第16話 失楽園

 夏のバカ野郎的な暑さが続く中、次の日から那月の変化は急速に進行した。なぜかサングラスはもうしていなかったが、那月の髪はどんどん退色していった。白くなったと思ったら、その翌日には青味掛かった、薄い水色になった。なんとなくカールしている。自分では何もしていないというから不思議な話だ。そして那月は自分の髪が変わった事を全然気にしていない。むしろ、気に入っているという。

「きっと、私に能力がついたからだと思う」

 実は、ミカの方も、髪が自然に退色してどんどん茶髪になっていた。二人して、実に奇妙な話だ。

 それにしても暑い。こんなに暑いんじゃ、日射病だか熱射病だか「日中症」だか熱中症だか考えているうちに死んでしまう! 本当にこれが十一月下旬なのだろうか。教師の話では、夏型高気圧がはり出して、しばらくは猛暑が続くらしい。だが、巨蟹市の外はさっぱりそんな事はなく、涼しいのだ、教師の言う事は、いい加減なものである。

「那月、大丈夫なの? 何だかいつも昼間は体調が悪そうだけど」

 ミカは授業中だるそうな那月に囁く。

「あたしね……昼間は、ぜんぜん力が出ないの……」

 那月はアイとの徹底抗戦を宣言した夜以来、昼間は動きが緩慢で、ぼうっとしており、授業中もうたた寝している始末だった。全国模試で一位になった事がある那月なのに、全然やる気がない。元気がなく、ウトウトしている。そしてよくトイレに行く。那月は、トイレでずっと手を洗っている。

 しかし、日が暮れ、夜になると一変する。元気になり、亮やミカよりもはるかにパワーが漲っている。特に、月の光が彼女には太陽よりもいいらしい。特に、アイの話になると途端に目つきが変わるのだった。那月は日が暮れてからが本領発揮であった。

 

 放課後、三人は那月の呼び掛けで巨蟹バーガーで作戦会議を行った。

 伊東アイは、彼女の「本国」に戻ったらしく、学校を不在にしている。もっとも、メディアでは相変わらずアイドル・伊東アイがひっきりなしに登場することに変わりはない。那月は、アイ不在の間に学園でアクションを起こそうとしていた。

「世界の中心であるこの巨蟹学園で、伊東アイに勝たない限り、ここから脱して、真の世界へと出て行く事はできない。私、生徒会長をリコールする。そしてわたしが巨蟹学園の生徒会長になる」

「何ですって? あんたが生徒会長?」

「そうよ。そうして彼女を学園から追い出しちゃえばいいんだよ。アイがディモンスターと言っても、いきなり私たちを殺すことができないのは、彼女もルールの中で動いている証拠。見てて、ミカちゃん、あたしさ、必ずあいつをこの学校から追放するからさ!」

 那月は胸をテーブルに乗っけている。ミカには到底できない芸当だ。

「そんなのどうやって」

「さっき全校生徒に決起のメールを送ったんだよ、ね、これ見て」

 那月は全学生に生徒会長の不信任案のダイレクトメール「アユカゼ二〇十二」を送ったというからミカと亮は驚くばかりだ。那月はヱル・アメジストから学校のコンピュータに侵入したらしい。そのメールには、那月の上半身の写真が掲載されていた。さり気なくバストが強調されているのでミカは軽くずっこける。メールは、ヱル・アメジストが構築した那月の「アメジスト・ソーシャル・ネットワーク」(ASN)のサイトに誘導し、そこが反生徒会の基盤となる様子だった。

「明日夜六時から決起集会を行う予定だよ。もうすでに反響がたくさんあるんだから」

「だけど、巨蟹学園はアイの関係グループが経営しているし。学園の全てを牛耳っているアイにどうやって勝つつもり? 前の選挙だって、仕組まれていたものだったじゃん。那月が勝てっこない」

