第2話:5

 話が先に進んだのは、岬が彼方君に来るように話をしたという月曜日の朝になってからの事だった。朝の六時に目が覚めて、すでに居間にいて朝食を作っていた岬の背中を何とはなしに眺めていると、店先の戸口から物を叩く音が聞こえてきた。


「透也、悪いけど開けてくれないか?」


「分かった」


 店に降り、カーテンを開けると、案の定彼方君がそこに立っていた。戸を開け、一応あの怖いお母さんがついてきていないか確認してみる。


「大丈夫だと……思うけど……」


「とりあえず中に入りなよ。一応言い訳用に英語と古典の本を用意しておいたから」


 いつの間にそんな事を……まあ、ここは一応貸本屋なのだし、言い訳しようと思えばいくらでも言い訳出来る……のかなあ……。とりあえず、彼方君を連れて居間へと戻ると、岬がちゃぶ台の前に座っていた。


「おはよう、彼方君」


「お、おはよう……」


「あの後大丈夫だった?」


「ものすごく怒られた……もっと厳しい塾にするとか塾の時間を増やすとか言われて、もうしないって謝ってそれは許してもらえたけれど……」


「うわ、パワハラ」


「岬、お前そういう言い方……」


「だって事実じゃない。少なくとも脅して言う事を聞かせようとしている、これがパワハラでなくてなんだと言うの? っていうかさ、勉強させる事を『罰』にしたらいけないよ。勉強する事は罰なんかじゃないんだから」


「ふっ……」


 視線を向けると、彼方君が俯いて泣いていた。岬がティッシュ箱とゴミ箱を近くに置いてやると、ティッシュで鼻をかんではゴミ箱へと捨てていく。


「彼方君はさ、将来やりたい事とかあるの?」


「……ない……何も……行きたい大学もないから、とりあえず今の成績で行ける所を志望で出しているけれど……そんなんじゃ駄目だって……もっと上を目指せって……でも、俺、もう勉強なんてしたくないよ……休みたいし、マンガだって読みたい。ゲームだってやりたい。友達とだって遊びたいし、勉強しないでゆっくり出来る日が一日でいいから欲しいんだ……


 なんでこんなに勉強しなくちゃいけないの? どこまで頑張らなきゃいけないの? 大学に行ったら楽になるの? でも、大学に行ったって、それが一体何になるの? もうやだよ、勉強するのも、毎日毎日怒られるのも。楽しい事なんて何もない。もう嫌だ。俺、もう、疲れたよ……」


 彼方君は、そう言って黙り込んでしまった。気持ちは分かる。痛い程。でも、そんな事言っても、どうしようも……


「彼方君さ、もし、今すぐ勉強も何もかも全部ぽいっと放り投げて、ハワイで自由気ままに気の済むまで遊びほうだーい、なんて事になったら一体どうする?」


「……」


「……は?」


 い、いやいや、一体何を言ってるんだ、こいつは! そんなフザけた事を言うようなところじゃないだろう!


「おい、岬……」


「透也、悪いけどちょっと黙っててね。ね、もしそう出来たらどうする? ハワイじゃなくてサイパンでもグアムでも熱海でも別に何処でもいいけど」


「え……そりゃあ……嬉しいけど……」


「うん、つまりさ、君の望みは『それ』なんだよね」


「え?」


「『自由になりたい』。塾には行きたくない。勉強もしたくない。お母さんにこれ以上あれこれ言われるのも叱られるのも嫌で嫌でたまらない。塾も勉強もない所で一日中マンガ読んでゲームしてのんびり出来たら最高……そんな風に思わない?」


