第2話:3
……あれ、俺、なんでこんな所にいるんだろう。いつ布団に入ったんだろう。確か昨日は……昨日は……昨日……
俺はその場に飛び起きた。
ど、どうしよう。俺、昨日、怒ってたよな。すごい嫌な態度取ってたよな。すごい態度悪かったよな。どうしよう、早く謝らないと!
俺は布団を蹴り飛ばし、急いで階段を降りていった。辿り着いた居間の中はまだ圧倒的に暗かった。
「……あ……」
壁の時計に視線を向けた。まだ四時だった。暗いワケだ。岬だって起きているはずがない。俺は呆然として、居間の中に視線を向けた。ちゃぶ台の上に何か妙な物が置いてある事に気が付いた。
「……?」
不審に思って近付いてみると、お菓子が一つ置いてあった。それと、ペットボトルが一つ。その隣に「お腹空いたら食べて」とペンで書かれた紙が一枚……
「おはよう」
「うわ!」
「お腹空いた? 空いたならそれ食べてていいよ。嫌いなら何か別のを作るから」
岬だった。寝る時まで上下黒のハイネックとズボンでまとめている。俺は手を伸ばして電気を点けた。岬が眩しそうに眼を細める。
「悪い……起こした?」
「いや、別に。眠くなったら昼寝するから平気だよ。ここが自営業の強みだよね」
ごめん、ちょっとトイレ行ってくる、と岬は奥へと姿を消した。聞こえてきた音に意識を向けないように手元の紙に視線を落とす。何度も確かめている内に岬が居間へと戻ってきた。
「これ……」
「ああ、彼方君を近くまで送っていくついでにね。しかし仕方ない事とはいえ、夜に子供が一人歩きなんて物騒だよね。大人でも物騒だと思うけど。別に塾が悪いという訳ではないけれど、通信教育の必要性をちょっと考えてしまうよな……」
「そうじゃなくて……わざわざ買ってきたのか?」
「うん。君、昨日あんまり食べていなかっただろう? 起きたらお腹空くんじゃないかと思ってさ。それでドライフルーツなんて買ってきてみたんだけれど……」
何故……ドライフルーツ……と尋ねる気にはなれなかったが。だが、とりあえず、気に掛けてもらっている事は本当のようだ。
「ありがとう……」
「どういたしまして。さて、ところでどうしよう。お腹空いているなら朝ご飯を作っちゃおうか?」
「い、いや、まだ、いいよ……朝早いし……あ、でも、何か作ってくれるなら……ホットミルク……いいかな……」
勇気を出して頼んでみた。はっきり言って恥ずかしかったが。しかし、岬は目を細める。
「お安い御用だよ。他にも何かあったら言って」
「い、いや、いいよ。とりあえず……」
岬は鍋を取り出し、牛乳を中に流し込んだ。いいヤツ……では、あるんだろう。多分。けれど、それと断言出来ないのは……所在なく待っていると、岬がホットミルクを入れたカップを二つ持って戻ってきた。
「立ってないで座りなよ。そんなに緊張しなくていいんだから」
「あ、わ、悪い……」
「何かあったの?」
「……、……それは……」
言いたくない。何もないとは言わないが、何かあったという程大した事なんて何もない。俺なんて、全然普通のヤツで、そんなの誰だって当たり前で、出来ない俺が悪いんであって、応えられない俺が悪いんであって……
「んー……透也、今君が何を考えているかは分からないけど……んー……」
岬が立ち上がった気配がした。顔を上げると岬が二階に上がっていった。呆れて行ってしまったのかな? どうすればいいか分からず階段をじっと見ていると、岬が布団と毛布を束に抱えて戻ってきた。
「み……岬? なんで布団と毛布を持ってきたんだ?」
「寝よう」
「……は?」
「二度寝するんだよ。君の部屋の布団と毛布も持ってきたから。ほら」
そう言って岬は布団と毛布を敷き始めた。いやいやいや……意味が分からない。どうしてここで二度寝するという結論が出てくると言うんだ。
「ほらって……今起きたばっかりじゃないか」
「だってまだ四時じゃない。十分二度寝出来る時間だよ」
「だったらお前だけ上で寝てきたらいいだろうが。俺まで寝る必要は……」
「だって君、放っておいたらまた一人でうじうじ悩み続けるだろう?」