 ミカは疑問だった。しかし、那月は平然としている。

「大丈夫、どんどん返信メールが届いてるから。心配しないで。やっぱ、アイの事、気に入らないって人、結構多いみたいね。あの専制的なやり方が」

 心配なのは那月自身の事だ。

「で、集会やってどうすんのよ?」

 ミカは那月のメールをよく読みもせず聞いた。

「決起集会で、全ての学生に直接訴えかけるつもり。彼女のファンも、どんどんこっちサイドに引き込んでく。そして、学園で伊東アイに対抗する新しい勢力を結集する。つまり革命」

 那月は巨蟹バーガーで以前好きだったハンバーガーを一切食べない。那月は好き嫌いのないコのはずだった。料理が得意で、栄養学を勉強し、栄養バランスにも気を着けていたはずだ。自前のサンドイッチも最初はハムやチキンなどの肉が入っていた。だが、今は魚や野菜は平気なのだが、肉をまったく受け付けない。赤い血が駄目なのだと言うのだが。食べると吐いて、体調を崩してしまうらしい。だから、クリームチーズが五十パーセント以上入っているNYチーズケーキは食べられない。代わりに、チョコレートであるディアボロパフェを食べている。それでも奇妙な程、大食だった。那月は作戦をまくしたてながら、サラダとフィッシュバーガーとポテトばかりを山程食べている。メロンフロートが好物なのは、相変わらずだった。

「かつて、地球と月で長い間、天使と悪魔の戦争が起こったっていうでしょ。彼らは、ディモン兵器という強力な武器を使って地球に攻めてきた。そのディモンスターである伊東アイが、なぜあのディモン兵器を使ってこの世界を破壊しないで、巨蟹学園を支配しようとしたのか。それは、創世記のヱデンの園の話の中にヒントがあるのよ。ミルトンの『失楽園』は、それを物語化した本なんだけど、その中にすべてが語られている。かつて、天界で天使と悪魔の大戦があった時、天使軍団の三分の一が堕天使に加担した。でも壮絶な光と闇の戦いの末、堕天使の軍勢は破れ、地獄に追いやられていった。原田君とミカちゃんが戦ったディモン軍も、二人の天地創造のパワーに敗れ去り、時空のかなたへと消えていった。……そのはずでしょ。ところが伊東アイは現れた」

 那月はポテトを一本取って振り回しながらしゃべり、ぱくっと食べる。

「だけど、『失楽園』の冒頭で悪魔は、神に反撃する作戦を練ったのよ。それは、神が新たに創った人間の住むヱデンの園を攻撃して、人間を堕落させることだった。悪魔はアダムとイブの居る地球へと向かった。彼は蛇の姿に変化して、二人を堕落させた。蛇は、ヱデンの園にあった神様に禁じられている智恵の実を食べるようにイブに言ったの。イブはアダムに勧めた。以後人間は神様から罰を受け、ヱデンを追放された。その後も、人類の歴史は罰として苦しみに満ちたものになったわ。そうして今日に至る。つまり、戦いに敗れたディモン軍は、ミカちゃんたちが創った新しいヱデンの園であるこの宇宙で、ミカちゃんたちの前に蛇として現れたということよ。それが生徒会長の正体。凄く間接的な攻撃の仕方に切り替えてるじゃない? それは彼らが一度大戦に負けて力を失い、それしか方法がなくなったからよ」

「さすが読書家の那月だね~。言われてみれば確かにそうだよね」

「どうも。だからだよ。アイに対して、生徒会選挙という正攻法が効くのはね。あくまで、彼らに屈してはいけない。どんな攻撃も、どんな誘惑も。あたしたちは、新しいヱデンで、天使と悪魔の戦いのさなかにある。この新しいヱデンの楽園を失うわけにはいかない。あたしたちの中にある天使の力が、悪魔との戦いに打ち勝っていくんだよ」

 強気な那月に対し、ミカは体力、気力ともに衰え、巨人の幻影に怯え、それを操る伊東アイに恐怖し、一人で部屋で思い出すと涙を流す始末だった。それにしても、那月に比べ黒い船を見る度に気絶する自分に無力さを感じている。

