第1話:2
「はあ、つまり君は、他人に迷惑を掛けながら生きている事が申し訳なくてたまらないと」
男はそう締めくくって水を一口飲んだ後、ハンバーグを箸で切り分けて暇潰しのように口へと運んだ。俺も勝手に同じものを注文されてしまったのだが、死のうとしていた人間に食欲などあるはずもない。
「真面目だねえ。そんな事気にする事はないだろうに」
「気にする事はあるだろう」
「ないよ、ないない。だって人間なんて他人に迷惑掛けて生きているようなものじゃないか。ファミレスでご飯食べるためには農家と酪農家と運送業者と卸屋と調理師とファミレスの店員に迷惑を掛けなきゃいけないし、電車で家に帰るためには電車を作る人と整備士と清掃会社と駅員と車掌とその他色んな人に迷惑を掛けなきゃいけないんだ。飲み水もそう、服もそう、トイレに行くのもお風呂に入るのも寝るのも起きるのも生きるも死ぬのも、全部誰かしらに何かしらの迷惑を掛けてはじめて成り立つものなんだ。他人に迷惑を掛けずに生きてるなんて言うヤツは、『トイレに水が流れるのは天使さまのおかげなのね!』なんて思ってるような馬鹿者だけさ。それを一々申し訳ないと思っていたらキリがないし、他人に迷惑掛ける事が死罪なら全人類は即刻死罪だ。そんな事は気にするな。誰かに迷惑を掛けたなら、その分誰かの迷惑を受けて立てばいいんだって」
「それは、誰かの役に立てるようなヤツだから許される事だろう。俺は誰の役にも立てない。迷惑にしかならないヤツなんだ……」
頑固だなあ。男はそう呟いた。他人事のような男の言葉を聞きながら、俺はこんな所で何をしているのかとそんな事を考えていた。職場に辞表を出してきて、そのまま死のうと思っていたのに。だが男はハンバーグを口に運びながら勝手な事を並べ立てる。
「そう言えば君さ、住んでた所はどうしたの? 水道とか電気とかガスとか全部きちんと止めてきた? 家財道具は処分した? 大家さんや親御さんに『大変お世話になりました』って手紙かメールは書いてきた? 他人に迷惑掛けずに死にたいっていうのは大変立派な考えだけど、それを実行しようと思うなら身辺整理はきちんとしないと……」
「お前一体何なんだよ! 自殺を止めたいのか? それとも推奨したいのか!?」
「何回も言わせないでよ。人間として一応止める。でも、止めた所で君がどうしてもどうしてもどうっしても自殺したいって言うのなら、心残りがないようアドバイスぐらいはしてあげるのが義理人情ってものだろう?」
あ、ごめん、ちょっとドリンクバー行ってくる、そう言って男はグラスを持ってドリンクバーへと歩いて行った。何か頭が痛くなってきた。項垂れて頭を抱えていると男の戻ってきた気配がし、そして、目の前に何か焦げ茶色の液体の入った白いカップがことりと置かれた。
「……?」
「ホットココア。気分が落ち着くって言うじゃない。まあ自殺しようってヤツに食欲なんてないかもしれないけどさ、お腹に何も入ってないと余計にカリカリするからさ。食べられなくてもせめてこれぐらいは飲んどきな」
そう言って、男は自分の分のココアを飲んだ。つられるようにカップを持ち、口をつけると独特の甘さが広がった。甘いな、そう思った瞬間、涙がボロボロと零れてきた。酷く情けなかったが、涙腺が壊れてしまったようにどうにも涙が止まらない。
「辛かったんだね、可哀想に」
「な、何も、知らないくせに……」
「会って一時間も経ってない男の前でココア一杯でボロボロ泣く、そんな青少年の心情が辛いじゃなくてなんだと言うのさ。心配しなくても僕は『泣くな、男だろう』なんてスパルタ主義者じゃないからさ、人目なんか気にせずに思う存分泣いたらいいよ」
