第2話
第2話:1
目を覚ますと、部屋の中はまだ少し薄暗かった。手を伸ばして枕元に置いてある携帯を探したが、馴染んだ薄っぺらい機械の感触が手に触れる事はない。あれ? と思った所で、視界に入る掛け物も何か違う事に気が付いた。俺、布団一枚だけだよな? 毛布まで持ってなかったよな。わずかに頭を上げ、ふと視界に入った壁時計に視線を向ければ、六時。ろ、六時!? やばい、遅刻だ、遅くても四時に起きないと会社に間に合わないって言うのに! 俺は布団と毛布を蹴り飛ばし、扉を開けよう、とした所で、ここが自分の部屋ではない事をようやく思い出して足を止めた。片付けもままならず散らかりまくった部屋ではなく、布団と、毛布と、ベッドと、壁時計と、本棚と……とりあえず、足の踏み場のちゃんとある、古いけれど「まともな」部屋だ。俺は額に浮いていた汗を拭い、とりあえずトイレに行こうと思った。目は覚めてしまったし、もう一度寝直す気にはなれなかったが、何でもいいから気分転換になる事がしたかった。
扉を開け、なるべく足音を立てないよう注意しながら廊下を歩く。階段も同じように足音に注意して降りて行き、玄関とは反対方向にあるトイレへと足を向ける。用を足してトイレから出て向かって右側にある洗面台で両手を洗い、再び階段に向かった……所で、居間と店の境目に黒い人影が座っている事に気が付いた。
「う、うわあああああッ!?」
「あ、透也おはよう」
黒い影法師は……全身真っ黒な服装の黒髪黒目の変人は、何事もないように顔を向け何事もないように片手を上げた。その悪意のない態度に、しかし驚かされた身としてはそうも言ってはいられない。
「み、岬! お前そんな所で何してたんだよ! 電気もつけないで!」
「え、もう電気をつけなくてもよくない? 結構明るいと思うんだけど」
「俺の心臓に悪い……」
「あ、そう、ごめんごめん。でもまあそんなに心配するなって。もし君の心臓が止まったら119番した上で心臓マッサージと人工呼吸をしてやるからさ」
そう言われ、岬に人工呼吸される様を思い浮かべかけ、俺はブンブンと首を横に振った。いや、人工呼吸は人工呼吸でしかないのだけれど、出来れば御免被りたいし、気にするべきはそこではない。
「いやいやいや、俺の心臓が止まる前提で話をするな! そうならないよう努力をしろよ! ……っていうか、お前結構朝早いんだな。貸本屋ってそんなに早くからやるものなのか?」
「いや、完全に僕の気分。朝早く開ける事もあれば夜遅くに開ける事もあるし、全く開けない事もある」
「……それ、商売としてどうなんだ」
「時間を決めて定期的に開けておかなきゃいけない仕事だったらそりゃあ問題だと思うよ? 役所とか警察とか病院とか、その他色々。でも僕の仕事なんて、開けても開けていなくても誰も困るようなものじゃないからね。開けていてもお客が来ない時もあるし、逆に三十分しか開けてないのにお客が来るって時もある。一応ネット予約も承っているからどうしてもこの時間に、って時は要望にお応えしてるしね」
「そ、そんな事もしてるのか……」
とは、一応返したものの、本当どういう商売なんだろう……と首を傾げざるを得なかった。いや、貸本屋というこいつの商売体勢もだが、こいつ自身も、一体どういう人間なんだろう……と首を傾げざるを得なかった。一見すると非常にいい加減なのだが、その実何かがあるように見えて、やっぱりいい加減な様にも見えて……俺は店に降り、乱雑ではない、しかし「無理矢理詰め込んだ」という感の否めない本棚の中身に視線を向けた。入口にカーテンが掛かっているのでうっすらとしか見えないが、折り紙の本に、偉人伝に、デッサン指南に、キノコ図鑑……厚さも高さもジャンルもバラバラの本が木製の本棚に詰め込まれているだけである。
「本当、一体どういう基準で選んでるんだ……」
「前も言ったけど適当だよ。僕が『これいいなあ』と思った本を適当に買って適当に並べているって感じだよ」
「にしたって、統一感無さ過ぎだろう……正直目についた本を適当に入れてるだけって感じもするぞ」
「いや、それは違うよ。一応『三方よし』の基準に沿って選んではいる。とは言っても最終的にはやっぱり僕の基準だけどね」
