第25話 シャンバラの少女

 雪を頂いたヒマラヤ山中の奥深くに、深さ七千メートルのヤルツァンポ大渓谷が存在する。二十一世紀に未だ未開の地である。この渓谷に異次元のゲートが存在する。世界で七ケ所ある地下ゲートの一つ、地下の帝国への入口だ。通常、誰もゲートの存在には気づかない。唯一の例外として、百キロメートル離れたところにあるチベット寺院の僧たちに、地下の王国シャンバラへの入口が存在するという事が、「時輪経」によって伝えられている。しかし、この周辺では、たびたび光る物体や謎の発光現象が目撃されていた。

 地下へのゲートはアストラル領域の波長であり、通常物質的には存在しない。ゲートをくぐると、大深度地下にシャンバラが存在した。さらにそこから一気に地球の中心までワープする通路がある。地球の中心の核の近くに、巨大な球状の空間が存在している。それが、「光シャンバラ」である。光シャンバラは、上のシャンバラより遥かに巨大であり、高次元である。起源は古く、およそ三十六億年前から存在していた。その球状空間の壁面は、反物質によってマントル対流と遮断され、全面に海が存在し、陸が存在する。つまり、海がせりあがって見える。その中心に巨大なルミネセンスが太陽の代わりに輝いている。

 陸地には草木が生い茂り、とてもそこが地下の世界であるとは思えない。植物は、地上のものより巨大であり、古代に失われたものもすべて保存されているのだ。

 時輪経によれば、伊東アイは元はアイマックスという名で、今から三十六億年もの昔、太陽からこの地球に光シャンバラに乗ってやってきた。もともとは太陽人だったらしい。地球に高度な知的種族の文明を作る為に派遣されてきたという。光シャンバラが地球に衝突した時、月が誕生した。光シャンバラは地球の核の近くにあり、そこから地上のあらゆる高等生命、人類の種子がもたらされ、地球は高度な星に進化したと言われている。

 さて、上の王国シャンバラには、幾つもの都市が存在していた。

 虹色に輝く壁面を持つピラミッド、時空研にあるようなドーム、尖塔、楕円で構成された建物等である。しかし、どの都市も離れており、地上にあるような大都会は存在しない。

 その中で、三十くらいの透明な摩天楼が集まっている都市があった。全面が透明に輝き、水晶で出来ていた。クリスタルシティーと称される都市だ。近づくと、精妙なバイブレーションが膨大な量で発信されているこの都市には、超近代的な設備が整った「宇宙戦略大本営」が存在する。

 異様なのはこの地下世界で働いている者たちが、皆一様に同じ姿格好の少女であるという事だ。伊東アイ。茶髪のショートヘアに黒い眼を持った身長百六十センチのスレンダーな少女は、一見西洋人風にも見えるが、西洋人ではなく、西洋と東洋----日本人のハーフの顔立ちを持っている。それが地球の進化の歴史に多大なる影響を与えてきた存在であった。

 地下の王国シャンバラには、総勢三万人の伊東アイが存在している。アイは、それぞれの場所で活動を行っていた。「三百伊東アイ委員会」という名称はシンボルであり、実際は三百以上、役割の分だけ幾らでも増殖する事ができた。シャンバラ占星術基地、シャンバラ錬金術基地、ヱルメタル基地、地球環境コントロール基地、太陽系計画基地、霊界コントロール基地があった。シャンバラは、地上より遥かに進化した先進文明なのである。

 その中でもシャンバラの重要な任務の一つが、地球に蓄積されたダークフィールドをモニターし、一定以上のダークフィールドが蓄積されると、地球の健康を害さないように、宇宙へと放出する作業である。つまりデトックス。それが地上では、それは地震などの天変地異となって形に現れる。

 しかし委員会の「三百」という数の意味は、他にもある。それは、全平行宇宙で重要な三百の世界から、この時空へと一同に会した三百人の伊東アイ……、その会議のことなのである。

