇ」

 ミカはクッションを壁に投げつける。こんなはずじゃない!!

当然キスだって、あの時、世界を再生させた時の一度だけだった。いや、キスした事自体、今では信じられない。あの時は、状況が状況だったからキスできたに違いない。まるで遠い世界の夢の出来事。今はもう、キスができるような関係には程遠かった。

(なんで、亮は私にそっけないの?------もう、わかんない)

 亮と親密な関係になる事ができない。苦しい。このままじゃ、何も進展しないまま、ずるずると時間ばかりが過ぎていってしまう。そしてただの友達で終わっていくに違いない。いや、会話さえもない。ミカは焦っていた。ミカには、そっけないそぶりの亮が、一体何を考えているのか分からなくなっている。それだというのに、亮が今どんな気分なのか、苦しんでいるのではないかという事が、感覚として分かってしまう。このところ、突然キスを思い出したり、かと思うと絶望感に叩き落されたりの繰り返しで、ミカは振り回されていた。

 来栖ミカという少女は、もともと、器用な方ではない。何事にも勝ち気な性格だが、恋愛の事になると途端に不器用になってしまう。そして自分なんか、亮にふさわしい人間じゃないと思ってしまう。あの大胆になった鮎川那月がうらやましかった。ミカは授業中、ノートにうさぎの絵を描き散らかしていた。ノート中うさぎだらけ、あっちこっちをピョンピョンとうさぎが跳び回っている。微分の数式のXの隣にうさぎが、一一九二年鎌倉幕府成立の隣にもうさぎが跳んでいた。よっぽど欲求不満なのか。

(はぁ……。あの頃に戻りたい)

 那月がおかしくなる前の、三人で力を合わせて世界を守ろうと誓った夜が最高に幸せだった。

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