203話 恋する男子の大脱出
フィルマンの私室のドアが勢いよく開け放たれる。
突然鳴り響いた大きな音に、廊下に控えていた使用人たちが何事かと身構える。
ドアが開くと同時に、『フィルマンの服を着込んだ人物』が廊下へと飛び出し、全力で走り出す。
「ふぃーるふぃるふぃるふぃるっ!」
「フィルマンさっ……ま?」
思わず声を上げた使用人だったが、語尾が疑問形に変わる。
それもそのはず。
目の前の『フィルマンの服を着込んだ人物』は、明らかにフィルマンとは違う。似ても似つかない。
フィルマンより背が高く、胸元がぱっつんぱっつんだ。
誰あろう、その『フィルマンの服を着込んだ人物』の正体はナタリアなのだ。
「こっちふぃる! 捕まえられるものなら、捕まえてみるふぃる!」
などと、少年声を意識した若干低めの声でナタリアが叫ぶ。
「多少はフィルマンっぽく見える工夫を」と言ったところ、語尾と笑い方が「ふぃる」になった。……って、おい。
「さぁ、ゲームの始まりふぃる!」
逃走を図る怪人のように、颯爽とナタリアが廊下を駆け抜けていく。
一応、戸惑いながらも使用人たちの何人かが後を追いかけていったようだ。
その隙を突くように、部屋から黒い人影が抜け出す。
頭から黒いマントをすっぽりと被り、使用人の目を盗むように廊下を進む。
だが、あんなあからさまな陽動に釣られなかった使用人たちが即座にその黒マントを取り囲む。
先ほどの胸がぱっつんぱっつんの明らかな偽物とは違い、こちらの黒マントは胸がぺったんこだ。
廊下に待機していたほぼすべての使用人がこちらを本物と判断した。
「フィルマン様。お出掛けになる際は一言お声をおかけください。我々がお供をいたしますので」
使用人が黒マントに声をかけると、黒マントはなんとも微妙な顔をして――完全に信じ込まれちゃってるもんな、ぺったんこだから……ぷぷっ――頭を覆うマントをはぎ取った。
「ごめんね。ボク、フィルマン君じゃないんだ」
「ク、クレアモナ様!?」
自身を取り囲む使用人たちに、エステラは苦笑いを向ける。
――と、ここまでは後から伝え聞いた情報だ。
俺はというと、二人が囮になってくれている間にフィルマンを連れて館の外へと抜け出していた。
夜中、頻繁に抜け出しているフィルマン。
いくら夜中といえど、玄関から堂々とは抜け出せないだろうと踏んだ俺は、フィルマンに「抜け道があるよな?」と尋ねた。
案の定、人目につかず表へ出られる抜け道は存在した。
床下を通り裏庭へ出る抜け道と、裏庭を突っ切った先の塀に作られた秘密の抜け穴。
俺とフィルマンはそこを通って館を出たのだった。
ただ、この抜け道も、使用人たちの意識を他所に向けなければ見つかってしまう危険が高く、陽動作戦を決行したというわけだ。
「大丈夫でしょうか、クレアモナ様たち……」
「まぁ、咎められることはないだろう。秘策もあるし」
もし使用人、もしくは執事のベノンに責められた際は、「これがフィルマンの、ひいてはドニスの幸せのためになる」と宣言するように言っておいた。
たぶんそれで乗り切れるだろう……あの館の使用人、ちょっとアレなアホばっかだったし。
床下を這い回り、塀に開けられた小さな穴に体を押し込め、ぐるりと遠回りするように人目のない裏路地を頭を低くして移動していく。
決して見つからないように慎重に移動するのは精神をすり減らされる。
エステラたちに囮をやらせてしまったのだ。
俺も、しんどいだの疲れただの文句は言っていられない。
何がなんでもフィルマンを麹工場へ連れて行き、リベカと面会させる。
随分と時間をかけ、俺たちはようやく麹工場の近くまでやって来た。
「ここを抜けると、麹工場の正門前に出られるんです」
そう言ってフィルマンに連れてこられたのは、今朝フィルマンが身を隠していた角だった。 本当に誰にも見つからなかったな……こういう用意周到さが、なんか怖いんだよなぁ……ストーカーって。満面の笑みで「どうです? 凄いでしょ?」とか言ってるけどさ、俺、鳥肌立っちゃってんだよね。
「ところでパーシー」
「誰ですか!? フィルマンですよ!?」
いや、すまん。
もう、生態がパーシーそっくりだったから、つい。
「お前、リベカ・ホワイトヘッドに会っても、いきなり変なこと口走るなよ?」
