第3話「ラシール」
僕たちの旅は順調だった。途中、魔物に出くわしたことはあったがそれ以外では戦闘らしい戦闘に巻き込まれなかったのだ。三日目の夕方、静かな山村に到着した僕たちは、お得意様に会ってくるというリック・ラックと分かれて宿に向かった。
どうやら、温泉が湧いている珍しい土地らしく、この宿には態々遠くから入りに来る人も居るそうだ。家族風呂も用意されているようで、旅の疲れを癒すにはもってこいの環境だ。リック・ラックも楽しみにしていたので、相当に期待していた。していたのだが、僕は非情に困っていた。
「な、なんで入ってくるんだよ!」
「いやぁ、久し振りにカリスの背中でも流してあげようかなぁって思ってさ」
シルウィンを片手に、タオルで身体を隠したラシールはニヤニヤと笑いながら身体を洗っていた僕の方へとやってくる。先に入っていたはずなのに、なんで二度も入るんだ。
「何よ赤くなって。昔はよく一緒に入ってあげてたじゃない」
「どんだけ昔の話をしているんだよ!」
と、口では抗議しつつも追い出す勇気は僕にはない。
精々がけしからん胸元に目が行きそうになった視線を前に戻し、慌てて桶の中の熱湯を被る程度だ。
煩悩を断ち切るべく被ったお湯が気持ちよい。なんて、考えて心を落ち着かせようとした矢先に背中にタオルが当てられた。
「それじゃ、いくわよ」
「あ、うん」
くそう、僕には拒否権さえもないのか。断ろうにも嫌じゃないので断れず、かといって堂々と頼むことさえできないチキンな僕は、流されるままに背中を任せてしまう。
「それにしても、あのカリスがこんなに大きくなるなんてねぇ」
「だからさ、どんだけ昔と比べてるんだっての」
「そりゃぁもう、ずっと昔よ」
ゴシゴシと、痛くもなければかゆくも無い絶妙な力加減で背中を洗われる。そんな中、ハミングするラシールの奔放さに僕の頭はのぼせそうになる。恥ずかしさと、男の純情が僕の心臓をドSよろしく攻め立てる。血流は無駄に加速し、心音さえ聞こえてくる。
分かっててやっているのか、そうでないのか? それとも単純に、僕は彼女にとっては未だに子供でしかないということなのか。問い詰めたい。問い詰めてはっきりとさせてしまいたい。
振り返ってしまえばいいのだ。そうして、想いのたけをぶつけて楽になってしまえばいいのだ。でも、そんな簡単なことが何故できないんだろう。このままで良いなんて思いも確かにある。けどそれだけじゃあないはずなのに。
「はい、おしまい。そうだ、せっかくだから前も――」
「いいから! 前はいいから!」
振り返ってタオルをひったくり、電光石火の速度で前を向く。
なんだよ、これは一体どんな拷問なんだ。いたいけな少年のハートを弄んで楽しいのかよロマンスの神。そこんとこ教えてくれよ。
「あはは、冗談よ冗談。それじゃ、私は先に入ってるわよ」
「まったくもう、そんなに僕で遊んで楽しいのかよ」
「うん」
「即答したな! なんて侍女だ!」
絶対に彼女は侍女という名の悪魔だ。きっとそうに違い無い。
それにしても、温泉か。疲労に効くそうだし、きっと入ったら気持ち良いだろう。大陸の更に東にあるジパン列島では結構有名らしいが、大陸だと数えるほどしかないとも聞く。エンチャント製品の普及のおかげで大昔と比べて格段に普及しているけれど、温泉のような効果は出せない。いつか研究して再現してみたいものだ。
ところで、僕は前を洗った後にどうすればいいんだろうか。お風呂に突撃しろと?
「気持ち良いわよぉ。カリスも入れば?」
木でできた湯船から、手招きしてくるラシール。勿論、その顔には恥じらいという要素は皆無だ。日焼けしたような小麦色の肌に張り付くタオルなど気にもしない。ただ、やっぱりというべきかタオル一枚と手にした魔剣の組み合わせは如何ともしがたい。
シルウィンさんも今頃、妹の奔放な行動を見て慌てているに違い無い。まぁ、ブラッドソードの刃が錆びたりするわけはないから、案外気にしてはいないかもしれないけど。
「ほらほら、いいお湯よ」
「しょ、しょうがないなぁ」
手招きに従い、湯船に入る。家族風呂というだけあって、一家が一緒に入れる程度にはなっているようだ。これなら子連れさんも安心だ。って、まさか本当に彼女は僕を小さい子供と同列で扱っているんじゃあないよな? 隣に座りながら、そんな情けないことを思いついてしまう。
「い、一応言っておくけどさ。僕だってもう子供じゃないんだぞ。あんまりこういうのはよくないと思う」
「なによ、私と入るのが嫌なの?」
「ううっ、そういうわけではないけど」
嫌なんじゃなくて恥ずかしいだけだ。
「ならいいじゃない。昔は毎日入ってあげてたのよ」
確かに、そうだった。その原因の一つに母の欠如が上げられる。
母ミリスは僕を産んですぐ病気になったそうだ。元々身体が強いほうではなかったらしく、おかげで僕は顔さえ知らない。親父は死ぬ前に母をブラッドソードへと鍛造し、以来ずっと帯剣し続けていた。
そのせいか、僕は侍女であったラシールに母を感じているのだろう。もはや記憶に無いけれど、最初、赤子の僕はよく親父の剣にしがみついていたそうだ。さすがに生まれてすぐの、魔剣継承の秘術をしていなかった僕をブラッドソードにくっつかせるわけにもいかず、代わりに近くに居たラシールにしがみつかせていたら懐いたらしい。
人間だったならここで彼女も成長し、何れは淡い初恋か何かで終わるところを一向に姿が変わらないものだから大変だ。母親のような姉がこうして出来上がる。そして今では見た目の上ではほとんど変わらないし、今の僕は一所に長く居るわけにもいかないせいでラシール以外の女性との接点が限りなく薄い。結果として淡い初恋は初恋のままむず痒い状況へと進化したというわけだ。
我ながら異常なのか正常なのか良く分からない。もしかしたらこれは、単純な刷り込みとか依存とかいう関係なのだろうかと悩んだこともある。でも、僕は思うわけだ。彼女以上に僕を知っていて、僕がこうして安心する女性はいないんじゃぁないかと。だったら、それでいいじゃないか。
……あれ? ちょっと待てよ? 僕のことは知られているけれど、考えてみればラシールの昔の話を僕は知らない。ずっと傍に居たから全部知った気になっていたわけだけど、これはちょっとばかし不公平じゃないか? というか、何故知ろうと思わなかったんだろう僕は。余りにも傍に居るのが当然過ぎたのだろうか。温泉の湯で顔を洗い、今更な話題を振ってみる。
「そういえばさ、ラシールって侍女になる前は何してたの?」
「んー、兄さんと一緒に暗殺者をやってたわ」
「ブフッ――」
なんだよ。普通に傭兵をやっていたとかそんなんじゃあないのかよ! 道理で侍女で護衛ができるわけだ。
「えほっ、えほっ。ちょ、それでどうしてうちの侍女になったのさ!」
「カージス様をちょろっと暗殺しに行ったらね、逆に捕まっちゃってさぁ」
「そ、それでどうして侍女に?」
「んー、あの時期は戦乱が続いてたし、そういうのが増えててね。特にアーカイバは魔剣鍛造においては周辺諸国随一だった。どの国も欲しがってたわけよ。手っ取り早く手に入れるには、障害になる一人軍隊のカージス様が邪魔だった。それの対抗手段として私たちを雇った感じね。ほら、同業者なら手の内が分かるじゃない」
「だからって普通は雇わないだろ」
「そこはほら、カージス様が割りと適当な人だったから」
(ナイス判断だ親父!)