 クリスタルシティーの中心に、ヱメラルドの大神殿がある。アンコールワットの遺跡とカトリック教会とタージマハルを合わせたような壮麗な建物だ。しかし、規模はそのいずれよりも巨大だった。建物からは、螺旋のエネルギーが放出され、周囲のクリスタルの高層ビルがさらに増幅している。このエメラルド大神殿がその「宇宙戦略大本営」であった。その中のホールに三百の平行宇宙から集結した伊東アイが集まっていた。そこは、ハイアラーキーホールと呼ばれていた。ホールの天井の高さは二百メートルを超える。そして高さ十メートル以上はある、横に太い六角形をしたヱメラルドの固まりが壁面に置かれている。このヱメラルドの固まりは、ケーブルによってディスプレーや他の機械部分に接続されている。シャンバラを統括するヱルヱメラルドである。そこに接続され立っている長方形のデバイスが、ヱメラルド・タブレットである。三百人のアイ達は、ヱルエメラルドに向かって弧を描くように配置されたデスクに座っている。ちょうど日本の国会議事堂に似たような配置だ。デスクは出し入れ自由の、タッチパネル式の端末が隠されている。壁面に鎮座するヱルヱメラルドの内部には光の幾何学模様が現れては消えている。多くの伊東アイとは別に、一段高い議長席に一人だけ少し変わったアイが座っている。彼女だけがただ一人、金髪碧眼の伊東アイ。彼女は、議長アイ1。他のクローンに比べ、特大のインディゴのオーラを持っていた。

「なぜ報告が遅れたの。36、48、60。あなたたちが監視していたはずよ? 時空研を監視するあなたたちの役割は、単なるカカシとは違うのだから」

 固くしっかりとした黒い椅子に座る金髪碧眼のアイ1の声は静かだがホール全体に響き渡る。アイ36、アイ48、アイ60は議長席の前に進み出て立っている。

 アイ1は本体で、他は分身である。アイは本体、分身とも全てが一つに繋がった超意識を共有した存在である。一即多、多即一。だが個別に活動するクローンの中には、全体から切り離されたような活動をし、同調……情報の共有が遅れる者がある。

本体のアイ1は、他の分身たちとは比べ物にならない力を持っていた。分身の力量には限界があった。それが実際、最初のセレン計画における指導の限界にも繋がったとされている。

「原田亮の心は、時輪ひとみに囚われている。以前、来栖ミカが鮎川那月に囚われていたように。その結果、私たちはセレン研究所の復活は阻止したけれど、どうやら時輪ひとみの復活は阻止できない」

 アイ36が代表して答えた。新世界誕生早々、巨蟹学園の事件によって、ネガティブ化したセレン研究所が日本---すなわちデクセリュオン時空----に復活しようとしていた。それで日本社会に、詳しくは巨蟹学園を中心とした世の中に直接アイが乗り込み、セレンの復活をくい止めたのだった。

「時輪ひとみが侵略するわね。彼らの侵略は巧妙だった。私たちが表の侵入経路に気取られている間に、裏の侵入経路を使って入り込んで来たのね。このブルータイプ増殖は、鮎川那月が原因ではない、むしろ時輪ひとみの影響によるものよ。鮎川那月が先兵となり、ひとみが入る道を着けたのだわ」

 アイ1は重々しく言った。

「このままでは人類はまた滅亡してしまう。それでは私たちのこれまでの努力が全て無駄になる。ただちに原田亮と来栖ミカのヱンゲージ計画を中止して。そして次の計画に移行するのよ。今やらなければ、取り返しのつかないことになる」

 アイ1の結論に、すべてのアイが立ち上がり、本体に向かって頭を下げた。全員がインディゴのオーラを放ち、そのマスゲームは、まるでCG画像のように完璧にそろっている。


 しばらく巨蟹市を離れていた宝生晶は、時空研に戻ってきた。晶は、ヱルゴールドのホールに不空怜が居ない事を知って探した。

「怜、そんなところに居たの」

 晶が廊下をツカツカと歩くと、ようやく怜を発見した。

「お帰り。この所寝てなかったから、寝ようと思ってさ」

 休憩室のソファーで横になっている不空怜に遠慮せず、晶は声を掛けた。

「なら、自分の部屋で寝たらいいのに。ま、あの汚さじゃここの方がましかしら。あなたの部屋、少し片付けた方がいいわね?」

「会議どうだった? ちょっと前に終わったんでしょ」

「うん。しばらく人馬のホテルに泊まって街を見てた。要塞都市化の様子をね。……そのままの格好でいいからちょっと聞いてくれる。今、三百伊東アイ委員会から通達があったわ」