「それは……」


 それは……それが出来たら最高だろう。多分、恐らく、だけど、それを現実に出来るならほとんどの人間の悩みなんて吹っ飛んでしまうに違いない。


「一つだけそれを叶えられる方法があるけれど……聞く?」


「え?」


「み、岬、お前適当な事を……」


「いや、嘘は言わないよ。確実とは言わないけれど嘘は言わない。とは言ってもまあ無能で無才の凡人の僕ごときの考えだけど、それでもいいなら……聞く?」


「ど、どうすればいいんだ?」


「それはね……」


 彼方君の喉が、ごくりと鳴った。






「『勉強』すればいいんだよ」






 ……からなかった。


 何と反応すればいいのか分からなかった。


「……って、おい、お前なあ!」


「何、透也?」


「何って……お前、勉強したくないって相手に、それをしなくて済む方法は勉強すればいいって、矛盾だろ!?」


「いや、矛盾じゃないよ。少なくとも、『自由』になるための方法の一つとして『勉強』する事は矛盾じゃない。


 彼方君、答えたくないのなら別に答えなくてもいいけれど、君のお母さんが君に強く言ってくるのは一体どうしてだと思う?」


「……俺の親だから?」


「違う」


「俺の事を考えてるから?」


「違う」


「じゃあ、何で?」


「『君が弱いから』だ」


 ……絶句した。


 これ以上身も蓋もない言葉がこの世に存在するだろうか。


「よ、弱いからって……お前……」


「え? 無力だからの方が良かったかな?」


「余計に悪いわ! そうじゃなくて、そういうのって普通子供の事を想っているからとか……」


「まあそういう見方が全く出来ないとは言わないけれど、物の大切さと労働者への感謝を弁えず、勉強を子供への罰に使うような人間の『善意』や『好意』なんて、僕だったら願い下げだな」


「……」


  即答だった。岬は肩をすくめるようなポーズを取り、そして再び言葉を続ける。


「ま、僕みたいな無能で無才の凡人の好悪なんて別にどうでもいいんだけれど、子供を想うっていう事は、自分の価値観や正しさを押し付ける事じゃないだろう。例えそれが子供の幸せのためだとしても、幸せの押し付けは幸せじゃない、それはただの押し付けだ」


「……」


「とまあ無駄話はやめにして話を元に戻すけど、君のお母さんが君に強く言うのは君が子供だからでも、君のお母さんが親だからでも、君の幸せを願っているからでもない。『君が弱いから』だ。少なくとも、これ以上無理をするのも勉強するのもそれらを強いられるのも君は相当嫌なのに、君のお母さんがそれを強いている、っていうのが君の認識だよね。そんな事ないって言うなら否定して欲しいんだけど」


 彼方君は首を横に振った。それから縦に何度も振った。岬は思いの他優し気な表情で彼方君の事を見つめている。


「じゃあ、それを前提で話を勧めさせてもらうけど、そうなる原因は君が子供だからでもお母さんが親だからでも君の幸せを願っているからでもない。『君が弱いから』だ。金銭的にも社会的にも君は弱い立場にあり、親の庇護を受けなければいけない状況にあるからだ。これを打破する方法はただ一つ。『勉強する』事だ。勉強して勉強して勉強していい大学に入りいい会社に入り働いて働いてお金を稼ぐ。ハワイに移住してそのままのんびり自由気ままに暮らせるぐらいに。君が本当に『自由』になる方法は現状それ一つだけだ。勉強して勉強して大学に行って就職してお金を貯めて、そして『自由』を買え。そして……君の親を縁を切って捨てればいい」


 耳を疑った。何かすさまじくとんでもなく物騒な事を聞いた気がする。


「おい……岬……お前一体なんて言った」


「お金を稼いで君の親を捨てればいい」


「ま……待て待て! お前、そんな物騒な!」


「物騒なものか。むしろ僕は常々そう思っているよ。例えそれが親だろうが何だろうが、自分をがんじがらめに抑圧するだけのものに義理立てする必要が何処にある。血の繋がった親は捨てちゃいけないと言うのなら、親に理不尽に虐待される子供はいつまで経っても救われないよ」


「そ……それはそうだけど……」


「だから、『勉強しろ』。親のためでも、社会のためでも、この国のためでも、誰のためでもない。『自分のために』だ。申し訳ないけど僕は無能で無才の凡人だから、これぐらいしか案は出せないよ。でも、君の『自由』を勝ち取るためだと思えば、ちょっとは勉強に対する見方も変わってくるだろう? ああ、もちろん強制はしない。あくまで無能で無才の凡人の個人的な意見、ただの『案』だ。強制はしない。どうするかを決めるのは君自身の『自由』だよ」


