追想編5 イメルダ

 落ち着きませんわ。


「お嬢様。お茶などいかがでしょうか?」

「結構ですわ」

「では、ケーキなどは……」

「それも必要ありませんわ」


 ワタクシを気遣って声をかけてくれる給仕に、少々きつく当たってしまい、すぐに自己嫌悪が襲ってきましたわ。

 ……まったく、何をしているのでしょう、ワタクシは。


「しばらくはそっとしておいてほしいんですの。……けれど、その気遣いには感謝いたしますわ。ありがとう」

「お嬢様……もったいないお言葉です」


 ワタクシがヤシロさんから学んだことは数多くありますけれど、中でもこの『感謝を言葉にする』というものはとても有意義な学習でしたわ。

 与えられて当然と思っていたことは、実は誰かの労力の上に成り立っているのだと教えられ、それを顧みた時にいかに自分が恵まれているのかを自覚しましたわ。


 言葉ではなく、心で、そう感じましたの。


 彼が……ヤシロさんがいつも、誰よりも走り回っている様を時に近くで、時に遠くから眺めて、それを知りましたわ。誰かのために何かを為す。それがいかに労力のいる大変なことか……

 それすら知らず、ただ与えられるだけの、感謝も知らなかった自分が、いかに愚かで矮小な存在であったかも。


 それからは、周りの者たちのその苦労を、一つ一つきちんと労うように心がけていますわ。

 そうするようになってから……不思議なもので、給仕たちのランクが一つ上がったように感じましたわ。気遣いのレベル、仕事の丁寧さ、何より、いつも笑みを湛える明るい雰囲気。

 ワタクシが変わることで、ワタクシの周りの者を変えられた。

 そんな気がして、とても満たされた気分になりましたの。


 それはまるで、ヤシロさんが周りの者を巻き込んで生み出す柔らかい空気のようで……とても心地いいんですの。


「不思議な人ですわね……本当に」


 目つきは悪く、姿勢は悪く、服装もだらしなく、口を開けばおっぱいの話か何かの不満。

 常日頃からやる気のないような態度を装って……その裏で、誰よりも活動している。


 彼を知らない者は、きっと彼を過小評価するのでしょうね。

 ワタクシも、最初はなんと失礼な男かと思いましたもの。

 あけすけで言葉遣いが悪く、無礼極まりない態度と物言い。

 こちらが一番突かれたくない場所をピンポイントで攻めてくるようないやらしい話法。


 敵に回せば、これほど厄介な人もいないでしょう。


 けれど、味方になれば……


「変わりましたわね、ワタクシの周りの何もかもが。もちろん……ワタクシも」


 言い寄る男は百とも二百とも言われたワタクシが、こんなことで落ち着きなく取り乱してしまうだなんて……


 ただ一人、ヤシロさんに忘れられてしまうかもしれない…………と、そう思うだけで。


「……イヤですわよ。ワタクシは、そんなの」


 風にでも当たろう……と、バルコニーへ出てみると……


「おー! 遊びに来たぞー!」


 何も変わらない、いつも通りの顔をして、ヤシロさんがこちらに手を振っていましたわ。

 庭に立ち、バルコニーを見上げ、にこにこと嬉しそうに。


 まったく……人の気も知らないで、暢気なものですわ。


「ヤシロさんをお通ししてくださいな!」


 部屋へ戻り、給仕にそう告げて、ワタクシは鏡の前へ腰を下ろしましたわ。

 彼に会うのですから、ブラシくらいは通しておかなければいけませんもの。


「寝間着を見られたような間柄ですのにね……ふふっ」


 心が忙しなく高鳴るのを感じ、思わず笑ってしまいましたわ。

 先ほどまでの不安はどこへやら……こんなにもうきうきとブラシを通して。ワタクシは、やはり変わってしまいましたわ。


 殿方を待たせるのは淑女の嗜み。

 ……ですのに、ワタクシの足はいつもより心持ち速く、忙しなく、床を蹴りますの。

 まるで、飼い主の帰りを待ち侘びていた忠犬のように……イヤですわ、はしたない。


 どこかで一度落ち着いて、唇に紅でも差すような余裕が欲しいところでしたのに……

 リビングへ向かうと、ちょうどいいタイミングで給仕がドアを開けてくれるので、ワタクシの歩調は一切緩まることなく、結局速足のまま、ヤシロさんの前に来てしまいましたわ。