 そう言うと、晶は長いことブローしていないパサパサになった怜の髪の毛を右手でくしゃくしゃっと触って、販売機でミネラルウォーターのクリスタルガイザーを買う。晶は水以外の飲み物を一切口にしない。

「また無理難題? ミカと亮のエンゲージうまくいってないのあたしのせいじゃないわよー! 年頃の二人を調整するのは大変なことなんだからー。わたし達はあいつらとは違う、生身の人間なんだけどな。もううんざりだわぁー」

 怜の眼鏡越しの半ばまどろみ掛けている目の下にはクマが出来ている。

「違うわ。ヱンゲージ計画を、中止するらしいわよ」

「えー? そんな、だってこれからじゃん、まだ何も、準備が始まったばかりで、そりゃ今は不調だよ? だけど------やめるだって」

 怪訝な顔の怜は上体を起こす。怜はソファーに座り直すと、ミネラルウォーターを飲む晶を大きな猫目で見上げた。

 原田亮と来栖ミカのエネルギーを使った、人類がヱヴォリューションに至るという遠大なヱンゲージ計画の凍結。それでは単に問題を先送りにしたに過ぎないのではないか。人類はいずれヱヴォリューションしなければならないのに。

「今後は人馬市からの命令が全て優先されるわ。今まではここの独自の判断でやれたんだけど。これから、五大機関の抽出した惑星グリッドのデータを元に、人類のアストラル波を全て、ヱルゴールドでスペクトル分析する」

「なんでまた、全人類? そんなの物凄く時間が掛かるわよ」

「できる?」

「できるけどさ。……えーと人類の全ての個体情報は、五大機関がそれぞれの担当するグリッドで管理している。それをヱルゴールドの機能で分析すればいいって話よね。だけど、吸い上げたデータをひとりで分析するのはヱルゴールド単体だから、凄く時間が掛かってしまうわよ----」

 怜は乗り気でない顔をする。

 その仕組みはこうだった。人間のアストラル体の秘密。アストラル波である人間とは、投影された今ここにあるホログラフィの像にすぎない。よって現象としては結実しているが、その像を投影している元は、場として広がっていて部分が全体なのである。ゆえに、全人類のアストラル波を基地のグリッド・アンテナシステムを通して調査することができるのだ。

「手分けする事はできないの。それってヱルゴールドにしか出来ないのかしら」

「そうよ。他のに任せたらもっと時間が掛かるわ。ヱルメタルは、全て通常のどんなスーパーコンピュータよりも演算速度が早いけれど、それぞれ違う役割で作られているからね。他のと一緒におこなったら、かえって、それこそ宇宙の始まりから終わるまで掛かってしまうかもしれない。ヱルメタルでもアストラル波のスペクトル分析が可能なのは基本的にヱルゴールドだけだから。それでも恐ろしく時間が掛かるわよ。人間のアストラル波というのはそれだけ、精妙な問題だから。ミカと亮のアストラル波のスペクトル分析だって、結構時間が掛かったくらいだから。ま、エンゲージのためでもないんだし、二人ほど時間は掛からないはずだから、新しくプログラムは組み直すけどさ---------」

 晶は、人馬市から聞かされたブルータイプの情報を怜に話した。怜は怪訝な顔で聞いていたが、目が醒めたようだった。

 ほどなく時空研に伊東アイが現れた。地球計画の中心人物。この時空の黒幕、首謀者。ヱルメタルを作ったのもセレン研究所や時空研を作ったのも伊東アイ。この世界は、ごく一部の限られた超絶権力者によって支配されている。それが永遠の十七才、伊東アイ。アイは死ぬ事がない、永遠の生命を持っているのだ。その彼女が地下から戻ってきた。巨蟹学園の事件以来だった。一度シャンバラに全ての伊東アイが戻っていたらしいが、アイ専用の地下から通じるエレベータから再び現れたのだ。伊東アイの分身は、白羊市に、いつもそこからやってくる!