 ミカはアイと那月に対して、コンプレックスだらけの自分が嫌だった。最近の那月はミカがあっけにとられて見とれるほど大人っぽい。ミカは悔しさで、ムキになって連日家で納豆を食べすぎ、気分が悪くなった。もう、納豆なんか見るのも嫌だ。自分がみじめで仕方ない。

 二人と別れた後、那月は路上で足を止めて、空を見上げた。じっと月を見入る。月は無慈悲な夜の女王。頬を涙が濡らしている。

 昼間の太陽よりも美しい。月は闇の中にあって、依然、光を放っている。それは美の真実を示している! ただ太陽のごとく輝くことよりもはるかに素晴らしい。その偉大な姿に、那月は見入っていた。


 翌日、日が暮れても、やっぱり暑い。そして那月の夏が来る! ミカは、一度帰宅してから、前日那月が宣言していた学校で行われる那月の集会に参加した。夜だというのに、大勢が集まっていた。おそらく五百人は居るに違いない。もうすでにこんなに支持者がいる。集まったのはほとんど男ばかりだ。ミカは学校に自転車で来た那月を見て卒倒しそうになる。上着をいきなり脱ぎ出すと、上は水色のチアガールの姿になった。胸のところだけやけに開いている。

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ那月……」

 ミカは慌てて那月の腕を引っ張って物陰に隠した。

「幾らなんでも限度ってもんがあるわよ!」

「この暑さでしょ? 仕方ないじゃん」

「そんな格好して風邪引いたって知らないから!」

「暑いから風邪なんて引かないよ」

 那月は微笑んでミカの手を解いた。選挙の支援を集める集会で、那月自身が他人を応援する存在であるチアガールになっている。ボンボンを振り回す那月から、ほのかに、爽やかな薔薇の香水の香りが漂っている。むろん、ミカにも那月の作戦だという事は分かっていた。那月はその美貌で、アイに対抗し、男達、教師たちの注目を集めようとしているのだ。那月は、ボンボンを外すと拡声器を握りしめ、演説を始めた。

「私、鮎川那月は天文部の部長として、たった一人の天文部が、大学の施設を使ってはならないと生徒会長の伊東アイさんに言われ、廃部を一方的に言い渡されました。ですが、それならば私は彼女に聞いてみたい! アイさんは、巨蟹学園大学付属高校の生徒会長として、世界に冠たる巨蟹学園の天文台の価値を本当に知っているのだろうか、と。一体あの素晴らしい天文台の能力を、私以上に知っているのかと。私が今日までやってきたことは、本来の学業の目的に則った事はもちろん、天文台を使った科学的探究であり、新発見であり、世の中に役立つ研究でした。本当に、世の中を変えるぐらいの研究でした。それを新任の伊東アイ会長は、何も事情を知ることなく勝手に廃部に決め込んだのです。しかも、伊東会長は私をつぶすために、根も葉もない中傷をして、あたかも私が大学の研究所を遊びで使っていると一方的に決めつけてきました。そのせいで私は、これまで地道に行ってきた研究を妨害され、その成果を世に還元することなく、投げ捨てなければならない状況です……」

 カメラ小僧と化した男子生徒たちは壇上の那月を見上げ、携帯でカシャカシャ写真を撮っている。要するに彼らが集まった目的はそれだけじゃないか。その為、集会はまるでグラビアアイドルの撮影会みたいだった。

「一方で伊東アイさんが人気アイドルである事は、皆さんもよくご存じの通りです。ところがここに我が巨蟹学園の校則があります。巨蟹学園付属高校の生徒は、アルバイトを禁ずる! そうなのです、アイドルは趣味やボランティアではなく、レッキとした賃金を得る仕事でしょう。アイさんがいくら稼いでいるのか私には分かりませんが、これが校則に違反せず、こちらを校則違反だと糾弾する事は許されるのでしょうか! それは彼女が理事だからでしょうか。それは一方的な独裁であり、前近代的な専制君主のする事です!」