こういうタイプのヤツは、好きな娘を目の前にすると緊張が一瞬で臨界点を突破して、あり得ないことを口走ったりしそうだからな。
「大丈夫ですよ、ヤシロさん」
自信たっぷりに胸を張るフィルマン。
「僕が、どれだけ長い間見つめてきたと思っているんですか。お会いしても、スマート且つ優雅に対応出来るはずです」
……不安だ。
こんなところに隠れて、チラッとでも姿が見られれば大喜びしているようなヤツだ……ガッチガチに緊張するに違いない。
さて、どうやって話をさせればいいのか……
「まずはボクたちが呼び出して、先にリベカさんと話をする方が無難かもしれないね」
俺の頭上から、エステラの声が降ってくる。
「なっ!? なんでお前らがここにいるんだ!?」
振り返ると、エステラとナタリアが立っていた。
こいつらは、今頃ドニスのとこの使用人たちに取り囲まれて、弁解とかしているはずなのに……
「まさかっ、僕たちを追いかけて? ま、まずいですよっ。ここに来たことが使用人にバレたら……」
「あぁ、うん。そこら辺は大丈夫だよ」
心なしか、エステラの顔が引き攣り始めた。
「私からご説明いたします」
苦笑を噛み殺すエステラに代わり、ナタリアが淡々とした口調で状況を説明し始める。
「使用人たちに捕まった私たちは、執事のベノンさんに『なぜこのようなことをしたのか?』と問われました。返答によっては、外交問題に発展しそうな雰囲気でした」
「それで、なんて答えたんだ?」
「『彼らは、ミスター・ドナーティの幸せを捕まえに行ったのだ』と……」
なに、その微妙な言い回し……そして、あながち外れてないところが、ちょっと嫌。
「おまけに、『ここで私たちを見逃し、なおかつ自由に行動させてくれれば、ミスター・ドナーティは超ハッピー』と申しましたところ、監視無しで外へと解放してくださいました」
「セキュリティー的に問題大有りだな……」
「彼らはみんな、ミスター・ドナーティが大好きなんだよ…………ちょっと引くくらいに、ね」
ドニスの幸せに繋がるならばと、不穏な動きを見せる俺たちを野放しにしてくれたらしい。
……それは、主のためになっているのか?
いや、まぁ、ドニスに不利益を吹っかけるつもりはないけどよ……
「……正直、こんなにあっさり分かってくれるなら、ボクたちの努力はなんだったんだって……凄く虚しい気持ちになってね…………ふふ、ふふふ……」
男装をしたナタリアと、マントを羽織っただけのエステラ、
両者を比べると、明らかにエステラの方がメンズだった。
……それが、地味に心を抉っているのだろう。
俺は、現在痛んでいるであろう場所を指さして労いの言葉を述べる。
「お前のその抉れが、きっと俺たちに幸運をもたらしてくれるさ」
「君が今指さしているのはボクの心だよね? 胸ではなく」
まぁ、心も胸も同じような場所じゃないか。
「約束通り、ボクたちが身に着けた衣服は処分してもらったよ。新品だったのに、もったいなかったな……」
フィルマンに扮装する際、フィルマンの強い希望により、一度も身に着けていない新品の服とマントを使用することになった。
そして、エステラたちが身に着けた物は、たったの一度もフィルマンの手に渡ることがないように即時焼却処分された。
…………いや、もう……なんか怖いわ。こいつの徹底ぶり。
「…………ボク、悪い菌にでもなった気分だよ……」
「心配すんなエステラ。俺がフィルマンの立場だったら、ちゃんとくんかくんかしてやるから」
「それはフォローのつもりかな!? それならそれで心配なんだよ、別の意味で!」
「そうですよ、ヤシロ様。エステラ様は、嗅がれるより嗅ぎたい派です」
「そんな派閥に属した記憶はないよ!」
門の前でギャーギャーと騒ぐエステラ。
こいつらは、館から普通に歩いてここまでやって来て、ここでも身を隠すことなく騒いでやがる。ここまで必死に身を潜めてやって来たのがバカバカしくなってきたな……
「じゃあ、さっさと呼び出すか」
「あ、ああ、あの、あのっ!」
角を出て門へ向かおうとする俺の腕を掴んで、フィルマンが全力で俺を引き戻す。
「ぼ、ぼぼ、僕は、僕はどうしていればいいですか?」
……誰がスマート且つ優雅に対応出来るって?