今日ほどに、親父の適当さを感謝した日はない。親父が生真面目だったなら、今頃はラシールの命は無かっただろう。それを思えば適当な親父で本当に良かった。
「ちなみに、その後にも二回暗殺に挑戦したけど無理だったわ。カージス様強すぎよ。さすが魔剣国の抑止力。一人で一万人と戦えるっていう話は伊達ではなかったわ」
「親父、そんなに強かったんだ」
「そりゃあ大陸最強の武器庫だったもの。おかげで第一次侵攻においては神剣使いの不死皇帝を単独で押しとどめられた。それができたのはあの方だけよ。でも結局はそれ以外が物量に押されたっけね。元々アーカイバは人口がそれほど多かったわけじゃないし」
それ以上に、野心が無い国だったのだ。群雄割拠の戦乱の時代で、帝国が大陸中央部を制覇するのを横目にひっそりと生きていた。静かに暮らすということを望んでいたのは、そうか。もしかして母が居たからだろうか? 穿ちすぎかもしれない。でも、身体が弱かったというから、負担になるようなことをしたくなかったのかもな。亡くなった後は僕が居たから、とか? いや、考えすぎだなこれは。親父は基本ものぐさだった。
「親父の話はいいよ。ラシールの話を聞かせてよ」
「何よ、今日はやけに知りたがるわね」
「僕が知っている君は、侍女としての君だけだったからね」
「むふふ。そうかそうか。私の過去に興味津々かぁカリス君は」
「なんでそういう目をしていつも茶化すかなぁ」
「決まってるじゃない。これが私なりの照れ隠しだからよ」
その割に照れはない。有るのは柔和な笑みだけだ。その、酷く優しい表情がようやく落ち着いていた僕の心臓を攻め立ててくる。
「まぁいいわ。知りたいなら知りたいだけ私のことを全部教えてあげる。カリスに黙っておいてもしょうがないしね」
「どういう意味だよそれ」
抗議の声を上げる僕をそのままに、ラシールは昔語りを始めた。
クリアはその日、街道沿いの宿場町で兵士から宣戦布告の伝言を聞いた。
彼女の顔色はすこぶる悪い。なんとかカリスたちを引きとめようと出たまでは良かったが、結局二人に追いつくことができなかったのだ。
宿場町の喧騒はほとんどが帝国の宣戦布告の話で盛り上がっている。既に広まったその事実は、町の住人を不安にさせるには十分だったのだろう。夕日に照らされながらつめ所の前で彼女が出てくるのを待っていたレイチェルは、そのクリアの表情を見て理解した。
「ここまで、ということかのう」
「ああ。私はすぐに王都に戻らなければならない」
苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべるクリア。レイチェルはそこに、苛立ちとは別の微かな違和感を感じた。ほぼ三日も一緒に居たのだ。彼女の浮かべる表情の種類も分かっていた。だから、これが最後だというなら聞いておくことにした。
「どうも、腑に落ちないという顔じゃな」
「当然だ。詰め所でも聞いたが、ダークエルフと魔族の組み合わせは見た覚えがないそうだ」
「ここを避けた、ということでは納得できんようじゃな」
「そちらだと遠回りになるからな。この先ならいくつか可能性が考えられるが、ここはない。それに、ここに来るまでにすれ違った旅人も皆、そんな二人組みを見ていないと言っていただろう? 腑に落ちない気分にもなるさ」
地図を取り出し、クリアはレイチェルに見せる。その途中で山を越えるルートもあるにはあるが、地図の上では最短に見えても結局は山を越えなければならない。そうであれば、ショートカットには成らず寧ろ余計に遅れることになる。それに加えてどうせこの町を通らなければならないのは変わらないのだ。そのルートを通る理由はない。
また、馬で街道を駆けた二人が追いつけないということは二人もまた馬に乗っている可能性が考えられた。しかし、だとしたら馬で王都を出たというなら城門の見張りが覚えていても不思議ではない。それがないというのなら、馬はなく徒歩。ならばいくらなんでも追いついていなければ可笑しい。故に、結論としてクリアが導き出した結論は自らの読みの失敗である。
「まさかあの二人、南に逃げたか?」
「いや、それは無いじゃろう」
レイチェルは東しか無いと考えているし、その予想が外れたとは思っていない。
「ならば、徒歩で山だ。それ以外には考えられない」
「帝国に街道が押さえられておったから、山に逃げざるを得なかったとは考えんのか?」
「それはない。道中で戦闘跡のような物がまったく見当たらなかった」
「ふーむ」
その理論武装は完璧なように思えた。レイチェルとしては更に追求したいところだったが、それ以上は言わない。どちらにしてもクリアにはこれ以上探す余裕はないのだ。
「確認するが、東に行くなら必ずここを通るのじゃな?」
「余計な苦労をしたくなければそうだ」
「では、ワシは山へと向かおう。それで見つからなければ埒が開かんのでラレンツェルへと行く。構わんな?」
「一緒に戻ってくれ、と言えば戻ってくれるか?」
「無理じゃ。とっておきのブラッドソードをくれてやったんじゃぞ。それ以上はやれん」
「そうか、ではしょうがないな」
馬に乗り込み、王都へと戻るために馬を向ける。元々期待はしていなかったのだろう。潔く引いたクリアに、レイチェルは肩を竦める。
「おやおや、粘られるかと思ったんじゃがな。それにワシを自由にしていいのかのう」
「そんな暇がないだけだ。ここに在る一本で何ができるかは分からん。しかし、五体満足で戻らねばならないことだけは確かだ。聖剣の力も温存しなくてはいけないしな」
クリアはレイチェルを甘くは見ていない。全力で遣り合えば、確実にどちらかが死ぬだろうと、漠然と感じていた。何より、ここで戦って消耗するのは無意味だ。敵が後に控えているのだから損失しか生まない。
「道理じゃな。ではな、クリア王女。また会おう」
「うむ。これは餞別だ。持っていけ」
路銀が入った皮袋を一つ投げ、クリアは礼も聞かずに去っていく。
次があるかは分からない。しかし、クリアはレイチェルに微笑んで馬を駆った。その姿を見送りながら、レイチェルは受けとった皮袋を見下ろす。その顔は、少しばかり困っていた。
「クリア・リスティン……か。見殺しにするには少々惜しい女じゃな」
四日目。村に到着したときよりもその行軍速度は目に見えて落ちていた。
既に昼を超え、太陽は真上を通り過ぎている。行きとは違ってゆっくりと進む荷馬車はほぼ未整地という悪路のせいでかなり揺れる。森の中を進む路から外れ、今は岩山とでも形容すべき道になっている。渓谷のようなその道のすぐ左側には、下流に流れていく川がある。その進路へと目をやれば、東の街道へと続いているのが見えた。
この道を越えれば再び森へと続く道と合流し、交通の要所とされる宿場町へとたどり着く。無論、それを馬鹿正直に通る僕たちではないから途中で反れる。そこまでが、リック・ラックとの旅だ。それ以降は臨機応変に東に行く。大雑把だけど、なんとかなるだろう。
「カリス、ちょっと枕になりなさい」
「うぇ? ちょ、いきなりなんなのさ」
遥か彼方の街道を眺めていた僕の手を取り、ラシールが荷馬車に僕を引き倒す。
抗議の声は彼女には届かない。と、じゃれ合う僕たちを見てリック・ラックがとてもとても微笑ましい顔で頷いた。なんだ、その分かっていますってな顔は! ていうか、「何が夕べはお楽しみでしたか?」だ。余計な気を回すんじゃない。
揺れる馬車の上、何故かラシールに左腕で腕枕。どういう状況だ。こんなこと、今までなかったっていうのに。しかもそれだけじゃない。何故だか知らないが全身で絡まれている。これは、その、ちょっもぞもぞと足で動かれると刺激が……。
「そのまま静かに聞きなさい」
また遊ばれているのかと思った僕に、耳元でラシールが言った。それは甘い声色などまったく含んでいない冷たい声だった。空を見上げたままの僕は抱きついていた彼女の左腕が、相変わらず魔剣を握っている。触れた腕には力が篭り、いつでも動けるように臨戦態勢であることは明らかだ。敵か。
「嫌な風がするわ」
「え?」
「この先へ進むのは駄目」
「森の声は」
「岩肌ばかりのせいでほとんど聞こえない。場所が悪すぎ」
最悪の地理条件ということか。
「馬車を降りる?」
「それだとリック・ラックが危ないわ。ただの盗賊かもしれないしね。どうするカリス。今ならまだ引き返せるわよ」
僕に選べってことか。それにしても、どこの誰だ。こんな山の上で。街道で商人を襲った方がまだ金になるだろうに。いや、そうか。ここは商人が良く通る道だからか? さすがにまたドットレイじゃないとは思うが、王都でのこともある。盗賊だと断定するのは危険か。でも、戻ったところで何れは突破しなければならないことには変わらない。
「突破しよう。幸い、こっちは荷馬車だ。抜けてしまえばなんとかなると思う」
「強行突破ね? 了解。リック・ラック」
「なんですかラシール殿」
「嫌な予感がするから、合図したら強引に馬を走らせて頂戴。できるわよね?」
「……ええ」
一瞬顔を強張らせたリック・ラックだったが、すぐに頷き手綱を構え、腰の剣に手をやった。僕はバックラーを左手に装着し、いつでも障壁を張れるように準備する。
走る馬車の先には、岩肌の道があるだけだ。不自然なところなどどこにもない。だが、隣に座るラシールの顔は冷たいままだ。
ふと、慌しく周囲を散策するラシール。その顔がハッと何かに気づいたかのように頭上へと向かったその瞬間ラシールが警告した。
「リック・ラック、今よ!」
「はい!」
瞬間、爆音が頭上から響き、大音響となって木霊した。それは、次々と連鎖して山中に響き、岩肌の遥か彼方で粉塵を舞い上げる。と、その上から大小様々な岩が転がり落ちてくるのが見えた。しかし、まだ今なら加速して逃げればなんとか切り抜けられるだろう。
何せリック・ラックが合図に従って荷馬車を加速させ――てない?