 彼方君は、黙ったままだった。その沈黙は怖かった。何か、爆発する直前の爆弾を目の前にでもしているような。


「勉強は……しなくちゃいけない?」


「君のためにね」


「お金があれば……自由は買える?」


「君がちゃんと稼げばね」


「母さんの事は、捨ててもいい?」


「もちろん」


「なら、俺、頑張るよ」


 ぞっ……とした。何か、ここにいてはいけないものを、見てしまったような気分になった。しかし岬はにこりと目を細めている。


「うん、『頑張れ』。まあでも今の状態はちょっと無理があり過ぎなのかな? 勉強は出来るだけ学校で済ませられるようにして、睡眠時間はきちんと七時間は取れるようにしておきなよ。睡眠不足は自律神経の働きを狂わせ記憶の定着を妨害し判断力とパフォーマンスと免疫力を低下させる、なんて話もあるからさ。学校の授業だけでも大丈夫だって所をきちんと見せれば、塾に行けと言われる事もきっと少なくなるだろうさ。そうしたら、息抜きにまたここに来ればいい。お母さんには友達と勉強するとかそう言ってさ」


「……うん」


 そして、彼方君は出て行った。来た時とは全く逆の決意を胸に抱えて。岬はその背中を見送ってから台所へと戻っていく。


「お、おい、岬?」


「なーに透也、お腹空いた? もう少しで出来るからもうちょっと待っててね」


「そうじゃなくて……その、親を捨てろなんて」


「親の資格のない親を、捨てて一体何が悪い」


 黒い目だった。岬は俺から視線を外すとお椀に味噌汁をよそっていく。


「……と、言い切るのはまあ、確かに過激だとは思うよ? 実の我が子とも何十年と会っていなくて、独りぼっちで孤独死する人もいるとか考えちゃうと尚更ね。


 でもさ、子供に自分の価値観や夢や幸せを押し付けて、子供を怒鳴ったり罰したりして自分の意のままに操って、そんな親を慕わなきゃいけない義理や道理が何処にある? 親だから慕う訳じゃない、親と慕いたいような人間だから慕うんだ。親と慕う価値もない人間だから慕わない、その当然の流れを咎める理由と道理が何処にある」


「……」


「という事をさ、僕は世の大人達に対してもちょっと思っているんだよね。事あるごとにやれ今時の若者だのゆとりだの政治に参加しないから省みる必要はないだのなんて好き勝手言ってくれてるけれど、今の若者が社会を動かす立場になって、今の大人達が面倒を見てもらわなければいけないお年寄りになった時に、きちんと面倒を見てもらえるなんて本当に思っているのかな……?」


 そう言って、岬はにやりと笑った。と思ったのは一瞬の事で、次の瞬間にはにこりと、目を細めただけの妙な表情になっていた。 


「ま! なんて事は冗談でも言わないけれど、トランプのジョーカーって知ってるよね? あれが何で『切り札』って呼ばれてて、『最強のカード』なのか知ってる? ジョーカーの本来の意味が『道化を装った奴隷』だからさ。王や貴族に永らく虐げられていた奴隷が、剣を取って自分の主人を突き刺した……だからジョーカーは兵にも女王にも王にも勝てる『最強の切り札』に成り得たんだ。まあいわゆる諸説ありってヤツだけど、自分達が虐げてきた奴隷に後ろから刺されて踏み付けられる……なんて事がある事は知っておいた方がいいよねえ。人生なんてトランプみたいに、いつひっくり返されるかなんて予測のつかないものなんだから」


「……」


「ま、なんて言ったら多分反発喰らうだろうし、絶対にそうなる、とまでは言わないけど、今は『毒親』なんて言葉もあるご時世だしね。とりあえずご飯にしようか。悪いけどこれ運んでくれる?」