 優秀過ぎるのも考えものかもしれませんわね。


「そんなに急がなくてもよかったのに」

「急いでいませんわ」


 リビングのソファに腰を掛けてワタクシを見上げるヤシロさん。

 せめてもの抵抗に余裕の笑みをもって言って差し上げますわ。


「いつも通りですわ」

「じゃあ、もうちょっと落ち着いた方がいいぞ。自分の家でくらい。な?」


 ……なんだか、心配されてしまいましたわ。

 ふ、普段はもっと優雅ですのよ?

 今日はたまたま…………あぁ、なぜ『いつも通り』などと言ってしまったんですの、ワタクシは……


「うぅ~…………わんっ」

「なんだよ、それ? ちょっと可愛いじゃねぇか」


 ふん。

 ささやかな抵抗ですわ。

 抗議行動を可愛いと言われたところで…………嬉しい、ですわね。

 イヌ人族でなくてよかったですわ。きっとワタクシにパウラさんのような尻尾が生えていたら、今頃はふりふりしてしまっているでしょう。

 相手に心の内をさらすなど、淑女としてあってはいけないことですもの。


「お前は、分かりやすい顔をしてるよな、ホント」


 ……おかしいですわ。

 なんだか、ことごとく思惑が外れていきますわ。


「それで、ご用件は? それとも、ワタクシの美しい顔を見たくなりましたのかしら?」

「喉乾いたからお茶を飲みに来たんだ」


 ……お茶。


「美しいワタクシの顔を見ながらお茶を飲みたくなりましたの?」

「あぁ、うん。そうそう。そんな感じ」


 なんと御座なりな……


「う~……わんっ」

「だから、なんなんだよ。それ」


 ……おかしいですわ。さっきはこれで可愛いと言ってくださったのに……


「まぁいいですわ。すぐにお茶を用意させますわね」

「あ、ちょっと待って」


 ワタクシが給仕を呼ぼうとするのを止めて、ヤシロさんは何やら思いついたような表情。何をするつもりなんですの?


「たまには、二人で作ってみないか?」

「二人で? …………何をですの?」

「お茶」

「お茶を?」

「あと、お茶請け」

「……ワタクシとヤシロさんの二人で、ですの?」

「おう。どうだ?」


 普段通り振る舞えと、そんなことを言われたような気がしますが……


「面白そうですわね」


 ヤシロさんの誘いを断るような愚は犯しませんわ。

 二人で作る。

 なんとも楽しげな響きではありませんこと?


「給仕長。全給仕を寮へ戻らせなさいまし。以降、許可が出るまでこの屋敷への立ち入りを禁じますわ!」

「いや……そこまで徹底して二人っきりでなくてもだな……」

「やるならとことんですわ!」

「……まぁ、いいけどよ」


 ふふふ……

 ワタクシが料理……考えたこともありませんでしたわ。

 けれど、才能溢れるワタクシのこと。おそらく苦労なく店長さんレベルの料理が出来ますでしょう。


「じゃあ、給仕長。悪いけど厨房を借りるな」


 ヤシロさんが給仕長に声をかけ、給仕長はそれにお辞儀で返す。なんともスマートな応対ですわ。さすが給仕長。余計なことを口にしない、出来る女ですわ。


「お嬢様は必ずやらかしますでしょうから、お湯とお着替えをご用意しておきます。それ以上の不測の事態が発生した場合は、申し訳ありませんがご対応願います。屋敷の物でしたら、何をどうされても構いませんので」