「何だ? 三方よしって」
「江戸時代の近江商人、中村治兵衛が掲げた商売をする時の心得だよ。『買い手よし』『売り手よし』『世間よし』、この三つのよしで『三方よし』だ。とは言っても僕もネットで知った程度だからそこまで詳しい訳じゃないけれど、一応商売だからね。僕も参考にさせてもらおうと思って。それにいい言葉だからね」
岬は俺のいる所とは別の本棚ルートを通り、玄関の色褪せたカーテンを開けた。そして同じルートを通って居間のへりに腰掛ける。
「まあ別に、僕みたいな無能で無才の凡人が人や世間に貢献出来るなんておこがましい事を考えている訳ではないけれど、それでもこれはいい本じゃないな、と思う本は置いていない。例えば人を必要以上に罵倒するような文章の書いてある本。事実無根の罵詈雑言を繰り広げている場合はもちろんだし、例えその相手が何か悪事を働いた場合だとしても、汚い言葉で罵るような物を置きたいとは思わないな。まあ世間一般的には『悪い事をした人間に対しては罵詈雑言を並べ立てても構わない』、なんてルールになっているのかもしれないけれど、少なくとも僕は人に、特に子供に、『悪い事をした人間に対してはここぞとばかりに罵詈雑言を並べ立てても構わない』なんて事は言いたくない。だからそういう本は買わない。人に勧める事もしない」
岬はそう言うとふうと一つ息を吐いた。ここで煙草でも吸っていれば少し様になるかもしれない。何故だかそんな事を思った。
「とは言っても別に、そういう本をこの世から無くせ、なんて言うつもりは毛頭ないんだけどね。別に悪気があって書いている訳ではないだろうし、そういう本を好んで買う人もいるだろうし、それぐらい言わないと足りない場合もあるだろうし、それだけ言っても当人に伝わらない場合もあるだろうし。あくまで僕個人がそういう本を好まないというだけであって、つまり好き嫌いの問題なんだ。善悪や正悪の問題じゃあない。好悪の問題なんだ。僕は好まないけれど、そういう本を好む人もいるだろうから、別にそれ以上の事を言及するつもりは毛頭ないよ。
ただね、僕自身は勧めたくないんだ。例えそれが何か悪い事をした相手だろうと、必要以上に傷付けるような言葉を並べていい、なんて事は言いたくないし、そしてそういう聞くに堪えない罵詈雑言を誰かに覚えて欲しくもない。だってそういう言葉は、ふとした瞬間にその人の口から零れ落ちてしまうからだ。それに『悪い事をした人間に対してはここぞとばかりに罵詈雑言を並べ立てても構わない』と示す事は『自分が悪人だと判断した人間は徹底的に攻撃しても構わない』という事に繋がっていく場合もある。それがいじめや差別や迫害なんかに繋がっていく事だってある。だから、僕はそういう本は誰にも勧めたくはない」
岬は静かにそう言った。言いたい事は分からないでもない。分からないでもないけれど。
「でも、そうとは限らないんじゃないか? そういう本を読んだからって、いじめや差別に繋がっていく、なんて考えは飛躍し過ぎなんじゃないか」
「確かに『絶対に繋がる』とは言わないさ。でも『絶対に繋がらない』とは言い切れないし、むしろ僕は『繋がる可能性が高い』とさえ思っている。何故なら人間は『善悪の判断がつかない生き物』だからね。だって人間に善悪の区別がつくのなら、学校で廊下を走ってはいけませんとか、万引きをしてはいけませんとか、人を殺してはいけませんとか、そんな事を一々教える必要はないだろう? 人間に善悪の区別なんてつかないんだ。自分が正しいと信じた事をやるんじゃない、自分が正しいと信じた事しかやれないんだ。そんな不完全で不完璧で不確定な人間に、『悪い事をした人間に対してはここぞとばかりに罵詈雑言を並べ立てても構わない』なんて示したら、『自分が悪人だと判断した人間は徹底的に攻撃しても構わない』、という風になって当然だとさえ思っているよ」
「それは……随分な言いぐさなんじゃないか?」
「そうかもね。でも仕方がないよ。だって僕は人間ってヤツを『これっぽっちも信じてなんていないから』」
「……え?」
頭が重く、目の前が暗くなったような気がした所で、岬がその場に立ち上がった。そして何事もなかったように居間へと上がりキッチンへ向かう。