 岬は椀を俺の前に差し出した。とりあえず二つとも受け取り、ちゃぶ台へと持っていく。続いて岬が白米とおかずを持ってきた。


「さ、座って。食べよう食べよう」


「……」


 俺は……座って、岬と一緒に「いただきます」と両手を合わせた。岬は何事もないように味噌汁を一口啜った。上手く……言えないけれど、「親を捨てろ」なんて年端もいかない高校生に言うなんて、こいつ、今まで一体どういう人生歩いてきたんだ? 『普通』がどうなのかは知らないけれど、『親は捨ててもいいものだ』なんて、「普通」は出てくる台詞じゃ……ないと思う。そう言えばこいつの家族は一体何処にいるんだろう。もう両方とも亡くなったんだろうか。それとも、「捨てて」しまったんだろうか。


「勉強ってさ、何のためにするんだと思う?」


 岬が唐突に聞いてきた。俺が岬を見ると、岬は皿に視線を落とし卵焼きをつまんでいる。


「えっと……社会のため?」


「勉強なんて出来なくても社会のためになっている人は数えきれない程いるだろう」


「立派な人間になるため……」


「詐欺や汚職を働く医者や弁護士や政治家なんてごまんといるよ」


「自分が困らないようにするため……」


「ありおりはべりいまそかりなんて、知らなくても別に困りはしないよ」


「じゃあ……何のためだよ」


「自分のためだよ」


 岬は事も無げに言った。


「本来はそのはずだよ。勉強をするのは『自分のため』だ。いや、勉強だけじゃない。そもそも生きている事そのものが『自分自身のため』だろう。少なくとも僕は、誰かに『生きてくれ』なんて頼まれたから今を生きている訳じゃない。『僕のため』に生きているんだ。それに誰かのために生きる人生なんて、そんなの本当の人生なんて言えないだろう? 人間は皆、まずは自分のために生きるべきだ。勉強するのも働くのも、まずは自分のためであるべきだ。


 でもね、今の教育や社会にはその点がすっぽ抜けている。親のため、社会のため、他人のため……『自分のため』っていう一番の核がすっぽりと抜け落ちている。『屋台骨』が抜け落ちている。だから屋台骨のしっかりしていない建物が簡単に潰れてしまうように、責任だの何だのと押し付けられてぐしゃりと潰れてしまうんだ。親の言う事を聞け、社会の役に立て、立派な人間になれ……確かに聞こえはいいだろうね。でもさ、それって親や社会の言う事をただ諾々と聞かされている奴隷と変わりはしないじゃないか」


「で、でも……自分のために生きるっていうのは……悪い事だろう?」


「なんで?」


「え?」


「自分のために生きる事の一体何が悪いと言うの?」


 岬の瞳は真っ黒だった。真っ黒な瞳の男は淡々と言葉を続ける。


「自分のために生きる事は悪い事なんかじゃないよ。悪いのは『自分のために誰かを傷付ける事』だ。自分のために生きる事自体は何ら悪い事じゃない。だったら自分のために食事を摂る事は悪い事か? 自分のためにきちんと睡眠を取る事も悪い事か? 自分の健康や幸福のために努力する事は悪い事か? それを抑圧しようとする事こそが悪い事と言うんじゃないか?  僕達は不当に抑圧される奴隷でも、糸に括りつけられて喋る事を禁止された操り人形でもない、『人間』なんだ。自分の意志を持ち、自由に生きる事を願い続ける、人間なんだ。その意志と願いを剥奪されなきゃいけない理由と道理が何処にある」


「……」


「まあ、人間の意志と自由を剥奪し、自分の意のままに操りたい連中の考えは、分からなくはないよ? だって人間っていうのは『暴走』する生き物だからね。個性だの自由意志だのを全部認めてしまったら、個性を我儘と、自由を無法と、履き違えて好き勝手やる頭の悪い人間もいる。そういう懸念があるから、自分のために生きていい、なんて簡単には言えないだろうさ。