行者台には彼の姿はない。彼はその先に居る二頭の馬のうち、右側の馬に飛び乗って剣を抜いていた。
「申し訳ありません、若」
苦しそうに顔を歪め、彼は馬のロープを切る。それは、荷馬車を引くための馬だ。彼だけを乗せた馬が一頭だけ加速し、岩の進軍からいち早く逃れていく。
「リック・ラック貴方!」
ラシールが碧眼を鋭く歪め視線で射抜いた。だが、それも一瞬の浪費でしかない。すぐに行者台に向かい、残った一頭の馬を急かすようにして手綱を繰る。残った一頭の馬が加速する。しかし、一頭では馬力が足らず悪路のせいか速度が上がらない。このままでは落石の群れに押しつぶされる。
「カリス!」
伸ばされた手に即座に捕まり、二人して暴風に乗る。一瞬の浮遊感。その間にも、僕の頭の中では余計な考えが埋め尽くそうになる。だが、それに没頭する時間などない。
シルウィンは正しく僕たちを浮遊させ、残った馬の上へと飛び乗らせた。飛び乗られた馬が衝撃に驚き、嘶きの声を上げる。だが、手綱を器用にも操ってラシールが御する。その後ろで、僕は短剣を引き抜き荷馬車の高速具を切断する。
重りから開放された馬が加速した。
間一髪、その背後で落石に押しつぶされ拉げた荷馬車が無残な最期を辿っていく。後数秒遅ければ僕たちもそうだったに違い無い。
「上から矢! 障壁展開、大急ぎ!」
「分かった!」
落ち着く暇もありゃしない。
落石の最中、岩肌の上から構える弓の集団。数は分からずとも、それが追撃を狙っていることだけは間違いない。右手でしっかりとラシールの体を抑え、左腕のバックラーのエンチャントを起動する。
ミスリルに刻まれた術式が魔力を得て発光。僕たちを守るための障壁を作り出す。その上を、放たれてくる矢がことごとく弾かれて力を失い、次いで落ちてくる落石に飲み込まれた。
先を行く彼の馬には矢の攻撃は無い。助かるために一人逃げ出したというわけでないのはこれだけでも明らかだ。今思えば、この場所で仕掛けられたのもきっと植物が無い場所を選びたかったからに違い無い。風を読むシルウィンがなければ気づかなかった。
「リック・ラック、業突く張りの商人め。カージス様への恩を忘れたか!!」
ラシールが怒りの声を上げ、弓を取る。
(ラシール……)
ここまで怒りを露にした彼女を見たのは始めてだ。それだけ、彼を信じていたということか。未だに彼を信じたい僕と同じように。
父が信用していた、というのもある。それ以外にも、旅の最中に助けられたことだってあったのだ。なのに、どうして、何故なんだよリック・ラック。
彼は振り向かない。一心不乱に手綱を操り山道を進む。二人分の重りを持つ僕たちの馬では、彼に追いつくのは難しい。だが、それは普通に進めばの話だ。
「風の加護を。兄さん!」
二度目の暴風が、山道を抜け追い風となって駆ける僕たちの馬を後押しする。離れていた距離は徐々に縮まり、その差を強引に埋めていく。
「カリス、障壁解除!」
「うん」
弓の攻勢が止んだ次の瞬間、マジックアローが崖上へと放たれる。特大の魔力の矢が分裂し、曲射射ちとなって集団へ降り注ぐ。遠くで上がるいくつもの絶叫。ラシールは続けて、二度三度と矢を放つ。
射撃範囲を攻撃する分威力は落ちるが、一発でも当たれば十分に妨害できる。その間にも駆ける馬は、彼らの真下を通過する。どうやら、もう落石の罠はないようだ。
「ふぅ、間一髪――」
安堵ため息を吐いた僕だったが、状況は終わっていない。いつでも障壁を再展開する用意をしながら、油断なく戦場を見据える。
「どういうつもりよリック・ラック! 返答次第ではぶっ殺すわよ!」
引き連れた風が、遂に先を行くリック・ラックの真後ろに僕たちを導く。だが、それでも彼は言い訳の一つもしなかった。
「敵に問答とは、甘いですぞラシール殿!」
リックラックの剣が輝く。エンチャントの光だ。初めてそこで振り返った彼は、無表情で剣を凪ぐ。剣の軌跡から放たれるのは紅蓮に燃える炎の波。だが、風を味方につけた僕たちには効かない。効かないが、しかし、そうとは知らない馬は違った。炎に原始的な恐怖を抱いて嘶き逃れようと速度を緩め、避けるために離れようとする。
「あ、こらっ! ええい、この馬もヘタレか!」
「ちょ、今誰と比べた!」
絶対に僕と比べたに違い無い。思わず抗議の声を上げる僕を無視して、ラシールが馬を叱咤する。けれどさすがに馬はそれ以上は言うことを聞かない。炎を恐れ、一定以上近づこうとしなかった。
業を煮やしたラシールが弓を構え、リック・ラックに狙いを定める。捕まえて事情を吐かせるつもりなのか、その狙いは致命傷となるべき箇所ではなかった。しかし、放たれた魔力の矢はリック・ラックの障壁に阻まれ霧散する。
「ちっ、さすが商人。装備にもちゃんと金賭けてるじゃない!」
舌打ちして憤慨するラシールは諦めて弓を仕舞い、シルウィンを握る。防御障壁といえど、防御能力以上の攻撃は防げない。過剰な攻撃力を持つ一撃を放てば一撃でリック・ラックの体は消し炭となるだろう。だが、ラシールはそれをすることは躊躇した。と、岩肌ばかりの道の先に立ちはだかる男の姿が見えてくる。
色素の薄い短い白髪に蛇のように鋭い眼光。痩せた体に簡素なシャツにズボンだけを纏い防具らしきものは一切装備していない。なんという軽装だ。旅人にしても荷物袋一つ背負っていないのは明らかに可笑しい。その腰には二本のショートソードを差しており、武装している。その男は、舌なめずりをしながらリック・ラックの馬を素通りさせ、次いで走る寄る僕たちの道を塞いだかと思えば剣を抜く。そのとき、確かに僕の脳裏を不気味な衝動が駆け抜けた。その不快な感触は、馬で強行突破しようとするラシールの体を強引に引き寄せさせた。
「駄目だ!」
「ちょっ――」
ラシールの困惑の声など聞かず、シルウィンに後ろから触れ、暴風を発生させて強引に体を打ち上げさせる。その瞬間、馬の首を両断して迫った銀閃が先ほどまで僕たちが座っていた場所を通過した。
「嘘っ、神剣使い!? くっ――」
宙を舞いながらそれを見たラシールが呟き、シルウィンの主導権を握って風を繰る。地面に叩きつけられる寸前に再度風を吹かせて勢いを弱め、岩肌を転がる。回転する視界の中、きっと僕たちの頭の中でリック・ラックのことなど消えていた。
二人してすぐに起き上がり剣を抜く。その眼前には、一撃で首を失った馬が血溜りに倒れ付す光景が広がっている。その向こう、剣を抜いた男がゆっくりと振り返る。
「なんだよ、あのデブに騙されて連れてこられたにしちゃあいい勘してるじゃねぇーか」
低い声で、称賛のような言葉が男から吐き出される。見た目は二十代前後のその男は、楽しげに舌なめずりをする。その視線はどこか粘着質であり、そして下品だった。僕を軽く見た後、ラシールを見てさらにその視線が強くなる。
「いいねぇ。年齢三桁のババァにしちゃあ上等だ。相手にとって不足はねぇな」
「言ってくれるじゃない。おしめも取れていない坊や風情が」
シルウィンの刃に、青白い光が灯る。限定解除特有の発光現象だ。ドットレイとの戦いより既に四日になる。使用回数は十分に回復しているはずだ。けど、そんな事実は僕を安心させてくれはしなかった。正直、僕は不安だった。
その理由は相手の神剣の数だ。これまで、ドットレイのように神剣使いが二本の神剣を持つ場面に遭遇したことはない。だってのに、こいつは一人で二本も神剣を持っている。
「神剣の二刀流か。始めてみるわ」
「ひひっ、だぁろうなぁ。単純に数がねぇからなぁ」
蛇の目がいよいよ細まり、チロチロと舌が動く。二振りの剣を握る腕は忙しなく動き、剣同士の刃を擦り合わせて擦れる音を奏でさせている。その、耳障りの悪い音に紛れて背後から馬が駆ける音がする。リック・ラックだ。馬を止め、神剣使いと彼自身で逃げ道を塞ぐように僕たちを挟み撃ちにする。
「カリス、後ろを任せるわ」
「うん」