「俺たちが行ってまず呼び出すから、お前はここで見てろ」
「あぁ……想像したら緊張してきました……っ!」
「見てろって言っただけでか!?」
「じゃ、じゃあ、僕。見たら、帰りますので」
「帰んな! ある程度探りを入れたら呼ぶから、そしたら俺たちんとこまで来るんだよ」
「……少々、時間がかかってもよろしいですか?」
「さっと来いよ。どんだけ時間かける気だよ?」
「……四年ほど」
「ナタリア。お前はここに残って、こいつの首根っこを捕まえて引き摺ってきてくれ」
「わぁ! ダ、ダメですよ! 他の女性と触れ合っているところなんか見られたら、嫌われちゃいます!」
「……うん、それはたぶん大丈夫だよ」
フィルマンが発言をする度に、エステラがなんだか乾いていく。
そこまで極端に潔癖な女は、フィルマンの脳内にしか存在しないだろう。
気にし過ぎだ、お前は。
「じゃあ、ナタリアに触られないように、自分の足で歩いてこい」
「うぅ……それは……」
「ナタリア。こいつがヘタレたら、小脇に抱えて運んできてくれ」
「分かりました。限りなくセクシーな動きでお届けします」
「誤解されちゃう! そんなの、絶対誤解されちゃいますよ!」
「じゃあ、そうならないように頑張れ。……行くぞ、エステラ」
「……うん。もう、さっさと行こうよ……」
慎重過ぎる男って、女子をここまで疲弊させるんだな。
「待って! 待ってください!」
「なんだよ、もう!」
俺が歩き出すと、今度は腰にしがみついてきやがった。
話が進まんだろうが!
「なんだか急に緊張してきました! い、今、お話とかすると、ダメになりそうな気がします! 日を改めましょう! そうしましょう!」
「お前……ここで逃げたら、二度と話しかけに来ないだろう」
「だ、大丈夫です! 僕は、二十四区領主の血縁者ですよ!? いざという時は度胸を見せますとも!」
「ドニスの血縁者だから不安なんだよ!」
あのジジイは、何十年も片思いをし続けてるんだぞ!
自己完結して、それで満足するような血筋の言葉など信用出来るか!
「じゃ、じゃあ! 何か、恋のお話をしてください!」
「恋バナ好きも遺伝か!?」
「恋のお話を聞くと、心がふわふわするんです! この中で、ちゅーをされたことがある方は!?」
「セクハラが過ぎるよ、フィルマン君」
エステラが、ジジイにしたのと同じツッコミをした。
やっぱフィルマンって、ドニスの息子なんじゃねぇの? 似過ぎだわ。
環境って怖いんだなぁ……
「では、百歩譲って…………ヤシロさん! ヤシロさんの好きな女性の話をしてください!」
こいつは……なぜ目を開けたまま寝言をほざいていやがるんだ?
「恋する男子がそばにいるのだと思えれば、僕も勇気が湧いてくると思うんです!」
「アホか。誰がするか、そんな話……」
「ヤシロ」
ぽんっと、肩に手が置かれる。
その手の持ち主は……エステラだ。
「人助けだと、思って」
「……テメェ」
こいつは、自分に火の粉が飛ばないと知ると、俺をからかう側に回りやがる。
手痛いしっぺ返しを食らうんだぞ、そういうのは。……俺の場合は「喰らわせてやる」って感じだけどな。
「ボクだって、嫌々ながらも男装をして協力したじゃないか!」
「お前は、以前から男装気味な格好ばっかりしてんじゃねぇかよ」
「他人のマントを纏うというのは、結構抵抗があるんだよ」
「新品だったろうが!」
「心情的な問題さ!」
こいつ……単に俺の恋バナを聞きたいだけだろうが……
「別に、俺には好きなヤツなんて……」
「……僕だけなんですね、恋に不安を抱いているのは………………あぁ、世界が暗い……不安にのみ込まれそうだ…………」
フィルマンが四肢を突き、全身から闇色のオーラを放ち始める。
目を凝らせば、地獄の口が開いて亡者がおいでおいでしている背景が幻視出来そうな落ち込みようだ……
「しばらく、自室にこもりたいと思います…………そう……四年ほど」
お前のその四年周期ってなんなの!?
お前の勇気って、オリンピックの年にしか発揮されないとか、そんなの?