 でもさ、だったらこう言えばいいだけだ。『個性を我儘と、自由を無法と履き違えるな。自分のために生きたとしても、人間として最も大事な事は忘れるな』。今の教育と社会には、この言葉が圧倒的に不足している。自分のために生きろ、その上で人の事も考えろ、余力があれば誰かを助けろ……別にこれでいいじゃないか。自分のために生きる事は悪だ、人の事だけを考えろ、無理をしてでも世界中の人間の役に立て……そんな事を押し付ける理由と道理が何処にある。確かに、自分を犠牲にしてでも誰かの役に立とうとする人間は素晴らしいさ。心の底から尊敬するよ。でもね、素晴らしい人間になれと押し付ける事は素晴らしい事じゃないし尊敬すべき事でもない。ただの押し付けだ」


「……」


 岬は言いながら、また箸を伸ばし、今度はメンマを口に運んだ。何十回も咀嚼してから静かに喉を動かしていく。


「まあ、中には『お前のためだ』なんて言う人もいるだろうけどさ、それだけじゃあ足りないよ。『百聞は一見に如かず』なんて言うじゃないか。お前のためだって百回も千回も聞かせるよりも、自分のためになるんだって実感させた方がいいだろう。山本五十六先生だって『言って見せ、やって聞かせてさせてみて、褒めてやらねば人は動かじ』と言っている。人を動かそうと思うなら、口で言うだけじゃダメなんだ。こういう先人達の教えを一体どう思っているのか僕は常々疑問に思っているんだけど、透也はどう思う?」


「え……悪い……分からない……」


「ん、了解。まあ、だからさ、強いてまとめようとするのなら、今の教育は足りない事と無駄な事が両方あると思うんだ。勉強は自分のためにするものだっていう事を、口で言うだけじゃなくて実感として認識させる努力が不足していると思うし、自分のために生きて、その上で人の事も考えて、余力があれば誰かを助けろ、という事さえも教えていない。自分を犠牲に誰かのためになる事が美徳みたいな言い方をするけどさ、きちんと食事を摂らないと必要な栄養が補給出来ないし、きちんと眠らないと脳や体や自律神経や記憶なんかにも支障をきたす。最近の研究だと睡眠時間六時間の生活を二週間続けただけで、七時間睡眠を取った時よりパフォーマンスと判断力が低下する、なんて研究もあるそうだ。他にも風邪を引きやすくなるとか、太りやすくなるとか、将来認知症の危険が出るとか……まああくまでそういう説があるっていうだけだし、中には短期間睡眠で大丈夫な人もいるだろうけど、適した睡眠時間は遺伝子や脳の状態によって違うという説もあるし、睡眠時間四時間程度でバリバリ働いていた人がある日眠ったまま心停止して死亡した、なんていう話も割と聞く。食べない、寝ない、休まない、そういう無理を人体にさせる事でどういう支障が出るかも分からないんだ。頑張るなとは言わないけれど、無理はしない方がいい。頑張る事と無理する事は違うんだ。そういう事をこそ僕は義務教育で徹底して欲しいと思うんだけどな……ま、そういう仕事に携わっている人が、一体どういう考え方をしているのかは知らないけれど」


 岬は両手を合わせ、「ごちそうさまでした」と言った。岬の食器の中身はすでに空になっていた。


「でもさ、僕は無能で無才の凡人の、何処にでもいるしがない役立たずでしかないけれど、僕は人間が知っておかなきゃいけない事はいっぱいあると思うんだ。例えば僕達が安全に食事を出来るのは一体誰のおかげなのか。どうして人の悪口を言ったり殴ったりしてはいけないのか。信号を守らないとどうなるのか。目上の人には一体どういう風に接しなければいけないのか。子供が出来たらどうすればいいのか。妊婦さんやご年配や障害を抱える人達はどんな大変な想いをしているのか。アルコールやタバコや麻薬には一体どんな害があるのか。そういう事をちゃんと教育していないから、農家や運送業や販売業の人に感謝出来ず、人の悪口を平気で言い、暴力を振るい、信号無視をして事故を起こし、親しみやすさと無礼を履き違え、子供が突然出来てオロオロし、妊婦さんやご年配や障害を抱える人達に配慮出来ず、多量の飲酒や喫煙で体を壊し、麻薬に手を出し身を滅ぼすヤツがいるんじゃないかと思うんだ」