何時になく真剣な声色で言ったラシールと背中を合わせ、僕は長剣を握る手に力を込める。バックラーを装備した左手も添え、彼を見据える。彼の目はどこか強張っていた。だが、もう彼は決めたのだろう。引く態度は一切とらない。なら、僕も決めないといけないのだ。リック・ラックをこの手で倒すと。
「ラシール」
「ん?」
「すぐに終わらせるから、それまでは凌いで」
それだけ言うと、僕は彼女の返事を待たずに飛び出した。
掲げた長剣が、甲高く鳴る。咆哮する金属が、エンチャントの輝きを残しながら衝突しては火花を散らす。薙ぎ、払い、突きかかる。無言で、ただただ無言で剣を交わす。僕は、そこに一切の手心は加えない。加える余裕がない。
「若、お強くなりましたなぁ」
ふっくらとした体躯が、見た目を裏切る速度で対応する。世界を股に駆ける商人リック・ラック。魔族として、魔法や魔力の扱いに長ける彼は、世界中の盗賊と戦って生き抜いてきた商人戦士でもあった。ぽっちゃりとした見た目とは裏腹に、潜った修羅場は並ではない。
「ラシール殿の教育の賜物ですかな?」
全力で剣を振るう僕を相手に、まだ喋る余裕があるのはそのせいか。装備のエンチャント能力をフルに使ってこれだ。何が、すぐに終わらせるだ。
自嘲しながら剣を叩きつける。ヒラリと、舞うように避けたリック・ラックが反撃とばかりに突いてくる。旋回するような角度で迫るそれを、バックラーの障壁で受け止める。
「くっ――」
障壁を抜かれることはなかったが、それでも軽い口調とは裏腹にビリリと腕に走る衝撃は僕の顔を苦くさせるには十分だった。
「ラシール殿が心配ですかな? 心ここに在らずといったご様子。相手が神剣使いですからさもありませんが、そんな調子では私にさえ勝てませんぞ」
「うる、さい!」
強引に障壁で剣を弾き、長剣を振るう。その瞬間、剣の軌跡にしたがって魔力刃が飛翔する。リック・ラックはそれを見てすぐに剣を振り、炎の壁を作り出して相殺する。衝撃で散った炎の壁が飛散し消えながらも周辺の空気を熱で炙る。その熱波は僕の肌に焦燥とは別の汗を流させ、酷く神経を逆撫でする。それに触発された僕の口は、自然と聞くつもりのなかった問いを口にさせた。
「どうして帝国に付いたんだリック・ラック!」
「簡単な話です若。帝国に友人が捕らえられたからですよ」
「なんだって!?」
「別段、不思議では無いでしょう。一旗あげるべく危険を賭して侵入し、馬鹿をやらかしたというだけの話。あいつはとびっきりの馬鹿だった。上手い話に乗せられて裏切られ、その果てに私に助けを求めた大馬鹿者だ」
淡々と、諦めたかのような顔で言うのだ。だが、馬鹿だ馬鹿だと言う割にはその目には戸惑いなど一切なかった。助ける気なのだ彼は。
「普通なら見捨てるのが正しいのでしょうな。しかし、私は彼に恩義がありましてね。アーカイバ陥落後、剣のエンチャントの不履行。その違約金を肩代わりしてもらったという恩がね」
「それは!」
「ええ、しょうがないことです。国自体が無くなってしまいましたからな。せめて情報が届くのが数日早ければ助かりました。ですがね、現実は厳しいもの。違約金を払ってすっかり商売の種を失った私ですが、その男は私に金を貸し、立ち直る支援をしてくれたのです。信用を失った私がこうして今も商人を続けられている理由はそのおかげなのですよ」
「アーカイバを、僕たちを恨んでいるのか?」
「まさか。カージス王も若も嫌いではありません。ですが、それはそれ、これはこれでございましょう」
事情を知らなかったとはいえ、困っていた彼に助けられたこともある僕だ。その上で、更に友を助ける機会さえ僕は奪わなければならないのか。それは、とても心苦しいと思う。聞くべきではなかったと、正直後悔してしまうほどに。でも、それでも止まることはできない。この、胸のうちにある不安が止まらないのだ。背中の向こうが、どうしようもなく気になる。そこへ急げと、僕を突き動かして止まないのだ。そこには、浅ましい優劣が存在する。その天秤が、僕の迷いを殺し選択させる。
「ごめん、リック・ラック」
「謝る必要などございません。言いたくはありませんが、これが世の無情というもの」
「それでも、ごめん」
「若……」
「僕は君に何もしてあげることができない。精々がこの首を上げることぐらいだ。でもね、それは僕にはできない。だから、倒させてもらうよ」
自分の命を差し出してまで、彼の助けになろうなんて自己犠牲神は僕にはない。借りも沢山あるというのに、踏み倒すことしか今の僕にはできないのだ。
剣をもう一度構え、前を見据える。
彼は止まらない。僕も止まらない。ならば、その意志を断ち切るしかない。浅ましいな。何様のつもりだカリス・アーカイバ。僕は自虐的な笑みを浮かべながら、ただ前へ駆ける。
リック・ラックが剣を振るう。炎が軌跡より現れ、僕の行く手を阻むが、気にせずにただ前へ駆けた。瞬間、炎の壁を前に僕はただバックラーを掲げて突っ込む。肌を焼く炎の熱が、身を焦がそうと猛威を振るう。だが、止まらない。壁を突きぬけ、構えた彼へと剣を振り上げ、至近距離から投げつける。飛来した長剣は、咄嗟に剣を振るったリック・ラックに弾かれ地面に落ちる。
「なんと捨て鉢な!」
最大の武器を捨てた僕を前にして、リックラックが返す刀で剣を振るう。その袈裟切りは、威力強化のエンチャントが込められているのか、炎ではなくただ煌くのみだった。そこへ、バックラーごと体当たりする勢いで飛び込む。彼が声を失うのが分かる。こんなのはただの特攻と相違ない。だがそれで十分だ。何せ武器はそれだけではないのだ。
全身で剣を止め、武器を封じ至近距離から右手を叩きつける。瞬間、ガントレットの表面がエンチャントの光で輝いたかと思えば、至近距離からリック・ラックの腹を打った。ボキリッと骨を砕く確かな感触とともに、苦痛に顔を歪めるが顔が飛び込んでくる。
「がふっ――」
それでも、彼は剣を捨てなかった。戦意は消えず、不意打ちから立ち直ると剣を振ろうと持ち上げる。だが、その先を僕は許さない。瞬時に肉薄し、剣の柄尻をバックラーで押さえ振れないようにして再び殴り飛ばす。リック・ラックの体が耐え切れず後ろに倒れる。そこへ、馬乗りになりながら腰から短剣を抜いて首に添えた。
「リック・ラック。どうして手加減したんだ」
「なんの、ことですかな」
「障壁を使えたくせに、何故使わなかった!」
「ああ……」
武装を思い出したのか、彼は困ったように笑う。
「すっかり忘れておりました。やはり、私は商人なのですよ」
荒事は苦手だと、彼は言う。
「若、止めを。ラシール殿が危のうございますよ」
僕は無言で左の短剣を抜き、電撃の魔法を打ち込む。手加減したそれは、リック・ラックの意識を刈り取る。呼吸は消えていない。上下する胸は、確かに彼の意識だけを奪ったことを僕に教える。
「倒すって言ったよリック・ラック。止めなんて刺さない」
再び、彼が僕たちの前に現れることもあるかもしれない。でも、僕はそれで良いと思った。両手の短剣を腰の鞘に戻し、地面に叩き落された長剣を拾うとラシールに加勢するべく様子を探る。
すると、神剣使いとラシールの二人は凄まじい速度で戦っていた。ショートソードを二本、凄まじい速度で振り回す男を前に、ラシールは速さと体捌きでもって耐え凌ぐ。時折残像が見えるほどのラシールの機動力は、ここ最近見たことがないほどのレベルにまで昇華されていた。シルウィンの生み出す暴風が、ここまで届く。
その、一見すると互角かに見える立ち回りはしかし、彼女の顔色を見て違うのだと分かった。その男は、驚くべきことにラシールの速さに対応し出している。ドットレイもそうだが、彼の場合は獲物の取り回しの悪さがラシールに対応できない要因となっていた。しかし、この男の剣の重量は比べ物にならないほどに軽い。取り回しで困ることもなければ片腕の剣でラシールの攻撃を防御して、もう一方の剣で攻撃することができる。
その分リーチが短いが、神剣の加護がその程度の差など無意味にしていた。さらに、ラシールには攻撃回数というハンデがある。それが極めて彼女を不利にする。
(何度打ち合った?)