「余計なことをべらべらと! 慎みなさいまし、給仕長!」

「いやぁ、よく出来た給仕長だなぁ」


 ヤシロさん、下手に褒めないでくださいまし。給仕長が調子に乗りますわ。

 まったく……ワタクシが『やらかす』などと……


「それから、お嬢様はあれでかなり乙女ですので、物事を進展させるつもりがおありでしたらかなり強引に押すのもまた一つの手段かと」

「お~い。余計なこと言ってるけど怒らなくていいのか?」


 必要な情報というものは、ありますわ。

 得た情報を有効活用するか……腕の見せ所だと思いますわよ。しっかりと熟考なさいまし。


 それから十分ほど、あれやこれやと準備を整えて、給仕たちが屋敷を離れていきました。

 そして、ワタクシとヤシロさんはお揃いのエプロンを身に着けて、二人、厨房に並び立ちましたわ。


「……なんでこんなひらひらしてんだよ?」

「あら? お似合いですわよ、ヤシロさん」


 肩と腰回りにフリルをあしらった愛らしい純白のエプロン。

 ウクリネスさんデザインの最新モデルですわ。よくお似合いでしてよ、ヤシロさん。

 今度、リボンでも用意させますわ。なんとなく、ヤシロさんには似合いそうですもの。


「んじゃまぁ、始めるか」


 食材を前に、ヤシロさんが勇ましい表情を見せたのですが……


「……ぷふっ、フリルを着てキリッと…………くすくす」

「お前ぇが用意させたんだろ、このフリルエプロン!」


 いけませんわね。

 なんだかヤシロさんが可愛くて、ついからかってしまいますわ。


「何か作ってみたいものはあるか? あんま難しいのは勘弁してほしいところだが」

「そうですわねぇ……」


 これまで、ヤシロさんが作り広めてきた数々の料理。

 ケーキやパスタ。焼きおにぎりやお好み焼き……

 どれも美味しく、何度でも食べたくなるものばかりでしたわ。


「お好み焼き…………いえ、ナポリタンもなかなか捨てがたいですわ……」

「お~い、お茶請けだぞ~」


 あら?

 ワタクシ、紅茶とお好み焼きでもよろしいですわよ?