そして男は、パンをむしって一口食べた。優しいんだか酷いんだかよく分からない男だと思った。ひとしきり涙を零し終え、水分補給に冷めたココアを一口飲むと、とうに食事を終えた男が目を細めてこちらを見つめていた。
「……なんだよ」
「いやあ、君さあ、つまり居場所がないんだよね。誰かの役に立ちたいのに、それが出来ないから死のうとなんてしてるんだよね」
かなり嫌な物言いだったが、その通りだから、頷いた。
「じゃあ、僕の役に立つってのはどうだい」
「……は?」
「別に変な事を頼もうってわけじゃない。僕と一緒に暮らしてくれよ。どうせ死ぬつもりなんだ。僕が拾ったっていいだろう?」
「……え……ひろ……」
「ああ、変な誤解はしないように。僕はそっち系とか言うんじゃないから。なんていうのかな、同居人? 僕と契約して友達になってよとかそういうの?」
男はサラリとそう言ったが、変な誤解をするなという方が無理なような物言いだった。自殺しようとした人間に飯を奢り、話を聞き、挙句の果てに一緒に暮らせ……? 無理だ。どう考えても妙な誤解しか生じないような申し出だ。
「全く嫌な世の中になったもんだよね。友達になってよだけで変な誤解を受けるんだから」
「いやおかしいよ。十分おかしい。変な誤解をするなって方が土台無理って話だろう」
「なんでだよ。よく言うじゃないか。愛に時間は関係ないって」
「その台詞がすでに怪し過ぎる」
「そうか、日本語って難しいな」
男はにこりと目を細め、しかしその表情はやはり「笑顔」というものから程遠かった。どちらかと言うと柔和な顔立ちの、しかし柔和だからこそ不気味としか言えない表情で、男は一層目を細めて俺の顔を覗き込んだ。
「まあでも、気にする事はないよ。僕はただ『友達』が欲しいだけさ。自殺志願者の『友達』がさ」
*
「はいどーぞー。何の変哲もないご飯と味噌汁と目玉焼きでーす」
そんな言葉と共に目の前に、男が口にした通りのメニューがちゃぶ台の上へと置かれていった。お椀によそわれた白米、目玉焼き、味噌汁の中身は大根だろうか……凝っているというわけではない、けれどインスタントではない人の手の加わった朝食に、一応用意された身としては感想めいたものを口にしてみる。
「お前料理とか出来るんだな……」
「人並みにはね。プロ級の味なんて期待するなよ」
「それにしても……」
俺は首を持ち上げて部屋の中を見渡した。笠のついた電球、古い感じの木製のタンス、ちゃぶ台、畳、座布団、くもりガラスの引き戸に……あとは俺の語彙力が少な過ぎて何と言えばいいのか分からなかったが、「ザ・昔の家」とでも評すれば、何となくイメージがついてくれはしないだろうか。
「古い家だな……」
「古い家は嫌いだった?」
「そうじゃないけど、今時珍しいっていうか……」
「そうでもないよ。日々新しい建物が出来ては壊される都市部の方ではそうじゃないかもしれないけれど、田舎の方じゃ古い家だってまだまだ十分現役だよ。とは言っても耐震上もろもろの問題とかは滅茶苦茶あるから、大地震とか来たら一発で崩れて潰されるかも……という不安は拭えないけどね」
さらりと口にしながら男は味噌汁を一口啜った。い、嫌な事をさらりと言うヤツだな……思わず天井や柱を見上げ、地震で崩れる兆候がないか確かめてしまう。
「何? 怖くなっちゃった」
「べ! べべべべ別に!?」
「そこまでどもらなくてもいいんじゃないの? まあ安心しなよ。人間死ぬ時は最新の高級住宅に住んでいたって死ぬんだから」
何処に安心しろって言うんだ。心の底からそう思ったが、それを目の前の男にそのまま言う事は出来なかった。いや……そもそも、俺はこんな所で一体何をしているんだろう……何で昨日出会ったばかりの男とちゃぶ台挟んで味噌汁を出されているんだろう……
