第2話:2

 その後の俺は(主に岬のせいで)朝の少年がどうなったのか丸一日気にしながら過ごすハメになったのだが、ありがたいと言うかなんと言うか、もやもやを夜まで持ち込まずに済ませられる事になった。少年の後に客は来ず、ほぼ開店休業状態で入口だけは開けておいて、途中で岬とスーパーまで買い物に行ったり、どんな本があるのか見たりして時間を潰していたのだが、完全に日が暮れて外が暗くなった所で、店の方からガラガラと扉の開く音が聞こえてきた。


「あ、朝の……」


「いらっしゃい。学校は終わったのかい?」


「う、うん……」


 少年は学生服姿ではなく、パーカーにジーパン姿だったが、確かに朝ここに来た少年の顔をしていた。何処かに行く途中なのか背中にリュックを背負っている。


「何か気になった本はあった?」


「いや……えっと……朝は時間がなくてよく見れなかったから……その……」


 何とも歯切れの悪い言い方だ。あまり視線も合わせないし……と思った所で、俺もこの少年と似たようなものだという事に気が付いた。俺も会社の上司と全然目が合わせられなくて、一体何処を見てるんだって毎日のように怒られていたっけ……


「そう。じゃあゆっくり見ていくといいよ。何か好きな本とかあるかな?」


「いや……別に……」


「そう。まあ好きに見ていていいよ。透也、一応店番頼んでいいかな。僕は夕食作ってるから」


「あ、ああ、分かった……」

 

 とりあえずカウンターに座ってみたが……何か、本を読むとかそういう気にはなれないな……多分、今朝の岬の言葉が気に掛かり過ぎているからだろう。「もしかしたら自殺するかも」、なんて言われて気にしない奴はいないだろう。俺は一応、岬お勧めの廃墟写真集を手元に開いて、それとなく少年の様子を観察した。いや、観察したというか、気になってどうしてもちらちらと見てしまうというか……少年は本棚に視線を向け、戸口の方に首を向け、また本棚に視線を戻し、そしてまた入口の方へと……


「誰か来るのか?」


 少年は驚いた顔でこちらを見た。俺も自分の言葉に驚いた。どうすればいいのか分からなくなって視線をあちこちに彷徨わせる。


「ご、ごめん、そうじゃなくて……わ、悪い、君に言った訳じゃ……」


 この子に言ったんじゃなければ一体誰に言ったんだよ! 幽霊か? そんなもの見た事ないわ! 困り果てて居間の方に視線を向けると、まるでタイミングを図ったように岬がそこに立っていた。


「あー、なるほど。塾に行くのが嫌だったのか」


「……え?」


「え?」


「まあそういう日もあるよね。たまにだったらいいんじゃないの? ゆっくりしていきなよ。ところでお腹空いてない?」


 岬はそう言って首を傾げた。塾に行くのが嫌って……「困っている事が分かった」、のか? 少年の方を見ると、少年は明らかに困惑しているようだった。


「なんで……」


「あーっと……うん、勘? そのリュックの中に入ってるのって塾の勉強道具でしょ? 僕は塾に行った事はないから詳しい事は知らないけれど、最近の子供は大変だよね。学校終わっても宿題に塾にって勉強しなくちゃいけないんだから。子供は勉強するのが仕事だなんて言うけれど、だとしたら労働基準法を破っているんじゃないのかな? 勉強なんて必要ないと言うつもりはないけれど、学校終わってからまで強制する必要はないんじゃないかと思うんだけど……で、ところで、お腹空いてない?」


 岬は再びそう言った。俺は少年へと視線を移した。少年は困ったような顔で岬の事を見つめている。


「い、家に帰れば……母さんが食事を用意してくれているから……」


「帰るの何時?」


「十時過ぎ……」


「うわ遅い! まるでサービス残業しているサラリーマンみたいじゃないか! 肥満予防を考えるなら食事は遅くても夜八時までには終わらせている方がいいんだけどな……良かったら食べていかないかい? お鍋だけど。テレビも見れるよ」