「で、でも、そういうのって一応やってるだろう……?」


「『一応やった』程度の事はね、教育したって言わない、『流した』って言うんだよ。テレビのワイドショーで全く興味のない芸能人のスキャンダルを『流している』のと一緒だよ」


「……」


 即答である。


「まあもちろん、それを全部学校や教科書でやれだなんて言わないけれど、だからこそ学校や教科書や塾やテスト以外に触れる機会も設けるべきだと思うんだ。食品工場やスーパーに行って社会科見学も大事だろうし、人の悪口を言ったり暴力を言ったりしたらどうなるのかはマンガやアニメでも学べるはずだ。信号を守らないとどうなるかなんて、子供と一緒に夕飯の買い物に行ったついでに聞かせる事も出来るだろうし、目上の人への接し方なんて老人ホームのボランティアにでも行けばいい。介護職の仕事も分かるし、ご年配への接し方も学べるし、役にも立てる。一石三鳥ぐらいにはなるだろう。子供が出来たら産婦人科に行って検査して食事や体に気を付けてどういう手続きを取って……みたいな事は絶対知っておいた方がいいし、お腹に十キロの重りをつけて歩いたり、耳栓をして視界の悪くなる眼鏡を掛けたり、それだけでも妊婦さんとご年配と障害を抱える人達の多大な苦労は分かるんじゃないかと思うんだ。アルコールやタバコや麻薬は体に悪いなんてうすらぼんやりした事じゃなくて、肝臓病と肺病と精神病のリスクと怖さと治療の大変さと社会に及ぼす影響を自分の言葉で述べられる程にしっかり教えるべきだろう。もしそれらが将来絶対使うなんて言いきれない小難しい数式や単語のためにおろそかになると言うのなら、いっそそんな数式や単語なんてやめた方がいいと思う。それこそ流せばいい事だ。そんなものは必要なヤツが必要になった時にやればいい事じゃないか。立派な人間と言うものは、紙に書かれた問題をたくさん解ける人間の事じゃないだろう」


「……」


「それとあとは、僕は教育の第一は『夢』を持たせる事だと思うんだ。信念でも目的でも目標でもなんでもいいけれど、高校や大学に進学する時に『進路希望調査』ってやるだろう? あれは本来もっと早期にやるべき事だと思うんだ。もちろん途中で変わる事もあるだろうけど、それは先に夢や目的や目標を持たせるような支援をしない理由にはならないはずだ。ケーキ屋でも花屋でもいい、サッカー選手でも野球選手でもいい、アイドルでもお笑い芸人でも漫画家でも小説家でも、警察官でも弁護士でも医者でも政治家でもゲームを作る人でもなんでもいい。子供にまず夢を持たせる。その上でこう言えばいい。『その夢を叶えるために一生懸命勉強しろ』って。どんな職業を選んだってどんな夢を持ったって、勉強した事はいつか何処かで役に立つ。それは間違いない事だ。そしてその夢を叶えるために、学校や塾や通信教育っていうものは必要だと思うんだ。


 でもさ、今の教育には『夢』を持たせる働きかけが圧倒的に不足している。夢を叶えるための手段として勉強を教えているんじゃなくて、夢を持たせないまま手段を押し付けているだけなんだ。そんな状態で押し付けたってやる気なんて出る訳ないじゃないか。勉強を教えてから夢を探させるんじゃない、夢を探させてから、それを叶えるための手段として勉強を教えるんだ。そうすれば子供は夢を叶えるために、本当の意味で『自分のために』自然と勉強するはずだ。『好きこそ物の上手なれ』、ってね。少なくとも親や学校や塾や社会が、押し着せがましく勉強をやらせるよりはずっと効果的だと思う。それを子供がサボっているとかやる気がないとか、そんなのは子供の怠慢じゃない、子供に夢を持たせる努力もしない大人側の怠慢だろう」