岬は、ちゃぶ台をどけると俺の毛布と布団を敷き始めた。答えられずにいると岬が俺の顔を見る。
「悩むぐらいなら寝てればいいよ。下手な考え休むに似たりっていうだろう? それで気分がスッキリしたらご飯を食べるなり本を読むなりゲームをするなり……そんな風でいいんだから」
「いや、でも、俺は……」
「ああ、もう、まだるっこしいなあ。おとなしく寝ておきなって。それとも」
「うわっ」
「僕が一緒に寝てあげようか?」
岬が、俺にのしかかったまま俺の顔を覗き込んだ。俺は首を横に振った。凝視していると岬がその場に立ち上がり、俺の上に毛布を掛ける。
「ほら」
ほら、と……言われても……仕方なしに、横になって目を瞑る。すると布団も掛けられた。少し目を開けると、背中の方からごそごそという音が聞こえてきた。
意味が……全く意味が分からない。一体こいつの思考回路と行動形式はどうなっているんだ。正直付き合いきれないが……でも……あれ? もしかしてこれ、すごく嫌な状況じゃないか? すぐ後ろに岬がいるっていうのは……もし今ここで起きたら一体どうなるんだろう……
俺は、「もし今ここで起きたら」を想像し、慌てて強く目を瞑った。いや、決して起きた所で、何かされるとか思っているワケではないんだけども! ただ、「絶対そんな事はない」と言い切れる自信もないワケで……本当、俺、一体何をやっているんだろう。何でこんな所にいるんだろう……そう思いながら目を固く瞑っていると、いつの間にか睡魔が襲ってきた。
変な事は考えなかった。
*
いい匂いが鼻をくすぐった。一番大好きなヤツの匂いだ。けれどなかなかねだれなくて、作ってくれないかなといつもそっと思っていて、……最近、食べた覚えはないな……
「う……」
俺は目を開けようとして、あまりの眩しさに目を細めた。いつの間にか寝ていたらしい。寝過ぎたのか、妙に頭がだるくて微妙に痛かった。
「寝過ぎた……」
「透也、起きたの? 冷蔵庫に飲み物あるから何か飲みなよ。もしかしたら脱水症状起こしているかもしれないし」
脱水症状……? それって、暑い日に起きるヤツじゃなかったっけ……とりあえず岬の言う事に従い、立ち上がって冷蔵庫を開け、ペットボトルを口に含んだ。台所に立つ岬からほのかにカレーの匂いがする。
「カレー……作ったのか?」
「カレーは嫌いだった?」
「いや、好きだ。一番好き……でも朝からカレー作るなんて……」
「ごめん、もう夕方だよ」
一気に頭が覚醒した。慌てて振り向いて時計を見ると、針は五時を指していた。台所の窓からは眩しい夕日が差していた。
「夕……方……」
「起こそうかなとも思ったんだけど、あんまりぐっすり寝ているもんだから……まあ寝過ぎるのも寝なさ過ぎるのと同じぐらいよくはないらしいけど、たまにだったらいいかなって。今日何かしたい事があったなら明日にしよう。付き合うよ」
「いや……別に……やりたい事なんて何もないけど……」
なんせ……いや、考えまい。しかし夕方まで爆睡って……今ばかりは会社を辞めていて本当に良かったと思う。働いていた時にこんな真似をすれば間違いなくクビを言い渡される。
「いや、それはないんじゃないかな。僕も詳しくは知らないけれど寝坊して遅刻一回程度でクビにするのは法律違反になるらしいし。っていうかそういう事こそ義務教育できちんと教えるべきだよね。高校進学せずに就職する子やバイトする子もいる訳だし」
「なん……でそういう事ばっかりは伝わるんだよ!」
「何? 僕に言わなくても分かって欲しい事でもあるの?」
岬が俺の方を見た。いや……ない。ない。そんな事は一切ない。こいつに分かって欲しい事なんて。理解して欲しい事なんて。
受け止めて欲しい事なんて。
「ない……」
「そう。あ、先にお風呂入ってきたら? ……と、先にお風呂掃除しなくちゃなあ」
「い、いいよ。掃除なら俺がする」
「そう? じゃあお願いしちゃおうかな」
