第十話 

 竜也は、部屋の扉をノックされる音で眼を覚ました。


 天井は、現実世界の自分の部屋の物ではない。一瞬ここが何処だか分からずに狼狽うろたえる。

 記憶が混濁していて気分が悪い。軽い頭痛を振り払うように額に手をやりながら、首を左右に振る。


 ベッドから起き上がろうと足を踏ん張るが、平衡感覚が麻痺まひしているようでフラフラとよろめいてベッドのふちに尻餅をついた。


 腹部に微かな痛みを感じて手をやる。服の裾をめくってみて痛む場所を観察する。その途端、一気に記憶がよみがえってきた。

 そうだ、小鬼に腹部を刺されたのだ。地下迷宮ダンジョンへ行った事。小鬼との戦闘。謎の巨乳に助けられた事等が、次々とフラッシュバックされる。


 今でも、あの見事な下乳は眼に焼き付いている。しかし、今はそれどころではない。

 気を取り直して、小鬼に刺された箇所を観察する。


 腹部の傷は傷跡ひとつなく治療されていた。右太腿、左腕、右脹脛ふくらはぎも確認してみるが傷跡は見当たらない。微かに違和感が残っている程度だった。


 治癒魔法という言葉が脳裏に浮かんでくる。ファンタジー系RPGロールプレイングゲームでお馴染みのHPヒットポイントを回復する魔法だ。


 ふと疑問が持ち上がる。前回の戦闘でHPが半分減ったと仮定する。残りHPは五十パーセントだ。そこから治癒魔法で二十五パーセント回復したとすると、傷口はどのようになっているのだろうか……。

 瘡蓋かさぶたが出来ている程度? それなら五パーセント回復した場合は……?


 その思考は二度目のノックの音でかき消されてしまった。


 しかし竜也はノックを無視して思索にふける。それ以外にも何かものすごく重要な事項が前回の戦闘にあったように思える。それが何だったのか頭の回転をフルにして熟考する。


「タツヤ殿、起きておられますか?」


 竜也の熟考は、スベントレナ学院長の声に邪魔され中断させられてしまった。


 仕方なく竜也は返事をする。地下迷宮ダンジョンの件は、後ほど検討する事にする。


「ごきげんようタツヤ殿。今回はタツヤ殿にお会いしたいという者がおりまして、お連れした次第です」


 スベントレナ学院長の後から入って来た女性が頭を下げる。


「ごきげんようタツヤ殿。エレーナの母親のエミリアに御座います」


 そう自己紹介をした女性は、確かにエレーナに似ていた。胸もペッタンコだ。エレーナの胸の成長は望み薄だなと、哀憐あいれんの情が湧いてくる。


 竜也もふらつきながら立ち上がり、自己紹介をする。その一挙手一投足を観察するエミリアの視線は、大事な娘に取りいた寄生虫を観察する眼差しだ。


 竜也の背筋に言いようのない悪寒が走る。


「タツヤ殿、どうなされました?」


 スベントレナは竜也の様子に気付き、いぶかしげに問い掛けてきた。


「いえ、何でもありません」


 竜也は取り敢えず椅子を進める。学院長室にあるような豪勢なソファーのたぐいは無い。学院の教室にある物と同等の簡素な椅子があるだけだが、立ち話よりはマシだろう。


「昨日この部屋を宛がわれたばかりで、ここの備品もろくに分からず、お茶も出せなくてすみません」

「いえ、お構いなく」


 スベントレナ学院長とエミリアは椅子に腰を下ろす。正面に座った竜也は恐る恐るという感じで、エミリアの様子をうかがっていた。


 エミリアは、まるで汚らしいゴミ虫でも眺めるような視線を竜也に向けていた。たまらず竜也は、スベントレナ学院長に助けを求める視線を送る。


「先程お渡しした物は、お役に立ちましたかな?」


 気まずい雰囲気を察して、スベントレナは助け舟を出してやる。

 先程渡された物とは、図書室のブラッドウッド材の扉の鍵だと察知した竜也は、その話題に跳び付いた。


「それが、まだ図書室には行ってないのです。あの後、オリビエ先生に地下迷宮ダンジョンの場所を聞きまして、そちらへ行っていたのです」

「ほう。どうでしたかな?」

「危うく死に掛ける処でした」


 そう言って竜也は、引きった笑いを浮かべる。


「死に掛けたとは、どうなされたのです? 身体の方は大丈夫なのですか?」


 スベントレナは驚愕きょうがくの表情を浮かべる。


「小鬼数匹に取り囲まれまして……。でも危うい所を助けて下さった方がいらっしゃいまして、気付いたらベッドの上だったという次第で……」


 竜也は面目無さそうに頭をく。それにしても、あれは誰だったのだろう。そしてその際に、何かしら重要な手掛かりが有ったように思える。心に引っ掛かる物の正体が分からず、もどかしさに苛立つ。