「ところでお前、仕事何してんだよ」
「貸本屋」
「かしほんや?」
「本を貸してるの。それが僕の仕事だよ」
……と言われても……そんな職業あったっけ……俺はそう厚くもない人生の記憶を捲っていった。そして一つの心当たりに辿り着く。
「それって、つまり図書館みたいなヤツか?」
「どっちかと言うと、マンガ本を有料で貸してくれる大手ビデオショップが近いかな? 図書館は無料でしょ? 僕は有料だから」
そんなサービスがあったのか……俺は男の言葉に衝撃を覚えた。マンガなんて買った事もないからよく分からないが、図書館みたいにマンガ本を借りられるならそれはきっと便利だろう。何処の大手がやっているのかその名前すらも分からないが……と、一つ疑問が頭を過ぎる。
「それ、お前の需要はあるのか? 大手でやっているなら大手に行くものなんじゃないのか?」
「それが全くないって訳でもないんだよね。僕が主にやっているのは『活字』の貸本屋だから。小説とか専門書とか古書とか自己啓発本とか、そういうのが僕の担当」
「でも、図書館に行った方が良くないか? それ。だって有料なんだろ?」
「それがそうでもないんだよ。まあ僕は公共の図書館の事情に精通している訳じゃないけれど、図書館の本って普通図書館のお金で買うものだろう? 学校の図書館なら生徒の学費、都道府県市町村の図書館なら税金という事になるのかな? まあ間違ってたらごめんなさいなんだけど、買える本の冊数は限られてくるし、図書館利用者のニーズにより多く応えられるものでなければならない。つまり、用意出来る本の数も種類もごく一部に限られてしまう。
その点僕は僕のお金で買う訳だから、学費や税金を納めてくれる学生及び都道府県市町村民の皆様のニーズにそこまで配慮する必要はない。自分の気に入った本を買ってきて店にそのまま並べればいい。なお、お客さんが気に入った本は取り寄せ販売も行っているから、そういう方面の需要もある。あとは図書館の本って他の人も読む訳だから、論文を書く学生さんとかの中にはテーマ被りを嫌がる人もいるんだよねー。けど本屋巡りをする時間と体力と根性がない……そういう学生さんやサラリーマンがお客になる時もあるのかな。まあ他にも色々やってるんだけど……大体はそんなとこ」
「へー……でも、それって儲かるのか? 金の話をするのはアレだけど、やっていけるのかなって……」
「テレビの大富豪みたいに年収何千万とか何億円とかは稼がないよ。いや、大学生アルバイターの方がよっぽど稼いでいるかもしれない。でも、この家は持ち家だから家賃なんてかからないし、人付き合いもほとんどないから水道・光熱・ガス代と食費さえまかなえれば十分なんだ。まあ生きていくのに支障はないよって感じかな」
「へ、へえ~……」
そういう生き方もあるのか……俺は妙に感心してしまった。だが……という思いも拭えはしない。
「でも、その、蓄えとかは出来ない……よな……こういう言い方したら失礼だと思うけど……お前の言い分聞いてると……」
「うん、まず無理だね。一応わずか程度に貯金はあるけど、働くのをやめたら数ヶ月と待たずに餓死出来る自信があるよ」
「嫌な所に嫌な自信を持つなよ! でも、それって不安じゃないか?」
「何で?」
「え?」
「別に、お金が無くなって餓死するだけの話じゃない。それの何が不安なの?」
男は箸で目玉焼きを切りながら事も無げにこう言った。