俺は岬に背を向けて風呂場へと歩いていった。ここに置いてもらって、食事も世話になって、それで何もしないなんてあまりにも情けなさ過ぎる。風呂掃除程度しか役に立てないとしても風呂掃除ぐらいはしなければ。
置いてある洗剤とスポンジで浴槽を洗い、栓をして湯を貯める。一応最初の日にボイラーと風呂については教わったから大丈夫だ。それから入浴剤も入れて……入浴剤なんて、今まで一度たりとも使った事はなかったが、
「いわゆる一番風呂が体に悪いって言われているのは、一番風呂には不純物が少な過ぎるからだそうだよ。汗とか皮膚とか汚れとか。普通に考えたら『汚い』とか思われそうな所だけど、そういう不純物がお湯と混じり合う事によってなめらかな水質に変化して、肌から余計な水分を奪い取るのを防いでくれる。
けれど一番風呂は不純物が全くない水だから、身体から水分を過剰に奪っていくらしいんだ。それが原因で乾燥肌になったり肌が荒れたり痒みが出たり肌のバリア機能が低下して皮膚感染やらアレルギー症状やらが出てくる事もあるそうだから……だからこれはちゃんと入れてね。入浴剤を入れておく事でそれをある程度防ぐ事が出来るってこの前テレビでやっていたから」
いや知らねえし。それを聞かされた時の正直な感想がそれだった。ちなみにもったいないから湯船を張らずにシャワーを使う事を提案したが、湯船を張って入浴する事の効能を切々と説かれた気がする……あと入浴時間とか温度とか……学校で聞いていたら多分机で寝ていただろうな……
なんて事を思いつつ部屋まで着替えを取りにいき、一応岬に断ってから風呂場に向かい服を脱ぐ。湯船に入る前に身体を洗い、泡を流し、湯に浸かると、全身の緊張が湯に溶けていくような感じがした。
……まあ、シャワーで済ますより、湯船にきちんと浸かった方が気持ちがいいのは確かだろうけど。でも、働いていると、そういう気も失せるんだよな。風呂掃除も面倒臭いし、湯を溜めるのももったいないし、湯船にゆっくり使っている気持ちと時間の余裕がないし。
そういう事をするぐらいならもうとにかく眠りたくって、でも眠る余裕なんてこれっぽっちも存在しなくて、やりたい事はいっぱいあってもそんな余裕は微塵もなくて。散らかった部屋。電気をつける気力もない。起きたらシャワー浴びるって疲れた自分に約束して、着替えもせずに布団に入って、起きてからやらなきゃいけない事の多さに愕然として、掃除も食事も洗濯もほとんどろくに出来なくて……ゴミだらけの部屋に転がっていると、自分がゴミのような気がしてきて、そもそも俺はちゃんと「人間」だった事があったろうかとそんな気分になってきて。
きっとここで俺が死んでも、誰にも気付かれないで腐っていくだけなんだろうな。多分今風邪を引いたら、誰にも看病されないまま死んでいくだけなんだろうな。毎日毎日叱られて、毎日毎日怒鳴られて、役立たずで、迷惑で、いてもいなくてもいいどころか、いない方がいいのにって舌打ちされるような毎日で。俺、何のために生きてるんだろう。何で生きてなきゃいけないんだろう。こんな毎日なら、こんな自分なら、いっそ死んでしまった方が
「透也、起きてる?」
聞こえてきた音に、俺はハッと意識を戻した。何か、眠い。しかし次に聞こえてきた言葉に完全に目を覚まされた。
「透也? 返事しないなら開けちゃうよ?」
「お、起きてる! 大丈夫! 大丈夫だから!」
実は一瞬寝かけていたのだが……あ、危ない危ない。あやうく戸を開けられる所だった。……いや、男同士なのだから、別に見られても……いややっぱり嫌だ。
「本当、俺、こんな所で一体何やってるんだ……」
改めてそう思ったが、とりあえず風呂に入りながらそんな事を思ったって始まらない。もう十分温まった。むしろのぼせる寸前だ。湯船から出て、頭を洗い、最後にもう一度温まり直してから浴室を出る。タオルで水分を拭いてジャージを着て、居間に戻ると岬がいた。
「上がった……」
「じゃあ僕も入ってこようかな。お腹空いたならご飯にするけど」
「いや、まだでいい……でも、それ食べてていいかな」