ラシールは回避することでどうにか耐えている。相性は最悪だ。シルウィンの攻撃回数は九回。聖人を生贄にしたマリアードよりも六回も少ない。一回分残さなければならないとして、八回しか攻撃できない。
そして大前提だが、援護するとしても僕は絶対に足手まといになってはならない。これが非情に厳しい。周囲を見回し、どうにかする方法を考える。と、不意に僕の目にリック・ラックが乗っていた馬が目に入った。
(馬で離脱か)
駆け寄り、鞍に飛び乗る。幸い、僕も馬を扱うことはできる。
「ラシール、リック・ラックは倒した!」
大声を上げつつ手綱を握り、ラシールを待つ。彼女はすぐに僕の声に反応し、駆け出してくる。
手綱を繰り、馬を緩やかに走らせる。十秒もしないうちに僕の背中にラシールが飛び乗って来たのを確認すると一気にシルウィンの追い風で馬を加速させていく。
「逃がすかよてぇめぇら!」
「げっ、あいつ馬に追いつく気よ」
「そんな馬鹿な!」と、声を上げて振り返ると、確かに凄まじい速度で追いかけてくる神剣使いが目に入ってくる。馬鹿げていると思うが、馬の足に人が付いてくるなんてのはまともじゃない。でも、そうだ。神剣使いには常識は通じないのだ。馬で人とデットヒート。そんな光景がここにある。通行人が居ればびっくりだろう。
「ちょっと、このままだと追いつかれるわよカリス!」
「今度馬に乗るときは、絶対に人より速いのを選ぶよ!」
「ええ、絶対にそうして頂戴!」
疲れた声色でラシールが言う。僕は一心不乱に手綱を操り馬を操る。だが、加速し続ける馬が曲がり角に差し掛かる直前、業を煮やした神剣使いがこちらに向かって神剣を振るった。
「ちょっ、嘘でしょ!」
ラシールの驚愕の声がする。ドットレイは一度もそういう攻撃をしたことがないため、漠然と遠距離攻撃能力はないものと考えていたのだ。しかし、そうではないということか。
背後から迫る光の刃。その輝きが、僕たちを飲み込もうと迫る。相手は神剣。その威力は、攻城戦に使われる規模のそれに相当すると思って間違いは無い。僕のバックラーでだって、防げるわけがない。
「く、シルウィン!!」
咄嗟にラシールが魔剣を振るう。迎撃の刃は至近距離で光と衝突し、今まで感じたことのないほどの大音響とともに衝撃波を生み出した。その余波は止まる所を知らず、馬ごと僕たちを崖下へと吹き飛ばす。ラシールが僕を掴んで虚空でシルウィンを発動させたが、それでも川への落下は免れない。そのまま二人して川に落下した。
「ここは……」
肌寒さを感じて目が覚める。すると、僕は川原で横になっていた。随分と流されたらしく、岩肌ばかりの山道ではなく、周囲には森の木々が見えている。時刻は夕刻か。随分と薄暗くなっていた。
「あ、気がついた?」
「うん。って、ラシールその腕!」
早々に意識を失った僕を引き上げただろう彼女の左腕は、力なくだらんと垂れ下がっていた。打撲後が見えるが、その程度で済んでいないのは明らかだ。確実に折れている。
「流されてるときに思いっきり岩にぶつけたのよ。おかげで鎧を脱ぐのだって大変だったわ」
なんでもない風に言っているが、このままでは明らかに戦闘などできないだろう。それに激痛があるはずだ。だというのに、僕に心配させまいと痛みを訴えることはしなかった。心配ごとはそれだけではない。ラシールの装備が減っていたのだ。
「まさかシルウィンは……」
「うん。進退窮まったって感じ」
外された装備の中に、シルウィンがないのだ。あの、神剣使いに対抗するための唯一の武器が。
「いやぁ、困った困った」
笑い事ではないというのに、ラシールは笑う。僕は、その痛々しい姿を見て言葉を失った。でも、今は黙り込んでいる状況じゃない。ラシールの腕にそこら辺にあった流木を当て、外套の端を破って固定する。そして、その次に状況を確認するためにも今ある所持品を確認していく。
荷物袋は二人ともない。荷馬車と共に岩の下だ。幸い、路銀は懐に入れてあったから旅の旅費は問題ない。しかしラシールは弓とシルウィンを失い、僕は親方から貰ったバックラーを失っていた。そして何より、食料と地図がない。水はどうとでもなるが、これら二つはどうしようもない。なんとか森で糧を得なければ飢え死にすることになる。
「移動しましょうか。川から離れないと、あいつらが来るわ」
「だね」
神剣使いとその仲間の生き残り。負傷しているリック・ラックはすぐには動けないだろうけど、既に川を下りながら捜索しているに違い無い。いつまでも留まることはできない。
ロングソードを片手に、先頭を歩く。生い茂る草を切り払い、ラシールが聞く植物の声を頼りに危険な魔物や動物と遭遇しないように気をつけながら進んでいく。濡れているせいで張り付く服や下着がウザったい。だが、文句を言ってもしょうがない。
後ろでは、痛みを堪えながらも泣き言一つ言わない彼女が居るのだ。僕から先に根を上げるような無様なことは到底できない。
「あ、カリス。もうちょっと進んだところに洞穴があるみたい。今日はそこで休みましょう」
「分かったよ」
僕は頷き、指示通りに歩いた。
寝床となった洞穴は、それほど深くない構造だった。五メートルも進めば限界だったが、それでも雨露を凌ぐ程度は余裕で出来る。三、四人は横になる程度の広さもあるしで、言うことは無い。
僕は近くの木を広い集め、焚き火の準備をする。その間、ラシールには休んでもらうことにする。周囲は森だ。何かあっても、彼女なら気づける。
適当に木を集めて戻ると、彼女は一本の短剣を使い、左腕に治療魔法を掛けていた。けれどそれは慈悲魔法の使い手のそれとは違って治癒を促進する程度の力しかない。痛みを軽減できれば十分だろう。ただ、それを見て僕は少しばかりの悔しさを覚えた。
世界には様々な魔法がある。それらは基本的に生まれつきの素養か信仰によって得るものである。そのせいで加護魔法とも呼ばれている。それに対して、加護魔法の魔力の流れをヒントに人工的に生み出されたのが術式魔法であり、その研究過程で生み出されたとされるのが付与魔法だ。術式魔法は学べば誰でも使える反面、加護魔法よりも威力が劣る。
付与魔法は攻撃や防御といった戦闘に必要な方面にはそれなりに効果があるし、使い勝手も良い。何より起動速度は加護魔法よりも速く実戦向きだ。しかし、例外的に治癒は苦手としていた。慈悲魔法は逆に、攻撃は苦手でも防御や治癒に秀でているのだが、そもそも付与魔法は武具に使用することを前提としているため、戦闘に特化されすぎているといってもいい。そのせいで、こういう場合にはあまり役に立たないのだ。
「……カリス?」
「あ、うん」
ぼんやりと考えていた僕を不審に思い、彼女が首を傾げる。それには答えず、ただ黙々と火を付ける。これもまた、サバイバル用にエンチャントした短剣を使った。一本で火をつけたり、水を出したりと色々できる必需品だ。これを無くさなかったのはありがたい。
まぁ、無くしても適当なものにエンチャントすればいいだけだけど、手間の問題だ。
焚き火の周囲には、木を使ってなんとか衣類を乾かすために仕掛ける。先ずは外套。その後で、衣服だ。山の夜は冷える。早く乾かしてしまいたいものだ。その後もう一度木を集め朝まで持たせるために準備するとすっかり夜になってしまった
。
「くしゅんっ」
「こんな時に風邪なんて引かないでよね」
「分かってるよ」
真っ先に乾かした外套を羽織り暖をとる。今ではほとんど裸同然だ。ラシールもそうだが、寒さを訴えることはなくケロリとしている。我慢強いからか、それとも単純に僕の体が貧弱なのか。判断に迷うところだ。
「ねぇ、正直な話これからどうしようっか」
「どうしようって……ラレンツェルまで逃げるんだろ」
そのために親方の工房を出たのだ。なのに、なんだって聞くんだよ。
「逃げ続けて逃げ続けて、ここまで来たわ。でも、それをいつまで続けるの?」
「それは……」
僕には答えられない。どこまでも連中は迫ってくる。だから、そう、逃げ続けることに終わりなんてきっと来ないだろう。或いは、帝国がマギルレイクとぶつかれば話は変わるかもしれないが、それを待つのだとしても結局は逃げ続けることに変わりは無い。だから、答えを明確に言葉にすることはできなかった。
「答えられない?」
「うん」
「というかさ、カリスにその先ってあるの?」
「先? 先って何さ」
「逃げた先のことよ。何かあるでしょ。こうしたいとか、ああなりたい、とか」
「ああ、そういうのか。それならあるさ」
無ければきっと、僕は希望も何も完全に失っていただろう。