「いやそもそも、生きている内に安心なんてあるのかな。いい学校に行ったっていじめに遭うかもしれないし、いい大学に行ったって事件に巻き込まれるかもしれない。いい会社に入ったって上手くいかないかもしれないし、長年頑張って働いたってリストラされるかもしれない。恋人を作ったって別れるかもしれないし、結婚したって性格の不一致とやらで離婚するかもしれないし、子供が出来たっていじめられたりグレたり絶縁したりなんて事態が全くないとは言えないし、老後のためにお金を貯めていたって詐欺に遭って何処の馬の骨とも知れないヤツに全部奪われるかもしれない」
「……」
「一寸先は闇、人生万事塞翁が馬、禍福は糾える縄の如し、人生なんて全部が万事大体そんなものじゃない。どんなに安心を求めたって手に入るのは『安心感』だけ、『絶対の安心』なんて何処にも存在しないんだ。それに比べればお金が無くなれば餓死する、程度の『事実』は、別に不安に思うような事ではないんじゃないかと思うんだけど」
男は視線をちゃぶ台に移すと、目玉焼きを口に入れもぐもぐと噛み始めた。いや……それは、……。何と表現すればいいのか分からないが……とりあえずこの男が変人だという事は分かった。いや、昨日会ったばかりの人間に一緒に暮らせと家に連れ込み、朝ご飯を振る舞っている時点でどう転んでも変人なのだが……
「ところで君、ゲームは好きかい?」
唐突に話し掛けられ、俺は「は?」と首を傾げた。男の黒い瞳が俺の事を見つめている。
「ところで君、ゲームは好きかい?」
「いや、聞こえていなかった訳じゃなくて……好きっていうか……やった事もないんだけど……」
「そうなの? うーん、そうかー、うーん……まあいいや。だったらやり方教えるから付き合ってよ。一人でゲームは寂しくてさ」
意外過ぎる男の言葉に、俺は男をまじまじと見た。男は白米を咀嚼しながら「?」という顔で俺を見返す。
「何?」
「いや、その発言が意外っつーか……」
「何? えっちい事でもされると思った?」
その瞬間、俺はちゃぶ台から身を乗り出してバシ、と男の頭を叩いていた。「痛いなあ」と呟く男に俺は思わず声を上げる。
「な、何を馬鹿な事を言ってるんだお前は!?」
「冗談だよ冗談。っていうかそんなに反応する事ないじゃない。もしかしてちょっと想像してた?」
「違う! お前とゲームっつうのが全然繋がっていなかっただけだ!」
「そうなのかい? じゃあいい機会だから僕がゲームをいかに愛しているかとくと聞かせてしんぜよう。そもそもゲームは日本の誇る文化だよ。テレビゲーム三大ソフトウェアの二つは日本が独占してるじゃないか。ストーリーだって下手な映画より遥かにおもしろいものが多いし、むしろ映画が二時間程度なのに対してゲームは数十時間も楽しめる、それが七千円程度で味わえるんだからコストパフォーマンス的にも超優良だよ。それを『ゲームは何度も生き返るから死の観念を薄れさせる』とか言っちゃってゲームを悪者扱いしてさ、そんなのゲームに子守りをさせて道徳教育を放棄している親と学校と社会と政治とその他諸々が悪いんじゃないか。『これはゲームだからリセットする事が出来るけど、現実はそうじゃない、現実は一度きりなんだ』、ただそう言えばいいだけじゃないか。っていうかその主張にちゃんとした根拠があるのか甚だ疑問でさえあるところだし。それに何度も生き返るとか、何のストーリーもないアクションゲームとかだったらいざ知らず、命の大切さを謳うゲームなんかこの世にいくらでもあるんだぞ! 僕はそこまでヘビーゲーマーじゃないけれどそれでも両手両足の指を使ったって追い付かない程思い付くね! 主要な仲間や敵やヒロインまでも死んでしまうのはもちろんあるし、主人公が最後に消えてしまうような衝撃シナリオだってあるんだぞ! 人の死を嘆く描写も大事な人を失くす喪失感も戦争の愚かさを訴えるのも命の尊さを謳うのもそれこそ小説やドラマや映画をむしろ越えるレベルであるっていうのに、ゲームをやった事もないヤツ程ゲームをこれ見よがしに非難するんだ。全く嘆かわしいったらありゃしない。僕はゲームファン及びゲーム文化保護及びゲーム文化促進を求める者として、ゲームについて語るのはゲームを二十本以上クリアしてからという法律でも制定して頂きた」
