第十三話
「ごきげんようジェレミー様」
「ごきげんようサンドラさん」
「ごきげんようジェレミー様」
「ごきげんようカトリーヌさん」
「ごきげんようジェレミーさん」
「ごきげんようアナベルさん」
ジェレミーは、次々に挨拶にやって来る学生一人一人に、優雅に挨拶を返していた。
丘の上に建つセント・エバスティール魔法学院に続く石畳の一本道を、純白の
学院生総数一三六名の生徒達は、全員がサラスナポスの町外れにある学生寮で生活を送っている。登校時には集団登校と言って良い程、皆が固まって学院に向かうのが通例だ。
その集団に、微かなざわめきが広がった。皆が何事かと辺りを見回して、その禍因を探している中、ジェレミーはエレーナの姿を捉えていた。
エレーナは、普段と全く変わる事のない優雅で
停学になった経緯を知っている皆は、好奇の視線を向けるが、それも一瞬の事ですぐに挨拶を交わしに足を運んでいた。
ジェレミーは、唇を
ジェレミーは、エレーナに向かって歩を進める。通常、序列の低い者が高い者へ挨拶に
「ごきげんようエレーナさん」
「ごきげんようジェレミーさん」
二人は、見た目は優雅に挨拶を交わす。
使い魔召喚の儀式の日には、エレーナは表情を崩していたのだが、今回は全く動揺の色は見えない。
「三日間のお休みは、有意義にお過ごしになれました?」
「ええ、それはもう存分に未熟な
皮肉の込められた物言いにも、エレーナは
「確かに大したものですね。私だったら恥ずかしくて、とても人前になんて出て来られませんわ」
エレーナの眉が、ピクリと動く。しかし笑顔のまま続ける。
「ジェレミーさんにも、お恥ずかしい姿をお見せしてしまって、穴があったら入りたい心境です。そういえばジェレミーさんの使い魔は、穴を掘るのが得意だそうで……。あのような時、いくらでも穴を掘ってもらえて良いですね」
「貴女の為にも掘って差し上げますよ。なんなら埋めて差し上げますわ」
二人は、表面上は笑顔のまま睨み合う。
「ごきげんようエレーナ様、ジェレミー様」
「ごきげんようエウローペさん」
笑顔で挨拶を返しているエレーナに対し、ジェレミーはコメカミに青筋を立てて追い払うように返礼する。
そんなジェレミーに対し、エレーナは
本来、挨拶対象が二人いる場合、序列の高い者の名前を先に呼ぶのが慣例だ。
現在の学年首席はジェレミーだ。それなのに寄って
使い魔召喚の儀式の日は我慢をした。しかし何時までも現状が続くという事は容認できない。
そう思っている所に、腹心のローレンスがやってきた。
ジェレミーは内心ガッツポーズを作る。ここで現在の首席は誰なのかを、ハッキリと皆に知らしめてやる格好の機会だった。
「ごきげんようエレーナさん、ジェレミーさん」
しかし有ろう事か、ローレンスはエレーナの名前を先に出してしまう。
ジェレミーは、メデューサの邪眼の如き視線でローレンスを睨め付ける。ドジっ子ローレンスはそれを見て、やっとジェレミーが怒っている理由を察したらしく、
その可愛らしさ故、全てのミスがこの仕草で許されてしまう彼女に苛立つ。
次に挨拶にやって来たのは、ミルドレッドだった。侯爵位の者としては魔力が低く、ドリーヌと熾烈な学年五位争いを繰り広げている彼女だが、侯爵三人娘の中では一番のしっかり者だった。
彼女なら、ローレンスのような過ちを犯す事は絶対に無い。
ジェレミーは、今度こそ期待を込めてミルドレッドを迎える。
「ごきげんよう皆さん」
ジェレミーは、期待の答えが返って来なかった事に対し
「ぷっ……」
その様子を見ていたエレーナは、思わず噴き出した。
「ジェレミーさんともあろう御方が、何を期待していたのです? まさか挨拶の定義もお忘れになりまして?」
小馬鹿にしたような言い種に、ジェレミーは拳を握り締めて耐える。
挨拶対象が二人以上いる場合は『皆さん』となる。細かく言うと、目上の人が一人でもその中に居ると、その人を基準に言葉が変わって来る。例えば、上級生がその中に一人でもいる場合は『お姉さま方』となる。先生がその中に居る場合は『先生方』となる。
ジェレミーは、ローレンスを『まだ居たの?』という視線で睨み付ける。