 宝生晶は、伊達統次にぶつけた同じ疑問を、伊東アイにも問い質す。アイは、晶の反応を予想していたという表情で返答した。

「この時空における、今回の敵は、途中から自分の血が青い事を隠して侵略している。だからシャンバラの検知システムにも引っ掛からなくなった。今、彼らを血液検査をしても、赤い血が流れるわ。ブルータイプの血はカモフラージュされている。外の世界に触れた瞬間、青から赤に変化してしまうでしょう」

 アイは晶を見上げて言った。

「体内を調べても?」

「同じよ。通常の検査では、まず彼らの血が青い事は分からない。それは時空によるカモフラージュされた存在だから。もし完全に外部の影響を完全に遮断して取り出す事ができれば、青い事が分かるでしょうけどね。だけど、シャンバラにあるヱルヱメラルドでさえ、通常の分析能力では分からなかった。つまり、アストラル波自体でも人間に化けている。恐ろしく巧妙なやり方よ。だからあなた達にアストラル波の詳細分析を依頼したのよ。それはどうやっても誤魔化す事のできない彼らの生命の本質。決戦兵器のヱルゴールドなら、それが可能だからね」

 アイの黒い瞳は相変わらず不思議な輝きを放っている。

「あなたにも分からなかったってことね」

 晶は皮肉を込めて言った。

「私も気づくのが遅れたくらい、巧妙なやり方だった。ヱンゲージ計画を中止したのは、その為よ。でも今ならシナリオの修正は可能だわ。こうなる危険性は予想していたけれど。でも、思った以上に敵の侵略は巧みだったという事。今回のこのカモフラージュで分かった事は、彼らは一億年の戦いでもっとも高度な戦術を取ってきている。時空戦争は始まっている。私が人類のスペクトル分析をあなた達に命じたのは、敵味方の見分けをつけるため。このままでは復活したディモンが、いずれこの世界の人類を滅ぼすでしょう」

 アイは結論した。

「なぜ、人類の敵が今日まで、これ程にまでに隠されていたの? こんな、人間と全く同じ姿だったなんて、誰も予想しなかった」

 宝生晶は我慢ならずにアイに言い返す。

「もっと、異形の形をしていたら、殺しやすかったとでも? 言ったでしょう。ディモンの詳細情報は、それ自体が人類の心に働きかける。意識することで、形を作ってしまう。とても危険なものよ。なぜなら、あなたを含めて、人の心が世界を作り出しているのだからね。だから、あなたたちに教えられなかった。人類には、必要な時にだけ伝え、事が終われば、記憶から消して来た」

 全く少女の恰好をして、かわいげがない。

「あたしは、あなたの作戦を信じて、ずっと実行してきた。だけど、あたし、そんな戦い方嫌。人間が人間を殺すのと何も変わらないような気がする。人間だったら、動揺しない方がどうかしてるわよ。だって結局は同じ人間が――、」

「--------彼らは平行宇宙から侵略する。全ての平行宇宙のあなたは、たった一人のあなた。それがインドラの網。網の無数の真珠は、一つ一つの平行宇宙。一つの真珠に、他の全ての真珠が映し出されているのよ。それは、時間と空間の一点の中に、全ての時間と空間が存在している、ということ。あなたも知ってるわよね。平行宇宙はもともとそういうもの。平行宇宙の自分と今ここにある自分は、多様でありながら、一体の存在だから。自分が変化するという事は、現在の自分が、すでに別に存在する平行宇宙の自分にシフトする事。その力を使って、ライトフィールドへ行く事も、ダークフィールドへ行く事もできる。光の可能性も、闇の可能性も持っている。侵略によって、別の存在に入れ代わる事もね」

 伊東アイは、人類の敵ディモンの情報をこれまでほとんど人類に話してこなかった。侵略のプロセスに、人の心が使われ、大きく作用している以上、ディモンの情報、それ自体が危険なイメージ力として像を生み出してしまう。そうすれば、平行侵略の特異点形成に有利に働くのだという。どこまでいっても断片的な認識力しか持ち得ない人類は、いくら情報を与えても正確には捉えることができず、逆に情報を与えすぎたことで、自分が作り出した恐怖心にとらわれやすい。

 その人類の敵ディモンが、人間と同じ姿をしていた事、そのただ唯一の違いが、血液が青い事。だがその血液も、今となっては外見上も身体の中身も、普通の人間と全く変わらない。いや、実際晶にはどこが人間と違うのか理解できない。本当に青かったのかも、今となっては不明なのだから。なぜそれで、伊達統次は平気な顔して「殲滅!」などと口にできるのか-------それが、晶が昔から知る国防省長官の姿なのだが、晶には伊達統次を始めとする人馬市の面々の方が遥かに恐ろしい怪物に見えてしまう。統次の言う、敵に対する人類の持つ、先天的憎悪などという、そんな曖昧なものを理由に、彼らを抹殺することなど、晶にはどうしても抵抗感があり認めることはできない。