そこで、男は言葉を止めた。まるで親の仇を呪うようにゲームについて語っていたのに、頭痛が酷い人みたいに顔をしかめて箸を置いて立ち上がる。
「ごめん、ちょっと用事が出来た」
「……は?」
「ご飯はそのまま食べてていいよ。片付けとかもしなくていいから。暇だったら店の方に本、テレビの下にゲーム機とソフトが何本かあるから。それじゃあね」
「ちょ、ちょっと待てよ……」
しかし、男はコートを引っ掴むと、俺がまごまごしている内に俺を置いてきぼりに玄関から外へと出て行った。俺の前には未だ手つかずの朝食だけが残されていた。
……どうしよう。一体、用事ってなんだろう。あいつは何処に行ったんだろう。そしていつ帰ってくるんだろう。テレビの下にゲーム機とソフトって……しばらく帰ってこないつもりか。っていうかゲームなんてやった事もないってさっき言ったばかりじゃないか。
……どうしよう。俺は数十秒前に考えた事を全く同じように考えていた。とりあえず出されたからにはこの朝食を食べなくてはいけないが……いくら自殺志願者とはいえ、用意してもらった食事を食べもせずゴミにしてしまうのは失礼だ。そこまで気を遣わなくてもいいような気がしたが、やはり「せっかく用意してもらったのに」と考えるとかなり忍びないものがある。
……そもそも、何故俺はこんな所にいるのだろうか。これもまたついさっき頭を過ぎった疑問だった。あの後、結局毒気を抜かれたままにこの家へと連れて来られ、部屋とベッドを貸され、あれよあれよという間に一夜を越してしまったのだが……よく考えたらおかしくないか。いや、よく考えなくてもおかしくないか。俺は一体こんな所で何してるんだ。俺は……ただ、居場所がなくて、この世の何処にも居場所がなくて、他人にも、自分自身にさえも、全く必要とされてはいないから、むしろ居る事が迷惑にしかならないと考えたから、それぐらいなら死のうと思って、それであのビルに登ったんだ。それで、フェンスを乗り越えて飛び降りようとしたら、そしたらあいつが……、……
一気に気分が悪くなって、俺は目の前の朝食に項垂れるように視線を落とした。先程までは食べるかどうか悩んでいたのだが、今はもう、食欲というものがまるで込み上げてこなかった。けれど、やはりこのまま捨ててしまうのは……冷めた味噌汁を流し込み、冷めた白米を口に入れる。食べると言うより詰め込むといった感じだったが、それでもひたすらに口の中に詰め込んでいく。
これを食べたらここを出よう。しなくていいとは言われたが皿洗いぐらいはしておこう。もちろん、少ないけれどお金も置いて……昨日のあいつの話だと人のいる所で死ぬと迷惑を掛けてしまいそうだから、オーソドックスだけど富士の樹海とやらでも目指した方がいいだろう。いや、富士山は世界遺産に登録されたそうだから、もうそういう事は出来ないのかな……とりあえず人のいない山の中でも目指していけばいいだろう。
俺は用意された朝食を詰め込み終えると、空になった食器を持って流しの方へ歩いていく。近くにあったスポンジと洗剤で食器を洗い、水切りカゴに食器を置き、そして部屋を出て行こうとした所で……とんでもない事に気が付いた。
「この家の……鍵って何処にあるんだよ……」
鍵を掛けずに出て行けば、当然この家はその間誰でも出入り自由になってしまう。それこそ正に泥棒でもだ。盗むようなものがこの家にあるかどうかは定かではないが、さすがに開けっ放しはマズいだろう。っていうか万一鍵が見つかったとしても、鍵を何処に隠したかなんてどうやってあいつに伝えればいいんだ? 普通だったらポストに入れておくとかだけど……ポストが何処にあるのか分からないし……