 いや、いやいや、なんだ、その田舎のドキュメンタリーにでも出てきそうな唐突過ぎる台詞の羅列は!? 「何があったとしても自分には関係ない」、なんて薄情者の言うような台詞じゃないだろう! 分からない……一貫性がないにも程がある……一体こいつはどういうスタンスで生きているのかさえ分からない。


 だが、少年の顔を見ると、その訳の分からない男の言葉に揺れ動いているように見えた。心が見える能力など俺は持ってはいないけれど、「鍋……テレビ……」という少年の心の声が今すぐにも聞こえてきそうだ。


「どうせ行く所ないんだろ? 友達の家に遊びに来たとでも思ってさ、ゆっくりしていってもいいんじゃないの?」




 

「はいお待たせ~。今日のお鍋は寄せ鍋で~す」


 岬はそんな言葉と共に、俺達の目の前のちゃぶ台に大きな土鍋をごとりと置いた。改めて……今更だけど、一体どういう状況だ、これは。よく知らない赤の他人が三人集まって鍋を囲んでいる。一体どうしてこういう状況になっているのか分からない。


「まあまあ透也、そんな事で悩むなって。合コンとかお見合いパーティーとかでもよく知らない赤の他人で集まって食事したりするじゃあないか」


「だから! 俺の考えを読むんじゃねえよ!」


「あ、ところで、テレビ何見たい? その前に君の名前は? 僕は曾根崎岬って言うんだけれど」


 鍋を……出す前に……聞けよ……先に聞くべき事じゃないのか、それは。マイペースと言えばそうなのかもしれないが、一貫性が無さ過ぎて方向性が全く掴めない。


「日橋……彼方……」


「彼方君。いい名前だね。ほら、透也も自己紹介」


「あ……ええと……篠宮透也だ……」


「じゃあ自己紹介も終わった所で、お鍋にしようか。それでテレビは何が見たい?」


 怒涛である。息をつく暇もありはしない。


「い、いや……特には」


「透也は?」


「俺も別に……」


「控えめだなあ。遠慮なんてしなくていいのに。だったら僕が選んじゃうよ」


 遠慮というわけじゃなくて……テレビなんて見る時間もなかったから、何を見ればいいのか分からないだけだ。岬はリモコンを手にすると、電源を入れ、そのまま番組表を画面に出した。横並びになっている文字の羅列を眺めながら、岬は眉間に皺を寄せる。


「なんかさあ……日本一頭のいい人決定戦! みたいな番組があるけどさ、こういう番組を見ていると『この国の親や教師や上司や政治家やコメンテーターは日本一頭のいい人がやっているワケじゃないんだな』、なんて事を考えちゃうよね」


 吹いた。無論面白かった訳ではない、発言があまりにもとんでも無さ過ぎたからだ。


「お、お前なんつー事を!」


「え? だってそういう事じゃない? 彼方君はどう思う?」


「え……えっと……俺は……」


 言える訳……ないだろう……。自分の親や教師や上司や政治家が、その……えっと……いやいや、言える訳がない。あまりにも不謹慎で失礼過ぎる。


「お前なあ、こういうのはあれだ、その……あるだろ、本の煽り文みたいな。別にそういう意図があってそういう見出しにしている訳じゃ……」


「裸の王様って知ってる?」


「……裸の王様?」


「絵本だよ。昔々ある所にとてもおしゃれな王様がいました。ある日詐欺師が王様の元を訪れて『これは馬鹿には見えない服です』と、実は服なんて持っていないのにそう言って存在しない服を売り付けました。自分が馬鹿だと思われたくない王様は『素晴らしい服だ』と言いました。同じく馬鹿だと思われたくない臣下達も『素晴らしい服だ』と言いました。王様は存在しない服を着てパレードを行い、それを見た国民達も『素晴らしい服だ』と言いました。そんな中子供が言いました。『服なんて着てないよ。王様は裸だよ』。それを聞いた大人達は言いました。『子供は正直だ。嘘は言わない。やっぱり王様は裸なんだ』。間違っていると思ったら、他の誰が何と言おうとそれが間違いだという勇気。きっと今のこの国の人間は、そんな勇気を『そんな事を言ってはいけません』なんて言ってなかった事にするんだろうね」


「……」

 

