STAND BY ME

雪虫

第1話

第1話:1

 たくさんのビルが並んでいた。星も見えない夜空の中、星の代わりとでも言うように規則正しく並べられたビルの明かり。明かり。明かり。明かり。その中では今も多くのサラリーマン達が仕事をしていて、仕事から開放された人達は疲れた足取りで家へと戻り、あるいは同僚や部下と肩を組んで、居酒屋に酒を飲みに行き……俺にはどちらも、縁のないものだけど。俺は目の前のフェンスを乗り越える。金網の柵を乗り越え、硬いコンクリートの上に降りて一歩足を踏み出せば、そこには足をつける場所も何もない空間が待っている。


 少し足が竦む。

 

 けれど、戻れる場所がない。

 

 俺には居ていい場所がない。

 

 もう何処にも、居たくはないんだ。


 俺は、震える足を叱咤して、夜空に飛び込もうと試みる。死ぬのなんて一瞬だ。一瞬で終わる苦しみだ。でも、生きる事を選べば、死ぬまで続く苦しみがまた延々と始まるんだ。苦しみなんて、言い切れる程大層な苦しみじゃないかもしれないけれど、俺は、それでも、これ以上苦しむのはもう嫌だし、そしてそれ以上に、この世の誰にも存在する事を望まれてなんかいないんだ。俺は誰にも望まれない、自分自身にさえ望まれない。むしろ居ても人に迷惑を掛けるだけの無意味極まりない存在だから、死ぬべきだ。死ぬべきなんだ。自分にも他人にも望まれないこんな無意味な俺なんて


「君さあ、死ぬの?」


 やけに明るい声が聞こえ、俺は背後に視線を向けた。見れば、今しがた乗り越えてきたばかりのフェンスの向こうに見知らぬ男が立っていた。黒い髪、黒い瞳、黒いコート、黒いブーツという出で立ちは、何の特徴もとっかかりも見出せはしなかったけど、男は何の躊躇いもないようにこちらに向かって歩いてきて、柵の向こう側から目を細めて俺の事を見つめている。


「ああ、ごめんね。こんなビルの屋上で柵を越えた所にいるものだから、もしかして自殺志願者か何かかな、なんて風に思ったからさ。


 でも、ここで自殺は止めた方がいい。特殊清掃業って知ってるかい? 僕も詳しいワケじゃないんだけど、自殺とか孤独死とかで出た遺体ってそういう人達が片付けてくれるものなんだって。ビルの飛び降りの場合は遺体の片付けとか、飛び散った肉片の回収とか、アスファルトの血の染み抜きとか、そういった作業諸々だな。あとはこのビルの持ち主。自殺者なんか出ちゃったら価値がグッと下がるだろうね。人に迷惑を掛けたくないならここでの自殺はオススメしないし、逆に人に迷惑を掛けたいなら線路に飛び込み自殺がいいよ。一キロぐらいに渡って内臓とかが散乱するとさ、拾うのも大変だし屋根に飛び散る場合もあるらしいし復旧にも時間が掛かるし利用者や運行会社とか大勢の人に大迷惑と大損害が……」


「止めないのか」


「止めて欲しいの?」


「……」


「死にたいと思う事でもあった?」


 男は明るい調子でそう言うと、「でも、ここは止めときな」と付け足した。理由は先程述べられたし、再び聞く気も起こらない。もちろん、男の言う事など無視して飛び降りる事は簡単だが……死んでまで、人に迷惑を掛ける、それはたまらなく嫌だった。俺は柵をよじ登り、男の前に着地する。男は目を細めたまま俺の事を見つめていた。


「君、僕より少し下ぐらいかな。何があったか知らないけれど、死に急ぐなんて感心しないな」


「……なんだよ、止めないんじゃなかったのか」


「なんて酷い事を言うんだ君は。他人が自殺しそうだったら一応止めるのが人間じゃないか。もちろん、その後生きるか死ぬかは僕の預かり知らぬ所だけれど、一応止めるフリぐらいは人間としてしておかないと」


 俺は言葉を詰まらせ、男の事を少し睨んだ。別に人情ドラマのような対応を期待したわけではなかったが、「一応」だの「人間として」だの、随分人でなしな回答じゃないか。男はにこりと目を細め、しかし笑っているわけでもなく、黒いコートをはためかせてドアの方へと歩いていく。


「こんな寒い中突っ立っているのもなんだから何処かにご飯でも食べに行こうよ。心配しなくても、腹ごなしをしてから自殺してもバチは当たりはしないって」


 もちろん、奢ってやるからさ。そう言って男は目を細めた。それが俺、篠宮透也と、謎の男、曾根崎岬の出会いだった。





 人の声が聞こえる。とても嫌な声だった。何を言われているかは分からない。けれどよく聞かなくたって嫌な事を言われている、それだけはきちんと分かっている。


 自分が正しいだなんて思った事は一度もないし、未熟だという事も知っている。何の役にも立てない自分を申し訳ないとも思っているし、人に迷惑を掛ける事しか出来ない自分を何度も何度も殴っている。

 

 けれど、でも、どうしようもない事なんだ。どうにかしたいと思っても、どうにも出来ない事なんだ。分かったよ。もういいよ。透也。俺が生きているからいけないんだろう。透也。俺なんて生きている価値がないって、死んだ方がマシだって、透也。思っているからこれ以上俺を責めるのは止めてくれないか。


「透也」


「……」


「おはよう、とってもいい天気の朝が来てしまったんだけれども」


 その瞬間、俺の喉から「ふ、ぎゃああああああッ!」と悲鳴が上がり、俺はベッドの端まで後退した。わずか五ミリと言わんばかりに顔を近付けていた男はうるさそうに目を細めて、「やれやれだ」と言わんばかりに肩をすくめるポーズを取る。


「酷いなあ、人の顔を見て悲鳴を上げる事はないじゃないか」


「ち、ちか、近過ぎるんだよ顔が!」


「透也、そいつは自意識過剰だよ。マンガの主人公と敵役だってすごく顔が近いじゃないか。心配しなくても僕はゲイじゃない。寝ている君の唇を無理矢理奪ったりはしないって」


 凄まじく物騒な事をさらりと言うと、「ほら、起きなよ」と言い捨てて男は廊下へと姿を消した。何か夢を見ていた気がするが……目覚めの衝撃が凄過ぎて全く思い出せそうにもない。


「とりあえず……起きるとするか」


 俺は咄嗟に抱きしめていた枕をベッドの上にぽすりと落とすと、貸してもらったスリッパに足を入れ、廊下に出て、階段を降りて行った。階段からすぐの所にある居間の中へと入っていくと「コーヒー? 紅茶?」と尋ねられたので「お湯でいい」と返事をする。マグカップに入った透明の液体を口に入れると、正に「温めた水」という味が舌と喉に広がった。


「お湯でいいなんてお年寄り臭いなあ」


「コーヒーは胃が痛くなるんだ。紅茶は好きじゃないし」


「先に言いなよ。それならホットミルクを作ってやるのに」


「そんなに構わなくていいし」


「何言ってんの。僕達『友達』じゃあないか」


 そう言って、男はにこりと目を細めた。その笑顔に似た、しかし確実に笑ってはいない表情に、改めて「俺は何をしているんだ」という疑問だけが津波のように押し寄せてきた。

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