 ですが、そうですわね……


「ヤシロさんの思い出の味って、何かありますの?」


 どうせなら、今日、こういう機会だからこそ食べられるものがいいと、そう思いましたの。

 ヤシロさんを、もっと知りたい……と、思いましたの。


「そうだなぁ…………アップルパイ、かな」

「アップルパイ? って、あの、アップルパイですの?」

「あぁ。そのアップルパイだ」

「丸ごとのリンゴに衣をつけて油で揚げた?」

「それリンゴカツだな!?」

「四十区でアップルパイと言えばそれですわよ?」

「四十二区のアップルパイ! パイの中にアップルが入ってるヤツ!」

「おっぱいの中にニップルが?」

「お前、四十二区に来てからおかしくなったよな、確実に!?」


 心外ですわね。

 もし仮にそうなのだとしたら、原因は間違いなくヤシロさんですわ。


 ……ワタクシは、その、……ヤシロさん以外に、心を動かされることはそうあることではありませんもの。


「割と地味なものですので。ショートケーキなどの方が思い入れが強いのかと思っていましたわ」

「いや……」


 そこで珍しく、ヤシロさんが照れた表情をなさいました。

 照れくさそうに、けれど嬉しそうに……子供のような、屈託のない表情を。


「女将さんがな、俺の誕生日に作ってくれたことがあるんだよ。それが、まぁその…………すげぇ、美味かったんだよな」


 女将さん。というのは、ヤシロさんのお母様のことですわ。

 ……お母様の、思い出の……味。


「……羨ましい、ですわね」


 ワタクシの思い出といえば……


「ワタクシは、お母様の味を、台無しにしてしまったんですの」


 病床に伏せったお母様が、最後にワタクシに食べさせたいと無理を押して作ってくださった料理……

 とても簡単ではありつつも、心のこもったその料理を……


「ワタクシは、お母様が最後に作ってくれた料理を食べられませんでしたわ……」


 食べてしまうと、お母様の料理がなくなってしまう。

 もう二度と作ってはもらえない、最後の料理……


「そう思うと、とても、口にすることは出来ず……」


 そして、無残にも、朽ち果ててしまった…………

 お母様の料理は、もう二度と……食べることが出来ない……


「眺めているだけでなく……きちんと食べておけばよかったと、今更になって思いますわ」


 ただの愚痴になるでしょうが……ヤシロさんの前でなら、それも許されるでしょう。

 もっとも、ヤシロさんに言ったところで仕様のない話なんですけれど……


「きっと美味しかったに違いありませんわ。世界一だったはずですわ…………惜しいことを、しましたわね。幼き日のワタクシは」


 もし、あの時にヤシロさんがいてくれたなら……

 最近、そんなことをよく考えてしまうのです。あり得るはずもない、仮定の想像を。


 もし、やり直せるのなら……きっと、ワタクシは……


「だったら、いくらでも想像し放題だな」

「……へ?」


 リンゴの皮を剥きながら、ヤシロさんがこちらに視線を向けました。

 そして、ニコっと笑って……


「世界一美味いんだろ? これからすげぇ美味いもんに出会ったとしても、『それより美味い』って思えるんだぞ。凄いじゃねぇか」

「いえ、それは……ワタクシが勝手に言っているだけで……」

「いいや。絶対美味かったって」


 得意げに断言して、そして――


「母親が我が子のために心を込めて作った料理に勝てるもんなんか、あるわけねぇだろ」


 ――そんなことを言うのです……自分の言葉に、絶対の自信を持って。


「女将さんのアップルパイは、いまだ誰にも超えられてないからな」

「誰にも? ……ヤシロさんでも再現出来ませんの?」

「惜しいところまではいってる気がするんだけどなぁ……、まだまだだな」

「ラグジュアリーのオーナーシェフでも?」

「あんなもん、足元にも及ばねぇよ」

「……店長さん、でも?」

「そうだなぁ…………うん。まだ、女将さんの方が一枚上手かな」

「そう……ですの…………」


 あの店長さんをしても超えられない味……


「母親というのは、偉大なんですのね」

「そりゃお前、母親だもんな。伊達に子供育ててねぇって」


 確かに。

 お母様はワタクシのことならなんでもご存知でしたわね。

 好きな食べ物から、好きな色、嫌いな生き物、怖い場所、拗ねて泣いている理由まで……


「どんな料理に出会っても、それを超える美味さなんだぞ。すげぇよな」

「うふふ……そこまで言われると、少々大袈裟な気がしますが…………そんな気がしてきましたわ」


 ワタクシのお母様は、そこまでの料理上手ではありませんでしたわ。

 料理はほとんど給仕が作っていましたし。

 ただ、ワタクシが喜ぶからと、たまに自ら厨房に立たれて…………あ、そうなんですのね。


「ワタクシ……お母様のお料理が、大好きでしたの」


 そう……どんな料理人の作る料理よりも、ずっと。


「理不尽にへそを曲げて大泣きするワタクシを、一瞬で泣き止ませるくらい、美味しい料理だったんですのよ」

「そりゃすげぇな。その味が再現出来たら世界から戦争がなくなるぞ」

「ワタクシの癇癪は、それほどの大事ですの?」

「俺はお手上げだからな」


 冗談めかして両手を上げるヤシロさん。

 今は鍋の中でカットされたリンゴが煮込まれていて、とても甘い香りが立ち込めていますわ。


 パイ生地は、以前給仕が作り置いていたものを使用するようで、これなら割とすぐに完成しそうですわね。


「美味しそうな匂いですわね」

「美味いからな。当然だろう」

「自信満々ですのね」

「ただなぁ……生地が俺のヤツじゃないからなぁ」

「なら、今度は完璧なアップルパイをご馳走してくださいまし」

「そうやってサラッとわがまま言ってくるよな、お前は」

「当然ですわ。ワタクシを誰だと思っていますの?」

「いや、自慢することじゃないから、それ」


『お前も手伝え』なんて、よく分からない言葉を発するヤシロさん。ですが、『このワタクシが隣にいる』というだけで、かなりの手助けになっているはずですので絶対に手伝いませんわ。