「まあまあ、こんな『どうでもいい』世間話は一旦中断しておいて、ご飯にしようか。今日は店を開けたい気分だから早めに準備しておきたいし。僕は用意をしているから、先に顔でも洗っておいでよ」
岬は、そう言った。本当に何事もないかのように。俺は黙って居間へと上がり、洗面所へと歩いていく。タオルを借りて顔を洗い、居間へと戻ると、岬が台所に立って何かをガシャガシャとかき混ぜていた。
「何作ってんだ?」
「フレンチトースト。そう言えば君の食の好みを聞いてなかったな。甘い物は大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫……」
「嫌いな物は?」
「いや、特には……」
「遠慮なく言いなよ。レパートリーはそんなにないけど、『友達』の期待に沿えるよう努力ぐらいはするからさ」
言いながらフライパンにバターを敷き、黄色い液体に浸した食パンを並べていく。これが、いわゆる料理男子というヤツか……感心すると同時に、酷い劣等感に苛まれる。俺なんてカップ麺しか作れないというのに……
「そんな事程度で困るなよ。料理ぐらい僕が教えてやるって。簡単な物程度でいいならね」
「ちょ、ちょっと待て。何で俺の考えてる事が分かるんだよ!」
「言ったじゃないか。僕は『困っている人間が分かる』んだって。とは言ってもこんなにしょっちゅう分かるなんて今までない事だったんだけどな……距離が近いからかな? それとも透也と僕の相性がいいのかな?」
岬は俺を振り返って少し目を細めてみせた。何か知らないがぞっとした。例えるなら昔駅前で見知らぬ男に壁に押し付けられて無理矢理顔を近付けられた時のような……
「え? 君そんな事された事があるの? 駄目だよ、そんな危ない人がいる所に行くなんて」
「止めろ! さっきから俺の考えを読むんじゃねえよ!」
「そうは言っても、分かっちゃうんだから仕方がないよ。さーて出来た。今日の朝ご飯はフレンチトーストと野菜スープとバナナとウインナーと……」
岬は皿にフレンチトーストを乗せちゃぶ台へと運んでいった。凄まじく軽く流されているが……何だろう、この非常に腑に落ちない感じは。気持ち悪いとまでは言わないが、さながら自分の生活を他人に監視されていると聞かされた時のような非常に嫌な感じがする。困っていると伝わって欲しい、と今まで思った事がない訳ではない。だが、実際こうも「分かっている」と言われると……いや、伝わって欲しくない事まで伝わっているというのは、非常に嫌な感じだ。知られたくない劣等感、分かられたくない嫌な思い出、そういうものまで伝わっているというのは、とても、嫌な感じだ。昨日はあまり深く考えていなかったが……
「それが『困っている事』だとしても、人に知られたくない事を知られるのはいい気がしないな……」
「透也、どうしたの? 早く座りなよ」
「あ、ああ、うん」
岬に促され、俺はとりあえず座布団に座った。一度ちゃぶ台に視線を落として、それからちらりと岬を見る。岬は「いただきます」と手を合わせてから野菜スープを一口啜った。
「食べないの?」
「あ、いや、頂きます」
岬にちらりと視線を向けられ、俺も慌てて箸を取る。とりあえずフレンチトーストに口を付けたが、やはりそれなりに普通においしい。
「口うるさいようで申し訳ないけど、一番先に食べるのは野菜かスープをお勧めするよ。糖質を一番最初に食べると血糖値が急に上がって肥満や食べ過ぎや生活習慣病に繋がるって話があるから。スープを飲んでお腹を満たして野菜を食べて食物繊維を取って、それから糖質やたんぱく質を摂る、というのがベストだそうだよ。まあ今現在の方針だからもしかしたら将来的に変わるかもしれないけれど……」
「きゅ、急になんだよ。そんな学校の先生みたいに……」