「……」


「まあでもそれをやるためには、今現在の教育体制を根本的に変えなくちゃいけなくなるだろうけどね。まず教育カリキュラムが多過ぎるんじゃないかと思うし。でもさ、どうせ小学校中学校高校大学って似たような事をやる時期はいつか何処かで来るんだし、『みんなが絶対使う』じゃなくて『誰かがいつか使うかもしれない』という分野も多いはずだから、もう色々入れ替えるなり外すなり改革すればいいと思うんだけどな。子供の内に習得しておくべき事はもちろんあるのだろうけれど、大人になってから習得したっていい事だってあるだろうに。あと暗記物、あれは僕は結構いらないと思うんだよね。歴史の年号だの歴史上の人物の名前だのまた変わる可能性が全くないとは言えないし、難しい単語は必要な時に辞書を開けば済むじゃないか。むしろ覚えたと思い込んで間違えるぐらいなら、その都度正しいか確認するクセをつけた方が絶対いいよ。正直暗記物なんてテストの作りやすさと頭がいいっぽい感じがするだけで押し付けてるんじゃないかと思うし。


 まあ『単語を覚える事さえ出来ないヤツが社会で何の役に立つんだ』みたいな話も聞くけどさ、『単語を覚える事しか出来ないヤツが社会で何の役に立つんだ』。いくら暗記やテストが出来たって、自分の意見をきちんと言えて他人の意見をきちんと聞けて、仲間と連携して協力して一つの事を成し遂げて、他人が困っていたら手を差し伸べ自分が困っていたら助けを求め、人に感謝し人を気遣い常に全体を考えられる、そういう人間にならなければ何の役にも立たないだろう。僕は全く遺憾だよ。他人を非難する事に終始して自分の否を省みない、勤勉と努力を言い訳にして人に苦しみを押し付ける、人間っていうのは何処まで行ってもそんな事しか出来ないのかな」


 ……分かった。なんでこいつに何処かちぐはぐな印象を受けるのか。こいつは適当でいい加減なように見えるけど、決して適当でもいい加減なヤツでもない。ただ『装っている』だけなんだ。本当はもっと過激で、苛烈で、冷徹で、厳しくて、色々な事を考えていて、全身に言葉というナイフを仕込みながら歩いているようなヤツなんだ。それを適当でいい加減な態度で装っているから、こいつは何処かちぐはぐな印象に見えるんだ。


 でも、そこまで思っているなら、どうして自分で動こうとしないのか……そう思った時、岬が俺の方を見た。そして俺の手元にある手つかずの味噌汁に視線を向けた。


「……っと、ごめんごめん。食べる邪魔をしちゃったかな? 僕みたいな無能で無才で凡人の無意味で無価値な話なんて別に聞いてくれなくていいのに。温め直すからちょっと待ってて」


「えっ!? い、いや、いいよ。別に食えるし……」


「作った身としては一番おいしい状態で食べてもらいたいじゃない。いくら僕みたいな無能で無才の凡人が作った変哲のないものだとしてもさ」


 その……言いぐさ……そんな物を人に食べさせるのかよっていう意味で、謙遜し過ぎて失礼というヤツだろう。色々腑に落ちないものを感じながら「じゃあ、頼む」と椀を渡すと、受け取って台所へと歩いていった。自分でやれば良かったかと思ったが、岬は食事を終えたようだし、……まあ、いいか。


 本当に、一体どういうヤツなんだろう。味噌汁を温め直す黒い背中を見て思う。見知らぬ他人である俺を連れ込んで食事まで振る舞って、親切なのかと思ったら冷たい事をはっきり言うし、適当かと思ったら過激で苛烈な事も言うし、厳しいのかと思ったらやっぱりどこかいい加減で……