 リンゴを並べ、生地を被せて……オーブンへ。

 作業が終わっても、ワタクシたちは厨房に残り、立ったままお話をしましたわ。

 他愛もない、いつも通りの会話を。パイが焼き上がるまでの間、ずっと。


 静かな屋敷の中で、聞こえるのはワタクシとヤシロさんの声だけ。

 そういえば、以前もそんなことがありましたわね。


「明るければ、二人きりでも怖くありませんわね」

「え? ……あぁ、深夜の無人屋敷な。新築であれだけ怖いって、相当レアケースだぞ」

「新居だから怖かったのですわ。人が住めば、屋敷の隅々に思い出が生まれ、刻み込まれていきますわ」


 そう言って、ワタクシは厨房の床を指さして、そこに出来ている傷の誕生秘話を話して差し上げましたわ。


「この傷は、こっそりつまみ食いをしようとして大鍋をひっくり返した際に出来たものですの」

「お前、何やってんだよ?」

「……めちゃくちゃ怒られましたわ…………」

「そりゃそうだ」

「『なぜあと十分が待てないのか』と……」

「反論の余地もねぇな」


 いい思い出もろくでもない思い出も、みんな含めて……


「この屋敷には、もうすでにたくさんの思い出が刻み込まれていますの。今なら、深夜でも怖くはありませんわ」


 暗い廊下を歩いても、昼間にそこであった出来事を思い起こせば怖さなど吹き飛びますわ。

 ここは自分の居場所なのだと思えれば、何も怖くない…………


「ですから、ヤシロさん」


 どうか……


「思い出を、なくさないでくださいまし」


 ワタクシと共に過ごした日々を。心に刻み込んだ時間を。


「まっさらになったあなたを見たら、怖くて泣いてしまうかもしれませんもの」


 ワタクシが泣くと、あなたは困るのでしょう?

 なにせ、ワタクシの涙を止められるのは、お母様以外では、ヤシロさん――あなたしかいないのですから。


「まったく……」


 嘆息して、ヤシロさんはオーブンの蓋を開けました。そして、ミトンを使ってアップルパイを取り出しました。

 こんがりと焼き目のついたアップルパイは目にも楽しく、美味しそうで……


「どこまでも自分本位でわがままだな、イメルダは」


 ……一瞬、その言葉を聞き逃しそうになりましたわ。


「…………え?」

「さぁ、切り分けて食おうぜ」

「今っ! …………名前を……?」

「ん? あぁ…………よくよく考えたらおかしな話だよな」


 もぞもぞと、服の中に手を入れて胸元をまさぐるヤシロさん。

 そうして、引き出された手には、小さな種が…………


「イメルダみたいな強烈なキャラ、忘れるわけないのにな」


 ――っ!