「いやあ、細かい事なんだけど、一応『三方よし』の原則に乗っ取って言っておこうかと思ってね。最近は子供や若い人にも生活習慣病が増えているし、生活習慣っていうのは日々の積み重ねがものを言うものだからね。例えば有名な糖尿病だけど、あれは進行すると細かい血管が詰まって失明したり腎臓の働きが止まったり手足が壊死する事もあるんだ。一度発症すると生涯治療をする必要があるし、それに伴って診療費や診療時間等色々なものが圧迫される事になる。そうなると診療時間に当てるために勤務時間や睡眠時間や趣味の時間が削られるとか、診療費に当てるために生活費や必要雑費や趣味のためのお金が削られるとか、そういう風に社会的な影響もたくさん出ると思うんだ。まあ最近だと企業とか地域ぐるみで健康促進を謳っているみたいだけれど、そういう事は子供の内から教育すべきだと思わない? 現在の学校教育が無駄だとまでは言わないけどさ、もっと人体の事とか病気の事とかそういう『人間』に関する事を教育してくれた方がありがたいと」
その時、店の入り口で「ガラリ」という音がした。岬のマシンガンのような『講義』による空耳かと思ったが、岬は食事の手を止めて店の方へと歩いていく。
「いらっしゃい。お客さん?」
「あ、あの、やってんの?」
少年の声だった。子供という程高くはない、しかし大人という程固くはない。こっそりと覗いてみると、やはり学生服を着た、中学生ぐらいの少年が所在なさげに立っていた。
「一応ね。お客さんなら大歓迎だよ。入って入って」
「え……いや、俺は別に……」
「学校までまだ時間あるんでしょ? どうせ時間潰しに覗いたんだ。時間潰しに五分十分見ていってもいいんじゃないの?」
岬の言葉に、少年は目を丸くした。それはそうだろう、初対面の人間にそんな風に言われたら。俺には少年の気持ちがよく分かった。
「ど、どうして……」
「あれ? 当たった? まあどうでもいいじゃないそんな事。ほらほら、時は金なりって言うじゃない。時間は有効に使おうぜ。何か気に入った本があったら借りてくれると嬉しいな」
岬は少年の疑問を軽く流し、少年の身体を本棚へと向き直らせた。少年は戸惑いつつも本棚に視線を彷徨わせ、そして眉間の皺を深くする。
「片付け集に、絵本に、原子図鑑に、子育て日誌……これ、一体何の本なんだ?」
「タイトルに書いてある通りだよ。まあ色々あるから、どうぞ好きな本を借りていきなよ」
少年は岬の言葉にさらに困惑したようだった。それはそうだ。俺には少年の困惑がよく分かった。だが、少年は口をへの字に曲げたまま、おとなしく本棚を見始める。
「岬、俺見てようか?」
俺はカウンターに移動した岬にこそりと耳打ちした。俺もそうだが、岬も食事の途中だ。しかし岬は目を細める。
「じゃあ、先にご飯食べて歯磨きしてくれるかな? 君の歯磨きが終わったら交代しよう。あ、急ぐ必要はないよ。ゆっくりでいいから。大体一口につき四十回の咀嚼が目安……」
「分かったよ。ゆっくり食うよ。分かったからその怒涛のうんちくは止めてくれ」
岬にそう釘を刺し、俺はちゃぶ台へと戻っていった。貸本屋というだけあって本ばっかり読んでるからあんなのがスラスラ出るのかな? あとは……多分お節介なのだろう。そうでなければ俺みたいなのを住まわせて食事まで出したりなんてしやしない。そんな感じには見えないんだけどなあ……岬の雰囲気はどちらかと言うと、あまり他人には興味がなさそうな風に感じられる。「人付き合いはほとんどしない」と自分でも言っていたぐらいだし、それから言葉の端々に……上手くは言えないが、そんな感じがする。大勢の人間とわいわい騒いでいるよりは、一人で窓の外でも眺めてぼーっとしている方がいいような……何故だかそんな感じがするのだ。とは言ってもそれはあくまで岬の外見というか、雰囲気というかの感じの話で、当たっているとは言い切れない。言動の方はそんな印象とは裏腹に、どちらかというとベタベタと馴れ馴れしいぐらいのものだし……
だが、それは人懐っこいというよりは、装っているというか、無理をしているというか、そうしようと努めて振る舞っているように見えるというか……何か、不自然な、不可思議な、ちぐはぐな印象を受けるのだ。上手く言えないし、失礼だし、俺に人を見る目があるとはとても思えないのだが……岬には何処か、言うなれば、孤独の臭いがする。そこがまた、岬の正体をよく分からなくさせていた。
……ま、正体なんて、それこそマンガやゲームじゃあるまいし。俺はとりあえず岬の忠告通り野菜スープをはじめに啜り、それからフレンチトーストを食べ、バナナを食べ、ウインナーを食べ、食器を片付けてから洗面台の方へと歩いていった。歯磨きをして戻ると、少年はいつの間にか丸椅子に座って宇宙図鑑を読んでいた。