俺はちゃぶ台の上にあるドライフルーツの袋を指した。食事にするにはまだ早いが、何か食べたい気分ではある。夕食前に何か食べるなんて失礼かもしれないが……
「どうぞどうぞ。お口に合ってくれると嬉しいな」
岬はそう言い残して、自分の部屋へと上がっていった。テレビではニュースをやっていた。見る理由はなかったが、消す理由もないから、つけっぱなしでドライフルーツの袋を開ける。パイナップルのドライフルーツなど食べた事はなかったが……いや、ドライフルーツ自体、そもそも食べた事はなかったが……食べてみるとサクサクとした食感で、パイナップルジャムをちょうどいい甘さにしたような濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。おいしい……コンビニにはよく行ったけど、こういうの、買ってみようと思った事はなかったな。そもそも存在さえ知らなかったが。こういうの、あるんだな……世の中知らない事ばっかりだ。
「次のニュースです。昨日、老人ホームで職員が入居者を虐待しているという事実が判明し、介護士の」
「あ、透也ごめん。ちょっとチャンネル変えていいかな?」
突然、岬の黒い腕が伸びてきた。びっくりした。いつの間に戻っていたんだこいつは。
「あ、ああ、うん」
「ありがとう。それじゃ」
そして岬は出て行った。風呂場に向かって。……あれ? 今から風呂に入るのに、なんでチャンネル変えたんだ? 風呂場で居間にあるテレビが見られるはずもないって言うのに。……まあ、別にいいけれど。
『人間なんてものはみんな、自分の事ばかり考えている。そんなものだよ、人間なんて』
『だったら、人の分まで自分が優しくなればいい。それが出来るのも人間だろう』
テレビから、やけに耳通りのいい渋い声が聞こえてきた。顔を上げると妙なヘルメットと妙な服を着た二人の男が……これ、特撮とかいうヤツか……な? 見た事がないからよく分からないが。妙に古い感じで、何処か芝居掛かっていたけれど、それが妙に味のある感じで……
「すいません、岬さんいますか?」
戸口から声がした気がして、俺は急いで立ち上がった。店に降りるとやはり人の声と、ガラスを叩く音が聞こえてくる。
「岬さん、すいません、いますか」
「ま、待ってくれ、今開けるから……」
言い掛けて一瞬、勝手に開けていいのか躊躇したが、別に構いはしないだろう。どうも岬の知り合いのようだし、本を貸すぐらいの事は俺にだって出来るはずだ。
「お待たせしました。どうぞ……って、君……」
「えっと……透也さん……でしたっけ?」
なんで疑問形なんだよ。一瞬むっとしそうになったが、よくよく考えれば一度挨拶してちょっと一緒に鍋を食べて、俺が寝に行ったからすぐに別れて……その程度の関係だ。それは疑問形にもなるだろう。
「ああ……彼方君……だったよな。今、岬風呂に入ってるんだ。本借りたいなら見て行けば……」
「いえ、岬さんに用があるんですが……」
……うん? なんで? 君達昨日知り合ったばかりだろう? なんでいつの間にそんな関係になってんだ? いや、関係って、一体どういう関係だよってツッコミたくなるけれど、昨日の今日で「岬に用がある」って……一体どうしてそうなるんだ?
「あ……あー……とりあえず、中入ったら? その内上がってくると思うし……いつになるか分からないけど……」
「それじゃあ、お邪魔します……」
彼方君は中に入り、靴を脱いで居間へと上がった。背中にリュックサックを背負って。これは……また、塾の途中か? いや、塾をサボってここに来たのか? 岬は「必要があるのか」みたいな事を言ってたけれど……いや、やっぱり良くない事だよな。塾をサボってこんな所にいるなんて。だってそれ、塾に行っているって嘘を吐いてるって事だろう? 塾に行きたくない気持ちは分からないでもないけれど、だからって嘘を吐くというのは……
「特撮、好きなんですか?」
居間から聞こえてきた声に、俺は慌てて部屋に上がった。そうだ、テレビのチャンネルを特撮に合わせたままだった!