「ヤシロ様……ここは、彼を助けると思って…………恋バナを……ぷぷー!」
「ナタリア。お前は、俺を説得したいのか、完全無欠に拒否されたいのかどっちなんだよ?」
まったく……恋バナなんて、ガラじゃない。
「誰が好きだ」「こんなに惚れてる」なんて、部外者に話したところで意味ないだろうが。
そういうのは、本人に対して態度で示すもんであってだな…………
「あぁ……恋する僕はロンリネス……」
「ちょっとオルキオのポエムっぽくなってるぞ、フィルマン!?」
この街の乙女男子どもはすぐポエムに逃げる。
そういうのよくないと思うぞ!
…………ったく。
こいつが前向きになって、リベカと話して、上手くいくならいくで、いかないならいかないで潔く玉砕するとか、とにかく片を付けてくれないとドニスが協力してくれることはないだろう。
しょうがねぇな……ちょっとだけ、話してやるか。
こういう話は、普段誰にもしないんだけれど……
「俺が大切に思っている女性はな……」
三人の視線が俺へと集まってくる。
フィルマンは涙目で、ナタリアはガラにもなく真剣な表情で、エステラは――少しだけ緊張したような面持ちで。
まぁいい。聞かせてやるさ。
俺の心の中に、いつも存在している、特別な女性の話を。
「……料理が上手くて、優しくて、温かい人なんだ」
「……あ」と、エステラが小さな声を漏らす。
視線は向けず、俺は続ける。
「家に戻ると、夕飯のいい香りがしてな。玄関を開ければ、いつも優しい笑顔で迎えてくれるんだ。どんなに帰りが遅くなっても、いつだって俺を受け入れてくれる……」
思い出すだけで、胸の奥が温かくなる。
俺らしくもないこんな話を、目の前の三人は一言の茶々を入れることなく静かに聞いている。
「顔を見ると、『あぁ、帰ってきたんだな』って安心出来る、そんな女性だ」
さすがに少し恥ずかしくなって、やや早口でさっさと切り上げる。
俺の話を聞いて、その場には、妙な空気が漂っていた。
……誰か、なんかしゃべれや。
「温かい……ですね」
フィルマンの顔に、笑みが浮かぶ。
「ヤシロさんの思いが……気持ちが……僕の心に突き刺さりましたっ!」
「そ、そうか……何を勝手に刺さってくれてんだって気もしないではないが……まぁ、それで勇気が出たならよかったよ」
「はい! 勇気が湧いてきました!」
すっくと立ち上がり、フィルマンは希望に満ちた瞳で叫ぶ。
「僕も頑張ります! いつの日か、ヤシロさんみたいに『おかえりのちゅー』をされるためにっ!」
「されてねぇわ!」
捏造しないでくれるかな!?
そんな話、一個も出て来てないよね!?
「やります! 折角みなさんがくださったチャンスですから、僕、勇気を出して話しかけてみます!」
スイッチが入ったように、ぐんぐんと熱量を上げていくフィルマン。……正直、暑苦しい。
揺れ動き過ぎだろ、思春期の恋心。
映画とか見て影響されやすいタイプなんだろうな。
あぁ……そういやこいつも『BU』の若者か。
「じゃあ、気が変わらないうちに呼び出してくるわ。行くぞ、エステラ」
「………………うん」
「むはー!」と奇声を漏らすフィルマンをその場に残し、エステラと二人で麹工場へと向かう。
本日二度目だ。
バーサに取り次いでもらえば、話しくらいはさせてもらえるだろう。
「…………ねぇ」
俺よりも、ほんの少し後方を歩くエステラから声をかけられる。
なんだか儚げで、今にも消えてしまいそうな声音だ。
「どした?」
振り返ると、まるで泣き出す直前みたいな真剣な表情をしたエステラが俺を睨んでいた。
…………なんだよ?
「…………さっきの、話ってさ……」
それを蒸し返すのかよ……
「…………あれって、さ…………やっぱり、…………あの人のこと……だよね?」
言い終わる前に、エステラの視線が逃げる。
何をそんな深刻な声を出しているんだか……
「あぁ、そうだよ」
こいつも知っている、俺にとって大切で特別な人物……
「…………そっか。やっぱり……ね」
その人とは――
「女将さんのことだ」
「……………………へ?」
フィルマンは「恋バナ」にこだわっていたようだが、俺はあくまで「俺が大切に思っている女性」の話をしただけだ。実際、そう言って話し始めたしな。
それに恋愛を絡めたのは、フィルマンの勝手な勘違いだ。わざわざ訂正はしてやらないけれど。
「いや、でも……料理が上手で、帰りを待っていてくれてって……え?」
「女将さんの料理は最高だったぞ。あれを超える料理は……まぁ、片手で数えられるくらいしかないな」
「そう、なんだっけ?」
「あぁ。部活で――えっと、運動とかするグループの活動な――帰りが遅くなるとな、夕暮れの空の下に漂ってくるわけだよ、女将さんの料理の匂いが。これがまた、堪らなくてな」
薄暗い道を歩き、家が見えてくると、台所からいい香りが漂ってくる。
そんな帰り道が、俺は大好きだった。
「運動して、泥まみれの汗だくで帰ってきても嫌な顔一つしないで、『おかえり。もうすぐご飯だから手を洗っておいで』って…………」
あ、ヤバい…………泣きそうになってきた。
「…………女将さんの煮魚、美味かったなぁ……」
…………ってぇ! 泣くから! ちょっと黙れ、俺の口!