「岬、代わるぞ」
「ありがとう。ゆっくり食べたかい?」
「出来る限りな。何か注意する事は?」
「うーん、別に? 君も適当に本でも読んでいるといいよ」
岬はそう言い残して居間の方へと上がっていった。その言葉こそ適当である。適当に本でもって言われてもなあ……パッチワークの本なんて一体何処で使うんだよ……俺は一応本棚に目を通してみたが、本の内容よりも高さや種類がバラバラな事が気になった。これは適当にこうしているのだろうか。それとも、一見バラバラなように見えて、これにも何か意味があるのだろうか。
「そう言えば……えっと、君……は、学校は大丈夫……なの? ここから君の学校まで……その、どれぐらいあるか分からない……けど……」
俺は少年に話し掛けようとして、あまりの声の出なさに愕然とした。おいおい、何をビビっているんだ。たかが中学生相手だろうが! 少年が俺の顔を見た。思わず肩が跳ねてしまった。しかし少年の瞳も、何故か分からないが怯えていた。
「あ……す、すいません、行きます! もう……」
「あ! ……いや、そういう意味じゃ……」
「えー。別にいいじゃない。サボっちゃえば?」
横から凄まじくいい加減な言葉が聞こえ、俺は驚いて視線を向けた。案の定そこには社会不適合者一歩手前の男がいい加減に立っていた。
「み、岬! お前は何を言ってるんだよ!」
「いえ! もう行かないと遅刻するし! その……ありがとうございました!」
「もし良かったらまた来なよ。気を付けてね」
居間に立つ岬の言葉を背に受けながら、少年は店から出て行った。居間に顔を向け直すと、ちゃぶ台に移動した岬がゆっくりのんびり手製のスープを飲んでいる。
「俺……何か悪い事言ったか……?」
「どうしてそう思うの?」
「いや……そう言えばあの子、何か困ったような顔してたなって……」
「さあねえ~」
「さあねえ……って……」
「だっていいか悪いかなんて僕なんかには分からないもの。あの子がご両親の払っている学費を無駄にしているとか言うのなら君の言葉は悪くはないし、あの子が学校でいじめられていて学校に行くぐらいなら自殺する覚悟だったとしたら、悪いって事になるんじゃないの?」
あまりにも不吉過ぎる言葉に、俺は身を翻して入口へと走っていった。薄汚れたガラス戸から顔を出しても少年の姿は見えなかった。
「ま、大丈夫だよ。困っていたのは確かだけれど、いじめられているとかそういうのではなさそうだったし」
「あ……そうか……お前にはそういうの分かるんだっけ……」
「いや、今回は僕の勘。だから間違っていたらごめんって感じ」
岬はさらりとそう言った。どう考えてもさらりと言うべきではない事を。
「おま……間違ってたらって……じさ……」
「まあまあ大丈夫だよ。多分だけど。それにそういう事って僕らが心配する事じゃあないだろう? 心配するべきも発見するべきも止めるべきも予防するべきも、あの少年の所属する家族や学校や地域や社会や政治や国の仕事であって、僕は無責任で無関係だ。ただの無能で無才の凡人のそこら辺にいる役立たず代表の僕みたいな一般人が、気にするような事じゃない」
「ごちそうさま」と両手を合わせ、岬は食器を流しへと運んでいった。なん……なんだろう、こいつは。どうしてそこまで冷たく突き放すような事が言えるんだ。そんな冷たい事を言うくせに、なんで俺なんて住まわせてんだ。分からない。分からない。曾根崎岬という人間が俺には全く分からない。
「まあまあ透也、どうしようもない事を気にするのは止めにして、とりあえず中に入りなよ。近所の人に何事かと思われるよ」
「お前……どうしてそう、なんでもないみたいに冷たい事を」
「大丈夫だよ。多分だけど。よく言うじゃない、何とかなるなるだいじょーぶ」
岬は一言そう言うと、俺に背を向け使った食器を洗い始めた。その姿が、言動が、有様が、曾根崎岬という男をより一層分からないものにさせていた。
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