「ち、違う! それは岬がチャンネルを変えただけで……」
「今、お風呂に入ってるんですよね?」
「そ、そうだけど……その、見る物ないからそのままにしてあるだけっていうか……」
いやいや、どういう受け答えの仕方だよ! もっと気の利いた事言えないのか! コミュ障か! と、自分で自分に突っ込んだ所でさらに突っ込まざるを得なかった。高校生相手にビクビクしているのがコミュ障でなくてなんだと言うのだ。ど、どうしよう。黙っているのも気まずいし……な、何か話題……高校生が好きそうな話題……
「彼方君って……マンガとか何読んでんだ……」
「……」
……おい、おい! 沈黙しないでくれ、頼むから! 悪かったよ、悪かったよ。今時の高校生と何話せばいいのかなんて分からなくて悪かったよ! でも仕方ないだろうが、今の高校生の間で何が流行っているかなんて知らないし、そもそも俺って高校生の時……あれ、高校生の時誰かと話した覚えあったっけ……
「マンガ……最近……読んでない……」
あまり思い出したくもない高校生時代に片足を突っ込みかけた所で、隣から少年の絞り出すような声が聞こえてきた。とても悲し気な声だった。もう何か辛くてたまらないと言わんばかりの声だった。
「昔は……友達に借りて……こっそり読んでいたけれど……母さんに見つかるとゴミ箱に捨てられるし……」
「あ……あー、あるよなあ……俺のうちもそうだった……」
「自分の分ならまだいいけれど、友達から借りたヤツをゴミ箱に捨てられる訳にはいかないだろう? だからその内借りなくなって、その友達とも違う学校に行ったから会わなくなって……」
「友達いただけいいじゃないか……俺なんて友達なんて一人も出来た覚えがないよ……」
「会いに行こうと思えば会いに行けるとは思うんだけど、そんな時間の余裕ないし……家から帰って、用意されてるおにぎり口の中に詰め込んで、十時まで塾に行って、帰ってから宿題やって、夜の二時に寝て、朝の六時に起きて、テストの時は睡眠時間が一、二時間で……」
「それでも成績上がんなくて、何処で遊んでるんだって詰め寄られて……いつも走って家に帰ってずっと勉強してるのに……」
「話弾んでいる所申し訳ないんだけれど、とりあえず座ったら二人とも」
突然聞こえた第三者の声に、俺と彼方君は慌ててそちらに視線を向けた。岬は俺達の視線の中台所へ向かい冷蔵庫の扉を開け、コップに豆乳と牛乳とリンゴジュースの中身を入れる。
「なんで豆乳と牛乳とリンゴジュース……」
「おいしいから。それにリンゴジュースと牛乳って胃の中の嫌な臭いを消す作用があるんだって。まあそれが目的ってワケじゃなくて単純においしいからなんだけど、餃子食べた後のニンニク臭には効果テキメンっていう話が……っと、彼方君いらっしゃい。今日は一体どうしたの?」
「あの、またゲームしてもいい?」
即答だった。いや、用事ってゲームやらせてかよ! っていうかいよいよダメじゃねえか! 塾サボって二日連続でゲームなんて!
「いいよ」
「お前も即答かよ!」
「え? 別にいいじゃない。少なくとも僕は困らないよ」
「確かにお前は困らないかもしれないけれど……」
「あ、彼方君、ご飯は?」
「おにぎり二つは食べたけど……」
「じゃあまだお腹は空いてないかな。お腹空いたら何か出すよ。一応今日はカレーだけど」
「カレー!」
「おい、岬! ……っと、えーっと……」
どうしよう。彼方君を帰した方がいいんじゃないかと思うんだけど、直接聞かせるのは気が引けるな……聞かせないようにするにはどうすれば……、……
「と、とりあえず、ゲーム機セットしてやったらどうだ? 俺じゃ、その……分からないから……」
「あ、そうだね。彼方君ちょっと待っててね。その間ソフトでも選んでてよ」
「昨日のやる」
「オッケー。じゃあちょっと待っててね」
岬が手際良くゲームを準備し、右端にあるボタンを押した。しかしゲーム機って……無駄にでかいな……もっと小さく出来ないのか……
「パソコンやプログラムのエキスパートが頑張りに頑張りを重ねた結果がこれなんだよ。むしろこのサイズに収めた事とクオリティーの高さに僕らゲームユーザーは感謝して敬服して平伏するべきだと思うけど」
「なん……でそんなどうでもいい事は分かるんだよ! ……じゃなくて、ちょっと来てくれ!」