「見たところ傷はなさそうですが、魔法で治療されたのですか?」


 またしても竜也の物思いは、スベントレナ学院長の言葉によってき消されてしまった。


「それが、助かったと思った瞬間に意識を失いまして、魔法を使われたかどうかも分からないのです」


 竜也は、バツの悪そうに身を縮める。


「傷を負ったという個所は何処なのです?」

「一番ひどい傷が腹部で、短剣ダガーで内臓をえぐられました。その他に右太腿ふともも、左腕、右脹脛ふくらはぎも同様に短剣ダガーで傷付けられました」

「少し腹部の傷を見せていただけますかな?」


 竜也は服の裾をめくって、刺された箇所を指差す。


「ここら辺です」


 その場所には先程も確認した通り、傷跡は全く見当たらない。


「痛みはありますか?」


 竜也は軽く首を振る。


「何か、違和感のようなものが微かにあるだけです」

「成る程、確かに魔法での治療跡のようですね」


 —— しかしこれは……。


 スベントレナは魔法で治療されたという個所を見やり、眉をひそめる。


「失礼……」


 そう言って、刺されたと思われる場所に手を当てる。

 間違いなく【全快リカヴァリ】の魔法での治療跡だ。しかし、この魔法の副作用を考えると動ける筈が無いのだ。


 しかしこの男は、平然としている。確かに初めに自己紹介をした時には、ふらついていたが、現在はしっかりしている。


「助けて下さった方というのは、何方どなただか分かりませんか?」

「それが板金鎧プレートアーマを着込んでいる方で、顔は見えませんでした」

「特徴とか覚えていませんか?」


 竜也はエミリアをチラリと盗み見る。ここでおっぱいが物凄くデカい人でしたとは言いにくい。


「さぁ、特には……」


 と、誤魔化すことにする。


 その様子をエミリアは細大漏らさず観察していた。

 今、何か隠し事をしたように見えたが、それ以外はごく普通の男と変わりはない。最悪な男を想定していただけに、極悪人ではない事には救われた。しかし、良い男とも言えない。勇者として見れば尚更だ。平民並みの能力しか無いとの情報は嘘ではなさそうだった。


「タツヤ殿は元の世界では、どのような職業に就いておられたのですか?」


 エミリアに唐突に話を振られ、竜也は狼狽うろたえる。威圧感は生半可なものではない。重圧で胃が押し潰されそうになる。


「いえ、まだ学生なので職には就いていません」


 恐る恐る、及び腰で答える。


「勇者としてこの世界におもむいたと聞きましたが、学生の身でどのような事が出来るのですか?」

「正直、勇者だと判断されたのは此方こちらの世界の人達で、僕自身はただの平凡な人間だと思っています」


 エミリアはスベントレナに胡乱うろんな視線を送る。この策士は、ただの平民を勇者だとたばかっているのだ。

 理由は自分の娘、エレーナの擁護ようごだろう。しかし微妙に感謝は出来ない。今後、この男をどのように扱えば良いのか思い悩む。しかし現状ではどうにも出来かった。


 スベントレナは、エミリアが不請ふしょうながらも納得してくれた様子を見せたので竜也に向き直る。


「タツヤ殿を助けて下さった者というのは、此方こちらでも探しておきましょう。それではそろそろおいとましましょう」


 そう言ってスベントレナはエミリアを促しながら立ち上がった。エミリアは最後に一睨みしてからスベントレナに続く。


「それでは、ごきげんようタツヤ殿」


 二人は宿直室を出る。しばらくは、元来た廊下を無言で進んで行く。


「タツヤ殿に会ってみての印象はどうでしたかな?」


 校舎内を歩いている途中、スベントレナはエミリアに竜也の様子を問い掛けた。


「娘をかばって下さった事には感謝いたします。ですがあの男を今後、どのようになさる意向ですか?」


 スベントレナは不意に立ち止まり、校舎の窓から見えるグラウンドの様子を眺め始めた。


 エミリアも、それに習いグラウンドの様子を見やる。グラウンド内では、まだ生徒達がトラックを走っていた。

 インフィールド内では武器を持っての戦闘訓練が行われていた。武器はランダムで決められてしまう。色々な武器の扱い方は中等部入学時に全て教えられるのだが、得手不得手は誰にでも多かれ少なかれある。しかし、そのような事は関係なしに、問答無用でランダムに決められた武器を使いこなさなくてはならないのだ。


 エミリア自身は格闘戦が最も得意で、続いて短剣ダガーでの接近戦、そこそこ出来るのが棍術。苦手なものは槍や大剣のような重量のある武器全般だった。


「エミリアさんの勇者に対しての概念は、どのようなものですか?」


 グラウンド内の様子を眺めながら、スベントレナはおもむろに問い掛ける。


 エミリアもグラウンドを見つめたまま、しばし思案にふける。


「剣と魔法両方使えて万能。品性、素行共に優れた益荒猛男ますらたけおです」

「では、娘のエレーナさんはどうですか? 生まれ持っての素質に加え、あの勤勉さで今やこの学院トップの精神力を持ち、召喚魔法、精霊魔法、古代魔法、治癒魔法の全てがトップクラス。そして各武器の取り扱いにも精通しています。エレーナさんを勇者とは呼べませんか?」

「何かを成し遂げたという実績がありません」


 エミリアの答えに、スベントレナは頷いて見せる。


「今、勇者の概念に実績が追加されました。それはエレーナさんを当て嵌めて考えたから出てきたものです。このように概念とは曖昧で抽象的なものです」


 スベントレナはエミリアに向き直る。つられてエミリアも視線を合わせる。


「今後も勇者の概念は変わっていきますよ。いえ、あの者が変えていきます。ですから、早計な判断を下さないようにお願いします」


 確かに慎重な判断を要した方が良さそうだ。エミリアは心ならず了承する事を、気恥ずかしさを隠すように顔を背ける事で伝える。


 スベントレナは、苦笑いを漏らしながらグラウンドに視線を戻した。

 グラウンドでは、先頭を走っていたと思われる生徒がゴールをした所だった。記録が水晶掲示板に表示されている。

 四二.一九五km完走。記録一時間五十九分五十八秒。名前 アンジェラ・ワーズマン。

 中等部一年生で二時間の壁を超える者は、学年で一人出るかどうかという度合いの中、今年も飛び切り優秀な生徒が入学してきたようだ。三年前はエレーナが成し遂げたのだ。それも一時間五十九分五十六秒という過去最高記録を打ち出してだった。

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