いやそもそも、昨日たまたま知り合っただけの、素姓も分からぬ俺を泊めた上、一人で置き去りにして留守番頼んで行くとか、あいつ馬鹿じゃないのか。俺が泥棒だったらどうするんだよ。どうしよう。鍵を探してそこら辺に隠しておいて大丈夫かな。などと立ち尽くしたまま内心であたふたしていると、玄関からガチャリと扉の開く音が聞こえてきた。
「ただいまー」
「!?」
「あれ、どうしたの、そんないかにも困りきってますみたいな顔をして」
男は俺の傍を通り過ぎるとちゃぶ台へと視線を落とした。コートから袖を引き抜きつつ少し眉を下げてみせる。
「あれ? 食器片付けたの? しなくていいっていったのに。でも透也は几帳面な子なんだね、ありがとう」
「お前、一体何処行ってたんだよ……」
「ちょっとした野暮用だよ。ちょっと待っててね。これ食べ終わったら準備するから」
「準備って……何の?」
「買い物」
「は?」
「だって君、歯ブラシも何もないじゃない。別に僕の歯ブラシを貸してやってもいいんだけど、さすがに昨日会ったばかりの相手にそれは積極的過ぎるっていうか」
「さらっ……とおぞましい事言ってんじゃねえよ! っていうかそもそもお前なあ!」
「何?」
そう言って、男は俺の事を見上げてきた。俺は言葉を詰まらせた。ただ視線を合わせているだけなのに、その黒い目には何やら逆らいきれないような異様な圧力が篭っている。
「き、昨日知り合ったばかりの俺に……留守番頼んでいくとか物騒だろう……」
「え? なんで?」
「俺が泥棒だったらどうするんだよ! お前がいなくなったのをいい事に、金目の物とか盗んで逃げてたかもしれないだろうが!」
「あー……ああ、そういう事か。全然考えてもみなかったよ」
あっけらかんとそう言われ、俺は何とも言えないものを感じた。なんていうか……単純に、大丈夫かこいつと思う。しかし男は俺の心情などお構いなしにケラケラと声だけで笑ってみせる。
「何? 心配してくれたの僕の事」
「し、心配なんてしてねえよ! ただ……でも、危ないだろ!」
「それを『心配してる』って言うんじゃないかと思うんだけどね……なるほど透也はシャイなんだね。今風に言えばツンデレ君か」
「だからなんなんだよその妙な表現は!」
「あはは、だから冗談だって。でも、君が泥棒だとは僕は微塵も思ってないよ。だって君が自殺を望んでいるのは本当だって知ってるからね」
「……え?」
男はにこりと目を細め、ちゃぶ台から立ち上がった。いつの間にか食事を終えていたらしく、流しに行って食器をカチャカチャと洗い始める。
「あと十分ぐらいで出れるから、君も準備しておいて」
「え? いや、だから、俺は……」
しかし、男は洗い物を終えると、俺を無視して通り過ぎて洗面台へと歩いていった。その背を追って「買い物なんていかない」と言う事は可能だった。だが、俺はどうしてか、それをする事は出来なかった。その内に男が戻ってきて黒いコートを再び纏う。
「あ、そうだ透也、一つ頼みがあるんだけど」
「……なんだよ」
「『お前』じゃなくて『岬』って呼んでよ。僕達『友達』なんだからさ」
そう言って、男は……岬は、玄関へと歩いていった。そのままドアを開けて、「ほら、行くよ」と手招きをする。俺は……やはり、逆らいきれずに、岬の後をついていく。
「死ぬんじゃなかったのかよ」と、そんな誰かの声を背中の後ろから耳にしながら。
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