俺は彼方君に注意を払いつつ、岬を廊下に引っ張り込んだ。きょとんとした風を見せる岬に俺は指を突き付ける。
「えっと透也、君、何か怒ってる?」
「別に怒ってる訳じゃないけれど! 塾が必要かどうかはこの際いい! でも嘘を吐いているのは良くないだろう!」
「別に僕は塾が不要だと言ったつもりはないんだけどね。まあそこは僕の伝え方が悪いんだろう。申し訳ない。でもまあ確かに、嘘を吐いているのは良くないね。でもさあ、正直に言った所で、彼方君の親御さんは聞いてくれる状態なのかな?」
「そ、それは分からないけど……でも、嘘は良くないだろう?」
「確かに嘘は良くないけどね……よし、分からないから聞いてみよう。彼方君、ちょっと聞いても大丈夫かな」
と、岬はあっさり居間へと出ていった。彼方君は動きを止める。
「な、何……」
「ああ、いいよ。別にゲームを止めろって言いたいワケじゃない。言いたくないなら答えなくていいけれど、ここに来る事を親御さんには言ったのかな?」
「言ってない……」
「どうして?」
「怒られるし……」
「どうやって?」
「『何を馬鹿な事言ってんだ』って。このままの成績じゃ何処の大学にも行けないのに、勉強サボりたいなんて一体何を言ってるんだって。お父さんがいればそこまで怒鳴る事はないだろうって止めてくれる事もあるけれど、そうやってあなたが甘やかしているからこの子が怠けるんじゃないかって……」
「それは怖いお母さんだね」
「岬……お前本当失礼だな……」
「だって僕ならそんなお母さんは絶対嫌だよ」
「……」
「別に塾を辞めたいって言ってる訳じゃないんだ。週に一回ぐらい、月に一回ぐらい、休ませて欲しいだけなんだ。一日一時間ぐらい自由にさせて欲しいだけなんだ。勉強が必要っていうのは分かっているし、嫌いな訳じゃないけれど、ずっとやっているのは疲れるし……ちょっとぐらいは遊びたいよ。小学校でも中学校でもずっとずうっと塾ばっかりで、おかげで進学校に入れたって言えばそうだけど、帝大だって絶対に行きたいって訳じゃないし……」
「帝台目指してるのか、すごいな」
「そこに行けって言われてるだけだよ……将来は医者や弁護士って言われてるけど、あんまりピンと来ないし……別にやりたい事がある訳じゃないから、どうでもいいと言えばどうでもいいけど……」
「いやいや、医者や弁護士は大変だよ? どっちも大学で勉強して国家試験に受かって免許取って就職が決まってもずっとずっとずっとずっとずうっと勉強しなくちゃいけない職業だ。医療技術も法律も日々変わっていくものだからね。元々の基礎知識も大量だし、それに新しい事を日々積み重ねていかなきゃいけないから並大抵の努力じゃない。日本だけじゃなく海外の知識も取り入れなくちゃいけないし。だからこそなるのも難しくて給料だって高いんだけど。でもそんなに実入りある職業かって言われたら僕は甚だ疑問だな。医者は数が少ないって言うし、一人に掛かる負担も半端ないし、何か問題が起きた時訴訟される率も滅茶苦茶高いし……弁護士は逆に数が多過ぎて就職難だって話を聞いたな。よしんば働き口が見つかったとしても腕が良くなくちゃ仕事は入ってきやしない。それに担当する事件によってはさ、浮気だDVだ性格の不一致だなんていう人間の汚さドロッドロの離婚裁判を延々見させられる事だって……」
「お前どうしてそんな聞いてるだけで嫌になるような事ばかり言ってくるんだよ! 見ろよお通夜みたいな顔してるじゃないか! 言うならもっと医者や弁護士を目指したくなるような夢のある事を語ってくれよ!」
「いやいや、そんな甘ったるいだけの、現実を完全に度外視している夢なんて見ていい事なんて一つもないよ? むしろ医者や弁護士なんて過酷な職業を目指すのなら現実は知っておいた方がいい。だって医者や弁護士になるってすごくお金が掛かるんだよ? 時間も掛かる、労力も掛かる、無論人生も賭けなきゃいけない。そんなたくさん色々な事を掛けて賭けて懸けまくって、いざ『夢が叶った』時に『こんなつもりじゃなかった』、なんて事になったら一体どうなる? お金と時間と労力と人生をドブに捨てるようなものじゃないか。もちろん何も得る物がないなんてそんな事は言わないけれど、そんな事になるぐらいならそういう現実を知って、それでもやる『覚悟』があるのか自分に問うた方がいいんじゃない?」