その八つ当たりの視線に、ローレンスは眉根を寄せて助けを求めるようにエレーナを見やった。
「責任転嫁なんて信頼を失いますわよ」
もっともな意見に唇を
「ごきげんよう皆さん」
そこにやって来たのは、ジュリアだった。ジェレミーは、怒りに震えていた心が一気に癒されていくのを感じていた。
「ごきげんようジュリアさん。二日間もお休みするなんて珍しいですわね。今日は授業に出席なさいますの?」
エレーナは、ジェレミーの変わり身を不審に思いながら、ジュリアに視線を送る。
ジュリアはエレーナが居る事に、いま気付いたようだった。狼狽え気味に数歩後ろに後退りながら、あからさまにエレーナの視線を避けた。
エレーナは、そんなジュリアの様子に小首を傾げる。
「そうですね。今日も休むとなると、
「二日間のお休みは、どうお過ごしになられていたのです?」
ジェレミーの猫なで声の追及に、ジュリアは明らかに眼を泳がせていた。
エレーナは、ジェレミーとジュリアの様子を注意深く観察する。ジェレミーが喜ぶ事……。そして、それは恐らく自分をいたぶる材料となる物なのだろう。
そう見当を付けてみるが、皆目見当が付かない。
「私は図書室に用事があるので……。では、ごきげんよう皆さん」
ジュリアは、そそくさと逃げにかかる。
エレーナは、それから御機嫌なジェレミーと共に学院の正門を潜った。その間の無言の精神攻撃は、真綿で首を締められるようなものだった。
「そういえば貴女の使い魔の勇者様は、どうなさっているのかしら?」
エレーナは、ジェレミーの猫なで声の質問に
自分の精神修行に夢中になり、男の思念が伝わって来た事があったのだが、思念をシャットアウトしたのだ。
その思念とは 『—— ノーブラ!』という
エレーナの顔色が、みるみる悪くなるのをジェレミーは愉快そうに眺めていた。
やがて校舎に入る。一階に職員室、学院長室、応接室、図書室、保健室、宿直室があり、二階に全学年の教室と講堂、食堂、購買がある。三階は魔法実験室や、トレーニングルームがずらりと並ぶ。
「ジュリアさんと、貴女の使い魔の勇者様は二日間図書室で一緒に過ごしていたのです。三食せっせと食事を運び、甲斐甲斐しく色々お世話していたみたいですよ」
エレーナは、その二日間の様子を想像する。想像はあらぬ妄想に取って代わり、更に顔色を悪くしていく。
ジェレミーは、愉快で仕方がないという様子だった。
校舎入口から真っ直ぐ階段を上がろうとした時、階段横の図書室からタイミング良くジュリアが出てきた。
ジュリアはエレーナ達の態度から、図書室で竜也と二日間過ごしていた事が露見している事を察知する。
「ジュリアさんには、私の使い魔の件で大変ご迷惑をお掛けしたみたいで、真に申し訳ありません」
エレーナは、ジュリアに深々と頭を下げる。
「いえいえ、私の方こそタツヤ様には色々教えて頂き感謝しているのです」
ジュリアは何故か頬を染め、その頬に両手を添えて恥ずかしそうに
両手を頬に添えた為、隠れ巨乳が強調され核弾頭が浮き彫りになる。
—— これかっ! これを見てあの
エレーナは、雷に打たれたような衝撃を味わっていた。他の曜日の二十五パーセント増しだ。
悪い予感は膨れ上がる一方だった。二日間も人気のあまりない図書室で何をしていたのか凄く気になる。
「その……。私の使い魔に何を教わっていたのです?」
恐る恐る聞いてみる。
「旧世界の文字に付いてです。エレーナさんの想像しているような事はありませんので、ご安心下さい」
ジェレミーは、たまらず噴き出した。
「何を想像していらしたのかしら? 使い魔の
エレーナは、グッと拳を握りしめて耐える。
教室に入る。皆と一通り挨拶を交わした後、魔道書を机上に用意する。午前の授業は魔法構成論なのだ。しかし、頭の中には先程のジュリアの様子がグルグルと回っていた。
ジュリアは『タツヤ様』と名前で呼んでいた。凄く親しそうだった。そして、あの男のあの
—— あの男を問い
名案を思いつく。心が繋がっているので嘘は見抜ける。
—— タツヤ……。
思念を送ってみるが、返事は無い。
—— タツヤ!