 何もかも知っているのは三百伊東アイ委員会、即ちシャンバラだけだ。結局、伊東アイと人類とでは格が違うのだ、という事だろう。

「このまま私は彼らと戦う自信がない。教えて欲しいのよ。もっと、ディモンの事を------」

 人類は、時輪経の解読に行き詰っていた。そこにはディモン軍―帝国についての情報が、完全といえずとも存在するはずだったのだが、各時空機関とも解読に目立った進展はない。ところが、人馬市は独自に解読を進めているらしい。そうでありながら、人馬市は他の時空機関と共有しようとせず、宝生晶も突っぱねられている。かつて伊東アイは「断片的な情報で物事を判断することの愚かしさ」について語った。しかし、まさにその状況に抑え込まれているのが今の人類だ。だが伊東アイはきっぱりと晶に言う。

「これ以上、あなた達人類に、ディモンの事も、帝国の情報についても教える事はできない。言ったでしょ、今の人類に必要な情報はすべて与えてあると。結局のところ、一部の認識しか獲得しえないこの人類の場合、未熟な認識のままに恐怖心が生まれ、意識がそれを実体化し、引き寄せるのだから。過去、そうやって滅んだ文明が無数にあった。そうなりたくなければ、あなたたちは、わたしのアドバイスに従った方がいい」

 おそらく伊東アイは、人類の時輪経の解読に限界があることを想定に入れつつ、その時の段階で必要な部分だけが解読できるように、仕組んでいるのだ。つまり、伊東アイは人類に断片的な認識しか許していないという事だ。

 アイにさらに疑問を問い質そうとしても、アイも伊達と同様、結局、問答無用でブラッド・スペクトル分析を行えと言うだけだった。

「ブルータイプが地上に溢れている以上、ヱンゲージ計画のみならず、研究自体、一旦封印する」

 そう言われて怜は密かにある事を決心した。だが――。

「そしてもう一つ。闇にフォーカスすることの愚かしさを、巨蟹学園の事件からあなた達人類は学んだでしょう。くれぐれも言っておくけれども、決してディモン・スターの研究をしてはならない。いいわね?」

 怜の決心は、すでにアイに見抜かれている。

 以前、原田亮と来栖ミカが伊東アイを敵と勘違いした時に、伊東アイは二人の未知なる敵に対する恐怖心が、勝手にアイに向かって投影されたものだと説明した。しかしそれは、中々二人に理解されずに混乱を生じた。だが今、伊東アイが晶に対して示しているモノ……「ブルータイプ」は、亮やミカが感じていた以上に、敵としての根拠があやふやなものなのだと、晶には感じられる。伊達統次は、「敵は汚い血を持っている」と言った。アイは「私を信じなさい」というばかりで、その具体的根拠を示さなかった。これまで惑星計画に携わって来た時空研のメンバーや、所長の晶自身さえも理解困難な、敵との戦い。

 一体、伊東アイって何なのだろう? と、宝生晶は改めて人類と伊東アイの関係について考える。

 もっとも問題なのは、月、あるいは地球ディフェンスシステムに特異点や異変が現れていない事だ。巨蟹学園で事件が起こり、それをアイが封じてからは平穏を取り戻している。ブルータイプが地球ディフェンスシステムに異変をもたらすような現象が、何も見られないのである。おかしな話だ。そして侵略者ならばどこから侵略したのかという事も問題だが、彼らが目立った侵略行為を働かないのは何故かという事も問題だ。人馬市のテロ騒ぎは、本当にあった事だろうか? 伊達が敵をでっちあげるための自作自演を働いている可能性は否定できない。晶の結論では、現時点でブルータイプがディモンである証拠はない。

「これが、人類の敵との戦いの、真実の姿なの?」

 もしブルータイプが幻想なら、人間の恐怖が生み出した、人類史上最大の魔女狩りが始まる事になる。伊東アイという高度な知的生命体に翻弄された結果。その時に、宝生晶自身が時空研所長として、当事者として深く関わっている。その夜、晶は眠れなかった。

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