「そ、それは……」
「それに、医者も弁護士も、まあどんな職業もそうだけど、『人間を育てる』っていうのはものすごく色々掛かるんだ。親や教育者や社会や地域や国や世界だって負担する。それなのにいざ現実に直面してそれを諦めるっていう事はさ、そういうたくさんの負担を一瞬でダメにするって事だろう? よしんば医者や弁護士で在り続ける事を選んだとしても、『いい医者や弁護士で在ろうとする』事とイコールにはなり得ない。いい医者やいい弁護士の条件はまあ色々あるだろうけど、とりあえず要因の一つとして『日々学習し自分自身を研磨する』っていうのはあると思う。それが出来ないようじゃいい医者や弁護士にはなれないし、それをするのは並大抵でない努力と根性が必要だ。そういう色々な事を『覚悟』出来ない人間に医者や弁護士を勧めた所で、いい医者や弁護士になれるとは僕には到底思えない。ましてや自分でそれになりたいと目指している訳でもないのに、他人に押し付けられて押し着せられて押し通されるだけなんて……まあそれで上手くいく場合もあるだろうけど、少なくとも僕は『いい事』だとは思えないな。
とは言ってもまあ、結局は彼方君自身がどう思うかなんだけどね」
そう言って、岬はにこりと目を細めた。言いたい事は分からないではない。分からないではないけれど。
「お前、とりあえず、自分の親を『他人』っていうのはないだろう……」
「『自分じゃない他の人』、略して『他人』だろ?」
「……」
「まあ他人と言っても親にとっての子供は『養育の義務のある他人』だし、子供にとっての親は『庇護を求めるべき他人』だからそういう関係性はあるけれど、でも『自分自身』という訳じゃない。分かり合えない、理解し合えない、同一ではない『赤の他人』だ。僕にとっての赤の他人が『自分の夢や希望を押し付けるべき相手ではない』ように、親にとっての子供も『自分の夢や希望を押し付けるべき相手ではない』、赤の他人だ。少なくとも僕はそう思う。
大体、自分の子供に医者や弁護士になれっていう親の心理って一体どういうものだろう。医者や弁護士が立派な職業だから? 働く人は皆立派だよ。道路を整備する人だって水道を直す人だって、いなくなったら僕らの生活が立ちいかなくなる立派な職業の一つだろう。収入が安定しているから? さっきも言ったけど医者や弁護士程大変で起伏が激しくてトラブルに巻き込まれやすい職業はない。やるのなら本当に身を粉にするぐらいの覚悟と根性が必要だ。幸せになるため? 人の幸せなんて自分で決めるものであって、赤の他人が勝手にどうこう決めつけるべきものじゃないだろう。社会に貢献させるため? そんなに貢献したいなら、自分が勉強して医者や弁護士になって貢献すればいいじゃないか。勉強なんていつでも出来る。七十歳八十歳になってから一流大学を目指して合格した人だっているじゃないか。どれも子供に夢や希望を押し付けていい理由にはなり得ない。夢や希望があるのなら自分で叶えればいいじゃないか」
「……」
「……と、また無意味で無価値で無駄な話で時間を潰してしまったね。ごめんごめん、彼方君、気にせずゲームをやってていいよ。もしお腹が空いたらカレーを出すから」
「うん」
「僕達は先にご飯にしようか。透也は朝も昼も食べてないから、結構お腹が空いてるだろう」
岬は、キッチンへと歩いていった。彼方君はゲームを再開した。岬の……言いたい事は分かる。考えている事はなんとなく分かる。けれど、「正しい」と、素直に頷けないものがある。
「岬」
「まあまあ、君の言いたい事は分かるよ。色々言ったけど別に僕が『正しい』なんて思っているワケじゃない。あくまで僕の考えだ。それに嘘を吐いているのはよろしくないね」
「だったら……」
「でも、『タイミングじゃない』からね」
「タイミング?」
「『果報は寝て待て』『機に乗じて事を為せ』『善く戦うものはこれを勢に求めて人に責めず』……とでも言うのかな? 時機ってあるんだよ、何事も。ま、もう少し様子を見ようよ」
岬は俺から視線を外してカレー鍋を混ぜ始めた。俺は眉間に皺を寄せた。ゲームをやっている彼方君の背中はとても楽しそうだった。
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