 ジョーカーは道化を装った奴隷。一見おどけているようで、その手には王を殺すためのナイフを隠し持っている……それを岬に例えるのは、少々……いやかなり、気恥ずかしいと思うのだけど……「正体が分からない」という点では、通じているものがあると思う。そうだ、俺は岬の事なんてこれっぽっちも知らないんだ。『友達』だなんて岬は勝手に言ってるけれど、岬の家族がどこにいるかも知らないし、交友関係も知らないし、年も……


「そう言えば、お前年はいくつなんだ?」


「二十八」


「二十八!?」


「あれ、そんなに驚く事?」


 岬は味噌汁を持って戻ってきた。いや……驚いたっていうか……年齢不詳過ぎて分からなかったというか……いやその前に、という事は……


「俺の四つ上……」


「お兄ちゃんと呼んでもいいんだよ?」


「誰が呼ぶか!」


 ……ああ、もう、いい。俺は額に右手を当てた。こいつが一体どういうヤツかとか知るもんか。ワケの分からない変人、それだけで別にいいじゃないか。


「そう言えば、今日はどうしよう。何かしたい事とかある?」


「……え? いや、別に……」


「じゃあ、昼寝に付き合ってもらえない?」


「え?」


「したい事別にないんだろう? だったら別にいいじゃない。昼寝しよう、昼寝」


 言いながら岬は隣に座った。昼寝……別にいいけど……でも……


「今日……月曜日だろ?」


「そうだよ?」


「世のサラリーマン達は、働いている時間だぞ……」


「世のサラリーマンだけじゃなく、子供を育てるお母さん方も、学校に勤める先生方も、水道局員もガス会社の人も電気会社の人もトラック運転手の人も、色々な人が身を粉にして働いている時間だろうね」


「その時間に……昼寝って……」


「だってする事ないんだもーん。それに世界的に見れば日本人は働き過ぎだって言われてるんだよ。まあ働かなさ過ぎて経済が崩壊している国もあるから一概にどうとは言えないけれど、『過剰は異常』『過ぎたるは猶及ばざるが如し』『グッドセンスを持たない限り、如何なる幸福も得ることは出来ない』じゃないのかなって思うんだよな。それに朝の九時より前に働くのは脳にダメージになるっていう説もあるし……まあ一部の農家さんとか救急医療に携わる人とか事故が起きた時の警察や消防や報道番組の人とか色々な職種事情があるからこれまた一概にどうこうとは言えないけれど、勤勉なんて耳障りのいい言葉で終わらそうとするんじゃなくて、一体どうすれば無理なく生きていけるのかは考えたっていいと思う。と、いうのは一先ず置いておいても、別に僕達二人が昼寝した所で世界は滅びたりなんてしないよ」


 それは……そうだけど……そういう意味じゃなくてだな……


「透也はさ、幸せって一体何だと思う?」


 これまた唐突な質問だった。俺は岬の黒い目を見た。一切の光も許さないブラックホールのような目をしている。


「お金が……ある事?」


「お金があれば幸せかい?」


「働ける……事?」


「働きさえすれば幸せかい?」


「……分からない……」


「そうだね、僕も分からない。でもまあ、昼寝さえ自由に出来ないような人生は嫌だなぐらいには思うし、別に何億何兆なんて莫大なお金がなくたって、生きるのに支障がなくて、昼寝をしたい時に出来れば嬉しいかなぐらいは思うよ」


「……贅沢だな」


「そうさ、最高に贅沢だ。だから今日は贅沢しよう。ね?」


 岬は小首を傾げて見せた。俺は「贅沢だ」と言ってから、お金はいらないから昼寝がしたい、なんて贅沢、という言葉はおかしいなとふっと思った。本当に、お金はいらないから昼寝がしたい、と思う事は贅沢だろうか。


 でも俺は、それはやっぱり贅沢だと思ったし、人様が働いている時にのんびりだらだらする事に、罪悪感を覚えていた。でも、さっきも言ったように、したい事なんて別にない。やらなきゃいけない事もない。だから、昼寝をするという事に後ろめたさを感じながら、


 俺は頷いた。

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