「異議な~~し!」

 四方から歓声が上がった。那月は絶好調だ。

「アイさんのやり方はいつもそうです。自分ではアイドル業をやり、この学校の理事まで勤めながら、他の生徒の足を引っ張っている。一体何ででしょうか? このままでは、横暴な理事の独裁が、皆さんの健全な生徒生活、育成を妨害するでしょう! 私は真剣に宇宙の事を研究してきました。それをやってはいけないというのなら、アイドルをしながら生徒会長をする事は、問題ないというのでしょうか? そのような特例を許すことは、自分がこの学校の理事だからですか? 要するに伊東アイさんは、自分を基準にして好き勝手に判断しているだけなんです。皆さん、私に力を貸して下さい。生徒会長の横暴を、私はこの学園の一生徒として今後一切認めないつもりです。健全な学園生活の生徒の一人一人の自由が奪われ、私はこの瞬間も弾圧を受けているのです。いいえ、私達がです。これは皆さんの問題です。学園にかつてあった自由な気風が今、新生徒会長によって、永久に失われようとしています! 皆さん、いくら理事だからといい、人気のアイドルだからといって、伊東アイさんの専制によるこれ以上の不等な弾圧を、巨蟹学園でまかり通らせてはいけません! 私は、生徒会長の不信任案を提出します! ぜひとも私に賛成して下さい!」

 かつて大人しくて、内向的だった那月はまるっきり変わっている。

「今夜、一端支配を受けた巨蟹学園は、皆さんの自由と独立のための革命の夜を迎えました。皆さん、私と共に、伊東アイの独裁に対する戦いのために立ちあがってください! しかし相手は非情な手段を心得た学園の支配者です、非情な相手には非情な手段を! 月は無慈悲な夜の女王です! あの闇の中でも毅然と輝く月のように! 情けは無用、皆さんの力で、相手に情け容赦のない徹底的打撃を加えることを、賛成していただき、私と一緒に立ちあがってください!」

 那月の言う事は、イカニモもっともらしかったが、男子生徒たちはおそらくその内容をほとんど聞いてない。なぜなら拳を振りながら、彼らは全員携帯で那月を写真に撮っているではないか。那月は演説の後、青いギターを取り出して、演奏を始めた。曲はドヴォルザークの「新世界」をアコースティックでアレンジするという斬新なものだ。というか何をやってもウケている。群衆は集会の内容よりも、外見のインパクトと、伊東アイに公然と挑戦状を叩き付けた那月の大胆さに興奮していた。この連中は、盲目的に新しいヒロイン、鮎川那月の登場に熱中している。しかも、グラビアアイドルみたいなスタイルの学園の新しいアイドルだ。それが、「アユカゼ二〇十二」。過激な熱気が巨蟹学園に渦巻いていた。しかし、究極的に那月のファッションは、人集めの作戦だけでもなく、結果的には亮に見せる為なのは間違いない。

「若いっていいわねェー」

ミカはしらけ気味。

「君も十分若いだろ」

 亮はぼそりと言う。

「どいつもこいつも、どーせ那月のムネが目当てでしょ」

 ミカは那月親衛隊連中の浮かれた熱狂を少し離れた場所から、冷めた目で見て亮に言った。

「言い過ぎだろ、きっと鮎川なりに必死なんだ」

 隣に立っている亮は、様子を伺うように目を細めながら、那月の演説を見ている。亮にも、那月の危うさは十分、感じられているようだ。ミカは、亮を見てちょっとほっとする。亮という少年は、同年齢の男としては、女なら誰でもいいタイプとは全く正反対で、ストイックだった。

(あームカツク。「私脱いでもすごいんです。」みたいな顔して)

 ――那月がウザい。最近。那月が輝き出して嬉しいという気持ちと同時に、ミカには焦りが募る。

 演説を終えると、那月はミカと亮のところへやってきて、ミカに囁いた。

「戦うのって楽しい。何だかクセになりそう」

 ゾッとするような妖艶な笑顔、こんな表情、ミカには一生出せないだろう。

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