「どうせ、エンチャントスミスになってひっそりと暮らすとかそんなのでしょ」
「うぐっ、でも具体的かつ現実的な展望だよ。親方だって認めてくれてた。それに、僕はエンチャントが好きなんだ。それはラシールだって知ってるはずだよ」
「それは嘘じゃないでしょうね。でもねカリス。貴方は本当にそれだけしかないの? 違うでしょう。他にも沢山あるはずだわ」
「何を、一体何を言いたいんだよ。沢山なんて、そんな欲張りなもの僕にはない。親父と同じさ。結局は野心なんてない。僕はただ君とずっと居られればいいと思っているだけだ。そんな程度でしかないんだよ」
「本当に? 封印が解けた貴方も同じことが言えるの?」
「当たり前さ。僕の本質は変わらない! 抑圧されているモノが解放されたって同じさ」
「貴方が望めばなんだってできるはずよ。どうしてそれを望まないのよ」
なんだよ、魔剣王になってどうなるって言うんだ。そんな称号は僕を満足させるものじゃあない。僕は今で十分満足なんだ。どうして、そんなことを言うんだよ。
「望めばなんだってできるなんて嘘だ。だったら親父は帝国に負けなかったし、アーカイバは滅んだりしなかった! 結局、皆自分にできることしかできないんだよ。それは僕だって変わらない……」
「いいえ、できるはずよカリス。アーカイバはまだ生きているわ」
「生きてるって……訳が分からないよ」
一体、君は何を言いたいんだ。
「カージス様も生きている。私は見たわ。あの日、貴方の中に戻ってきたでしょ? 確かに、領地も領民も失ったわ。でもねカリス。魔剣王を引き継いだ貴方が生きている限り、アーカイバは滅んではいないのよ」
ふと、ラシールが立ち上がり僕の背中へと抱きついた。
「ほら、そうでしょうカリス。皆、貴方の中に生きて居るのよ」
違う、皆死んだ。僕の中に在るのは皆じゃない。魔剣化されたただの剣だ。皆の命が宿っただけの、ただの魔剣だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「ブラッドソードは生きている。カージス様はよくそう言っていたわ」
「剣になって生きてるって? 確かに、意思はあるのかもしれない。所持者を選ぶからね。でも、剣は喋れないし何もできない。そんなのは死んでるのと変わらない!」
「優しい子。でもね、皆望んでそうなったはずよ。望む結果を得るためにそうなったの」
「だからって!」
魔剣化は心からの了承無しにはできないようにされている。それは、きっと秘術を生み出した誰かに残っていた最後の良心だ。無作為に誰かを武器にしないための安全装置〈セーフティー〉であり、命を闇雲に犠牲にしないための、その不文律を犯さないための最後の一線に違い無い。でも、こんなのはあんまりだ。命は一つしかないんだぞ。
「だからって、望まれても困るよ。本人が了承したからって、結局はブラッドスミスが殺したことに変わりは無いじゃないか!」
「それでも、それが救いだったはずよ。ミリス様もそうだった。そのおかげで二人と一緒に剣になっても居られたわ」
「……」
「ねぇ、カリス。次、あの神剣使いが現れたら私を魔剣化しなさい。ううん、今からでも構わないわ。貴方は生きるべきなのよ。皆の分まで」
「冗談じゃない!」
叫びは、夜の洞窟に煩いぐらいに響いた。カッとなってラシールを睨みつけた僕は、そのまま碧眼を真っ直ぐに睨みながら心中を吐露する。
「親父にそう命令されたからって、こんな時に言わないでくれよ!」
言いたくなかったのに、どうしても我慢できなかった。その後で、耐え切れなくなった僕は顔を背ける。
「恨むぞ親父。なんだってラシールにそんな命令を出したんだ。君を武器庫の鍵にするつもりで僕に付けたなんてあんまりだ。これだけは絶対に許さない。許してやるものか!」
「……知ってたの?」
「知らなかったよ! でも、ブラッドソードの記憶を僕は見れる。不死皇帝との戦いを知ろうとして、親父が君に言ったことを知ったのさ!」
ブラッドソードは了承なくしては作れない。そして、僕の魔族としての能力と武器庫開放の条件は僕が一本鍛造すること。つまり、誰かを殺すことだ。歴代の魔剣王が通ってきた道とはいえ、それでもこの風習が僕は大嫌いだ。もし戦時だったなら、死に掛けた誰かを魔剣化することで良心の呵責に悩まされることは薄まる。でも、アーカイバは滅んだ。しかも、命を捨てられる者は皆全員戦争に出た。それを織り込んで彼女を生贄にするつもりで僕を守らせるなんて、そんなの最低以外の何者でもないじゃないか。
「君は殺すことは絶対にしない。それじゃあ、僕がずっと逃げ続けてきた意味がなくなってしまう!」
「意味? もしかして、貴方がずっと逃げるって言い張ってきたのは」
「そうさ。僕は君が大好きだ。だからそれは端っから論外だよ。それをするぐらいなら僕は帝国に君の命と引き換えにこの首をくれてやったっていい!」
ああ、そうだ。そのためになら別に死んでやってもいい。この十年、彼女に生かされてきた命だ。彼女のために使えるのなら投げ出す理由として十分に足る。
「そうだ、どうせならリック・ラックに首をやろう。まだ近くにいるはずだし、帝国に友達が人質に取られてあんなことをしたらしいんだ。先が無いならそうするのも――」
「この馬鹿リス! なんてこと言うのよ貴方は!」
「自分を犠牲にするって先に言ったのはラシールだよ」
「私はいいのよ! 私は……私は貴方に生きていて欲しいんだもの!」
「僕だって君に生きていて欲しいさ!」
背中越しに、泣き声が聞こえた。
もしかして、泣かしてしまったのだろうか? 泣かされたことはあっても、その逆はなかったのが密かな自慢だったのに。
「……ラシール?」
「うう、だって、もう……もう、私じゃあ貴方を守って上げられないのよ。兄さんが無いから、せめて封印を解除してあげるぐらいしかしてあげられることなんてないのにぃ」
「そんなことない」
言葉は、自然と僕の口から飛び出していた。
「そんなことないよ。シルウィンが無くったって、君にできることは一杯あるじゃないか。僕は一人じゃあ何もできなかった。エンチャントはできたけどさ、それ以外を全部教えてくれたのはラシールじゃないか」
武器の使い方、戦い方、街での生き方に野宿の仕方。この十年、君から教わらなかったことはない。それに僕を僕のままでいさせてくれたのは間違いないく君なんだ。他の誰でもない。それは、僕の中にある沢山の魔剣なんかじゃない。そして何より、いつも傍に居てくれたのは君だった。
「それに、僕の好きなスープは君じゃなきゃ作れない。これはとてもとても大事なことだと僕は思うんだ」
「馬鹿ぁ、あんなの誰だって作れるわよぉ」
「でもあの味は君にしか出せない」
他の誰が作ったって、同じモノにはならない。僕の侍女にしか出せない味だ。それに価値が無いなんてわけがない。
「ねぇ、ラシール。本当に何もできないって思ってるの?」
「うん」
「じゃあそれでもいいよ。でも、だったらせめてずっと僕と一緒に居てくれないか?」
「ふぇ?」
「どこまでも僕と一緒に逃げてよ。地の果てでもさ、海の向こうでも、地獄の底だって構わない。ただ、僕と一緒に居てよ」
他には何もしてくれなくてもいい。それ以上は全部僕がやってやる。仕事も家事も戦いだって、全部だ。この際全部纏めて受け持ってやろうじゃないか。
「な、なんてこと言うのよ。まるでプロボーズの言葉じゃないの!」
「ははっ、うん。そうみたいだね。じゃあ、せっかくだしそう思ってよ」
「ちょっと、カリス!?」
背中に抱きついたままのラシールに振り返り、僕は真っ直ぐに碧眼を見る。困惑したような、どこか困った彼女が何か言う前に唇を奪う。
ただ触れるだけだったそれは、すぐに終わる。目の前で起きたことが理解できなかったのか、しばし呆然としたラシールが目を瞬かせる。だが、三秒もしない間に僕に向かって平手が飛んだ。パァンッと、乾いた音が鳴る。気持ちが良いぐらいの快音だ。まぁ、音の割りには大したことなかったけどさ。
「な、ななな、なんてことするのよぉ!」
「何って、愛情表現?」
「馬鹿、馬鹿! この馬鹿リス! そういうのは好きな人に――」
「うん。だからしたんじゃないか。大好きなラシールに」
「ッ――」
「そっか。僕の純情を弄ぶのは得意でも、真面目に返されるのは苦手なんだね」
「そ、そんなこと……」
真っ赤になったままの彼女は、僕から逃げようとジリジリと後ずさる。でも洞穴は無限には広がっているわけではない。僕はそのままラシールを追い、ギリギリまで追い詰める。