「大切な、女性…………だったの?」
「あぁ、そうだよ」
洟をすするのを誤魔化しつつ、言葉を吐き出す。
「女将さんは俺の母親代わり……いや、母親だからな。女性で間違いない」
親不孝を散々やらかした俺だが……大切に思っていた。それだけは真実だと言い切れる。
「だが、マザコンじゃないからな? むしろ、自分の親を大切に思えないようなヤツの方こそどうかしてんじゃないかと、俺は思うね」
あれだけの恩を受けて、大切じゃないなどとは、口が裂けても言えない。
親方も然りだ。
「ま、フィルマンは勝手に恋バナだと勘違いしちまったようだがな」
そう思い込ませるように仕向けたのは俺だが、ここはしれっとシラを切っておく。
勇気が出たなら結果オーライじゃないか。
「そっか…………うん、そうなんだ」
強張っていた声が、ほんの少し丸みを帯びた……ような気がした。
エステラの声音が変わり、なんだと振り返ろうとすると――
「紛らわしいよ」
「いてっ」
肩甲骨を殴られた。
おまっ……骨はやめろ、骨は。
「はぁ…………疲れた」
そんな、訳の分からん不満を漏らして、あまつさえその責任を俺に押しつけるような非難がましい目を向けて、……最後にエステラは笑った。
「さ、行こうか」
今度は俺を置いて先に歩いていってしまう。
気のせいかもしれんが、弾むような足取りで。
…………まぁ、今回はそういうことにしといてくれよ。
先を行く背中に向かって念を飛ばしておく。
お前の不機嫌の理由は、分からなかった――ってことに、しておいてやるからさ。
他人の色恋に首を突っ込むと、まぁ高確率でこっちの精神がすり減らされることになる。
だから、なるべくなら関わりたくないものだ。
今回は、仕方なしだ。
やることをやってさっさとケリを付けたいものだな。
これ以上、俺に手痛いしっぺ返しがやってこないうちに。
先行するエステラが、門番に声をかけている。
朝訪れたこともあり、友好的な雰囲気だ。
二~三言言葉を交わすと、門番は軽く礼をして工場の中へと入っていった。
門のそばに立つ詰所から別の者が出てきて、奥へと駆けていく。
伝言を届けてくれるのだろう。
「会ってくれるって」
普段以上ににっこりした表情のエステラが俺の元へと戻ってくる。
なんだかやけに嬉しそうなエステラの顔を見ると、……意味もなく恥ずかしくなってきた。意味なんか全然、なんにもないのだけれど。
なので、俺は門に背を預けてもたれかかる。
そうしたら、エステラが俺の真似をして隣で同じように門にもたれかかった。
……青春映画のワンシーンかっての。
とりあえず、会話でもして待つか。
「なんて言ったんだ?」
「別に。ただ、話がしたいって」
「それだけか?」
「あとは、ボクとヤシロが来てるって」
アッスントがいないことを伝えておかなければ、また商談かと思われる。
もっと気楽なものであると、エステラは伝えておいてくれたようだ。
「お待たせいたしました、クレアモナ様――」
物の数分で、門の向こうから声がかけられる。
体を起こし振り返ると、バーサがいた。
「――そして、ヤシロ様……ぽっ」
際どい超ミニのスカートを穿いて。
「アウトー!」
その出で立ちにレッドカードを突きつけるが、暴走を始めたバーサの耳には届かない。
「ヤシロ様が『私に』会いに来られたと聞きましたので、私、生まれて初めて、『有給休暇』を取得いたしましたっ! ……今日は、夜までOKです」
「聞けぃ、人の話! そして勝手に手を握るな! ……って、地味に力強ぇなババア!」
この後、エステラと二人で事情を説明し、バーサの暴走を必死に抑え込む。
リベカを呼んできてもらうために要した時間は、三十分ほどだった。
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