 沈黙した。岬の言葉に賛成したからではない。だからと言って反対した訳でもない。「そんな事言うなよ」。そんな風に思った。そんな事言うなよ。そんな風に言われたって……


「所で彼方君、君はゲームは好きかい?」


 唐突に、俺の思考は遮られた。俺は俯いていた顔を上げた。全身黒まみれの男は首を傾げて、塾をサボった中学生を覗き込むように眺めている。


「え、ゲーム……好きだけど……」


「そう? だったら一緒にやらない? 急いで食べる必要はないけれど、夕飯が終わったら一緒にゲームでもしないかい?」


「え!? い、いいの?」


「おい、ちょっと……岬!」


「どうしたの透也、何か見たい番組でもある?」


「い、いや、俺は別に……って、そうじゃなくて!」


 俺は岬を引っ張って、廊下の方へと引きずっていった。さすがに彼方君に直接聞かせるのは気が引ける。俺は岬の耳に口を寄せた。


「あの子、塾をサボってここにいるんだろう? その上ゲームまでやらせるなんて……」


「何かいけないの?」


「え?」


「塾をサボってゲームやって、それの何がいけないの?」


「何がって……塾をサボっちゃいけないだろう。その上ゲームまでなんて……」


「え? 塾をサボってゲームをやっちゃいけないって法律でもあるの? もしそうなら僕の勉強不足だからぜひ教えて欲しいんだけど」


「そ、そういう事を言っているんじゃなくて!」


「親や塾の先生に怒られる?」

 

 どきっとした。何か、喉の奥に出来たしこりを指で触られたような感じがした。岬は、何かを見透かしたような瞳で俺の事を見つめている。


「それはまあ見つかったら怒られるかもしれないけどさ、でもさあ、そんなにいけない事なのかな。まあ彼方君の事情全部知っているワケじゃないから一概にどうこう言えないけれど、少なくとも学校は行っているようだし、学校が終わって自由になってその時間でゲームする、それってそんなにいけない事?」


「で、でも、塾をサボって……その時間で遊ぶのは……よくないだろう……」


「だから、なんで?」


「……」


「なんで?」


 答え、られなかった。岬の言い分に納得した訳じゃない。けれど、いざ「なんで」と尋ねられてしまうと、なんでなのか分からない。


「うーん、まあ、ここで言ってても押し問答だ。直接聞いてみよう。彼方君、君はなんで塾に行ってるの?」


 岬は俺の横をすり抜け、あっさり居間へと戻ってしまった。彼方君は正座をして怯えたように肩を揺らした。


「え……」


「あ、ごめんごめん。ご飯食べながらでいいからね。どうして塾に行ってるの? 言いたくないなら別に答えなくていいけれど」


「ど、どうしてって……母さんが行けっていったから……」


「なんで?」


「そうしないと勉強追い付けないからって……」


「勉強追い付けないと問題なの?」


「岬! お前、一体何が言いたいんだよ。勉強追い付けないと問題なのかって、そんなの当たり前に決まってるだろうが!」


「だから、なんで? 勉強追い付けなくて一体どんな問題が起きるの?」


「えっと……社会に出た時困る……」


「春は曙」


 岬は、突然そんな事を言った。驚いて岬を見ると、岬は黒い瞳を宙に向けたまま呟き続ける。


「春は曙。やうやう白くなりゆく山際、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、蛍飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。……これ、社会に出た時知らないと困る?」


 岬はそう尋ねた後、虫を払うように右手を振った。左手で頬杖をしてふうと息を吐いてみせる。


「いや別に、知っておいて損だとは思わないし、枕草子は名作だよ? 知っておいて損はない。でもさ、知っていないと困るかと問われれば首を傾げざるを得ないし、もっと他の事に時間を回してもいいと思う。少なくとも、学校から帰ってきて遊ぶ暇もなく勉強する必要があるとは僕には到底思えない」


「……」


「一応言っておくけれど、勉強が必要ない、なんて言うつもりはないんだよ? 勉強は必要だ。出来るなら出来た方がいいし、出来るならしておいた方がいい。

 