「さて、自他ともに認めるヘタレな僕がこうして告白したわけだけど、せめて返事をくれないかな。返答次第では僕たちの旅はここまでだよ」
「ほ、本気なの?」
「冗談でキスはできないと思うけど」
「で、でも私はカリスよりも年上よ。三桁よ! 文字通り桁が一つ違うのよ!」
「見た目は十分に僕でも釣り合うじゃないか。もうこの際ラシールが四桁でも五桁でも構わないさ。僕はラシールが何歳でも気にしないから」
「い、いつもと性格が違う。なんなの今の貴方。こんなカリス、私は知らないわ」
「もしかしたら感情が高ぶりすぎて封印の効力以上に自我が強くなってるのかも」
「そ、そんなことあるの?」
「さぁね。でも、今ここで決めるのは君だよ。いつも僕が決めてきた。でも、これは君にだって決める権利がある。だから選んでよ」
提示する選択肢は二つ。
「僕と逃げ切って添い遂げるか、僕の命で生きながらえるか。どっちがいい?」
「何よその選択肢!」
「順当だと思うけどなぁ」
この際、勢いに任せて開き直ってしまおう。ははは、帝国の神剣使いに襲われてピンチだってのに何をやってるんだろう僕は。我ながら笑ってしまいそうだ。
「それで、どっちにする?」
「ううぅ」
返答は無い。あたふたする彼女は、逃げ場を求めて視線を彷徨わせる。僕はそんな彼女の頬に手を触れ逃げ場を塞ぐ。碧眼の主はいよいよ困り果て、視線を逸らす。けれど、それは許さない。隙をついてもう一度キスをした。殴られるのを覚悟の上で、今度はすぐには止めないキス。でも十数秒を越えてもラシールに動きは無かった。ふと、目を開けてみると目じりから涙が零れ落ちるのが見えた。僕は慌ててキスを止める。
「えと、その、そんなに……嫌だった?」
恐る恐る尋ねる。
「当たり前でしょ! だって、だって私は侍女なのよ。それもこんなに歳の離れた!」
「そっか」
なら、しょうがない。僕は立ち上がって離れようとする。そのときだった。か細い声と共に、僕の外套が引っ張られたのは。
「――にん」
「え?」
「責任、取りなさいよ。私を侍女でいられなくした責任」
「……」
「侍女も護衛も止めるわ。いつか、こうなるかもしれないとは思ってた。でも、こういうのご法度だったから気づかない振りをしてたのに。だから、その責任取ってよ。とりなさいよぉ」
「……うん」
僕はそれに頷いて、彼女の体を力いっぱい抱きしめる。腕の中にはもう、母親代わりのようなあの侍女はいない。この腕の中にいるのは、一人のダークエルフの女性なのだ。そう思うと、妙に彼女が可愛らしく見えてくる。
綺麗な金髪も、日焼けしたような小麦色の肌も、僕をよくからかうやらしいところも、コロコロと変わる表情も、それら全てがこんなにも愛おしい。
「ずっと、一緒に居てよラシール。いつまでも、いつまでもさ」
「うん」
そうして、僕たちは本当のキスをした。
「……ごめんね、カリス」
静かに寝息を立てている少年をそのままに、ラシールは身支度を整える。
既に朝日が洞穴の入り口を薄っすらと照らしている。一歩外に出れば、逃げ続けなければならない窮屈な世界が広がっている。そのことが憂鬱でもあり、そして少しだけ嬉しかった。ラシールにとってのカリスは、魔剣王の息子であり、弟のような存在であり、手のかかる子供でもあったからだ。そもそもにおいて、恋愛感情などは限りなく薄い。あるのはただ、いつの間にか抱いていた母性のような感情だ。それを愛情だと言うのであれば、間違いなく愛だと彼女には言えたが、どうにも質が違うような気もしていた。だから、そう。彼女はカリスを魔剣王にするために傍に居た。少なくとも力さえあれば、この窮屈な世界の檻から彼だけでも抜け出せるだろうから。そう、思っていたというのに、逃げ続けてきた理由が自分への思慕だったことが誤算だった。
(本当に、いつの間にかこんなに大きくなっちゃったんだね)
赤子の頃から知っている相手に、寿命の長さ故に求められるようになってしまった。むず痒く、無駄に気恥ずかしい感慨が彼女の胸の中に去来するのを止められない。素直に嬉しいという思いもあるし、「それでもいいか」なんて楽観と同時に、この先の未来の暗さに憂鬱にもなってしまう。
――逃げ続けよう、とカリスは言う。
でも、ラシールには分かっていたし、それはそう言った本人だって分かっていたに違い無い。それがどれだけ難しく、困難であるかなど。
それでもそうしたいというのが彼の意思で、昨夜に確かにそうでありたいとも彼女は思った。けれど、それは夢のような先の話で、現実とこんなにも乖離している。そのことがとても彼女は憎い。
なんとか右腕だけで着替えを済ませ、装備を点検。今ある全ての装備を身に付け、窮屈な世界へと歩を進める。そして彼女は、入り口からは見えない岩の上に腰掛けている蛇目の男を睨みつける。
白髪の神剣使い。名前など知らない、蛇目の男。その男は、何が嬉しいのかまたも舌なめずりをしながら手に持っていたシルウィンとバックラーを彼女に向かって投げ放つ。
「行儀よく待ってるだなんて、どういうつもり?」
足元に転がった武具。その意味を図りかねて彼女は問う。
「抵抗できない奴をなぶり殺しにしても面白くねぇだろぉ。お前はイイ。イイ素材だ。だから、ただ殺すのは惜しいと思った。感謝しろよぉ。持ってきてやったんだからなぁ」
神剣の刃を擦り合わせながら、男は言う。その心情は、ラシールには理解できない。ただ、そこにその男の狂気と傲慢を見たような気がした。シルウィンを右手で拾い上げ、鞘を口に咥えて抜く。その翡翠色の刀身には傷一つもない。風の魔剣シルウィン。ラシールの兄であり、ブラッドソードになった肉親の形見。それを握り締め、ラシールは兄に願う。
(兄さん。私のカリスを守るために、また力を貸して)
その祈りに答え、魔剣が暴風を生みながら青白い光に包まれる。残り回数は四。昨日の今日で、その残数は心もとない。だが、それでもそれが彼女に許された最後の力だ。けれどそれだけあれば、十分だった。
「後悔するわよ。私にこれを持たせたことを」
「イイねぇ。そうだ、そうだよ女ぁ。後悔させてくれよぉこの俺にぃ。神剣は強力だ。手に入れた瞬間から俺は無敵になった。だが、同時につまらなくなっちまったよ。スリルが足りねぇ。あの、殺し殺される刹那のぉ、背筋が凍るようなエグいのがなぁ」
「そんなの味わいたいんだったら帝国に弓引けば? こっちはいい迷惑よ」
「ヒヒヒ、違いねぇ。実は俺もお前が餓鬼とよろしくやってる間にそう考えてた。しかし、しかしだぁ。同時にこうも思ったわけさ。それは、お前を倒してからでも遅くはねぇだろうってなぁ!!」
二本のショートソードを構え、蛇目の男は飛び出してくる。ラシールは冷めた目でそれを見ながら、迎え撃つべく体を加速させた。戦況は圧倒的に不利だ。しかし、それでも彼女は口元に笑みを浮かべていた。
命を燃やすブラッドソード特有の不快感を感知して、ふと僕は目を覚ました。
「ラシ――」
昨夜まで一緒に居たはずの彼女が、何処にも居ない。そのことに思い至ったとき、僕はすぐに飛び出した。胸騒ぎと同時に、嫌な想像が脳裏を過ぎる。洞穴の外から感じるその不快感は、一歩進むごとに強くなる。
嫌な汗が背筋を伝い、焦燥感だけで心臓が張り裂けるような思いをした。そして、外に出た僕が見たのはあの神剣使いとラシールが真っ直ぐに走り出したところだった。
(どうしてだよ、ラシール!)
昨日の夜、ずっと一緒だって言ってくれたのは嘘だったのかよ。口にしたい言葉は、喉を通り過ぎるよりも先に霧散する。発する暇などなかった。ラシールの背中が遠くなる。その下で、外套を透かすほどのエンチャント光が背中から漏れ出すのを僕は見た。
アレは、僕も知らない術式で構成されているラシールの奥の手とかいう奴だ。それをすれば普通の相手なら絶対に勝てると豪語していたことは覚えている。詳細は聞いても教えてもらえなかったものだ。
「あ、ああ……」
ラシールの背中から、一本のショートソードが生え出した。神剣使いは、ラシールの剣を左手で受け止め、右手の突きだけで彼女の体を串刺しにしたのだ。一瞬の出来事だ。蛇目の男の顔が、怪訝に染まる。だがその瞬間、信じられないことが起きた。
「ば、かな――」
貫かれ、崩れ落ちるだけだったはずのラシールの右腕が、信じられない速度で真横に降りぬかれたのだ。これは、ヒトの動きではない。死に瀕した者の動きじゃない。まさか、あのエンチャントは相討ち用の? そのための、動かないはずの体を強制的に動かすための術式だったのか?