強く思念を送ってみる。
—— ○△◇□……。
いつもの意味不明の単語より、さらに不可解な言葉が返ってくる。寝言? 寝ているのだろうか……?
—— 今、何時だと思っているのだろうか……。
だらけた生活習慣に、メラメラと怒りが湧いてくる。
エレーナは、竜也にここに来るように思念を送る。
エレーナの思念を受けて、竜也はエレーナの前に現れた。やはり寝ていたようで横たわったままだ。しかも全裸で……。
エレーナは、一瞬にして思考が停止してしまった。
「きゃーーーーっ!」
教室の中は大騒ぎになった。
いきなりの大音響の嬌声に、竜也は眼を覚ました。上半身を起こし辺りを見回す。宿直室のベッドの上では無い。教室? 皆が自分を取り囲んで騒いでいる。えらく無遠慮に見られている。顔を両手で隠している者も、指の間から
ふと自分の姿を見下ろしてみる。全裸だった。慌てて股間を両手で隠す。
竜也もパニックを起こしていた。宿直室で寝ていた筈だ。それがなぜ教室で、しかも全裸で寝ているのか……。
訳が分からないまま逃走を図る。
竜也が教室から逃げ出そうとした所で、エレーナは我に返った。あの恰好で廊下に出す訳にはいかない。隣は二年生の教室、その隣は三年生の教室があるのだ。
廊下に出る寸前で追い付き、無理やり教室の中に引きずり込む。暴れる竜也を取り押さえようとする。
一年生の教室での大騒動を聞きつけて二年生、三年生の生徒達が一年生の教室の前に集まりだした。更に騒動は大きくなっていく。
その騒動を聞きつけて、スベントレナ学院長を筆頭に、各学年の担任教師達も駆け付けてきた。
一年生の教室の前は黒山の人だかりだ。正確に表現するなら黒ではないが……。
生徒達をかき分け、一年生の教室に入った先生達は、中の様子に絶句する。気絶していると思われる全裸の竜也の上に、エレーナが馬乗りになっているからだ。
「先生……」
エレーナは、半泣きの顔で先生達を見上げる。
「とりあえずタツヤ殿に服を……」
スベントレナ学院長の指示に、ドリーヌがバスタオルを持って来て、竜也の局部に掛けてやる。
「エレーナさん。これは、いったいどういう事です?」
「違うのです。私はただ使い魔を呼び寄せただけで、裸で逃げ出そうとして……」
エレーナは必至で言い訳をしようとしていたが、混乱しきっている頭では、うまく言葉が出て来なかった。
「オリビエ先生、ドリーヌさん、セシルさん、タツヤ殿をお任せします。サバティー先生、レベッカ先生、他の生徒達をお願いします。エレーナさん……」
スベントレナは、エレーナに眼を据える。
「生徒指導室まで来て下さい」
—— 終わった……。今度こそ完全に終わってしまった……。
エレーナは、焦点の定まらない眼差しを宙に向ける。これで停学にでもなった日には、今度こそ親に退学を言い渡されるだろう。
前回の停学の時に感じた『この世の終わり』などという心境は、生ぬるい物だったと今にして悟る。地獄に叩き落され、その業火に焼かれたような痛みが心を包んでいる。
やがて身も心も焼き尽くされ、灰になり消えていくように、すべての感覚が無くなっていった。
ガックリと肩を落とし
その虚ろな様子は、ジェレミーですら同情したくなる程の悲壮感が漂っていた。
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