 でもさ、そもそもの話、今勉強している内容って一体何のためにするものなのかな? 勉強する事は必要だけど、勉強する内容は本当に必要なものなのかな? ありおりはべりいまそかりなんて誰もが使うものなのかな。円周率を3.14と仮定して一体何の役に立つのかな。鎌倉幕府の成立年が変更されてしまったけれど、そもそも1192年に出来た事なんて覚える必要があったのかな。覚えるべきは鎌倉幕府がいつ出来たかどうかじゃなくて、貴族の代わりに武士が台頭して平氏と源氏の間で戦が起こって平氏が覇権を握り富と栄華を独占し、民や貴族に反発を喰らい挙兵した源頼朝に滅ぼされ壇ノ浦で泡となって消えた……その『人間の歴史』じゃないのかな」


「……」


「重ねて言うけど、勉強する事は必要だ。でも今現在の教育内容が本当に必要な事だけを教えているかは疑問が残るし、別に教科書に出ている事『だけ』が必要という訳でもないだろう。教科書やテスト以外のものに触れる機会を奪ってまで、教科書やテストだけに固執させる必要があるとは僕には到底思えない。ゲームだってアニメだってマンガだってドラマだって、映画だって遊園地だって海や山やお祭りだって学べる事はいっぱいあるよ。アニメやマンガで日本語を覚えたっていい。ゲームや映画で英語を覚えたっていい。ドラマで医療や法律に興味を持ったっていいだろうし、山や海で自然について思いを馳せ、お祭りで伝統や地域住民との交流を学んだっていいじゃないか。教科書やテストなんていう、この国で一番頭がいい人が作った訳でもない限定的なものに無理矢理縛り付ける必要が何処にある。


 それに」


 そこで岬は、ハッと口を閉じ、時計を見た。それから彼方君を見た。そして目をにこりと細める。


「……と、ごめんごめん。僕みたいな無能で無才の凡人の無意味で無価値な無駄話に、勉強に疲れる学生の貴重な時間を費やさせたらいけないね。ゲームをしよう。君が気になるものをやっていいから」


「お、おい、岬……」


「まあとりあえず、息抜きは必要だよ。子供にだって息抜きってヤツは必要だ。子供に息抜きは必要ない、学校から帰ってきてもずっと勉強するべきだと言うのなら、大人だって何の楽しみもなく過労死するまで働くべきだと思わない?」


 岬はテレビの前に膝をつき、黒い機械を取り出した。例えるならノートパソコンに近しいが、開く所が見当たらない。彼方君は空になった食器を持ってそわそわしている。


「いいよ、そこに置いておいて。よし、準備出来た。使い方は分かるよね」


「うん」


「じゃあ、好きなのやってていいよ」


 岬はそしてちゃぶ台に戻り、再び鍋を食べ始めた。俺は……俺も、まだ食事は途中だったけれど、食欲は完全に失せてしまった。


 勉強なんて必要ないって……いや、岬は、完全に必要ないなんて言ってる訳ではないだろう。必要なものもあるけど必要でないものもある。無理をしてまでやるようなものじゃない、そんな事を言いたいんだとは思うんだ。


 でも、そんな風に言われたって、今更どうしようもないじゃないか。そんな風に言われたら、一体俺は今まで何のために頑張ってきたっていうんだろう。


「透也、どうしたの?」


「……寝る」


「ご飯は?」


「……もう……いい……」


「そう? 歯磨きはちゃんとしておきなよ」


 する気が……ない……とも言えず、俺は黙って洗面所へと歩いていった。顔を上げる気力もなかったが、さすがに歯磨きをしないまま寝るというのは気持ちが悪い。


 かなり乱暴に歯を磨き、沈んだ気分のまま階段を上がり、……一瞬だけ、夢中でゲームをしている彼方君が見えた……俺は与えられた部屋に入って、ベッドに上がり、布団を被った。もう寝たくてたまらないのに全く睡魔が襲ってこない。


 ……そんな事を言わないでくれ。必要ないなんて言わないでくれ。今更、だって、それじゃあ、俺は、何のために必死になって。


 鼻が痛くて、いつの間にか泣いていて、俺は抱き締めるように毛布を握って顔を埋めた。情けなかった。全部情けなかった。こんな自分にしかなれなかった事が嫌で嫌でたまらなかった。

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