「ありえ、ない」
駆け寄る僕に体を両断された男の呟きが聞こえてくる。だが、僕はそんなことを気にする余裕はない。
「何を、何をやってるんだよ!」
倒れようとしたその体を支えながら、僕は叫んだ。その声に薄っすらと微笑みを浮かべながら、彼女は呟く。それは、とてもか細くて今にも消えてしまいそうな声だった。
「これで、……貴方は……ょうぶ」
「嘘だ! 大丈夫なんかじゃないだろ。僕が大丈夫でも、これじゃあ、これじゃあ意味がないじゃないかよぉぉぉぉ!」
視界が滲む。取り返しのつかない事実を前に、滲んで見えなくなってしまう。止めろ、止めてくれ。見えないじゃないか。ラシールの顔が。ラシールの、顔が……。
「一緒に居てくれるんじゃなかったの! 僕と一緒にどこまでも! いつまでも!」
「大丈夫。私……にいるから。ずっと……カリスと……だから――」
「聞きたくない。その先は聞きたくない! 嫌だ、ずっと逃げ続けて来たんだ。こんなのが嫌で、逃げ続けてきたんだよ。なのに、なんで、どうしてだよ!」
「――私を、魔剣化……なさい」
「嫌だぁぁぁぁ!!」
「あま……もたないから。急いで……。私を……ずっと……カリスの……傍に……」
「あ、嗚呼……う、うう、うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
瞬間、『俺』の足元に幾何学的な魔術文字が魔方陣となって現れ、周囲一帯を光で満たした。その中で、輝きに包まれたラシールの体が光に解けるように新しい光となって変わって行く。装備は所持者を失って地面に落ち、役目を終えたシルウィンの励起が止まる。
眼前に光がある。それは、とても青白い光だった。優しく、淡い、生命の光。彼女の血と、肉と、魂で出来た、世界にたった一つしかない唯一の鮮烈な輝きとなって俺を照らす。
今なら、分かるような気がする。親父が、何を思って母を魔剣に変えたのか。
死の先も、その先までも居たいと思ったのだろう。それは、その願いの果てにある一つの結果だったのかもしれない。
光が集束する。
彼女の望む形に変質していくそれは、やがて一本の剣の形を取ろうと変化していく。
それと共に俺の脳裏に響くのは、鍛造の音。鉄を打つようなハンマーの音。そして、彼女の最後の声だった。
声は俺に謝っていた。最後まで守られることしかできなかった俺に。冗談じゃない。
「謝るのは、俺の方だ。俺と一緒に居たから……君はこんなことになったんだ!」
いっそ、一人になっていたら彼女は俺のために死ななかったに違い無い。一緒に生きていたいなんて、そんな高望みをしたせいで罰が当たったんだ。親父の言葉を知っていたから、それに忠実な間は一緒に居られるなんて、そんな風にも思ってもいた俺の浅はかさが、彼女を殺してしまったのだ。
「君を殺したのは、俺だ。逃げ続けることしかできなかった、無様な俺だ!」
やがて、一本の剣が俺の前に姿を現した。それは不思議なことに不定形だった。まるで、溶鉱炉で溶かされた形のままのような。そんな、不定形な光そのものな形でできている。
「ラシール……君は、一体何を望んだんだ?」
震える手で手に取ると、確かに剣のような感触がある。しかし使用回数は不明。加護も不明だ。ブラッドスミスとして完全に覚醒した今の俺にさえ分からない。そんな剣が、この世界に在ってたまるものか。
「まさか、魔剣化に失敗したのか?」
「――いや、それは違うようじゃぞ」
「誰だ!」
振り返ると、いつの間にか魔族の少女が居た。背中の羽をはためかせ、未だ消えぬ魔方陣の中に入ってくる。咄嗟に俺は、武器庫を開き魔剣を取り出す。抜き出したのはドットレイのグレートソードにも負けないほどに巨大な魔剣『カージス』。かつて魔剣王と呼ばれた親父で出来た、死んだブラッドスミスの成れの果て。そして左手には今しがた鍛造を終えた『ラシール』を握る。臨戦態勢を取った俺に、しかし少女は嬉しげに笑った。
「おお! カージス王がそこに居るということは、やはりおぬしがカリス王子じゃな」
「お前、何故この剣の銘が分かる」
「ワシはレイチェル・グレイブ。お主のフィアンセじゃ」
「グレイブ? まさか、リック・ラックが言っていたあのグレイブ家の者か?」
「なんじゃ、リック・ラックから聞いたのかえ。会ったら驚かせてやろうかと思うておったのに残念じゃ」
頬を膨らませて拗ねてみせるその少女は、俺の前に無造作に歩み寄ってカージスに手を伸ばす。すると、その体にカージスの刃が沈み込む。
「武器貯蔵能力……どうやら、本物らしいな」
「うむ。それにしても、驚いたぞ。その魔剣、もしやライフソード〈生命剣〉ではないのか?」
「なんだそれは」
「知らんのか? いや、そもそもアレはもうこの世の誰にも作れないはずじゃったか。となれば限りなくそれに近いモノかのう」
一人納得した少女は、カージスから離れ、地面に落ちていた神剣使いの剣を二本手に取る。そうして、無造作に俺に差し出した。
「試しに神剣を飲み込ませてみるがいい」
「何?」
「ライフソードなら反応があるはずじゃ」
大事なラシールに妙なことはしたくはない。だが、そんな俺の想いなど知らずにその少女は無遠慮にラシールに二本の神剣を触れさせる。すると、神剣の柄が砕け散り中から金属の破片のようなものがラシールに取り込まれてしまった。
「これは……貴様、一体どういうことだ!」
「見ての通りじゃよ」
楽しげに笑い、ラシールを指差す。すると、そこには光の中に破片を閉じ込めたラシールの姿があった。
「恐らく、それが全ての欠片を取り込んだときに完成する。お主のための神剣としてな」
「馬鹿な! なんだってそんなことになる!」
「その魔剣……ラシールとやらの望みじゃろう。神剣の使い手に、帝国に煩わされてきたお主のために対抗する力と成りたかったのじゃろう。その思いがその形になった。それだけのことじゃ」
「ラシール……」
見下ろす魔剣は答えない。だが、それでも握った掌から確かな躍動を感じた気がして、俺は再び泣きそうになる。とはいえ、いつまでも感傷に浸るわけにもいかない。袖口で零れ落ちようとするものを拭い去り、ラシールを武器庫へと仕舞いこみ、尋ねる。
「ならこれを使えば敵の神剣使いから神剣を奪えるんだな?」
「いや、それは止めたほうがいい」
「何故だ!」
「未完成だからじゃよ。さすがに実戦に耐えるとは思えん。消滅しない限りは我々が修復できるのだとしても、それは普通のものだけじゃろう。安全のためにも倒してから取り込むべきじゃ。さすがに、ワシとしても未知数の代物じゃ。何があるか分からんでな」
「そう……か」
共に戦えないことは残念だったが、それでラシールを失うなど考えたくもない。俺は思い出したかのように彼女の装備を拾い集め、洞穴へと戻る。旅に出る準備をしなければならない。いつもの装備を着込み、完全武装を整えていると少女がずっと俺を見ているのに気がついた。
「そういえばお前、親父が妙な約束をしていたんだったな」
「うむ」
胸を張り、無駄に偉そうに答える少女が頷く。
「親父がなんて言ったか知らないが、俺にその気はない。ここまで来てもらって悪いが、お前は国に帰れ。俺には相手をする暇も意志もない」
「嫌じゃ。それから、ワシの名前はレイチェルじゃ。『お前』などではないぞ」
「――」
「あっ、これ待たんか。どこへ行く!」
無言で傍を通り抜け、洞穴を出る。魔族としての能力を開放。背中に蝙蝠の羽のような羽――飛翔翼を魔力で生やし、シルウィンを握った上で全ての魔剣の加護を開放する。
「プロビデンスリリース〈全加護開放〉」
この身に宿す魔剣、二千本を軽く超える膨大な数の魔剣の加護を一身に受け、空へと上がる。だが、ふと背中に無駄な重みを感じた。レイチェルだ。咄嗟に俺の首にしがみついて空まで上がって来たのだ。
「これ、ワシを置いて行くでない!」
「放せ。俺にはやることがある」
「神剣を完成させるのじゃろう? だったらワシも連れて行け。ブラッドソードも二本持っておるし、ワシはネクロスミスじゃ。役に立つぞ」
「俺だってブラッドスミスだ。大体、俺は年上派なんだ。お子様に用は無い」
「なら尚更問題ないわい。ワシ、六十を越えておる。安心して嫁に貰え。こう見えて尽くすタイプじゃ」
そういえば、こいつは俺よりも三倍は年上だったか。言葉の選択を間違えた。
「いらん」
「くくっ。そうは恥ずかしがらんでええ。お姉さんが優しくリードしてやるからのう」
呆れてものも言えない。なんだこの女は。どうして俺に固執する。今の俺は亡国の王子でしかないんだぞ。ブラッドソードが目当てなのか? いや、マギルレイクの出身だ。手に入れるだけならチャンスはあったはずだ。なら一体、何故なんだ?
「何が目的だ」
「目的か。まぁ、色々とあるが……嫁にしてもらうのが一番かのう。カージス王には良くしてもらっていたし、魔剣の所持制限が無いアーカイバには興味があった。じゃが、今一番の理由はお主じゃよ」
背中の上で、レイチェルは一瞬口ごもるような素振りを見せる。
「言いたいことがあるならはっきり言え」
「お主、侍女の女。ラシール殿を失って自棄になってはおらぬか?」
「そんなことは……」
ない、とは言えないか。感情的になっている部分は確かにある。神剣や帝国への憎悪は勿論のこと、俺は無力な自分さえも憎んでいる。それらは俺の中で激情となって荒れ狂い、炎となって敵や俺自身を焼き尽くしかねない程に肥大化している。自棄というならそうかもしれない。
「気づいておるか? 今のお主はとても思いつめたような顔をしておるぞ。鏡で見せてやりたいぐらいじゃ。せめて人並みの顔ができるぐらいになるまではワシを連れて行け。一人は……寂しいぞ」
「――くっ、はははは!」
思っても見なかったことを言われ、俺は思わず笑ってしまった。確かに、もう俺は一人なんだった。いくらこの身に沢山のブラッドソードが埋まっていても、彼らと語らうこともできなければ孤独を癒してもらえるわけでもない。ただ、共に在れるというだけのことでしかない。なんてことだ。そんなことにさえ気づけないほどに俺は参っていたのか。
「レイチェル……だったな」
「うむ」
「気が変わった。好きにすればいい。ただし命の保障はしないぞ。俺はこれから帝国と戦うのだからな」
「上等じゃ。その間にお主の心を奪ってやるから気長に待っておれ。お互い、長い付き合いになるはずじゃからな」
唇を吊り上げ嫌に自信ありげ言った彼女をそのまま背に乗せたまま、俺はシルウィンの風に乗って西へと飛んだ。何故か俺には分かったのだ。その方角に、最も強い神剣使いがいるのだと。
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