「え……えぇ……、そうですわよ! ほんの一時と言えど、ワタクシの麗しい名前を忘れるなんて、重大な罪ですわ」


 嬉しい……

 名前を呼ばれるのが、こんなに嬉しいだなんて……


「それじゃあ、罪科に処されるとするか。ほれ、罪滅ぼし」


 悪びれることなく言って、出来たてのアップルパイを一切れ差し出すヤシロさん。

 また、そんな屈託のない笑みを浮かべて…………あなたくらいですわよ、ワタクシに無礼を働いてこの程度で済まされる人は。


「いただきますわ」


 焼きたてのアップルパイはとても熱く、サクッと小気味よい噛み心地で、程よく甘く、程よい酸味がイヤミなく……とても美味しいものでしたわ。

 それはもう、素直に称賛することを躊躇わないほどに。


「……美味しい、ですわ」

「ん~! けど、もっと美味いんだよな、女将さんのは!」

「想像出来ませんわね、これ以上に美味しいアップルパイなんて」


 焼きたてだからでしょうか、陽だまり亭のアップルパイよりも美味しく感じますわ。

 ワタクシが今まで食べてきたアップルパイの中では間違いなくナンバーワン。それ以上があるなんて、ワタクシにはとても……


「第三位ってことにしとくか」

「……三?」

「二番が女将さんのアップルパイ」

「一番はなんですの?」


 何気なく問うた質問。

 どうせまた何かの言葉遊びでもするのだろうと油断をしていたワタクシに、ヤシロさんは黙って人差し指を向けました。


 意味が分からず首を傾げると、その唇からこんな言葉が発せられて――


「それよりもたぶん、お前の母親が作ってくれた料理の方が美味い。お前にとってはな」


 ――胸が、苦しくなりましたわ。

 泣いたりは、しませんけれど…………それでも……


「俺の知る限り、最高の腕前を誇る二大料理人を超えるなんて……お前の母親は、相当大切に思ってたんだな、イメルダのことを」


 そんなことを、さも当然のことのように……


「お前のことを思って、心を込めて作らなきゃ、そんな料理出来るはずないからな」


 ワタクシが、誰かに言ってほしかった言葉を……こんなにも簡単に……


「イメルダ。お前、愛されてたんだな」


 …………あなたという人は、どこまで……っ!


「ヤシロさん。二つお願いがありますわ」


 胸がつかえる。けれど、アップルパイをなんとか飲み込んで、早口で捲し立てる。

 顔を見ることは出来ませんけれど……声だけは、震えないように……


「『母親が我が子のために心を込めて作った料理に勝てるもんなどあるわけない』……そう、おっしゃいましたわよね」

「あぁ」

「なら、これからももっと美味しいものをたくさん作って食べさせてくださいまし。その度にワタクシは、お母様の想いに触れられる気がしますの」

「……しょうがねぇなぁ。適度にだったらな」

「それ、から…………」


 声が……震える…………

 ダメ、ですわ。もう少し、もう少しだけ我慢なさいまし、ワタクシ。


「口の中が熱いですわ。火傷の可能性も否定出来ませんので、至急、給仕を呼んできてくださいまし」

「え、おい。大丈夫か?」

「給仕を! ……至急…………ですわ」

「あ……。ん。分かった。じゃあちょっと呼んでくるわ」


 察しのいい方ですわね、本当に。……助かりますわ。


「ヤシロさん」

「ん?」


 遠ざかる足音に、一言だけ。


「ありがとう……ございますわ」

「……ん。お互い様だ」


 遠ざかっていく足音は軽やかで……少し寂しくも、なぜかほっとして…………


「ぅう…………っ、うぅっぅうっ!」


 我慢出来ずに、涙が零れ落ちていきますわ。


 ヤシロさん……あなたはもしかしたら、ワタクシがお母様を思って泣いていると、お思いかもしれませんわね。

 半分はそれで正解ですわ。

 ですがヤシロさん。もう半分は……


「やはり……ワタクシは………………あなたのことが……っ」


 そばにいるだけで安心出来る。

 つらい苦しみをなくしてくれる。

 いつだって、新しい世界を見せてくれる。


 こんなにも依存している自分を自覚し、それではいけないと独り立ちしようと頑張ってみても…………やっぱり、あなたといると満たされてしまう。


 ヤシロさん。


 ワタクシの涙の半分は……あなたが優しいから、ですのよ。


 責任を取ってくださいましね。



 責任を取って……いつまでも、ワタクシのことを、忘れないでいてくださいましね。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る